天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊の言霊学上の意味
2009/11/5(木) 午前 4:35易占いで行こうその他占い
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊の言霊学上の意味を問う
乾一
艮一天山遯
坤‥山地剥、、天地否
坤‥坤為地、、山地剥、、天地否
坤‥坤為地、、坤為地、、山地剥、、天地否
乾一地天泰、、地天泰、、地天泰、、山天大畜、乾為天
風雷益の一、二、三、四、六、変で沢風大過へ
-----------------------------------
天・先天的に、潜在
譲・ゆずる・(ゆする→ゆずる)・、(ゆれる揺れる、ゆする揺する→がその結果を顕す濁点か着いてゆずるとなる。表記法は例によって暗示、象徴、呪示。紀記と同じ。)
ゆ・『風木津別(かぜもつわけ)の忍男(おしを)の神
言霊ユ 先天の活動が意図するものは何か、が一つのイメージにまとまって来たが、そのイメージは伊耶那岐・伊耶那美の霊と体、主体と客体との関係を保っており(風は霊、木は体)それが言霊(男)として押し(忍)(おし)出される姿(神)であるという事です。』
す・る・『頬那芸(つらなぎ)の神、頬那美(み)の神
言霊ス、ル 前の沫那岐・美、言霊ク・ムで先天活動の内容が言葉と結ばれたものが、この頬那芸・美の二神、言霊ス・ルで言葉として発声されます。発声には口腔の筋肉などが作用しますので、神名として頬(つら)(ほほ)の字が入っている訳です。頬那芸・頬那美と芸と美即ち気と身で霊と体、私と貴方を互いに受け持っています。
言霊スは主(す)・巣(す)・澄(すむ)・住(すむ)・据(すえる)・救(すくう)・州(す)・鬆(す)・吸(すう)・掬(すくう)等に使われ、言霊ルは流(る)・縷(る)・坩堝(るつぼ)等に用いられます。頬那芸、頬那美の働きが程よく調和しますと、言葉はスルスルと淀みなく相手に伝わります。言霊スは静止の姿、言霊ルは動く姿、双方がうまく調和する事によって話はスムーズに運びます。良い弁舌を「立て板に水」と表現しますが、それも留処(とめど)なく流れては相手の理解をそこないます。適当な「間」がなければなりません。流れの中に間があって初めて滑らかな弁舌と言えましょう。』
日・ひ・霊、言霊
天狭霧・先天的な主体、動く側、
霧・きり、き+り、き・目視化された気、り・ら行のりの動き・気のバイブレーション状の動き
国・く+に、組み似せる、組んで似せる、受動側、
禅・ゆすられる、
月・つき、付く、くっつく、両者が、日と月、統一体となる
国狭霧・後天的な客体、受ける側、霧
(目視化された気について。
私は二度ほどこの世に充満する気を目視した経験がある。一度目は墓地を散歩していたときに、非常に美しく整列した形で天から地へ霧雨のようなものが降り続き、360度の方向から足元へ流れていった。もちろん雨降り、暗く曇った日ではない。二度目には、メトロのホームで電車を待っていたとき、突然雨が降りだしてきた。霧雨のようにさーぁっと静かに音もなくメトロ内を覆っていた。私は雨に慌てて濡れてしまうどうしようとうろたえたりまでした。もちろんメトロ内に雨など振らない。30秒ぐらいの出来事だったろう。ついでに私は外気を出したり、念力で痛みや疲れを軽減するところまでは出来る。)
------------------------------------
風雷益は擬離為火です。
カタツムリ、亀、蟹、甲羅で卵、「ウ」、としました。
風雷益・五爻・孚もって君民応ず=主客応ず=言葉と実相実態の一致
沢風大過・転倒、あべこべ、文字言葉を使った主客の転倒した言語表現となっているが、その実は乾為天である。
日本書紀参照。
「古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、
渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟涬(ほのか)に牙(きざし)を含めり。」
----------------------------。
非常にめずらしい卦。
もしうまく立派に読めれば、当然出るべくして出た卦。
うまくいくか。
天地が乾乾で、
六爻全体で離の卵、
風雷益の似離、
五-四の山地剥で殻を破る、
その心は山雷頣の口から出て来る、
沢風大過の内部、受精卵の胎動、
そこから出てくるのは乾為天=0
天=0から始まって、地=0へ、又、その逆
0を産んで0に戻る
本卦に内包しているものは陰陽の地天泰(未だ分かれず)
残るは溟涬(ほのか)に牙(きざし)。
伊耶那岐が産まれない以前のきざしとは、
運命、天命、
あるいは隠れた天地否九四、有命、志行
とりあえず
< 感想です。
我ながら凄い卦が出たものだと思う。
易を始めてもうすぐ四年生になるが、
周易を始めるかどうかのきっかけを作った始めの卦が、
「未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ」だった。
この衝撃以来、易への信頼というより恐れが増してきた。
今回の卦では、神さんとの対話が易でできているようにさえ思える。
