アサンスとは「身構え」の意味で、体の強化安定法を通じて心を清め、整え、高めるために必要な理論とその実践方法について説いているものである。どのような場合でも最高に心身を安定させて、その能力を完全充分に発揮できる姿勢と動作を保ちうる修行である。静かな立場で練習するのが座禅、動きの中で行うのが“動禅”であるから、本来“体操”という意味は含んでいないものである。ヨガ動禅の本当の目的は、やせる事でも、医療的または美容効果でも、運動不足解消のためでもないのであって、心の安定がその目的である。最も体のバランス能力を発揮できる、あらゆる姿勢、動作のバランスをとる中心点(丹田)のバランス維持能力が高まると、脳の安定度も増進するので、体の訓練修行がそのまま精神修養につながるわけである。
基本ポーズを行なう場合、ポーズのやり方についても、沖ヨガの場合、バランス刺激を与える。例えば、陰の筋肉には陽の刺激を、陽の筋肉には陰の刺激をというやり方をする。
生活の中に、“生活行のすべてを動禅とする”ことを目的とするのがアサンスである。たとえば、正しい呼吸と姿勢で掃除をすることに意識を集中したら、それがそのまま精神修行法や、禅定行法にもなるのである。
体操の名のもとに、運動療法的なヨガをアサナと思っているが、本来のアサナは宗教的修行法(心身能力の最高の開発法)であったので、一つ一つのポーズが心の修養に体の訓練法が結びついたものである。だからヨガの肉体的訓練法のすべては、肉体的効果が主目的ではなくて、心の修養(これが人間性の開発)に最高に協力できる体をつくることが、その目的である。
運動というのは、内臓の働きを良くし、筋肉を発達させ、骨を丈夫にするという効果がある。体操とは、体を整える操法という意味である。つまりその時、その人にとって必要なことを行なうのが体操である。動禅の場合は心身の安定すなわち精神修養が加わっているわけであるが、体操には必ずしも精神修養が加わっているとは限らない。だから、表面の形だけではわからないのである。
自分が自分に対してやるのは自律法、他からやってもらうのは他律法である。初心者は他からやってもらう方がやり易い。だから、一、二、三、と掛け声をかけてもらうのは他律法で、運動の場合にはその方がやり易いが、体操は体を整える操法で個人的なものだから、掛け声をかけたのではやり難いわけである。
運動の場合は、皆で一緒にやっても構わない。そこで自分に合っただけの量と質を行なえばよいだけの話である。体操の場合には、皆と一緒に号令に従ってやるのでは具合が悪い。ただし、一緒に行なっても自分でわかっていれば、その時に「私は左手に余計に力を入れてしよう」とか「私は右足を伸ばしてしよう」とか加減できるから、それはそれで良いのである。自分で自分の体操を発見する方法が冥想法である。冥想していると自分かどういう体操をしたいのかわかってくる。中から要求が出てくるからである。
動禅は精神安定法である。動禅をやらなかったらヨガにはならない。けれども、最初からいきなり動禅といっても難しいので、まず運動としてやり、その次に体操としてやり、それから動禅としてやりなさい、と教えている。スタートからゴールまで行なうのがヨガなのであり、一足飛びに難しいことをしないというのが、「無理するな」という一つの原則なのである。順序を経てやりなさいということだ。
沖ヨガでは、皆と一緒にやるけれども、「どれが自分に最も必要なポーズであるかを発見しなさい」と教える。自分に必要なポーズを発見して行なうから体操になるわけである。体操として必要でないものは運動として行なえばよろしい。その体操に精神統一を加えれば動禅になる。もちろん、体操にも意識統一は入っている。しかし、意識的な精神統一は入っていない。であるから音楽を聞きながら行なっても、動禅にはならない。それは、一つのことをやる時に、まず運動としてやり、次には体操としてやり、さらに動禅として行なうというように、教えてやれば良い。動禅といっても非常に静的なものもあれば、非常にスピードを持った動禅もあるから、両方やらなくてはいけない。それは、目的も、やり方も、効果も違うからである。このように、運動・体操・動禅と三つに区別しているのは沖ヨガだけである。
動禅行法では、肉体的訓練はそのまま精神的安定に結びついており、精神的安定充実法に関係しているものでなければ、ヨガとは言えない。ふつうの精神修養だとか肉体的訓練というものは、分かれた状態である。これは分裂をつくり不安定をつくるものである。肉体的訓練をそのまま精神修養にする方法が禅定行法であるから、私は体操に動禅の名をつけたのである。姿勢動作がそのまま精神安定に直結するのである。座禅している時の方法を動きに変えたのが動禅行法である。基本原則は座禅で、座禅している時の精神統一、肉体的統一、調和呼吸、そのままそれを動きに応用したもので、これは今のところ沖ヨガだけにある教え方である。
この意味からも、体操ヨガを非ヨガだと言っているのである。しかし私も最初のころはこの真理がわからなかった。自分か実際にやってみて、心が安定しないので、肉体的訓練がそのまま精神修養に結びつくにはいったいどういうやり方をするべきであるかを工夫したのである。それで解ってきたことは、考えたり動いたりする時には、緊張するということである。緊張しなくては考えられないし、緊張しなくては動けない。それにバランスがとれるだけのくつろぎが必要である。その方法はどうすれば良いのか。そのコツが深呼吸である。放下した状態で精神を統一する。そのコツが無心になることである。禅というのは安定であり、バランスをとることであるから、たとえば自分が最高に安らぎくつろいで、心が平和の時以外は怒ってはならないし、一番嫌な時に笑うのであり、これでバランスがとれて安定する。動作も同じことである。一番くつろいだ状態で最も緊張するのである。