最も高く、整った感じ方、考え方、行ない方ができる状態で、他と統一、即ち“他と一つになること”をサマディー(三昧)と言う。他と一つになるためには、自分を持っていては不可能である。また、自己喪失者になってもいけない。自己を持っていながら自己を持っていない状態になり、相手を自己の中に入れ、または、自己を相手の中に入れてしまう。この状態が自他一如であり、この自他の差別のなくなったことを自然、三昧と言うのである。これが理解し合った、わかり合った世界なのである。自分が他を、他が自分を本当に正しく理解していなかったら、愛は行じられない。相手のことを本当にわかった時、相手のことを悟ったと言い、この世界を理解した世界というのである。知ることと、わかることは別のものなのである。知った世界から、わかる世界に入る。
サマディー(三昧)とは、存在する総てのものが、自然的存在状態になることである。自分が相手に対峙する時、相手が自分に対峙する時に、お互いに相手になりきって一つになることである。一つになるということは、両方が犯し合わずに最高に和合して活かし合っていることである。例えば、空気を例にとると、空気そのものがその存在の特性を失わずに、あらゆるものの中に入り込んでいって、そしてお互いが生かし合っている、即ち他の中に入り込んで自分を主張することなく、しかも自分を失うこともなく存在している状態である。日光も木もそうである。このように、相手と一つになると言っても、相手は人間だけではない。自分に縁のあるもの、自分が携わる全てのものに対して一如となるのが、三昧行法なのである。
たとえば彫刻の場合、素材が木なら、その木の心を知らなければならない。その素材の心になり、その要求に基づいて、素材が一番喜こんで下さるように刻むことである。そういう心になり、そういう生活をすることが、自然生活の基本原則なのである。
人間以外の生物は皆、この基本原則を守っていて、無駄な犯し合いはしていない。例えば、虎でもライオンでも満腹している時には、そばに獲物が来ても獲ろうとはしない。獲って食べるのは空腹の時だけである。ところが人間の場合は、自己というものをもち、しかもその自己愛が特別に強すぎる上に、所有欲を法律で保護しようとする。だからどうしても他と対立し、他を犯してしまうのである。このように他を犯すということは、人間の社会にだけ行なわれていることなのである。
人間以外の生物は、自然的生き方をしているので修養も修行もする必要はないが、人間にはそれが必要なのである。なぜなら、人間は知性が発達していて創造能力があり、精神、心の面が特別に発達しているという特性があるために、それが悪い方に働いてお互い同志が害し合っている場合が多いからである。
三昧の生き方のことを宗教的には、「愛の生き方」という。バクティー行法で自己を捧げ、自己を放下する修行をするが、これを行なわなければ三昧行に入ることはできないのである。
サマディー(三昧行法)では、全てのものと心を一つにする練習、活かし合う生活の練習を行ない、神と一つになることをゴールとして目指すのである。そして、神と三昧になった状態のことをニルバーナ(涅槃)という。神と一つになっているのであるから、他の宗教のように、ことさら“神”という言葉を使わないし、神に救いを求めるというようなこともない。また、特別に他のものを神として崇めるということもしないのである。他に特別に神をつくるから迷信が生まれるのであって、その種の神を崇めるのはお祭りであって、心の満足の為にすぎないと言える。