ところが三年しかない易の経験では知識がなく、解釈が思うようにできないのが歯痒い。
歯がゆさからの脱出法という卦まで取っている。
続けて、今後の易の勉強法というのまで問うている。
両者の答えは感じ取れ、知識経験による解釈易は放棄せよであった。
これは一般解ではないので皆さんには当てはまりません。
今のところ私だけのものです。
飛躍できるかどうかこの卦を問うのはとても怖い。>
--------------------------------------------
日本書紀 巻第一
神代上(かみよのかみのまき)
古(いにしへ)に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、溟(ほのか)にして牙(きざし)を含(ふふ)めり。
其れ清陽(すみあきらか)なるものは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と為り、重濁(おもくにご)れるものは、淹帯(つつ)ゐて地(つち)と為るに及びて、精妙(くはしくたへ)なるが合へるは摶(むらが)り易く、重濁れるが凝(こ)りたるは竭(かたま)り難し。故(かれ)、天先(ま)づ成りて地後(のち)に定(さだま)る。
然して後に、神聖(かみ)、其の中に生(あ)れます。故曰はく、開闢(あめつちひら)くる初(はじめ)に、洲壌(くにつち)の浮(うか)れ漂へること、譬(たと)へば、游魚(あそぶいを)の水上(みづのうへ)に浮けるが猶し。
時に、天地の中に一物(ひとつのもの)生(な)れり。状(かたち)葦牙(あしかび)の如し。便(すなは)ち神と化為(な)る。国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まう)す。至りて貴(たふと)きをば尊(そん)と曰(い)ふ。自余(これよりあまり)とば命(めい)と曰ふ。並(ならび)に美挙等(みこと)と訓(い)ふ。
下皆此(しもみなこれ)に効(なら)へ。次に国狭槌尊(くにさつちのみこと)。次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)。凡(すべ)て三(みはしら)の神ます。乾道独化(あめのみちひとりな)す。所以(このゆゑ)に、此の純男(をとこのかぎり)を成せり。
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ひふみ神示 補巻 月光の巻
第四帖
あめのみなかぬしのかみのそのまへに、
あめゆづる日あめのさぎりのみことくにゆづる月、地のさぎりのみことあるぞ。
○チョン の ○チョン の ○チョン であるぞ。その前にチョン あることわするるなよ。
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責任、、、取る取らない
2009/11/5(木) 午前 2:19易占いで行こうその他文学
ブログ<言霊 言霊学・コトタマノマナビ>からの引用
2009年11月04日
『 他人を自分の体とするということは、まず、関係を絶たなければ出来ません、どういうことか、「あなたのいうことは分かった、聞いた私はその責任がある、その責任を果たすのはあなたの為じゃありません、私のためです」という立場が伊耶那岐の大神。』(以上引用)
易は易で相談と言われるように、助言だとか、忠告だとか、解決するとか、指導するとか、運命改善だとかに関わり、その片足を突っ込んでいる。
心から相手の身になり、有益な言葉と指導とで相談者に喜んでもらっているということも聞く。
他の人に聞かせる言葉に責任を持っているのか。卦を読んで相談者に与えた言葉は真実か、相談者はその言葉の上に乗っかかってきたら、しかも相談者の人生と生活その社会を全部かぶせてきたら、易者一体どんな態度をとればいいのか。
馬券購入よろしく、自己責任でお願いします、と言うのか。
何故、自分の卦は正しくその読みも正しく、従って忠告も正しいと易者は主張していくくせに、最後には卦読みからはそうなるので、最後は自己責任ですよとなってしまうのか。。
他の人の読み方、他の人の卦を排除してまで自信を持って言葉を提供しながら、相談者が全体重をそこにかけようとすると何故逃げるのか。
確かに普通に考えれば、当然相談者の自己責任ですと言っておけば全ては済んでしまう。
事が解決して喜びの報告がある。
しかし、上記の引用は私にそんなことを納得させない。
引用は以下の文が続く。
『 聞いた時点で貴方と私の関係を断つということは、これから先は、あなたはあなたで行きなさい、私はそれに責任を持ちませんよ、だけど聞いた時点で私は責任を持ちますということです。』(以上引用)
引用文でははっきりと『私はそれに責任をもちません』と言っている。
卦の解釈も、忠告も、私は責任は取らないといっている。
しかし続けて『だけど聞いた時点で私は責任をもちます』と禅問答のようなことが言われている。
このことに関して卦を取ることにします。
-----------------------------
艮一
乾一山天大畜
巽‥天風姤、、山風蠱
坤‥風地観、、天地否、、山地剥
坎一地水師、、風水渙、、天水訟、、山水蒙
