杖道は芸術以外のなにものでもない、ダ・ヴィンチをみたとき確信したの
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「杖道とアート」2009年
12月2日(水曜)16:30~18:00の講義録
福武ラーニングスタジオ
文化・人間情報学特別講義Ⅱ「「アート・プロジェクトの設計」」
(大学院学際情報学府、教育部合併授業)
ゲスト:佐々木俊尚さん(ジャーナリスト)http://www.pressa.jp/
twitterにハッシュタグ設定:#joart
中村:みなさん、こんにちは!
流行のTwitterでつぶやきながら、話聴きながら後から聞こう話そうとすると忘れちゃうから共有のメモ用紙と思ってください。
今日の話の設計図みせます→カンブリアンマップ
わたしたちの『アート・プロジェクトの設計』という連続した15回の講義も、今日9回目を迎えます。
「情 動、emotion、BMI(ブレインマシンインターフェイス)の思考実験」に始まって「触覚的自我ワークショップ」をやり、カンブリアンゲーム「トロル とはなにか?」というアートセッションに巻き込まれここまでみんなと爆走してきたわけなんだけれど、ここでひと息、初回のジョウドウと同じ音で「杖道」に ついて”つえのみち”と書きますが、「杖道とアート」についてやってみたいと思います。
そしてなぜか今日は超売れっ子ジャーナリストの佐々木さんがゲストです。彼とは数奇な運命というか?(笑)ずいぶん前からお付き合いがあります。政治、経済、IT、先端的な情報を専門にされる佐々木さんが、なぜかいま「武道に興味を持っている。」とおっしゃる。
そのへんのお話もお聞きします。
みなさんにお聞きします、ひょっとして、杖道やったことあるひと?
わたしはほとんど無趣味だけどしいていえば散歩が趣味、その途中でいろいろなものを拾います、貴金属だったり、ヒトだったり。
2003年、散歩の途中でジェダイマスターのヨーダそっくりの老人に会うんですよね。
→大塚先生@多摩杖道会に偶然出会い
さらに、渋谷に生息する大ヨーダ、神之田先生との出会いがあって杖道を始めました。
神道夢想流杖道というのは、400年延々と72の型(形)がひとつも欠けずに現代まで伝わっている稀少な古武道、無形の文化です。
アートって、型にはまっちゃいけないとか、型を破るとかを課されてやってきたという意識があります。
連画、カンブリアンゲームも、型をうらぎる、型はずしみたいなアートです。
そのわたしが形武道にはまるというのは逆説的ではあるが、古武道の形の中に自由さや創造性をみつけたんだよという話を、去年、2008年に講義しました。
■ 2008年講義録「あっちからやってくる師匠がカモねぎにみえた」
ゲストは、スキルトロニクスを提唱する電通大の西野さん。→西野さんのメモ
スキルサイエンス+メカトロニクス=スキルトロニクスを造語して提唱してる人です。彼の考えを3行くらいで言ってしまえば、「そもそも人ができることを増やさないと、ヒト、やれること、機械のベン図の重なるところをめざしています。まずはそのための道具、システムを。」
つまり、人の能力を引き上げてくれるような道具、仕掛け、機会をめざす。とかく人にやさしいとか、人をぐるりとくるんでただただ便利なものお節介なものが多いと考えています。それでは人は賢くならないし、先に進まない、向上しない。人を一段引き上げるような仕掛け、システムをめざしてる。
ボタンひとつで自動的にCG(コンピュータグラフィックス)ができちゃうみたいなことはないし、そこめざしてもないですよね、わたしたちも。
杖道は、研鑽した師匠+なんのへんてつもないけど何にでもなるシンプルな杖+無駄のない洗練された72の形=スキルトロニクス的なシステム事例かもねというところで盛り上がりました。
さて、では実際杖道をみてみよう!
渋谷に大ヨーダがいると言いましたが、現在82歳になられます。
その神之田先生が、52歳くらいのときの実演です。
!△この動画はリンクされません【Mmaîtres du Budo】(2’57”/1980年ころフランスで撮影された動画をみる)
太刀落(たちおとし)、霞(かすみ)、雷打(らいうち)、真進(しんしん)/演武者:神之田常盛×ドン・F・ドレーガー
●杖道の簡単な説明 (wikipediaより一部引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/杖道 )
杖道(じょうどう)は、杖(じょう)と呼ぶ木製の棒、および木刀を用いる武道(形武道)である。
宮本武蔵と同時代の夢想権之助を開祖とする「神道夢想流杖術」を基に、清水隆次、乙藤市蔵が制定した杖道の流れを汲む「全日本剣道連盟杖道」が現在最も修行人口が多く、一般に杖道といえばこれを指す。その内容は、両手を広げた両掌中の程よい長さの杖を用いて左右均等(左太刀的)に千変万化の「打つ・突く・払う」等の技を繰り出すものである。使用する杖は神道夢想流杖術の流派杖である長さ4尺2寸1分(約128cm)、径8分(約24mm)の白樫の棒が標準であるが、本来は、立って足下から胸の高さまでの長さが良いとされている。太刀は3尺3寸5分(101.5cm)、柄の長さ8寸(24.2cm)の白樫の木刀を使用する。最大の団体は全日本剣道連盟杖道部である。通常稽古されているのは、本来「捕手術」に用いられていた実戦的で危険とも言える「杖術」を、広く普及するために、神道夢想流杖術の形から日本剣道形と整合した杖道形として1968年(昭和43年)清水隆次、乙藤市蔵により原型が制定され、その後改良が加えられているものである。
「全日本剣道連盟杖道」は、一人(単独)または二人(相対)で行う基本十二本と、二人で攻撃防御の形稽古を行う杖道形(組形)十二本がある。特に形では、打太刀(うちだち)、仕杖(しじょう)に分かれ、攻撃防御を行う。気合は打ち込みで「エイッ!」突きで「ホォッ!」と力強く発声する。
神道夢想流杖道@英語版wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Shinto_Muso-ryu
→【制定形ビデオ】
着杖、水月、引提の3本、単独動作をみせる。
杖道の特長は、急所を適切に狙う 水月、霞、脾腹、そして相手の動く兆しをみてはじめて動く。
佐々木さん登場!
