易、易神に直接助言を問うことはできるでしょうか。
占い師には助言することが使命だとまでいう人もいます。決定するのは本人だとはいうものの、
その割りにはなにも保証はしていなくて、占い師にはなにも責任がないようになっています。
そこから占いの結果などどうでもよく、助言カウンセリングを述べるだけの人もいるようです。
助言が過ぎると、品物物品と結びつき、おまじない祈祷にまで飛んで行き、講座講演実習などと
いうものにまで繋がっていきます。
あるいは、助言カウンセリングそのものに値段が付くようになっていきます。
さて、易と助言の関係を易に問うてみました。
得た卦は
艮離乾艮震離で沢火革の三爻変で沢雷随へ行くでした。
革は旧きを去って事を新規にするです。
解の要点を考えてみると、助言を受ける相談者の事をさしているようです。
爻卦の始めは火山旅からで、しばらく要領が得られなかったが、離を助言として、
山に前進を止められた、そのはるか彼方には助言の灯火があるとしたら、後はわりとすんなりと
了解できた。
結局は本卦の沢を相談者、淀み留まり停滞する沢水として解釈した。
後は沢水に応じた離火の動きがある。
設問の解は易に直接に助言を問うことはできるが、受容する相談者側に問題があるとなった。
もともと相談者は助言に従い往くとも、不安心配不信の中で小さな灯火程度と受け取り、
助言の示す方法と行為の仕方を受け入れるよりも、その人本来のやりかた、いままでの
人生から得た方法と行為に戻ってしまうようになる。
そして易の示した助言はどうなるかというと、一時のパワーとなる場合もあれば、
実行されない、放棄する、場合もあると易卦にはでています。
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占いと運勢。助言をあてにする人たち。
2008/9/12(金) 午前 1:40
加藤大岳の『易学通変』からもう少し引用。
182ページ
『 俗に占いといえば、世人はすぐに運勢、身の上判断と思う。、
それ程占術は運勢の判断に広く用いられている。
しかしながら深く考察を巡らした場合、漫然と行われる運勢の判断ぐらい無意味なものは無い。
多くの場合、運勢判断のごときは、自己の運命に漠然たる関心を持つ人々によって求められるのであるが、占断の吉凶いかんに関わらず、その占示が積極的にその人の実生活に寄与することはほとんど無いといってもよい。
吉の占いを得れば、何事か慶事がもたらされるだろうと空しい希望を抱き、
凶の占いを得れば、運が向いて来ないのだとて自ら哀しい諦めに浸る。
かくのごときは、哀れにも愚かな占術の遊戯に過ぎないのであって、
かかる占断を行って恥を感ぜぬ易者の無自覚もまた、大いに咎むべきであろう。 』
この後もう一段落あるのですが、省略。
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易の卦は助言をも与えているか。読み手による解釈か、易が与える新方向か。
2008/9/10(水) 午前 3:02
これはむずかしい問題なので、取り敢えず、加藤大岳の『易学通変』から引用だけしておきます。
「在来の易は『当てる』ということを以て、その第一の目的としたが、
真実の易は『当てる』ことは第二義であって、
人々の悩み、煩え、苦しみ、戸惑いを除去し、
いかにしてこれに希望と光明と平安とをもたらし来らすべきかを占示することをもって第一義とすべきである。
しかしてその指示・教導のよろしきを得た場合に、易が『当たった』という結果を生ずるに過ぎない。
これが真実の意味における『当たる易』と称すべきであろう。」(20ページ)
次回は実際に卦を出してみて、その卦にそって解を試みたいと思います。
「易とその助言の関係を問う」、易神さん自身にその気持ちを問うことになるのでしょうか。
易神さん、わたしの理解しやすい卦を出してくださいよ。お願いします。
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自分占い
2008/9/7(日) 午後 6:17
私の今後は何をしているのか、どんな仕事をしているのか、占いなどやっているのか、などと思いながら『私の進む道は?』として卦を出してみました。
兌艮兌乾艮坤で本卦沢水困-之卦風水渙でした。
占う前はやっていることの内容を考えていたので職種が出て欲しいと思っていた。
見た印象からすればはかばかしくない。
艮に抑えられ沢水困になっている。取り柄は本卦は渙に変化するだろうこと、困が之卦にあればお手上げになってしまう。
眼目は「何をやっているか」なので、困難ですよ苦しみますよと言われるよりも、「沢水困」という職種を見つけようとした。そもそもこの世の中困難でないことなどないので、わざわざ困難ですよなどといわれる筋合いはないと思うことにした。きっと他のことを示しているに違いない。
じっとにらめっこを始めたが、「困」からは職種らしきものはなんにも出てこない。何にもできない情けない占いしか勉強して来なかったのかとしきりに困困困困。
半分諦め掛けたときにやってきた。私自身の卦読みができそうになった。之卦があるじゃない、それを考慮しなさい。
沢水困は沢に水が無い状態が困であるとされている。もちろん通常はそれで解していくことになるが、
事、自分の事になれば少しは格好の良いところを探したい。