巽‥水風井、、地風升、、巽為風、、天風姤、、山風蠱
風水渙の三、五爻変で山風蠱へ。
とりあえず以上です。
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何も出てこない。
2009/10/30(金) 午後 10:32易占いで行こうその他占い
これも駄目もとで、出した卦。
占的は「大事忍男の神言霊タとひふみ九九算図との関係を問う」
大事忍男の神言霊タも分からないし、ひふみ九九算図も判っていない、そんなものの関係を問うという無謀なもの。
坤‥
坎一地水師
乾一水天需、、地天泰
坤‥天地否、、水地比、、坤為地
艮一地山謙、、天山遯、、水山蹇、、地山謙
坎一山水蒙、、地水師、、天水訟、、坎為水、、地水師
兌為沢3-4-6変で風天小畜へ
最初の予想通り訳の分からない得卦。
兌為沢・沢がお互いに潤しあって喜ぶ。どうして喜びなのだろう。
大事忍男の神言霊タ・ターッと何かが始まるその全体。
タは現象の始まり、もちろん一人では始まらない。
便所に入って丸い青いタイルを敷き詰めた床を見ていた。私が床を見る、床は私に見られる、青く丸いと知る、青く丸いと認識される。通常のものを見る視覚のはたらき。
だが誰が私に床を見させた、誰が床に私相手に見させるように仕向けたか。
その誰かという疑問についで、私に床を見ることの、丸く青いタイルを見ることに、私が強制されることに、タイルが私に向かってくることに、なんらかしらの力動を感じた。
ついで、もしかしたらタイルは私に見られることが嬉しいのではないのか、私の五感の対象、便所内にあるもろもろのものたちは、何かに押されて、私に見られたくなっている。
これは理解とか知解経験による分析とかを超えたものなので、、書き表しようがないが、私に何らかのものが潜在意識に蓄積されたように思える。
ここは簡単に分けの分からない得卦として終わった方がよさそうですが、
兌の喜びの他のことを見てみると、、、、、。
やはり何も出てこない。
終わり。
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アイウエオ百音図とひふみ九九算図の関係。
2009/10/29(木) 午後 9:15易占いで行こうその他占い
元々判っていない事柄なのだから、何がでても、いいというつもりでやってみる。
それは、言霊百神とひふみ九九算の魔方陣との関係だ。
言い換えると、アイウエオ百音図とひふみ九九算図の関係。
天津金木音図
アカサタナハマヤラワ・
イキシチニヒミイリイ・
ウクスツヌフムユルウ・
エケセテネヘメエレエ・
オコソトノホモヨロヲ・
オコソトノホモヨロヲ・
エケセテネヘメエレエ・
ウクスツヌフムユルウ・
イキシチニヒミイリイ・
アカサタナハマヤラワ・
ひふみ九九算図
0000000000・
0123456780・
0246813570・
0360360360・
0483726150・
0516273840・
0630630630・
0753186420・
0876543210・
0000000000・
天津太祝詞音図
あたかまはらなやさわ・
いちきみひりにいしい・
えてけめへれねえせえ・
おとこもほろのよそを・
うつくむふるぬゆすう・
うつくむふるぬゆすう・
おとこもほろのよせを・
えてけめへれねえせえ・
いちきみひりにいしい・
あたかまはらなやさわ・
天津太祝詞音図下半回転
あたかまはらなやさわ
いちきみひりにいしい
えてけめへれねえせえ
おとこもほろのよそを
うつくむふるぬゆすう
うすゆぬるふねくつう
をそのよろほもことお
えせえねれへめけてえ
いしいにりひみきちい
わさやならはまかたあ
数字をあたかまはらなやさに該当させる
0000000000
0たかまはらなやさ0
0かはなさたまらや0
0まな0まな0まな0
0はさまやかなたら0
0らたなかやまさは0
0なま0なま0なま0
0やらまたさなはか0
0さやならはまかた0
0000000000
とこれだけ用意しておいて、。
卦を取る。
坤‥
離‥地火明夷
坎一火水未済、地水師
離‥水火既済、離為火、、地火明夷
艮一火山旅、、水山蹇、、火山旅、、地山謙
艮一艮為山、、火山旅、、水山蹇、、火山旅、、地山謙
雷沢帰妹の上変で火沢睽へ
思惑違い、手違い、背き合う、性質が反目している
全然準備した甲斐なし。
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崇神天皇の 同床共殿制度の廃止は何故起きた
2009/10/29(木) 午前 2:53易占いで行こうその他占い
問筮4。
崇神天皇の 同床共殿制度の廃止は何故起きた
艮一
離‥
巽‥
巽‥
乾一
離‥
山水冡の二爻変で山地剥へ
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『先天構造から出発して』を問う。
2009/10/29(木) 午前 2:52易占いで行こうその他占い
問筮3。
『 言霊十七個で把握された心の先天構造から出発して、人間誰しもが持っている四つの次元の心の性能、即ち欲望、経験知、感情、選択知の典型的な構造を求めていきますと、最終の結論としてどの次元についても言霊五十個によって形造られた五十音図表が得られることとなります。』 の『先天構造から出発して』を問う。