中村:1994年、毎日新聞夕刊 事件記者がICCに取材に来た。本来は抗争事件を追う事件記者の佐々木さんが取材メモもとらずに怖い顔して話を聞いてそのまま帰られた。ぜんぜん期待してなかったけど翌日の夕刊一面に記事が載りました。驚きましたね。そして、1996年、アスキーに転職されて再会。P2Pペイントシステムの『インターウォール』を取材でしたね。フリーになったのは?
佐々木:2003年からフリーランスです、もうパソコン雑誌の時代は終わったなとアスキー辞める、
これから社会がインターネットと衝突していく時代に、いわゆるガジェットとか扱う媒体では限界があるなということです。
中村:→webから多摩市立図書館、著者「佐々木俊尚」を検索、一覧表示
すごいなー・・・
『Google』で花火上がって、近著『FLAT革命』で、一章「安斎・中村のこころみ」取材にいらした。
話を、杖道にもどして、10月11日の「体験武道会@日本杖道会本部道場」に参加されたんですね。
渋谷にある本部道場での杖道初体験、いかがでしたか?
【2009年10月11日@日本杖道会本部道場藏脩館にて、佐々木さん、履修メンバー参加】
@神之田常盛師範からその歴史や技について説明を受ける
佐々木:長くなりますが・・(笑)
いまやITがどんどん普及進化している。そんな中で所詮ネットはヴァーチャルなんだよ、リアル空間とは関係ないんだよという分離された状態で動いてきて、ところが最近、ネットとかITにリアル、物理空間が侵食を始めてきてるんですよ。
たとえばGoogle ストリートビューってありますよね、風景写真のサービス、勝手に人の家を撮影するなとか、人の顔映ってるだとかね、激しい批判をあびるわけです。
だけど、自分のwebとかブログを検索されて文句言う人はいないわけです。じゃなぜ家や顔だとみんな怒るの?
web空間とわれわれが生きてるリアル空間の差というものがそこにあって、検索されること想定で作ってるwebはOKだけど、住んでる町やリアル空間で生きてることを検索されるという前提で生きてないわけですよ。ヴァーチャル空間にいたグーグルがリアル空間にやってくるなんて!という驚きがあるんですよ。
ヴァーチャル世界が切り離されてあっちの世界にいたものが、リアル空間にどんどん侵食してくるその最初の洗礼がGoogle ストリートビューだった。
これから進化普及してくるんですよ。
AR(拡張現実)なんかも話題になってて、『電脳コイル』NHK教育で有名なアニメですけど、電脳メガネをかけると物理空間にはみえないヴァーチャルなものが見える。
リアルな風景とそのメガネを通してしかみえなものがだぶってみえてくる。
日本企業がやってるiPhoneアプリのセカイカメラは、噴出しが風景と重なる、実際の建物にタグをつけることができる。アキバあたりいくと噴出し多すぎて景色が見えない(笑)。
Google ストリートビューって何のためにあるの?
風景を標準化するっていう意味があるんですよ、札幌の時計台が映っています、有名な。
これをGoogle ストリートビューでみると周りがビルだらけで風情もなにもないそっけもないわけですよ。
ITのシステムがリアルを侵食してある意味リアル空間を構造化していく、ある特定の視点に基づいてアーキテクチャーに取り込んで、検索エンジンから可視化していく。
構造化と可視化というメリットがある。
ストリートビューは単なるビットマップでしかない、それ自体はまたくオブジェクトとして認識されてないけど、アースマイン(Earthmine)というのもあって、サンフランシスコの街角にみんなでタグをつけるんです。青いビルの線の入ったところをクリックすると12.5mと表示される。ビルの高さとか色とかどういう構造物なのか?
都市の風景を撮影しそこに存在するさまざまなオブジェクトの属性を記録してきちんと可視化していこうという動き、風景の構造化、可視化、こんなかたちでリアル空間へのITの侵食というのがすすみつつあるんですね。
セカンドライフがはやらなかったのは、身体性が欠如してたんじゃないか?身体性みたいなものがヴァーチャル空間でダイレクトに接続してない。
キーボードとマウス使って、入り方解らないでドアのところでばたばたしてるアバターがいるんですよ(笑)、
自分の身体とヴァーチャル空間、メタバース空間がダイレクトに接続してない。
もっと没入できて、ヴァーチャル空間とダイレクトに接続していく方向にいけばもっと進化しようがあるよね。
では、ダイレクトに身体と接続することってありえるのか?
たとえば、Wii(据置型ゲーム機@任天堂)モーションコントロールついてて、テニスラケットふるとぶーんと音がして、フィードバックがちゃんとあるかどうか。
中村:やったことないけど、気持ちいいですか?
佐々木:けっこう気持ちいいですよ。ある種の身体感覚を再生している、構築している部分がたぶんあるんでしょうね。というような話なんですね、いま僕が持っているITの問題意識ってのは。
これとは別に、知合いにバレエの先生がいる。
中村:バレエって、クラシックバレエ?
佐々木:そうそう。
20歳代の女性なんだけど、日本と海外のバレエ教育の違いについて話したんですよ。
日本はとにかく一生懸命やればいいんだ、もっと緻密にロジカルに教えればいいのに。アメリカのバレエ教育は、筋肉の成り立ちから教えるんですって。
骨と筋肉と筋がこう回ってこう動いてと、ある程度人間を構造物として扱うんだって。プラモデルを組み立てるように人間の身体を認識する。それに基づいて身体動かすと、どうもできるようになっちゃう。
僕は、身体ってアナログ的だとずっと思ってたけど違うのね。
身体をきちんとトレーニングして高度に進化させるには発達させることは、構造化の可視化が実はおきてるんじゃなか?。
10年スポーツジムに毎日、ほとんど菜食。
自分の身体の成り立ちがわかる、かつての新聞記者時代が破滅的ですから夜中の1時ごろ焼肉食いに行きますから(笑)。
そのころは身体が重荷でしかない、だけど、今の生活で身体がしぼれてくると、運動能力が上がってくるとどこを身体が構造化されてくる可視化されてくるという話と、ITによってねリアルな空間が侵食されてリアルな空間自身が構造化、可視化してくる話がどこかで?がってるのくるのじゃないか?と考えてたときに、そこに突然、杖持って中村さん暴れてる(笑)って・・・・僕が今考えてることにさらに何かヒントになるか?。
今は、走って筋トレやってるだけなんだけど、組みたてる武道みたいなものやると、より身体の構造化みたいなものを生々しく実感できるかもしれないなと期待があって参加したんです。
中村:深いね、幾重にも関係しあった関心ごと、問題意識が絡んでするんだね。それで、実際に杖道やってみてどうでした?