そう、沢に水が満々と蓄えられているだけが沢のあり方だけじゃない。
子供の頃、田舎のお祖父ちゃんのところでは、河を遮ったり、池の水を抜いて、鰻や魚を取っていた。
沢の水を無くなすことが利益に繋がることもある。
沢の水をわざと無くして、四五爻の陽を浮上させて風水渙とする。二陽の宝物を手に入れて、人々の憂苦を、鬱積を散らす。
ここから先の解釈はわたしだけのもの。
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いつ頃私の結婚がありますか」という女性からの質問への解答。
2008/9/6(土) 午後 6:31
「いつ頃私の結婚がありますか」という女性からの質問への返事。
得た主な卦は乾為天と雷天大壮。
乾という基本中の基本の卦がでました。
質問は「結婚」に関することなので、結婚に関して基本的な部分で問題があるとします。
出会いがないからチャンスがないということではないらしく、どちらかというと、チャンスは大いに活用しているようです。
ただ二人の関係に問題が起きやすく、特に質問者について以下の推測ができそうです。
あなたは潔癖症気味で男性の要求を受け入れられないとか、
淫欲が強すぎて男性がついていけないとか、
非常に奥ゆかしすぎて男性が遠慮するとか、等々、
なにか 、心理的精神的に、あるいは肉体的にかたくなに固執しすぎるところがありそうです。
この性格性癖に由来する部分が相手に受け入れられないために、困難な問題が起きているのではないかとおもわれます。
今後うまく行かすためには、どこまでもやっていくのが普通だと思うことなく、
途中で放り出したり、手抜きをしたりしてみて、意識の方向を変えてみてはどうですか?(白菊角晋)
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易神さん自身が語る自分の弱点。
易自身が語る弱点。前回に続いて何かわけの分からなくなってきそうな題です。
易自身は自己の欠陥をどのようにみて、自分の弱点をどのように指摘してくるでしょうか。
易自身によって自己の弱点を明らしめるようにと、問う。
坤坤兌坤巽兌で坤為地の雷沢帰妹
これまたあやしい想いのでてきそうな卦になりました。前回の真の解釈法の真反対です。
易が自分で語る弱点といっても、易は口がないのでしゃべれない。それをいいことにお前らは勝手なことをごちゃごちゃ喋る。それでもわしは黙って静かにお前らのやりたいようにさせている。
仮定として少しだけ。
離、震、乾の激しさがない、順序よく順当に徐々に進んでいくのが可なりのような外観を与えているが、、そんなことをすれば理知、知性の邪悪性がすぐ侵入してくる。しかし、私はそのようにしか示せない制限が制約がある。もっと一挙に一挙に見て得ることだ。
これだけ書いておきます。これまた解釈は保留ですね。
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易卦の真の解釈法
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傑作(0)
2008/2/17(日) 午後 6:10易占いその他占い
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ぎょうぎょうしいお題目です。
真の解釈法はどのようなものかと占いに聞くのです。そんなことはできるのでしょうか。
卦をとれば、必然的に結果はでてきます。卦を見ていう言葉はたくさんあります。○から×まで64種あると言っておきましょう。
では発表します、私の得た卦です。
震乾乾乾乾坎 で 乾為天 の 山雷頤 にいくです。
×××の卦かもしれません、もしかしたら、ものすごい○○○の卦かもしれません。
これは既に二週間前に出したものですが、手つかずのまま放ってありました。
その後、
モーツァルトの作曲法を思ったり、空とは何か、悟りとは何かを探してふらふらしだす始末です。
またいつかこの卦に戻ってくるでしょう。
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卦と思い ( 火地晋 )
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2007/12/17(月) 午前 5:16易占いその他占い
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冬の日の午後。ベートーベンの「合唱」を聞いた後に散歩にでた。
散歩に出る前に思っていたことがある。乾為天の卦は天、空を表している。その卦が出れば表象を拡大して意味を見つけていくことができる。
では逆に天や空を心に描いて卦を取ればどうなるか。
知識や易の本の解説からすれば乾為天が出てくるはずだが、実際にはどうなるだろう。
他の卦になってしまうということはないだろうか。というよりもその他の卦になる可能性のが大きい。なにしろ六十四分の一の確率しかない。
さらに私の方法では十八回手をかけて卦を出している。
散歩は小一時間ほどで終わった。運河沿いの石畳を歩くだけだ。雲のない日だけど冬の日は弱々しい。
でも水面を照らしてキラキラチカチカと目を射る力はまだまだ大いにある。
部屋に戻ってから散歩前の思いを試してみるかどうか迷った。
どんな卦が出るか?