乾一
巽‥
乾一
坤‥
坎一
乾一
火沢睽の1-3-4-6変で地風升へ
ーーーーーーーーーーー
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言霊アの段階の始まり、「チ」を問う。』
2009/10/29(木) 午前 2:49易占いで行こうその他占い
問1。『 未知の国、言霊アの段階の始まり、「チ」を問う。』
乾一
離‥天下同人、
兌‥火沢睽、、天沢履
乾一沢天夬、、火天大有、乾為天
離‥天下同人、沢火革、、離為火、、天下同人
坤‥火地晋、、天地否、、沢地萃、、火地晋、、天地否
艮為山1-3-6変で地雷復へ
----------------------------------------------------------------
引用
本源の宇宙の自覚の次元が言霊アです
自分の全身全霊を投入してことを起こす--これが父韻チです
イ-チキリヒシニイミ-×
チ/宇宙そのものが現象となる韻である。
チが配列の第一となる。
行動の最初は、感情の宇宙がそのまま発露される。
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言霊アの段階の始まりの「チ」との関係を問う。』
2009/10/29(木) 午前 2:50易占いで行こうその他占い
問2。
『人間の心の先天構造を已に明らかになっているものとして受け取り、と、
言霊アの段階の始まりの「チ」との関係を問う。』
乾一
震一
離‥
離‥
離‥
離‥
風地観6変で水地比へ
ーーーーーーーーーー
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風地観のリズム。
2009/5/29(金) 午前 1:24易占いで行こうその他占い
もう止めにしようと思っているのに続けてしまう。
そんなことが幾つかあることの中で、あそこの掲示版には行かないと決めたのに、のこのこ見に行っている。
そんな自分のことを見てみた。
じぶんのことなので解釈は全部自分の都合のよい方向になって行くかもしれない。そうであるにしても、そう読める卦が出ているからで、卦を出すことが出来る証明にはなるのではないかな。
「自分は何故ある掲示版を見にいくか」
坎―
艮―水山蹇
離‥山火賁、水火既済
巽‥火風鼎、山風蠱、水風井
巽‥巽為風、火風鼎、山風蠱、水風井
離‥風火家人、風火家人、離為火、山火賁、水火既済
風地観の不変がでました。
簡単に言えば見たいから見に行っていると解して終わってもいいですが、もっとこじつけてみましょう。
風火家人--同類を認めている、近親感を持っている、家庭の事情、平和、
離為火----付いたり離れたり、継続する、感情的、
山火賁----形だけ、学問的
水火既済-こちらの思い通りになっているのか、既得感、既得材料、自分の懐にたぐり寄せたもの、結局それで持ってみるだけ、
巽為風--従う、一緒にやりたい、利を得る、
火風鼎--同じ釜で、見に行く内容、求めているもの、新しきをとる、
山風蠱--だめになる、破れる、だまされる、最後に復興する、
水風井--いつも通り、最小限、末を果たさない、、
水山蹇--行き詰まる、自分の経験知識の限界がその時のその人の全て、悩みの中に止まる、
感情心理状態として見ていきます。
感情のリズム
1-わたしには珍しく親近感を感じる掲示版を見つけたという思いがありました。そこでその掲示版に長たらしい文章を送りつけていました。いいことを書いたのか悪いことを書いたのか気分を害したのか分かりませんでした。風火家人。
2-書いたものを思い出し反省しながら、通じているか通じてないか、文句が来るか反論されるか大いに戸惑うところで、気になってしまいました。離為火。
3-どうかな、どうだろうと、自分にも相手にも、また誰か分からないが読んでいる他人にも自分の困惑感を押し広げ、見ず知らずの相手に形だけの心配事を転化していこうとしていました。山火賁。
4-その行為の現れが相手の掲示版を見れば自分に納得するだろうという期待、自分を従える、あるいは自分に従うだろうと行為への期待です。巽為風。
5-相手のページを開いて自分に安心感を得たいという魂胆があったようです。火風鼎。
6-自分の行為を起こすには自分に納得させるものがなんとか必要です。今回のわたしの場合はだめでもともと、文句を言われればそれでよし、理解されなくてもそれでよし、最初から方向は違うことが感じられていたからです。それでも、もしかしたらうまくいくかも、なんていうなよなよしい思いもあった。山風蠱。
7-結局自分なりの思いを持ってしまったからには、相手を訪ねないわけには行かない。少しでも相手との同一性を見いだしたくなる。そんな傘の下に自分を飛び込ませる。火風鼎。
8-かくて、自分の心はクリックによって少なくとも相手の掲示版に結びつき当面の思いはクリアされていきました。親近感はあってももともと蜜なコンタクトを願っていたわけではないので、クリックすることだけで、既にわたしの形式上の思いは解消されていきました。水山蹇。山火賁-水火既済。