佐々木:twitterにもさっき書いたけど、魔力的な身体の動きかな(笑)。
中村:どういうことだろ?(笑)
佐々木:麻薬的?!、動かしているとどんどん気持ちよくなってきて。
ITは、どんどん構造化、可視化してくるんだけど、一方でそういう没入感ってまだないなあ。
武道ってたぶん、単に自分がこう動かしたらこうなるっていうだけの話じゃなくて、没入感と構造化のバランスみたいなものがあるという漠然とした感じはある。
中村:「百錬自得」何回もくり返し染みりるまで稽古せよということだけど、黙ってやれみたいな精神論になっちゃう。
杖道の先生たちは、「無駄で間違った稽古はするな。それよりは正確な一本を。」といいます。
単なる繰り返しではなく、一回一回のチャンスをきちんと構造化して、それに応じて動く身体を積み上げろという意味かもしれないです。
佐々木:すべては形がベースにあるの?そこから逸脱することはないの?
中村:うん。72の形があってそれに基づいて動く。型に嵌められちゃうこと嫌うアーティストが、それとは逆説的に形武道にはまっちゃったかなということを去年やったのね。
今年の立位置は、レオナルド・ダ・ヴィンチの人体図をみて、ある先生がつぶやいた言葉に釘付けになったのね。
(杖を会場に回す・・・・・)
中村:杖(じょう)を扱ってみよう
全国規模の「杖道」イベントで、女性で八段位をもつ林映子さんと親しく話す機会がありました。
その中で非常に印象に残ったのは、「杖道は芸術そのものだとおもうの。」ときっぱり言い切ったことです。これはぜひ後日ゆっくり詳しくそのへんの話をお聞きしたいと熱望。
その願いがかなって後日お話うかがいました。
林映子杖道八段へのインタビュー(2009年9月5日土曜日、新松田の稽古場にて)
「ダ・ヴィンチの絵をみたとき確信したの、杖道は、芸術以外のなにものでもない」
形は形であって形でない。
形をおろそかにすると、自由がなくなる。
形であるからこそ、形でない。」
@【ウィトルウィウス的人体図】レオナルド・ダ・ヴィンチ 作成年1478年頃 @林映子八段
林映子さん関連サイトhttp://www.asahi-net.or.jp/~ym5s-tki/nakama/hayasi/hayasi.htm
林:レオナルドのこの絵にすべてがある。
この絵ね、これね、杖の運用なんですよ。円の中に杖があるんですよ。足幅とか、周りの円とか、杖を運用するとき丸いんですよ。これをみたとき、「まさしく杖だ。」と何年か前に見て以来思ってるんです。これを象ったTシャツ、記念品をつくろうとおもったんだけすどね別のものになっちゃったけど。(笑)
これは芸術意外にない、杖は、芸術だ。
モノゴトってバランスがだと思うのね、あの重い刀にもバランスがあり体にもバランスがあるでしょ。動きだけでなくて、わたしは、感情にもバランスがあるとおもうね。
円もね、バランスだと思う。
絵にも落款を押すでしょ。ここがいいのか、ここがいいのか、この大きさがいいのか、この大きさにするのか、それをどこに押すか?
小さくても大きな存在、大きくても軽いとか、モノゴトの位置って決まってると思うのね。絵にも、杖にも、なにもかも落ち着く位置一番いい場所、バランスがあると思う。
中村:何もしてない体って自由なようだけど実は不自由だなってことを、杖道はじめて解かったように思います。72の形、400年かけて残ったこれを会得するとかなりの財産ですね、もって逃げれる。最初模範演舞みたとき、すぐできそうなんてなめてたんですけど、少しやってみると流れが決まってるといってもその形のむずかしさや精妙さ、より深い面白さがみえてきます。
林:形のよさ、融通が利かない。理合いがはっきりしている。いかに真面目にきっちりやるかってことが難しい。
64本、72本いろんな技があって、形をまじめにまじめにやっていると臨機応変に対応できる。
中村:逆 説的ですね。アートってのは型にはまっちゃいけない。オリジナリティが大事と思い嵌らないように用心してやってきてるんですけど、面白いな思うのは、その 厳密な形のある形武道にはまった自分がいる。矛盾してますよね。しかし、自分が忌み嫌ってきた型と杖道の形、型は、違うぞというところからこの講義も始 まっています。
林形がきちっとしてればしてるほど自由なんです。ある意味で逆説?だからきちっとやらなきゃ。
形をきちっとやるんだけど、形にならない、だけど形である。
形をおろそかすると自由がなくなる。
きちーっと斬る、きちーっと受けるで成り立った形が、形でなくなる。
形であるからこそ、形でない。
形をやりぬいてやりぬいて本当に自由になる。形ってすごいんだな、何本もいろんなタイプの受け、攻めをしてとっさにその一本にばっとでる。だから修練しないと、「ええと・・・」なんて考えてちゃだめで体で覚える。
今ね武道を新しい人たちに教えるとき「本で読んじゃダメ」って云ってるの。
先生に教わったことを真面目にやんなさい。体で覚えるからすぐ忘れちゃう人も多いのよ。だから覚えなくていいから体で覚える。本は読まなくていいから、教わったことを体で覚える。
自分ができないからって形をゆるめたらダメなのね。
形の通りにできないのは、自分の運用が悪いんだから、難しくとも必ず形の通りにやろうとすることが大事。
中村:林映子さんのモットーは「杖道は太く長く!」だそうですね、細く長くじゃなくて・・
林:長くやるつもりじゃないとダメじゃない。細々でいいとおもったらもっと細くなっちゃう。
-01:05:48
佐々木:バレエもね円だといいます、人の体、円というか球だと云われます。
中村:杖道も、円というよりも動きは球ですよね。
佐々木:もうちょっと哲学的な話をするとガストン・バシュラールというフランスの哲学者がいます、1950年代前後活躍した現代の人ね。彼は、「空間の詩学」という非常に有名な著書のなかで、空間をどう認識するか?さまざまな現代詩から引用して書くという行為をしてます。彼が面白いのは、内側と外側という概念があると、たとえばわれわれ家の中というのはとざされた空間だけど懐かしいマイホームの思い出があって自分の小宇宙でもあり無限の世界が満ちている。普通みんなは外側ってのは無限だと思ってるけど、実は、外といった瞬間に、有限の世界をイメージしてしまう。内には小宇宙があって無限の世界で、外ってのは実は無限の地平線がある世界であるという逆転したイメージをわれわれは持っていると、そうだとすると無限と有限が逆転した世界の内と外の境界線はどんな形状か?それは完全な球体であると、パシュラールは書いてます。