とんでもない関連の薄そうな卦だったらどうしよう。
私は基本的には全ての卦は受け入れる。誤占ということにして二度目を試すことはしない。どうしても解けない関連の無さそうな卦のときはそのままにしておく。
さて、天を思い、空を思ってそれの卦はどうなるか示してもらった。
兌離兌乾坤震で火地晋の風地観になった。
全く陽が川面に揺れてキラキラまぶしいのを見ているという散歩の状況そのままがでていた。
地の三陰をキラキラ揺れ輝く太陽とみる。
わっと、喚声を挙げたくなるような卦となった。
その後、心が落ち着くと不満がでてきた。
次回に続く。
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カンボジア旅行の吉凶を占う
2007/9/2(日) 午後 11:59
カンボジア旅行の吉凶を占う。
カンボジアの写真を見たり旅行記を読んだりしていると、本当に先進国の都会に住んでいるのだなと感じてしまう。
ホテルはお湯は出ないし、シャワーは川の水を引いたもの、便所でお尻はその水で左手で洗って拭く紙はなし。水道水は古い鉄管の濁り水がでてくるとか。
蚊の攻撃で眠れない、暑くてもアイスクリームは食べるな川の水の氷だから、カードはもって言っても器械がないので無駄、ドルの小銭を強盗のために用意しておけ、などなど。
どうなるのかと占った。
坤坤離坤兌震で山地剥の火沢けい
剥を見て一時真っ青。強盗に剥奪か??。
三週間いるから、もしかしたら??
ちっともいい卦ではない。注意と緊張は持続させておいて、卦は良い方だけを読んでいく。
最初の一週間目は慣れない、何もかも始めてで全部のことに迷い疑いがあるだろう。坤。
二週間目になれば慣れることもあるだろうが、都会文明の中でそだった私には闇の中で動くように感じられるだろう。めいい。
ようやく三週間目にして慣れてきて、腹下しの一回や二回ぐらいはしているかもしれないが、まんざらでもないという思いになってきているだろう。きまい。
三週間目になればうまくいきそうだ。雷地予が生きてくるようだ。
しかし、緊張はほどけず、注意し神経をあちこちに配し気配り、悪いことが起こるか、起きるのじゃないかと感じているだろう。蚊が退治できなくて眠れなかったらどうしようとか、お腹が強くないのでなんとかもつかなとか、身体のことが心配だ。
ここの山地剥は物理的に身体的に危害が加わるのでないことを祈る。
そうでなければ、気にしすぎだよ心配しすぎ、郷に入りては郷に従えと、火沢けいとその主爻沢火革が言ってくれない。
悪いほうには読まず、いい方だけ読んでもこれだけしかない。雷地予の全支配を信じよう。
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神はどこにいるか。
2007/10/7(日) 午後 11:27
神はどこにいるかと気にしてみました。
正面にいるとか、背後にいる、自分自身の中にいる、神社にいる、いない、どこにもいない、いろいろな答えがあると思います。
キリスト教では目前にしているか弱い人の中にいると言っています。
易ではどう答えるでしょか。
艮坤坎震坎坤 の 沢火革 の 乾為天 へ、 と出ました。
地山謙-雷水解-地水師をつくって坤為地、天風こう、水地比、乾為天などを内包しています。
とても難しい卦ですね。、
まさか改革、革命の中にいるというわけじゃないでしょう。もう少し和らげてにらみ合い反目している中にいるとしても、どうもしっくりこない。
ヒントにある坤、乾を探ってみることにします。
神をどのように意識したのでしょうか。困窮落胆のとき、大いなる歓喜爽快なとき、あるいは単に言葉として知ったときなど、いろいろあって一概には言えません。おそらく神という言葉を知る機が熟したときに、「自然に」脳内にしみ込んでいったのではないでしょうか。
通常は神がどこにいるかなど意識していません。意識している人は、自分でつくった場所を意識しているだけでしょう。神から自分の居場所を教えられたというのは聞いたことがありません。
神がいようといまいと、その場所などお構いなく、ここはここ、あそこはあそこ、天地は天地の世の中です。そういったなんでもない中に居そうな気がします。
そういったなんでもない現実の中、それを沢火革と結びつけてみると、、なんでもない現実の行為、それへの考えを革新して改革する、革は古きを去って新しきをとるだけど、現にあるものを古いというのではなく、取って代わるものがあるという意味で旧いとすれば、全然現実を動かすことなく逃げることなく、そのままで新の革になる道があり、そこに神がいるということになりそうです。