こういったリズムの流れを持った風地観でした。
本卦の風地観は全く読まず、爻卦全体をもって本卦としてみました。
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聖書の神と古事記
2009/5/24(日) 午後 6:02易占いで行こうその他占い
古事記の神は旧約聖書の神のように天地を創造されたか
得卦。天雷无妄初爻変で天地否へ。
震―
坎―雷水解
艮―水山蹇、雷山小過
離‥山火賁、水火既済、雷火豊
離‥離為火、山火賁、水火既済、雷火豊
乾―火天大有、火天大有、山天大蓄、水天需、雷天大壮
天地神明にかけて否。
爻卦の積み重ねを今までの古事記理解の歴史とします。
既に謎は解明され、古事記は神による創造神話ではないことが明らかとなりました。
『言霊の会』からの引用。
そして古事記神話の「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は……」の「天地の初発」とは、宇宙物理学や天文学で謂う所の何十、何百億年以前の宇宙、天体の始まりの事ではなく、今・此処に於ける生きた人間の心の活動が始まろうとする瞬間の消息を謎の形で述べているものなのだ、という事がはっきり分かって来たと言います。
この時以来、言霊学の研究が、天文学で謂われるところのコペルニクス的転換(太陽が地球の周りを廻るのではなく、地球が太陽の周りを廻ると知ること)を遂げることとなります。人間の心の現象を対象の客観として調べることから、現象を見る主体自体の学問とする研究が解明されて行く事となります。生きている自らの心を知る事は、とりも直さず人類そのものを知ることです。「私とは人類であり、人類とは私である」の自覚の下に、古事記の神話が示す全内容が言霊学という人間の心と言葉に関する究極の学問として解明、自覚されて行きました。
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審神。
2009/5/23(土) 午後 9:54易占いで行こうその他占い
投稿のつづきです。
『 さにわについて何も知らないのでちょっと調べました。。
写しです。
出所。古事記「神功皇后」の章。
「建内の宿弥の大臣沙庭(さにわ)に居て」とあり、探神とも書く。
言葉の元は「朝庭(あさにわ)で天皇が政治を行う場所のこと。
「あさにわ」の語源はヤタの鏡の音図ア段、
ア-タカマハラナヤサ-ワのアからサにある。
「昔の政治は言霊フトマニの原理に則って行われた。
政治と同様、神懸かりもその「神の教え」なるものが正しいものか否か、判断の場を「あさにわ」略して「さにわ」といった。
神の教えを要請して琴を弾く人、現れた神懸かりによる神の教えの当否を言霊原理によって沙庭する人、それに神懸かりをする人(霊媒)の三役がそろって正式な「神帰せ(かみよせ)」が成立する。
神懸かりに神示と霊示がある。神示は神の言葉であり、霊示は人の言葉である。
------------------------------------------------。
まず判定原理として言霊フトマニが必要。
神示でなく、霊示を語り何とか霊だとか高級霊だとかいっている霊媒たちのさにわは当面全部ちょんぎっておいてよろしい。
正式には三役が必要。
神の教えを要請して琴を弾く人、
現れた神懸かりによる神の教えの当否を言霊原理によって沙庭する人、
それに神懸かりをする人(霊媒)
易占いをする場合にはどうなるのでしょう。
どうやら、
わたしのような一人三役はだめみたいですね。
決心しました。
もうこれでこの問題は止めにします。
ご迷惑をおかけしてすみませんでした。
おもしろい卦が載ったらまた口を出すことにします。
------------------------------------------。
追加。
もうこれで終わりを決心したら、前に紹介した卦(gentetzuさんへの説明法)、天地否の天沢履へがひょこっと思い出された。
地人天を坤-井-頤、天地の山地剥
天沢履は易経か言霊原理か。
アヤシイ。
水風井はこの後自分だけのものとして追求します。』
以上を投稿して、
こうして、短い付き合いは終了しました。
追加のところで卦を出してありますが、「ひこっと思い出された」というのを卦中に探しました。
おそらく5-4雷水解、6-4山水蒙ではないかと思います。6-3山風蠱の行き詰まりが、未熟拙いながら解決したように表面に現れるだろう、6-5で口が弛んで開きます、こんな感じです。
ついでに、こういった心の動きは古事記ではおもだるの神の仕業です。ひょっと思い出したときの顔(おも)の変化(気づいたときの顔のたるみ、次第に顔が輝く様子)を捉えた命名です。
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六爻位の始まり
2009/5/23(土) 午後 5:23易占いで行こうその他占い
掲示板投稿へのつづきです。
易は六爻位で表現します。
序卦伝では簡素な表現ですが、前卦からの渡し、次卦への渡しを表現している。それを考慮すればそれぞれ下ゼロ爻位と上ゼロ爻位を作って一つの易卦を八爻位にできます。もちろん各爻位の中間には無数の段階が省略されています。
