“禅”というのは生理的安定を言い、“定”というのは心理的安定を言い、最高の緊張の状態と最高のくつろぎの状態がピタッと一致した時を禅定の状能と言うのである。最高の心身の安定状態を禅那(ディアーナ)という。禅から禅定に入るのである。ここまでの行法が、自己開発行法である。
好きもなく、嫌いもない、やりたいもない、やりたくもない、困ったもない、困らないもない、損するもない、得するもない、そのような状態の事を「唯」で形容している。無条件で座る。ただ信じる、唯行じるのである。そうならないと放下することは出来ない。
冥想の統一・禅定・信仰・三昧と、悟りとの関係では、まず、悟りと冥想を混同してはならない。悟りというのは、事実を把握することである。ただ、冥想行法を行なうと悟りに到達し易いのである。禅宗では「座禅をすれば悟る」とか、真言宗では「統一行法を行なえば悟る」などと教えているが、ヨガの冥想こそが、悟るための基本行なのである。唯、座禅行をするのみ、または統一行法をするのみでは悟れない。冥想に知性、心のコントロール、実践行を総合的に加えてはじめて、悟りに近づくことができるのである。そういう真理を知らないで、禅寺で修行しても、どうにもならない。修行を一つの根幹とし、全生活の中でどうしたらよいかを求め、応用しながら行なわなければ、即ち全生活を冥想行法にしなければ、悟りを開くことはできないのである。冥想行法には、静的なものと動的なものの二種類がある。