キリスト教ではすべての存在に愛を見つけ、仏教ではすべての存在に仏を見つけるといいます。
つまり愛の歓喜の中に、悟りの狂喜の中に神はいるということでしょうか。
文明にしてもって喜び、大いに通りてもって、正し。改めて当たればその悔い亡ぶ。
燃え上がる炎の喜びの中に神はいる。
易による解を下したのはいいとしても、私の現状は????!!!!!
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易神はどういうつもりで
2007/10/23(火) 午前 3:36
易神はどういうつもりで我々に答えを与えるのか、その易神の心を問う。
質問の意味が半分判らない変な質問。
卦を問えば卦は出てくる。いったいどういうつもりで卦をくれるのか。もらった我々は結構苦労しているのに、喧嘩や罵倒さえすることもある。
同じ質問には同じように簡単明瞭に答えてほしいのに、そんなことは全然知らぬ振り。下界での出来事をみてなんとか言ってほしいとさえ思ってしまう。
離艮兌離艮離で坎為水を創る。参考する卦に、山火ひ、火沢けい、火山旅、艮為山、山雷為、離為火
これはこれは難しそう。
難しいというのはだめな得卦ということにもなる。
易神が難しがるわけはない。
こっち側の問題だ。
まことあり、これ心通る。行けば尊ばれることあり。
そう、易神にとっては単純なことなのです。我々は卦名からくるイメージや卦の大綱解説に惑わせられやすい。今回は経典の言葉至上主義でいく。
易神からの言葉という形で書いてみたい。
「あなたがたに卦という形をとった答えとして与えられるのは外見的な飾りだけで、現実の進行、未来の進行が直接与えられるわけではない。
答えを受け取ったあなた方は飾りの効用効果を易の解釈を通して実行していく。(山火ひ)
それは困難を伴う仕事だが、既に解釈書として易経が与えられており、あなた方はその背に乗って揺られていくだけである。
解釈は自由なように見えて、その半面自由意志を拘束され、経に謙虚であることが要求される。(離)
それによって困難は克服されていくが、まるで暗夜の旅程のようで、無闇と動けば転がり落ちる。これからの予定があり、翌日の目的地があるから、苦労障害問題点が見つかるので、それはあなた方が勝手に満たしたい欲望を持っているからである。(旅)
わたしはあなた方に外見的な飾りとして卦を与えた。そして、それを受け取り真をみわけるのはあなた方の仕事であることを示した。
わたしには送りだした卦には何の未練も無い。もう既にあなたたちの手に移ってしまっている。
わたしはただ送り出すだけであり、そのメッセージが孚であって、孚として通じれば良いだけである。
何の利益もないし期待も無い。(本卦)
わたしはあなた方に卦を正しく読めともいわないし趣味趣向で読んでもいいともいわない。それは私の仕事の範囲外にある。私の与えた卦はあなた方プロアマの易者たちの総体の見解よりさらに大きいのだから。
第一に私自身に卦がやってくるのは、わたしを無視した形で勝手に向こうからやってくる。奔放に無心に次から次へとやってくるので、わたしも次から次へと送り出すだけである。
そのどれか一つがあなた方に到達して卦となる。
しかしそこに不公平はなく、すべての卦に孚が乗り宿っている。
大海へ流れ出て終了する川を見てみなさい。その始まりはなんだったのか。小川の上流の山上の湧水、泉は雨の一粒一粒、一つ一つの霧粒が集まったものではないのか。わたしはこの雨粒にうたれるだけでそれを左右することなどできない。
落ちてくるものは天の意志であり、山頂と天の間に何のさえぎるものがなくとも、その隔たりを埋めることはできない。だからわたしは下へ下へと流すのみである。(坎)
その後の循環は知ってのとおりだ。
天の意志として下へ向かうものを孚として受け入れ、そのとおり手を加えずに下へ流す。これがわたしの孚である。わたしの孚は大海にて止まる。(艮)
それから先は天に付こうとする水の蒸発の仕事となる。(蒸発を離とみる)
こうして坎水の孚が行き渡ることで、その通路には人の文明と知恵が開拓される。(い)
わたしは卦をこのように扱っていく。
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紅葉の仕組みを易で問う