易経の水風井は井戸水の品質やら井戸の状態やら使用法やらが雑多になった説明になっていますが、各爻位の意匠からきているので、一般的にはそうなるというだけです。占的によっては、水質を問う易占ならば、全六爻位(+上ゼロ下ゼロで八爻位+中間)が水質にかんするものです。
五位があるのに上ゼロの設定はおかしいかもしれませんが、例えば五爻は品質としては最高ですが、それが他へ出て行く場合例えばビールは何故濃い色の瓶に入っているかなどを見ると、透明な瓶入りでは品質が変革されてしまからです。しかし卦として水風井に止まっているのなら、上ゼロを考慮してもおかしくはありません。
ここでは二重の審神の問題ですので、それに沿っていきたいですが、なにやらわたしが一言話すたびに前提を掲げているように感じられているのではないでしょうか。なにしろ初学者ですのでご容赦を。
二重の審神をそれぞれ六爻位で、又は爻辞の在る無しであるいは両者の共通点を又は相違点を、はたまた易神さんの意図する真実はこうだと、彼のメッセージは在るとしあるいはそんなものは無いとする立場など、どこに身を置くのか難しいし、とても不安定です。
一応易をやっているので易神さんのメッセージはあるとする立場ですが、ではどこにあるのかと言われれば山の彼方の空遠くなのか隣の部屋なのかはっきりは言えない。
ただわたしを含めて誰に対しても言えることは、水風井の卦を得たならば各人の心の中に何かが動きはじめるということです。
それはどこかと言われれば心の中であり頭の中で、山の彼方にも隣室にも関係しない、今ここに在る心と頭、意識のことだといえるわけです。
そこには易神さんからのメッセージの有る無しも、先入観の有る無しもまだ現れて来ない、それでいて心が動かされる何者かがあるということです。
それを水風井に当てはめれば、何かが出てくるでしょう。ついでに易神さんのメッセージと先入観の審神もでてくればめでたいことです。
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水風井に行き着けるかどうかやってみますが、どうなるのか分かりません。ヒントなどいただければ幸いです。
以上が新たに投稿したものです。
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易の審神
2009/5/23(土) 午前 3:39易占いで行こうその他占い
Gentetzuさんのyahoo掲示板『周易つれづれ』に書いたものがあります。
得卦を先入観で解釈するのはいかがなものかという指摘があり、それに対して、卦をもって答えたいというものですが、雑談をしているうちに長文となってしまい、前半だけということで投稿しました。後半は実はまだ何にも出来ていないので、今ブログにしているのはつなぎの部分になりそうです。これを書きながらよいイデーが出てくれば後半として載せさせて貰うつもりです。
しかしどうなるのか分かりません。とくに私の現状はコトタマ学を勉強しはじめてから何かの変化があるらしいという予感につきまとわれています。易の勉強に変化がでてきそうな感じがしています。
さて、 まずは、投稿したものは以下のとおりです。。
『 「易の審神と先入観の審神、その心を問う。」
水風井の初爻五爻変で地天泰へ(主爻天地否、天水訟)
巽
乾
巽
震
坎
坤
ご返事ありがとうございます。危惧の内容は充分理解できます。
例によって考える以前に卦を直ちに出してみました。
まず雑談から。
生卦の数は中州のを見ると(近代デジタルライブラリーで)縦横無数の卦となっています。
実相事実に近づきたい執念の現れかと思います。
わたしも別の方法で様々なものを作りました。
本人には既成の易の範囲内の積もりだったのですが、表に現して書くと誰にも通じません。
だが、一時やった人生相談では通じていたので満足しています。(といっても相談者は勝手に解釈して当たったというだけですが、一応その元は提供したつもり)
わたしは前に「易自身の見る自分の弱点を問う」というのを出したことがあります。
坤為地の雷沢帰妹へでした。
現状での解釈は易は根本的に坤の全陰だということです。
これはわたしが易を始めるに当たって、易占いを勉強したら儲かるぞ、ホントかいな、じゃ、未来は決まっているか、、、ではどう出るかと、卦を取ったら水火既済の地天泰へだったので、驚き畏れて勉強しだしたことに、全面的にストップをかけるものでした。
易の勉強を始めてから三年が過ぎ、二つの卦をいただき、もしこれ以上つづけるなら、事実実相を語る易をするしかないという思いです。
ところが、坤為地は易に事実実相を語ることは根本的に不可能であることを示しています。
水火既済を得た衝撃があまりにも大きかったので、それを何とかしたく今は言霊学を勉強しはじめました。
言霊学にもいろいろありまして、わたしが最初に取りついたのは、易はフトマニ言霊のコピーで伏義が日本に留学して覚えたというものでした。(言霊学の本題とは違うが、もし関心がおありでしたらHP『言霊百神』へ)
雑談はこれで。
水風井を巡って。
