真実の喜びのことを歓喜と言う。シャカやキリストは、普通、坐禅だけを行なったように考えられているが、そうではない。法悦のための歓喜冥想行法を行なわれたのである。神に直結した考え方、受け取り方の練習をする行法として加えたのである。
歓喜冥想行法のみが宗教的修行法である。神に直結するとは、自他を神として考え、受け取ることである。例えば、ただお茶をもらったというのではなく、神様からお茶を頂いたと感じることである。即ち感じ方を聖ならしめることである。また、ただ単に病気をしたと感じるのではなく、神様が病気を教えとしてお与え下さったと考えることである。治った時も、神様が治ることに協力して下さったと受け取る時、始めて聖なる感謝心が生まれ、拝む境地が生まれるのである。
法悦とは、聖なる喜び、すなわち真の喜びのことである。法悦行法とは、この本当の喜び、聖なる喜びを心身で感じ取るための行である。本当の喜びとは、自分も喜べ、相手も喜べ、同時に神様にも喜んでいただける、真実の喜びのことである。神様が喜んで下さる状態とは、全体が喜べ、かつ等しく利益を受けることができる状態のことである。そういうような法悦的な生き方こそ、本当の意味の社会性であり、社会のあり方もこれを目指すべきなのである。ヨガでいう社会活動とは、このような社会をつくることである。
なぜ法悦行法を練習しなくてはならないかというと、普通世間一般で喜びと言っているものは俗的な意味合いのものであって、真実に基づいた本当の喜びではない場合が多いからである。例えば、病人が美味しいからといって体に悪いものを食べても、それは本当の喜びではないのである。一般的には、ほとんど俗の喜びばかりが求められている。そして、俗の喜びの場合には自分ばかりでなく、他をも害することになるのである。本当の喜び、聖なる喜びを生み出すような心のことを愛の心という。神の愛とはそういうことなのである。だから、法悦の状態のことを歓喜とも呼ぶ。つまり、本当の喜び、真実の喜びを得た状態のことである。
この段階は、ラジャ・ヨガには含まれないのであるが、私はむしろこの法悦行法こそがヨガであると考える。シャカやキリストはこの歓喜法悦行法を行なうことにより、真の悟りを開かれたのである。ディアーナ、バクティー、サマディー、ブッディーの境地を深めてゆくと、心から、体内から、自然に法悦が湧いて来るのであり、まさにこの世の極楽浄土である。これはシャカの悟達の境地であり、そこでは全てのものが善であり、喜びである。この至高の歓喜に満ちた法悦境に到達するためには、全段階の修行をひたすら行じるのである。