2007/12/9(日) 午前 3:57
一応紅葉の仕組みを解説した科学のページを見た上で、、
易はどのように答えるかと思い質問してみた。
本卦 山火ひ 之卦 天山とん。 乾兌震坤坤坎。
山肌に赤く映えそして落葉する。ストーリーそのままのような卦が出た。
でもなぜ紅葉するのかの答えが無い。
山火ひ、天山とん共逃れられない問題を内包して四苦八苦している卦です。
紅葉によって何かのけじめをつけて踏ん切りをつけたいような、あるいは紅葉して世界の目を自分に集中しておいて雨にうたれて落葉して土に化す、そのはかなさを教えているような、
とにかく紅葉する理由は見つからない。
出てくる卦には、問題を抱えて苦労する意味の卦が多く、きばって頑張って顔を真っ赤にして絶えてしまうプロセスを見せてくれると同時に、そのしぐさを自分の益になる方向に導きたいがために落葉するとも出ている。
やはり人目を集め着飾ったところを見せたいのか。
山を飾る紅葉を見るのもいいけれど、渓流の川面をただよう一葉のもみじや、湖面に反映した紅葉、水底に沈んだ落ち葉の揺れる紅、雨にうたれ落ちて泥をかぶった紅葉なんかもさらにいい。
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三角形の内角の和
2007/8/25(土) 午前 1:44
三角形の内角の和のもとめ方を易に問う。
私一人では解けない難問題になってしまった。例え小学生レベルの知識がなくとも、易に関する興味は尽きないので挑戦してみた。
とりあえずどのように証明されているのか調べてみた。平行線を引いて錯角が等しいのを利用して、三つの角の和が180度、つまり一直線になるというものらしい。
三角形の内角の和のもとめ方を問う
艮坎兌坤離震で山沢損の火沢けいを得る
先程からつらつら眺めているが、易神さんに感謝をしなければならないほど良くできた卦のようだ。
爻卦に水山けんがある。山を見るのではなく平地を見ろという。180度の平地になるという伏線が得られた。
ついで地沢臨、上から下に臨む。山の角度を下に移動する含みがある。
そして雷火豊。ちょっと知恵を出して動かしてみろ、そして得たものが肝心だぞという教え。
全体的な注意点は、背中合わせの部分相反する場所が重要だという、雷山小過。
これでお膳立てがそろった。
本卦は山沢損。三陰三陽で元は地天泰の平らかを目指す。損を現在の三角形とする。その一角を損しろという。
どのようにするのというと、平地の180度に移動しろ、嫁に行け、そこででんと構えて、手違いを恐れず移動先に載っかかってしまえと、損の中にある帰妹が告げる。
之卦の火沢けい。移動してきた元の場所はほっておいて、そこに背を向けあっている相手と一緒になれ。
これで180度の直線が得られた。
まるで算数の知識がないので、ここに書かれた文章はまずいけど、得られた卦はぴったりだと思います。
当初はこんな問題を出すことに疑問を持っていましたが、易の力はすごいと思いなおし、まだまだ読み方がなっていないと反省しました。
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易における正中線とは何か
2007/8/27(月) 午後 8:24
いつも感じることは易の卦がでても、はたしてそれが的を得たものであるかということ。
でた卦があれば自動的なり参考書を手にしながらなりに解説がでてくるが、不安が消えたことはない。
自信がないこととは違う。自信をもって解説できても当たってるとは限らない。立派な外れた解説を掲示板の質問者たちはくすくすしながら読んでいることは見え透いている。
詳細を聞き出し窮理し現実との相違を見分けても、常に不安が消えない。
私には捜し物がある。易における例えば、何か、人における背骨のようなもの、スポーツにおける極意のようなもの、武道における正中線のようなもの、意識における無意識のようなもの、私が造ったものでありながら私が支配されるようなもの、そんなものたち。
易の構造ときのうは勉強次第でよりよく理解していくことができる。でもそれを貫くものがほしい。
一個二個と手に入れられる極意秘伝と呼ばれるものではなく、これが易だといわれる何か。身体意識という言葉があるが易における身体意識のようなもの。
そこで私は問う。
易における正中線のようなものとは何か。