中、本筮で爻辞を読むとか読まないとかあり、読む派で行けば、初と五の対比でそれ見たことかとなりそうです。主爻天地否も之卦が地天泰もその天水訟も対比が行われるでしょう。
読まない派になれば、二つの審神とも失うなく得るなし、釣瓶が壊れて結局両方ともダメということになる。
読む派読まない派に関係なく、易だけが語るメッセージを得るようにしてみましょう。
自分を超えた易のメッセージとは当初わたしもあこがれ畏れたものでした。それがこうじてなんでもかんでも、そしてその癖が抜けず今得た卦を出すようにもなりました。
ここではメッセージを問うこと出すことは構わないから、本物のメッセージを抽出することです。
もう長いので次回にします。』(投稿は以上)
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易を始めたころならば、易卦はズバリと物事を語る、と驚いていたのでその方向で指摘された「先入観による審神」について書いたことでしょう。そのとき必ず批判とか反論を加えていたはずです。
卦のズバリ感を得ている人なら、あなたのは先入観によるものと言われて少々は頭にくるところでしょう。わたしも早い時期からニチャンに加わっていたものでした。
しかし、今は違います。頭を冷静にしたのでもなく、他を圧倒する知識を得た訳でもなく、年をとったからでも無い。単にコトタマ学の知識が少々身についたからだと思っています。
さて、上伝、下伝に「易は天地をなぞる」「易は象なり」とあります。
実際に易経は一言も事実を語ったことはありません。歴史に基づく辞と見られるものにも、歴史を概念に変えて整備されたものです。
つまり、易経を基礎にする限り、得卦の概念から事実へ向かう道を取ります。
占例集などを見れば、断ぜられた事実の指摘に納得し、射覆などでの大当たりに驚嘆してしまいますが、全ての占例集には卦読みの始まり、頭脳内の働きが省略されています。解読の始めの一言、その心の動きです。探すとすればどこかにさりげなく書かれているだろう、直感的観察とか神示とかセンス、ある人は霊能といい、ある人は経験という言葉たちです。
わたしたちは文字や棒線でしかない得卦を象に変えてそれを現実化しようと努力していきます。
目の前に牛馬がいるのにそれを、六爻位の卦という棒線で示そうとします。あるいは先の見えない未来も六爻位の卦にしてしまいます。
それでも各人それぞれにズバリ感を持っていて、その経験を大事に抱えているので、単なる棒線でもそれは牛馬を示していると言うことができます。
易をやる人たちは象の世界に入ったきり出てこられなくなっています。酒に酔うように、主義主張に浸りきりになるように、象で世界を解せる、世界は象で成り立っていると勘違いをするようになっています。
意匠の勉強はわざわざそれらの概念経験を蓄積していくことです。
易をやっているくせに物凄い悪口になってきた。こんなことは自分でも始めてだ。
少し頭を冷やすためにこれで一先ず終了。
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始元( 太極 )のとらえ方。
2009/5/19(火) 午後 7:44易占いで行こうその他占い
易は太極から始まって、何の説明も無く両儀、陰陽へ行ってしまう。そこから始元を捉えようとすると逆算が始まって陰陽の統一体のようなものをイメージし無極だとか気だとか言うことになる。
宇宙の始まりも同じ考え方で、観察によって宇宙は広がっているからそれを逆算してビッグバンという花火玉を設定したに過ぎない。
物質の世界ではとにかく砕け砕けで、一番小さいものが見つかる度に最小単位だと騒がれてきた。
物質の始原の単位が次々に発見され、次々に始元の単位ではなくなっていった。
そんなところからすれば宗教で言う神の一撃に勝るものは無い。一撃以前のことには何も言わない。
結局この世の変化動きの以前にあるものその元となるものを探すのに、断絶した何かを置くことか、ゼロを設定することかで意見が分かれる。
絶対者ということでゼロを設定し、水だとか、気だとか、太極、一撃、神、○チョンだとして、それぞれの意識の持ちようで始元が選ばれている。時間空間の始め、持続運動の始めとか思考するものの色づけ方で全てが変わる。
易では太極だよと言うだけで後は何も言わないが、そんな易にも始元とは何かと語ることができのだろうか。
このブログでも前に卦を出したことがある。例えば、
『天の御中主の神(言霊う)について問う。
坎乾離離兌巽で風地観の五爻変。
我が生を見る。。。これが易神の生みの親である天の御中主の神への易神さんの精一杯の感謝の回答である。
あなた自身、私自身、占的自体のことである。』
『何故もの事は始まるのか。
こんな事はどんなに考えても書き記してもキリがないことです。
そこで易を使っていい加減にケジメをつけてみたいと言うのが今回の主旨です。
そうでもしないとそれこそ混沌が混沌を産んで行くようになります。
坎兌坎乾坎坤で沢火革の風火家人へ
水と火
男と女
変革抗争と協調治世
どうしようもなくこれらの全体が誰の心の中にもあるため、ということにしておきます。
本卦と之卦を別々にしないでまとめて一つにくるめています。
いわば太極陰陽の心を持っているからとしておきます。