そのへんのこと原稿に書こうとおもったところを、難しいですけどね、読んでみます。
「鳥は完全な円である、それは円の生である。鳥に存在の雛形として意味を与え、ほとんど完全な球形の鳥は確かに活発な集中の神々しい崇高な頂点である。これ高度の統一をみることはできないし想像(創造?)することもできない。極度の集中、それはそれぞれの鳥の大きな力となる、しかし過度な個性とその孤独とその社会的な弱点を含んでいる。」
何言ってるかさっぱりわかりませんけど(笑)、常に人間の内界と外界を隔てる境界線は球状じゃないか?と、これを認識論としてどういうロジックで言えるのかという話にすぐなるけど、われわれのイメージというのは、手をまわしてみると円状になるし、杖(じょう)をくるくるまわしたときも円状になるその身体性から出てきている延長線上に、僕は、内界と外界の境目が球形だ円だとなてtるのかなと思う。
中村:杖を操体するとき、師匠たちがやってるのをみるとえらく簡単にみえるんだけど、なかなかできない。しかし、杖(じょう)を操ることではじめて解る空間とか、意識というのがあって、杖という道具をもってはじめて人間に解らせてくれる何かがある。
佐々木:先日の体験杖道をやって面白いと思ったのは、高校時代、授業で剣道やった程度の話なんだけど剣道ってものすごく直線的なんです。面!とか突き!とかね、ところが杖道って常に先が後ろになりくるくる回してくじゃないですか。
中村:左右どちらからもね。
佐々木:あの感覚は、剣道は、直線的。杖道は、非線形というか円形、まだ、よくわからない世界だなあ。
安斎:僕はまったく杖道やってないんだけど、耳学問でイメージトレーニングの世界だけで杖道の達人なんですけど(笑)。
剣道だったら竹刀のここは持つところといった属性があるわけじゃない、杖は、もち手が刃先になったり刻一刻変わるわけでしょ、そのへんが面白い。
佐々木:たぶんそういう武道ってあまりないじゃないですか。
安斎:うん、非線形っていうのはまさにそのへんのことで。
ところで、さっきの佐々木さんのバシュラールの話が示唆的なんだけど、僕たちは象徴的な世界が自由だと思ってんだ、人体ってのはそれを閉じ込めるものであるとずっとイメージしてたのが、今の一連の話ってのは非常に逆説なんですよね。
そこをふまえておかないと、デジタルになって急に僕らはそういう問題に突き当たったんじゃなくて、実は昔からあったんです。
たとえば、南極大陸を誰も見てないのに、南極の存在を信じてたでしょ。
地動説をみんな信じてるけど、身体的に直覚してるひとはいないわけだ。
ほとんどすべての人が、地動説を信じてられる状況ってのは、それはヴァーチャルな世界で、デジタルができる前からあるわけですよね。
デジタルってのは今、それが極まったところにあって決して、今ある問題ではないと思います。
それに対して身体は、身体的直感というのは共有できない。
非常にプライベートで個別性である、普遍的でなくて。
そこを突き詰めたところに立って、何で不自由を感じる?身体に自由を感じるのか?逆転が起こってるわけじゃないですか、それが先ほどのパシュラールの話をつながると思います、
そのパラドックスって何なんでしょう?
佐々木:確かに。
安斎:僕ら『連画」をずっとやってて、はじめたころに「人の皮膚に触る」というメタファーをよく使ったのね。
身体ってのは、プライベートなものでその人自身のもので、今の杖道の話聞いて思ったのは、身体というのは、設計図が共有されてる。ストリートビューのように同じ土地に住んでいるとか、同じ身体を持っているから生まれる問題みたいなものがある、すると僕らは共有する現実みたいなもに縛られるし、そうすると同じ身体をもっているという現実に縛られ、同じ土地に住んでいるから戦争が起こってそれに巻き込まれ、非常に不自由な。
佐々木:コンピュータネットワークやインターネットが、人間の精神とか神経を無限に拡張するみたいな事が「グーテンベルグの銀河系」あたりからが盛んに言われてましたが、ところがインターネットがここまで普及して10年、案外無限じゃないよね、と。
共有する精神性なのか、コミニティなのか、つながりを維持するための何らかの条件があるわけで、無限にすべての人が年齢も性別も国境も越えてつながれるわけじゃない。どういうものをお互い共有するか?、僕が去年だした『インフォコモンズ』のなかにも書いたけど、ある種の共有圏=コモンズみたいなものがそこには必要である。どうい母集団で接続するのか?というのが実は重要で、すべての人がつながることはできない、今のインターネットの限界にきてるわけですけど。
ネットは無限じゃなくてある限定されたヴァーチャル空間で在らざるえない、一方それが空間に拡張されることによって、限定されたヴァーチャル空間では持ち得なかった広い空間、広場の可能性が浮上してきているという感触を持ってます。。
安斎:リアルスペースってのは、どこへいっても多義的だし共通の取り決めが無くてもなんとかなっちゃう。
インターネット上だったらあるプロトコルが共有されてないと話ができないとか、たとえばXMLだったら同じ仕組みの中でないと通じないとかだけど、この空間の中だったら佐々木さんと中村さん、まるでぜんぜん地盤の違う話もがんがんできちゃう。
ただ、AR(拡張現実感)については、いっぱい現実があるのにもかかわらずみんな一緒にしちゃうみたいな問題があると思うんですよね。ストリートビューもそうだし、誰が見ても同じ絵しかでてこないという現実作っちゃうわけで、そういう意味ではちっとも自由じゃないと感じます。
中村:視点を固定しちゃうような?
安斎:そうそう、同じ現実に。
中村:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
杖道は、道具使っていかに自分が動けてないか?解るけど、それは逆か?ストリートビューは、かえって現実を狭めるって話か?最新のテクノロジーであればあるほど、みんな幸せになりたいとおもって開発するのに、便利に使おうと思うとかえってそれらがお節介しすぎてたり、人を不自由するってことかな。
佐々木:構造化と可視化の話でいくと、、、構造化して可視化するとつまんなくなる(笑)。そこで何が起こるかっていうと構造を壊そうって動きが起こる。
中村:それってわたしたちのアートのこと(笑)?
