カンボジア旅行の吉凶を占う
2007/9/2(日) 午後 11:59
カンボジア旅行の吉凶を占う。
カンボジアの写真を見たり旅行記を読んだりしていると、本当に先進国の都会に住んでいるのだなと感じてしまう。
ホテルはお湯は出ないし、シャワーは川の水を引いたもの、便所でお尻はその水で左手で洗って拭く紙はなし。水道水は古い鉄管の濁り水がでてくるとか。
蚊の攻撃で眠れない、暑くてもアイスクリームは食べるな川の水の氷だから、カードはもって言っても器械がないので無駄、ドルの小銭を強盗のために用意しておけ、などなど。
どうなるのかと占った。
坤坤離坤兌震で山地剥の火沢けい
剥を見て一時真っ青。強盗に剥奪か??。
三週間いるから、もしかしたら??
ちっともいい卦ではない。注意と緊張は持続させておいて、卦は良い方だけを読んでいく。
最初の一週間目は慣れない、何もかも始めてで全部のことに迷い疑いがあるだろう。坤。
二週間目になれば慣れることもあるだろうが、都会文明の中でそだった私には闇の中で動くように感じられるだろう。めいい。
ようやく三週間目にして慣れてきて、腹下しの一回や二回ぐらいはしているかもしれないが、まんざらでもないという思いになってきているだろう。きまい。
三週間目になればうまくいきそうだ。雷地予が生きてくるようだ。
しかし、緊張はほどけず、注意し神経をあちこちに配し気配り、悪いことが起こるか、起きるのじゃないかと感じているだろう。蚊が退治できなくて眠れなかったらどうしようとか、お腹が強くないのでなんとかもつかなとか、身体のことが心配だ。
ここの山地剥は物理的に身体的に危害が加わるのでないことを祈る。
そうでなければ、気にしすぎだよ心配しすぎ、郷に入りては郷に従えと、火沢けいとその主爻沢火革が言ってくれない。
悪いほうには読まず、いい方だけ読んでもこれだけしかない。雷地予の全支配を信じよう。
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神はどこにいるか。
2007/10/7(日) 午後 11:27
神はどこにいるかと気にしてみました。
正面にいるとか、背後にいる、自分自身の中にいる、神社にいる、いない、どこにもいない、いろいろな答えがあると思います。
キリスト教では目前にしているか弱い人の中にいると言っています。
易ではどう答えるでしょか。
艮坤坎震坎坤 の 沢火革 の 乾為天 へ、 と出ました。
地山謙-雷水解-地水師をつくって坤為地、天風こう、水地比、乾為天などを内包しています。
とても難しい卦ですね。、
まさか改革、革命の中にいるというわけじゃないでしょう。もう少し和らげてにらみ合い反目している中にいるとしても、どうもしっくりこない。
ヒントにある坤、乾を探ってみることにします。
神をどのように意識したのでしょうか。困窮落胆のとき、大いなる歓喜爽快なとき、あるいは単に言葉として知ったときなど、いろいろあって一概には言えません。おそらく神という言葉を知る機が熟したときに、「自然に」脳内にしみ込んでいったのではないでしょうか。
通常は神がどこにいるかなど意識していません。意識している人は、自分でつくった場所を意識しているだけでしょう。神から自分の居場所を教えられたというのは聞いたことがありません。
神がいようといまいと、その場所などお構いなく、ここはここ、あそこはあそこ、天地は天地の世の中です。そういったなんでもない中に居そうな気がします。
そういったなんでもない現実の中、それを沢火革と結びつけてみると、、なんでもない現実の行為、それへの考えを革新して改革する、革は古きを去って新しきをとるだけど、現にあるものを古いというのではなく、取って代わるものがあるという意味で旧いとすれば、全然現実を動かすことなく逃げることなく、そのままで新の革になる道があり、そこに神がいるということになりそうです。
キリスト教ではすべての存在に愛を見つけ、仏教ではすべての存在に仏を見つけるといいます。
つまり愛の歓喜の中に、悟りの狂喜の中に神はいるということでしょうか。
文明にしてもって喜び、大いに通りてもって、正し。改めて当たればその悔い亡ぶ。
燃え上がる炎の喜びの中に神はいる。
易による解を下したのはいいとしても、私の現状は????!!!!!