巽坤坎乾震坤で沢山咸の巽為風へゆく
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沢山咸--易占の正中線
2007/8/30(木) 午後 6:49
行こうとしているのに行けない。やろうとしているのにやれない。感じているのに分からない。
ああ、なんというもどかしさ。
卦は指し示しているはず、それなのに分からない。
ダイレクトに咸であるといってくれた。天風こうがあるよ、升もあるだろう、巽だよ巽それに従うのだよ、と。
でも分からない。仕方ないからぼーっとする。
感得、咸得、感得、咸得なんだよ。
咸--あっち側、向こう側、相手と私の共感、そして一致。
向こうは向こうで勝手にあるのに、向こうから相談されると、その状況を卦が示す。なんとも不思議なことだ。
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沢山咸と正中線
2007/8/31(金) 午後 8:23
易には卦を出す行為があるので、それに関わる心理的物理的な問題がいろいろある。
卦の解釈に自信があるのかという前に、卦を出すのに自信があるのかという問題まである。
なにしろどんな心理状態どんな身体的な態度であっても手が動けばもうそこには卦が出てきている。
「どんな状態」かというのは今ではもう興味本位の事柄になってしまって、書く価値はない。
出た卦に易者の思いが移っているとか主観が反映したとか、予防的な言い訳や、恥を回避するために差し込んでおくものもあって、解を披露するには結構勇気がいるらしい。
私はそんな外的なことにはたいした関心はなく出た卦にガツンとやられることを期待している。
易はこの世のすべての事象を八卦に閉じ込めてあるので、めったやたらと卦読みの象が多い。
そこで理性的に理知的に事を処理していこうとすると、簡単に反対される。卦の解釈は簡単に変更可能だし、他人から見ればその人数分だけ意見がでてくる。だから非常に不安定で表向きの自信の中には隠しきれないほどの心配がある。
そこではただ固執することでしか意見を正当化できないでいる。過去の有名人とか先生とか秘伝だとか極意だと知識方法方術とかを引っ張りだしてでしか自分の意見を主張できない。
私の得卦の沢山咸はそんなことは教えてくれない。男女の共感だよ、本能だよと言ってくれている。
卦の正中線を得るには沢山咸だよそうでなければ心の平安はないし、不毛な議論に巻き込まれるだけだと言っている。
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卦の示す方向と現実
2007/8/28(火) 午後 6:53
大きい胸が恥ずかしく目立たないようにする方法を聞いている高校生の掲示板投稿をみて。
その掲示板は占い掲示板ではないので、占いからの投稿はなく全て現実的なものです。
いくつか回答があって、男のアホさ加減を刺した後丁寧な実践的、実用的なアドバイス、服装やダイエット、心理援助、経験談、女の成長の段階、小さいのを悩む人もいる、水泳の授業は休めとか先生に相談したらとか、考え方を変えて自慢したらとか、多くの有用な援助の手がさしのべられています。大きいのを自慢してみたらという意見に「やはり恥ずかしい」と本人は答えています。
さてここからがこちら側の問題です。
我々は易の卦をみるだけで上記に対応できるかということです。
私の方法は十八個の木片に裏表と番号を書いたものを一度に投げて、その一回だけで卦を出します。この方法への疑問不信はもっともですが、そこに易占いの神秘さもあるのです。
ばらっと散らばった木片を順番どおり並べると
『‥-‥ ‥‥- --- -‥‥ ‥-‥ -‥‥』になり、
坎艮乾震坎震の乾為天の天沢履を得ました。
掲示板の質問はうそふざけ半分も混じっているので、ほんとうの質問かどうか確認しなければならない。
卦からは未成年の未熟さなりに本当に大きすぎるというおもい、どうしても解決したいなんとかしたいという思いが現れています。(とても不思議に思える一瞬を感じるときです。)
それさえ確認できれば後は腕の(未熟さの)見せ所です。
G の番号があるけれど見当がつかないので分からないが、ひだりほうが小さいとでています。
乾為天はりっぱな胸の象徴です。その裏側には彼女の感じる恥を示す坤為地が隠されています。