佐々木:いい例は、ジャズがそうなんですね。1940年代チャーリー・パーカーがはじめたモダンジャズは、それまでみんなでメロディーを吹いてただけのものを、ある特定のコード進行の中で「ここはアドリブやってもいいですよ」というのがモダンジャス。これが最初は画期的で面白いんだけど、1950年代になって高度にインプロヴィゼーションが進化すると、そこにくり返しが起こって固定化されてしまう。そこにマイルス・デービスとかがでてきて、コード進行はなしにして「ここからここまでは何してもいいことにしようなじゃなか」ここでモダンジャズは破壊された。
これも固定化してきて、常にジャズの世界というのは、構造化と破壊、システム化してはつぶし新しいシステムが生まれるを繰り返している。
たぶん身体性の構造化も同じように進むんじゃないのか?。
バレエも17世紀できて高度に進化して、最初ははしたないからって誰も脚なんて上げてなかったのに(笑)、20世紀に入るころには誰も脚を上げるように構造化されてしまった。
これも古典となってつならなくって、モダンダンス、まったくバレーのルールを使わないようなコンテンポラリーなものがでてきた。
舞踏といわれる山海塾とか白塗りしたのが出てきたときは、すごく画期的でよかったんだけど、30年くらい経つとある種の固定化が起こっている。
構造化されたものが、破壊される。ある意味、デジタライズされたものがもいっかいアナログにいく、それまでの構造化や可視化が完全に破壊されて何が起きてるのかわからないよね、と。
何が起きてるかわからないからもう一回構造化しようぜ、可視化しようぜ、常にその繰り返しだと思うんですよね。
デジタルはアナログを恋焦がれるって感じじゃないですかね。
中村:アナログ時代、わたしが油絵やデッサンやってたときの師匠たちです、→教授たち
佐々木:じいさん好きですね(笑)
安斎:ムサビ?
中村:そうそう次にデジタル、連画とかカンブリアンゲームとか、それでまたその次をわたしは狙ってるんだと思うんですよ。アナログカンブリアンやってみたり、デジタルとアナログの汽水域で「マチスマシーン」やってみたり、ずいぶん振幅もたせてやってきたつもりですけど、連画からの距離は、A、A’かもしれないよね。
だからといって、戦略的に古武道ってことはないですが、いま、次なるアートは?杖道なわけです。今ある機材や画材でとらえようとしてもすべて表面的な気がしてしっくりきませんがね。百錬自得じゃないけど、骨の内にまで真っ直に染みこんでくるような手ごたえ、実感を絵にできないでいます。
相手も動く、自分も動く、相手が斬ってくるときをどう描くか?ですよね。
佐々木:ぶれないように作るの?
中村:ううん、ピントが合っちゃーダメなんだ、つまんないんだ。頭にカメラくっつけてビデオ撮りしてみたり、インターバル撮影してみたり、まだその兆しが見え隠れしている段階だけどほんの少し見せます。
→動態視的スナップ
佐々木:なぜつまんないの?
中村:予想どうりの絵しか撮れないからかな・・・・
ざわざわっとくるのは、このぶれてる絵のほうだよね。
佐々木:ぶれてるほうがアートなんですかね(笑)。
中村:自分が感じてるリアルなイメージに近いのは、実はぶれてるほう、ピントのあったものより。
佐々木:ああ、身体性がある?
中村:ぶれの中に、「ああ、こうだ」という確信がもてる。
杖道が、直接的な次なるアートのかたちになるわけじゃないけど、技を練って体を錬ってる間に感覚がひらいてくような直感があります。
動態視については、安斎さんとも盛んにいろいろ話しているところ、響いちゃいるけど、それをどう表すかはお互い少し違ってくるかもしれないけど。
------------------+
-01:22:56
ここで一旦終了、トイレ休憩・・・時間のあるひと延長して。
中村:トイレ休憩の合間に、杖道で左右のバランスや利きが変化してきました。
そこで、気分転換の遊び→「うさうさ脳テスト」
http://www.nimaigai.com/pc/usausa/shindan/index.php
中村:杖道やって、さう→うう へ
安斎:変わったんだ!僕は、うさの男、
中村:安斎くんは?
安斎(勇):うさの男、同じです(爆笑)
中村:他は?ささの男?、ううの男は?あ、内田君そうなの?
ううの女は?
うさの女?