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易神はどういうつもりで
2007/10/23(火) 午前 3:36
易神はどういうつもりで我々に答えを与えるのか、その易神の心を問う。
質問の意味が半分判らない変な質問。
卦を問えば卦は出てくる。いったいどういうつもりで卦をくれるのか。もらった我々は結構苦労しているのに、喧嘩や罵倒さえすることもある。
同じ質問には同じように簡単明瞭に答えてほしいのに、そんなことは全然知らぬ振り。下界での出来事をみてなんとか言ってほしいとさえ思ってしまう。
離艮兌離艮離で坎為水を創る。参考する卦に、山火ひ、火沢けい、火山旅、艮為山、山雷為、離為火
これはこれは難しそう。
難しいというのはだめな得卦ということにもなる。
易神が難しがるわけはない。
こっち側の問題だ。
まことあり、これ心通る。行けば尊ばれることあり。
そう、易神にとっては単純なことなのです。我々は卦名からくるイメージや卦の大綱解説に惑わせられやすい。今回は経典の言葉至上主義でいく。
易神からの言葉という形で書いてみたい。
「あなたがたに卦という形をとった答えとして与えられるのは外見的な飾りだけで、現実の進行、未来の進行が直接与えられるわけではない。
答えを受け取ったあなた方は飾りの効用効果を易の解釈を通して実行していく。(山火ひ)
それは困難を伴う仕事だが、既に解釈書として易経が与えられており、あなた方はその背に乗って揺られていくだけである。
解釈は自由なように見えて、その半面自由意志を拘束され、経に謙虚であることが要求される。(離)
それによって困難は克服されていくが、まるで暗夜の旅程のようで、無闇と動けば転がり落ちる。これからの予定があり、翌日の目的地があるから、苦労障害問題点が見つかるので、それはあなた方が勝手に満たしたい欲望を持っているからである。(旅)
わたしはあなた方に外見的な飾りとして卦を与えた。そして、それを受け取り真をみわけるのはあなた方の仕事であることを示した。
わたしには送りだした卦には何の未練も無い。もう既にあなたたちの手に移ってしまっている。
わたしはただ送り出すだけであり、そのメッセージが孚であって、孚として通じれば良いだけである。
何の利益もないし期待も無い。(本卦)
わたしはあなた方に卦を正しく読めともいわないし趣味趣向で読んでもいいともいわない。それは私の仕事の範囲外にある。私の与えた卦はあなた方プロアマの易者たちの総体の見解よりさらに大きいのだから。
第一に私自身に卦がやってくるのは、わたしを無視した形で勝手に向こうからやってくる。奔放に無心に次から次へとやってくるので、わたしも次から次へと送り出すだけである。
そのどれか一つがあなた方に到達して卦となる。
しかしそこに不公平はなく、すべての卦に孚が乗り宿っている。
大海へ流れ出て終了する川を見てみなさい。その始まりはなんだったのか。小川の上流の山上の湧水、泉は雨の一粒一粒、一つ一つの霧粒が集まったものではないのか。わたしはこの雨粒にうたれるだけでそれを左右することなどできない。
落ちてくるものは天の意志であり、山頂と天の間に何のさえぎるものがなくとも、その隔たりを埋めることはできない。だからわたしは下へ下へと流すのみである。(坎)
その後の循環は知ってのとおりだ。
天の意志として下へ向かうものを孚として受け入れ、そのとおり手を加えずに下へ流す。これがわたしの孚である。わたしの孚は大海にて止まる。(艮)
それから先は天に付こうとする水の蒸発の仕事となる。(蒸発を離とみる)
こうして坎水の孚が行き渡ることで、その通路には人の文明と知恵が開拓される。(い)
わたしは卦をこのように扱っていく。
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紅葉の仕組みを易で問う
2007/12/9(日) 午前 3:57
一応紅葉の仕組みを解説した科学のページを見た上で、、
易はどのように答えるかと思い質問してみた。
本卦 山火ひ 之卦 天山とん。 乾兌震坤坤坎。
山肌に赤く映えそして落葉する。ストーリーそのままのような卦が出た。
でもなぜ紅葉するのかの答えが無い。
山火ひ、天山とん共逃れられない問題を内包して四苦八苦している卦です。
紅葉によって何かのけじめをつけて踏ん切りをつけたいような、あるいは紅葉して世界の目を自分に集中しておいて雨にうたれて落葉して土に化す、そのはかなさを教えているような、
とにかく紅葉する理由は見つからない。
出てくる卦には、問題を抱えて苦労する意味の卦が多く、きばって頑張って顔を真っ赤にして絶えてしまうプロセスを見せてくれると同時に、そのしぐさを自分の益になる方向に導きたいがために落葉するとも出ている。
やはり人目を集め着飾ったところを見せたいのか。
山を飾る紅葉を見るのもいいけれど、渓流の川面をただよう一葉のもみじや、湖面に反映した紅葉、水底に沈んだ落ち葉の揺れる紅、雨にうたれ落ちて泥をかぶった紅葉なんかもさらにいい。
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