ハンディキャップを背負って普通に歩けず立ち往生している姿もみえます。少女の控えめな暗さ、隠れ逃れたい現状と、大げさともみえるほどの困惑、そして解決への期待があります。
これらから心理的にも社会的にも女性の自然な成長への対応を見いだしていかなくてはならないのでしょうけど、大変ですね。
卦からは乾為天の三爻を参照すると、普通に生活し授業を受け水泳もしているのがよいと思われる。
他の人と同様に時の流れを待つのが一番よい、女の成長の流れを受け入れるのがよいとでている。
しかしこれだけでは一般的なことですね。例え卦からそんなことが言えても彼女は相変わらず「やはり恥ずかしい」というでしょう。
こういうときにはいつも僕はおもいます。占いなんて実際に何にも役に立たないじゃないかと。
天沢履は性的な対象にみられることを示しています。危険を内蔵しています。本人に自信を持て胸を張れといっても今は無理です。攻めの手法は助言できません。守りや回避を主体にしていくほうがいいです。
大きめな服を着るとか、人の群れの中に隠れる、後ろを歩くとか、こんな解釈になりますね。
どこかの助言者がいっているように「トップとアンダーに差があるブラジャー」なんていう提言まではとてもとてもできません。易の無力を感じるところです。
今回こうして書いてきて僕の一番気に入ったのは「普通に生活し授業を受け水泳もしているのがよい」というところです。
こんなことは卦を見てからでないと思いも考えもつかない。これも易占いの魅力です。
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希望を叶えるための祈りは効果あるか
2007/8/23(木) 午後 4:19易
「夜になったら祈っておきます」
「後で祈りを捧げておきます」
とかいうのは、だいたいは詐欺師の言い分ですが、やはり「祈りで希望が叶うか」と気になりました。
私自身は気功をやっていて祈りみたいなもので痛みを和らげるぐらいはできるのですが、この場合は気を操作していくので、気とその相手対象とのマッチする関係があります。
でも、得られた卦と祈りに何か相関関係があるでしょうか。
占いによって得られた占断によって、私の場合は易ですので易の卦を見て、それに対して希望のある場合などは、祈ることによってよいことが起きるのか、またよいことを起こすことができるのかが知りたくなりました。
彼氏と結婚できるかと占ってだめと出たのに、祈りでそれを変えられるか。弱い関係を強力にすることはできるか。とか、占いの結果プラスアルファとしての祈りの効果を占ってみました。
もしそんなことができれば、祈っちゃえばできるのだから、ばんばん祈っちゃうことでしょう。
爻卦は 艮坎艮兌坎兌 の 水天需 を得る
閉塞した状況を打開したいために祈りをするということですが、その祈りは聞いてもらうことはできるでしょう。
しかし、希望を叶えるということではなく、祈っているという心情が伝わるだけです。
希望を叶えるような祈りは、返って自己欺瞞から発生してきているので、全くのやぶにらみで危険なことでさえあるでしょう。
効果のない期待を与えるだけで、自分で積み重ね備えることを怠る危険があり、いつまでも進展しない停滞を引き起こすでしょう。
まずは人事をつくすことから、というメッセージでした。
何でも祈ればいいというものではなく、人事もつくさず占いに頼るというのもだめということですね。
でもその後、やるだけやった、その後は、どうなるのか。
水天需の中にある火天大有を爆発させることはできるのか。
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余計な期待
2006/2/1(水) 午前 3:06
わけもなく、今夜何かあるのかなと思い、本日夜のできごとを占った。
天風こう--風地観--水風井、とでた。
なにかあるかと期待して--観察するのだろうが--別にいつもと同じだよ、となった。
その夜何事もなく、静かに寝入った。
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占い競馬はなぜ外れるか
2006/1/27(金) 午前 0:21
私の占い競馬はなぜ外れるか占ってみた。
競馬は外れるが占いは当たるとか、占いは外れるが競馬は当たるとかは、変に思うししっくりこない。
競馬も占いも外れるか、両方とも当たるかかしなければ納得したくない。