田中絵美さん、町村さん
ま、こんな遊びもあります。
手の利き手調べの遊びですが、不思議なんだけどが杖道で左右使うことで、感覚が変わってきた。
さて、では後半をはじめしょ。
●芸術家と武道
-01:27:10
中村:絵描きと武道について、絵筆しか持たない絵描きが武道?って思うでしょ、違うんだなあ(笑)。
岡本太郎、万博の太陽の塔とか「芸術が爆発だ!」というCMで有名ですよね。
佐々木:井の頭線の渋谷駅に大きな絵ありますよね。
中村:そうね、最近「明日への神話」公開されましたね。
みなさんの先輩、嘉納治五郎が1923年ころモンパルナスに柔道場ひらいたらしいよ。
石黒敬七(明治30年~昭和49年。柔道家、放送タレント、随筆家)を先生として送り込んで、そこに通った人たち→【月間武道紙面】
佐々木:おっ、、藤田嗣治
中村:そうです。左に岡本太郎、女優の長岡輝子。レオナールフジタ=藤田嗣治の画風や絵肌を知ってると、この武道に熱心な藤田嗣治ってとても意外ですよね。まるで陶器のような肌を持つ女や猫なんか描いてるけど、去年、フランスで80年ぶりに彼の大作が発見されたのね。
2m×2mの連作大壁画「争闘」が見つかりました。ヒースロー空港の倉庫に放置されてたらしいよ。
【→「争闘」部分】
これ、真ん中で棒を握ってる男が描かれている、わたしはこれを勝手にタイトル「杖道の男」としました。
藤田嗣治は、柔道二段、ずいぶん熱心に稽古にも通い、当時国際交流基金のイベントなどでも、模範演武をしてとても評判になったそうです。この作品のために、彼のアトリエはのべ50人の武道家たちが通ってポーズしたとも云われている。
岡本太郎もフランス滞在中はほとんど絵を描かず、たぶん本場に行って日本人としての軸、絵描きとしての軸ががたがたになったんでしょうね、著作物に率直に書かれてるもんね。なにしろ、ソルボンヌでマルセル・モースのもとで民族学をやり、マン・レイたちのスタジオに出入りして写真術にも没頭して、後年帰国してから日本の独特な文化や縄文土器なんかに深く鋭く斬りこんでいく画材、武器として絵筆や粘土よりもむしろカメラが大活躍しているよね。
あらためて、芸術家と武道について、芸術と○○○、そのコントラストについて、岡本太郎がこんなこと言ってます
「若いころただ芸術家で絵描きであるということが、なんとなくむなしく感じられた。情熱的に奔放に生きるのはいい、しかし人間としてそれと反対のモメントを同時に捕まえないかぎり浮いてしまう、現代はとりわけそういう時代なのだ。画家でありながら絵筆をすてて数年間ソルボンヌのミューゼ・ド・ロンドに学び、およそ芸術表現とは正反対の民族学、哲学、社会学を勉強した。私自身はそれによって全体的に生きる意味(中村メモ:鳥が完全な球形である、内と外の境目を生きる、円を生きるのと同じか?)をつかんだように思う。」これは1929年(昭和4年)、世界大恐慌のころ書かれたものだけど、
岡本太郎が生きてるころは変なおっさんだとおもって彼の作品にも感動がなかったけど、ふたつのことがあって太郎マイブームなの(笑)。
杖道にこんなはのめりこんでわたし大丈夫か?とおもってるわけ、だけど「芸術と○○○、そのコントラストの中にいても大丈夫だよ」と励まされた気がしたこと。
佐々木:岡本太郎、今日偶然、カルチャルスタディーズの本に載っていて、「アジア文化を読みとる」。大阪万博のときの「太陽の塔」の下がテーマ館になっていて、いろんな民族のものが展示されてた。
小学生のころだったけど行きました。なぜ、岡本太郎がそんなものを展示したのか?って話。
岡本太郎は、戦争にいかされてひどい目になってるのね、東京出身で親も金持ちで、、、
中村:漫画家の岡本一平と作家?岡本かの子
佐々木:そうそう、田舎出身の古参兵にひどくいじめられたせいか?、日本の伝統的とか慣習とか古いもの嫌いだったのに、だんだん途中から考えが変わってきて、沖縄に行ったり東北に行ったりする。
でも決して伝統や古いものが好きだったんだじゃなくて、たとえば江戸時代のすばらしい器をその古さや伝統に根ざしていることを愛でるんじゃなくて、これは作られたときは、まだ伝統じゃなかった。
その作られたときのパッションがあったはず、長く残っているとか伝統とかじゃなくて、そのときのパッションにふれたい。古代のパッション、中世のパッションを取り戻そうよ、それを俺はやりたい。ということですよね。
伝統が作られたときのパッションが大事だ、と。
中村:わたしが、杖道やるってこともそうかもしれない。形(かた)をやってるとき、さっき紹介したヨーダみたいな大師匠がつぶやいたのね、「杖(じょう)にはねその人の杖(じょう)がある。そのひとなりの杖(じょう)あがる。」また謎の多い言葉だけど、背の高い人低い人、男女、若い人老いた人、とそれぞれの杖道がある。後日、また別の師範がこんなこともいってた「形がね骨にまで十分に染みたら、自分たちの身体やサイズに合わせてアドリブでやってる。」という意味にわたしは解したけど。
話を岡本太郎に戻すけど、文化庁がやってるメディア芸術祭がね「メディア芸術100選」を選ぶイベントがあって、メディアアートのキュレータやの識者たちが選んだ選からはもれちゃった。
わたしたちのアートの形って美術館、ホワイトキューブに入らないし、みなさん「トロル」セッション(→マップへリンク)やってわかったと思うけど、自分たちが制作者になってはじめて鑑賞者にもなる、作らないと、そのプロセスを経験しないと解らないアートだからね。
制作者、観客、それらが忙しく入れかわるのが、連画とかカンブリアンゲームなんだよね。
ところが、ネット上の自由投票で一般の人々が一位に岡本太郎の明日への神話」、二位がわれわれカンブリアンゲーム、選ばれてしまったあ!狂喜したわね。
佐々木:「明日への神話」は、なぜメディアアートなの?(笑)
講義室全体(笑)
安斎:このふたつが並んでメディアアートってのはすごいよね、未来を感じるよね(笑)。
中村:普通は一番がいいに決まってるけど、このときの二位はうれしかったねえ。「カンブリアン・ゲーム」も爆発的に作品をが生まれるでしょ、岡本太郎も口癖が「芸術は爆発だ!」だもんね。
こんな奇遇なこともあって、岡本太郎への興味が増したわね。
かつて昭和初期、絵描きたちが芸術談義ばかりでなくて、フランスを舞台に身体的なものと自分の表現と、日常の中に組むこんでいたということがうれしいですよね、何か。
とりあえずこんなところかな。
●これからが本番、課外講義は終わらない
-1:37:52
安斎:では、ここからが本番?(笑)、放課後(笑)、つづきの話していいですか?、みんなも自由に話して。
ジャズの話がすごい大事だなと思った、どんな分野にもありますけど、あるところまでいくとその構造が壊れていって、構造が壊す仕組みがそのジャンルの中にあれば次のステージにいけるんで、ないものはダメなんで。するにオープンエンドであるかどうか?が大事。
身体が構造化、可視化といったときに僕はちょっと違和感があったんだけど、構造化、可視化といったとたんにオープンエンドでなくなる、どうやってそこから脱するか?という仕組みがこの中にあるか?ないか?
杖道の話で言うと、制定形ってありましたよね?
中村:はい、現代杖道といってもいいかもしれませんが。
安斎:あれはたぶんオープンエンドじゃない。つまり形(かた)から形(かた)を生みだすんじゃない、この形(かた)の中で収め(修め?)ましょう。形(かた)の生成力がなくなっている。
中村:そうかもしれない、すごいね安斎さん、その観察眼は!(笑)(中村メモ 制定形は緑の教本を熟読する、片や古流は、師匠の体や声を通じて;面授で倣う)
安斎:はい、もう達人ですからね(大笑)。杖道の達人!(履修生口々に、エア達人、エア・ジョードーとの声/講義室一斉大笑)、
そこがね身体の問題とリンクしてて、身体がある以上は絶対オープンエンドになるんじゃないか、広がり、という気がしている。ほかの事しだすわけだですよね。
佐々木:問題は逸脱をどうとらえるか?