卦を得て最初に浮かんだ易神のセリフは『あたりまえだろ、アッカンベー』だった。
落ち着いて冷静にゆっくり深呼吸してから読みなおした。たくさんの希望を込めながら。
まず、天地否、が現れた。続いて、地火めいい、だ。
はい、たしかにお前さんはためだね、外ればかりだ、。ちっとも儲かってない。先が見えず暗闇の真っ暗け。
このまま続けても、火山旅、しかも暗闇の旅だよ。
はじめにこんなことを言われるともう足を洗おうというきになる。主なる卦ものたまう。
離為火をもって、明晰なる頭脳をもって、大儲けしようと思っても、風天大蓄、こん為水だよこん為水。
水また水の穴の中に落ち込み、ブクブクブクブクと沈んでいくだけだよ。
易神のいうことは真実だ。あたっている。それを出したのは私だ。わたしの易は当たる。それなのに競馬はあたらない。どうもしっくりこない、堂々巡りだ。
わたしはもう一度これから考え直す。当たる競馬占いのために。
突破口は最初の『天地否』にある。もしも最初に『水山けん』があったならどうしようもない。天地から決められた運命どおりに従わなければならない。天地否は本人に原因があるという卦だ。だからわたしはこれからもう一度読み直しにいきます。
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易神さんの回答
2006/1/23(月) 午前 2:46
問えば答えが乗って帰ってくるが、その場合に易神はどのようにして問いを理解していくのだろうか。
易者の言葉による質問か、易者の問いへの思いとか想念とかか、あるいは相談者が持ってきた問いへの形成場か、その思いとか思念とかか、はたまた発声や音声、媒介物であるトランプやコイン、さいころ等の動きか、。
そもそも易神が我々を理解するとはどういうことか。
もし易神さんにはっきり伝える手段が見つかればしめたものだと思って、次のことを占った。
『易神さん、あなたは我々の何を理解して回答してくれるのですか』『最も有効なこちらからの伝達手段はなんですか。』こういった思いを込めながら占った。
主なる回答は、沢水困--離為火--風火家人--山火ひ--となった。
これは易神の慈悲ともいえる回答にみえる。山の端に沈む夕日に明日への希望をたくしたようだ。
今回は解釈を控えよう。この美しい絵に見入っていればよい。
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流派
2006/1/20(金) 午前 4:40
個人的に縁起を担ぐことなどを考慮したり、既に多くの占い方法があり、毎週どこかで新しい占い法などが発表されたりしているのを見ると、勝手に個人で体系を作り出して規則と意匠を当てはめて、自分にも新方法の占いができそうな思いがしてくる。
易にも聖書と呼ばれる『周易』の用語を使いながら周易の判断を用いないものもある。、それらの歴史も既に数百年以上になる。その反面一字一句の厳密な解釈を求める派もある。
コインで卦を出す場合からして、裏を陰とする流派と裏を陽とする流派があって、それぞれあたることを主張している。
状況生活がどんどん変化していくから、卦にはつぎつぎと新しい意匠が追加されていく。
そこで思うことは、占いをする場合、はっきりとどういう種類の占いで誰々のつくった、誰々の系列を踏む、何々流の占いであることをまず易神に知らせた方がよいのか、知りたくなった。同じ名前の占いでも異なった解釈と相反する理解があることもある。
はたして易神は、そんなことはお見通しだよお前のやっている流派も知っているからそれにあう様に卦を出してあげるというのか、または、方法が増えすぎ解釈がまちまちで適わないはっきりと何流と言ってもらわないとお前にぴったりあった卦はでてこないよと言うのか、知りたくなった。まぁ、一般的にしか出せないね、後は自分でやりな、なのか、これから回答を求めようと思う。
問い。前提となる占い方法やその種類を易神にまず申告すべきですか。
主なる答は、、山地はく、、天風こう、、その他、天火同人、、地雷ふく、火地晋
易神いわく、なにをつまらないことで心配をしているのだ。お前らのやることなどお見通しである。種類だとか方法だとかをいちいち私に告げることはない。皆と同じようにやってよし。私からはお前らに天風こうを提供してあげるのだから、びっくり驚くような出会いを受け取りなさい。思いがけなくぴったり一致した解釈判断ができたなら、それを頼りとして前進しなさい。