杖道にしても、こういう形があります、こう動きましょう、先生に言われた通りにやりました、それで杖道完璧か?といえばもちろんそんなことはなくて、達人になればなるほどそこから逸脱した部分のすごさみたな、逸脱部分をどう認識するのか?というのが大事になってきますよね。常に構造化、可視化には逸脱が孕まれている、その逸脱をどうやってうまくいかにとらえていくか?その次の課題ということなんじゃないかな、そういう構図なんじゃないかな。
安斎:逸脱を許容するなんらかのシステムがそこにないとうまれようがないし認識しようがないし、生まれても逸脱が良いものであると人間が思えるかどうか。
中村:形(型)無しって言葉もありますが、逸脱するということは、なにかその逸脱する元があるってことですよね。なにかがあるから逸脱?
佐々木:全体、円があるんですよ。でも、その全体をとらえることはできない。
安斎:僕はやっぱり西野さんのスキルトロニクスじゃないけども、身体つかって難しいことやる、たとえばピアノを弾くとか、自転車に乗るとか、杖道やるとか、これら理詰めじゃ絶対うまくいかない綻びがある、頭を空っぽにしないと習得できないその瞬間にたぶんいろんなことが起こる。
佐々木:やっぱりわれわれの内側は無限なんですよ、宇宙というか。
中村:そう、皮膚から肉、そして骨へ、「百錬自得」の意味は、そのさらに内側の髄にまで染みこむまで稽古しなさいという意味、そこはミクロうんぬんという微小になってく話じゃなくて、むしろ宇宙に広がるイメージですよね。
佐々木:髄まで意識するんですか・・・・
中村:杖道の、この継承されてきた形をきっちり生身の師匠から対面で倣っていくこのシステムが、身体的な学びが古くさいものだとはとっても思えないのね。
しかし、現代人には通用しないのでは?と危惧した師匠たちは、警杖術として警察や機動隊に入れたり、勝敗のあるトーナメントを開催してスポーツ的に展開したり工夫してます。
佐々木:ああ、交番なんかにも杖ありますよね。警察署の前に立ってる人が持ってるでしょ、あれが杖ですか!?。
中村:本郷三丁目交番にもありましたよ、さっき見てきたもん。
佐々木:同じ長さなの?
中村:そうそう。警察出身の人が杖道大会に出てくると、勝ちます、強いです。
【ビデオ:警杖術、トーナメントの様子】
佐々木:警官は、柔道、剣道あたり課されるんですよね、逮捕術っていうのかな。
中村:杖道の並伝武道に十手術や捕縄術もあるもんね。さてところで、競技杖道もみせますね。
直接の敵は目前の太刀持った人だけど、杖と太刀が二組でてきて、それを3人の審判が囲む。一斉に始めるて二組見比べると、技の正確さとか気勢とか優劣が解る?
佐々木:なるほど・・・
安斎:これは制定形でしょ、古流はそうじゃない?
中村:うん、制定形。古流にはトーナメントはないから。むやみに何処でも演武したりしないもんね、神前とかへの奉納目的とかね。
安斎:僕は、エア古流杖道なんで(笑)、どうしても制定形、このスタイルが嫌いなんだよね。どうしてこれがありなんだ?
中村:制定形とかトーナメントのありかたは、現在進行形でまだ試行錯誤が続いてる部分もあるとみえますけどね。トーナメントも混乱するよね、直接の敵は目の前の太刀なのに、勝負しているのは隣の組なんだもん。
佐々木:あっそうなのか・・・、組なんですか。
安斎:どっちの組がうまくやったかですよね。フィギュアスケートみたいに人が評価するわけでしょ。
中村:そう。
佐々木:武道として矛盾してるよね。ダンスなのか?武道なのか?このトーナメントとかそもそも制定形っていつごろできたんですか?
中村:昭和43年ごろ。
佐々木:最近なんですね、それまではどうしての?
中村:佐々木さんが杖道の勝負につき方が解らないとおしゃってましたが・・・かつては、いかに優れた師匠と技を磨きながら修行していくか?人生をおくるか?ということで成立してた道だったらしい。
佐々木:こういう大会はなかったのね?
中村:ないと思う・・・・?(中村メモ:確認)。
安斎:どんな分野でも制定形ある、制定形ができてさっき佐々木さんが言ってた構造を壊すシステムが閉じられちゃう。
中村:杖道の世界はいまのところ、ダブルスタンダードで、12本の制定形を修めて昇段していく道と、古流72本を錬って稽古して巻物を拝受する方式;奥入、初目録、五目録、免許、免許皆伝に至る道と。
皆伝までいくのは大変、最後は口伝で技を伝授されるんだと云います。
中村:古流のビデオみると連画のことをよく思うんですよね、相手が真剣に斬ってくる、それをはしっと受け止め斬り返す、対話的な真剣勝負、同じじゃん。
佐々木:まったく知らない相手と、剣道みたいに仕合というか演武することはあるの?
中村:どうなのかなあ?・・・、72の形を完璧にこなせばそれも可能なのかなあ?
佐々木:いずれにしても、杖道のようなものは、スポーツにはなかなかないですねよね。
中村:スポーツにはないね。
佐々木:スポーツには敵と味方しかないじゃないですか?
中村:杖道は?
佐々木:敵でもあり味方でもある・・・
中村:奥と云われる技は、超シンプルでよく解らない。奥伝の一本をみせますね、あきらかに宮本武蔵の二刀流を意識したと思われる「阿吽」を。
【古流(乙藤師範×波止師範)演武のビデオみながら】
佐々木:えっおわりなんですか?、なにを今してたのか解らない(笑)。
安斎:もし実践になったとき、動きを何手先までって読んでるの?、野生の中でやったときも通じるのかな?
中村:・・・・・・・
-01:57
安斎:さて、せっかく佐々木さん来てるから、みんなから聞きたいこと、質疑応答
中村:twitterもずいぶんあがってるね→ http://togetter.com/li/1347
伏木田:VRとかARのあとに円を描く話が出てきたときに、こっち側の世界と仮想世界の境界が円なんじゃないか?という話がすごく面白いなあと思って、人によっては見えている円がものすごく薄かったり距離があったり、広がりも狭さも両方持ち合わせてる感じでその度合いが面白いなと思いました。
佐々木:宇宙の外側の形状はどうなのか?普通は球状と云われますよね、地球儀の内側みたいな。では宇宙船でずっと行くと壁があるのかっていうと、壁はない。宇宙空間は3次元じゃなくて最近の研究では7次元といって(笑)、とりあえず4次元としましょう。3次元+時間で4次元空間というのは、われわれの空間認識能力では絶対認識できない。膨らみつつあつ風船の表面で生きてるというイメージ。
ドーベルマン長田:構造化、可視化、破壊の繰り返しという螺旋に成長していくのかなと思ったんですけど、たとえば中村さんが油絵からはじまってデジタル行ってカンブリアンやって、しかしデジタルからはじまってという人もいて、人それぞれだとおもいますがそのへんはどうなんですか?
最先端を行く人にとって、構造化、可視化、破壊が行われているのか?初めてみる人たちもいるわけじゃないですか、そんなことが同時並行ですすんでいるのかなって?
佐々木:まずひとつはね、それが進化かどうか?って話、進化とは限らない単にくり返しの運動でしかない可能性はあるんですよ。もうひとつ、それがエッジの人たちだけの話なのか?
ジャズの一連の流れが進化みたいなエッジなものが、結果的にポピュラーな音楽に影響していると思うんですよ、たとえ浜崎あゆみや倖田來未のダンスミュージックみたいなものにね。
ちなにもういっこ面白い話をすると、イギリスのブライアンイーノに関する記事を読んだらものすごく面白くて、ある日家に帰ったら20代前半の娘さんが、1970年代のプログレッシブ・ロック、ピンクフロイドかんか聴いてた。「なんで聴いてるの?」とブライアンイーノが聞いたら「えっこれって古い曲だったんだ!?」と驚いたんだって。
iTunesみたいな音楽サイト配信サイトができたことによって古い音楽も新しい音楽もまったくシームレスに聴くことができる、逆に音楽の歴史知ってるとかファンにとってはなんのプライオリティもなくなってしまうという状況が今起きてるんで・・・今、音楽の世界は、かつてのミリオンセラー聴くみたいなトレンドを追うのでなく、自分がもっている共有空間、メディア空間の中に存在するエンターテイメントしかない。
身体性の話の戻すと、ミリオンセラーを作って売ってくというモデルがそろそろ限界に来ている。
マドンナが、去年か?一昨年か長年契約してたワーナーミュージックを切ったんですよ、CDじゃ儲からないから。そして別の会社と再契約した。何の会社かというとライブコンサートの会社。ミュージシャンにとってのビジネスモデルが、CDを売るんじゃなくてiTunesでどんどん安価に聴いてもらう消費してもらう、そのかわりライブコンサートとか写真集とかTシャツといったサブコンテンツ、リアル空間と接続しているものを売ってくというモデルに動きつつある。かつてバリューのあったコンテンツの価値は無くならないけれども、付随していたパッケージの価値は消滅しつつある。
場とかリアル空間のもってるパワーみたいなものが再構築される時代にそろそろ来てるんじゃないかな。
安斎:アートとか、小説の世界にもありますよね、きっと・・・
佐々木:小説も今後変わると思うんですよ、アマゾンのキンドルはアメリカでも100万台くらい売れていて英語しか表示できなくておそらく来年には日本語版も?
音楽と同じように価格破壊が起きて、読書という貴重な個々の体験ではなくて、環境的なソーシャルな読書空間の可能性ができてるんですよ。
たとえばケータイ小説。
単一のパッケージとして読まれてるのでなく配信サイトではケータイ小説作家が毎日毎日短いパーツを流す、すると読者がそのコミニティに参加してきてその空間の中で小説そのものも変質していくようなあり方。すべてがね、コミュニケーションプラットホームのなかに含まれている。
環境空間化していく。
中村:マドンナは生身でライブに出張っていくイメージ?けっこう大変ですね・・・52歳でしょ?これからますます身体勝負ですか(笑)!帯刀さん、どうですか?昨日はタップダンスの発表会だったようですけど・・・
帯刀:うーん、わかんないようだけど、とてもわかると感じてるところがあります。自分の空間と外の空間があって、わたしタップダンス15年目なんですけど、タップダンスにもやっぱり形があって先人たちが自分たちを表現するためにどんどん広まったものでありながら、ジャズと同じようにすごく自由にやってるようにみえてきちんと形があってそれをどんどんくずしてく中で、自分流みたいなものを出して、タップダンス同士の対話があったりバックのバンドたちとの対話があったりします。
自分の枠というのは、初心者はその中に閉じこもっているけど、あるとき段階でばっと超えるときがあります、超えるとき・・・横のものがみえてそれと他の横のものがみえてきてそれをまるで前に鏡があるようにそれを通してもう一度自分をみるみたいなことができて、するといままですごく硬い決して破れない殻があったのに、それを破るのではなく外と行き来が自由になる。すっと出たり入ったりができるようになる・・・(ここでタップ実演いきなり始まるw)内と外にも対話があるのかなと思いながら話を聞いてました。
「百錬自得」の話の中にも、いいものを一回やればいいとう話もそれは上級者むけであって、やはりそこに至るのは、何万回もくり返し血のにじむような挫折もありの時期が絶対必要と思いました。
中村:でも、ずっと精進精進、精神論ばかりもいやでしょ。もっと体の機能的な部分をあっさり、科学的に、この筋肉をこう動かすとこうなるよーみたいなことも必要じゃないの?・・・
帯刀:うん、そうするとたぶん年齢層が広がるんですよ、できる人のね。タップでも杖道でも子供はたぶん感覚で解るから「背中をみなさい。」、師範の背中見てできると思う。おばさんやおじさんが始めようとしたら構造を教えてもらえるとすごく解りやすい。”言葉になったレッスン”というのは、すごく年齢層の幅を広げるような気がします。
安斎:杖道の制定形ってのは、大衆化を狙ってる?生成の現場と大衆に広がってくのとは論理が違うんだな・・・
中村:どっちかだけでいいとか言い悪いということじゃないんだよね、絞り込まないでさというところで、そろそろ時間ですね。
佐々木:あまり身体性の話になりませんでしたね(笑)。
中村:いやいや、超多忙なところありがとうございました!
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