以上とりあえず。』
となっている。
今回もまた挑戦してみよう。ただし今回の心の中で狙う問題は、易の思想、構成を超えている『 言霊学での始元のとらえ方 』としてみたい。
だから表題とは若干違うけどこのままにしておく。
その前にふとした思いが湧き出てきた。。。。。。。このように。。。。。
。。。言霊学は易を超えた思想と書いたので、もしそうなら上位の事を下位の者が問うて答えることができるのかと、という疑問が出てきた。弟子が師匠を、低山は高山の山頂を、赤ん坊が両親を占ってそれを述べられるかというようなものだ。
本題に入る前に、確かめる意味で、まず問うた。易神さんの告白が聞きたかった。
『易神さんに問う。言霊学での始元のとらえ方を問うことはできますか。』
火山旅の上爻(略筮による)を得た。
旅人の不安は易神さん自身のことである。「鳥その巣を焼かる。旅人先には笑い、後には泣き叫ぶ」
答えは明白で、易が言霊学(古事記)の問題に口を突っ込むと「いっそうの惨めさが加わってくる」(大岳大講座、88ページ )となるであろう。
従って易自身に始元を語ったものがないのに、それを言霊学上で語れということはできない。
わたしはこれを易神さんの吐露として受け入れることにした。
しかし、易自身の上爻までは行けるとし、言霊学に従順な(牛を囲に失う )範囲で問うことにした。
「言霊学での始元のとらえ方を問う」
天火同人の初、四爻変で風山漸へ。
坎―
震―
乾―
震―
兌‥
乾―
同人初爻--人と同じうするに門においてす。応爻( 言霊学 )が出てくるまでは自由闊達。
同人四爻--その垣に乗るも攻むるあたわず。言霊学には手が出ない。
幾つかの段階にして見てみると、一、一般的な易のメッセージ、二、易と言霊学、三、言霊学での同人として分けられる。
一、では辞を読むだけでいいでしょう。
二、では易も言霊学と同様のところを強調している。もちろん主爻に雷沢帰妹をもって、思い過ごしを戒めている。
同人の乾を言霊学、離を易としてそれぞれの一爻変で、基礎基本的な部分は同じであり、それ故根本的に違うことを示している。
易は伏義が日本で学んだものと武内文書にあるので同人の卦が出るのは当然とも言える。
三、では二を基調にして易で語れることが可能な範囲で始元を語っている。
(言霊学で始元を解読することは易では出来ないのが分かったので、易でいう始元を知っても仕方ないのじゃないか、こんな思いになった。)
これでお終い。
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易とその考えの発表の場とは何か。
2009/5/17(日) 午後 6:47易占いで行こうその他占い
『「考えの発表の場」について易占上の立場はどこにあるかを問う。』
これがお題です。何でもかんでも易に問うことをやってきましたので、わたしには普通のことです。(コインによる中筮)
得卦。風山漸二爻三爻変で風水渙へ。
震―
坎―雷水解
巽‥水風井、、雷風恒
乾―風天小蓄、水天需、、雷天大壮
坤‥天地否、、風地観、、水地比、、雷地予
巽‥地風升、、天風こう、巽為風、、水風井、雷風恒
(十五卦の組み合わせを作り、いわゆる天人地天地卦も含まれています)
この卦をとるときに感じたこと。「考えの発表」には、性格人格、正否良否の如何に関わり無く落とし穴があるという感覚を覚えた。
一爻卦群--巽から始まり不決断未定の考えの出入りを処理しようとします。
地風升--考えの対象となっている事柄に意識なり考え疑問が貼りついてそれを表現したいと思い心の中から外へ表出したい思いにかられます。
天風こう--ところがわれわれ凡人は自由な全体を見通す宇宙意識のようなものは持ち合わせていません。そこで始めることは今までの知識体験内容を探して見つけ出し、
巽為風--それに従うこと、自分で作ったものに得たものに自分を支配させることです。
水風井--現代感覚ではそういったことが生存競争上奨励され必要なこととなっていて
雷風恒--生きる上での法則にさえなっています。
結局意見発表への招待は善意好意の有り難さとは別の法則に支配されています。
二爻卦群--坤です。地において収穫を生むものです。
つまり一爻群卦で示された自己の体験経験を主張した意見発見群、自他主体側相手側共、に自分を結びつけ自分を産み出す行為となります。
天地否--もともと自分主体で出発し相手を無視した意識ですから、(天風こうからくる)
風地観-水地比--自他との観察比較で、違いを見つけること、相手を否定できるきるところを見つけるのが
雷地予--喜びとなっています。
三爻卦群--乾で固めようとします。
風天小蓄--二爻卦群で産み出された自分の意見を(巽の風)を天の上に持ってきて、ある人はいばりラッパを鳴らし、ある人は天井の雲を描き、
水天需--自分こそが待ちに待った雨水を降らす者であると、
雷天大壮--大いに鼻にかけ、結論をそこに集約しようとします。
四五爻卦群--水風井--心の底に自分なりの設定が出来上がったので、今度はそれを自分の糧にし飲料とします。他人をもこの水を飲めと言い張る。
雷風恒--自分への名分が決まったので、そのまま何が何でも主張を通していきます。
雷水解--そしてとうとう問題は解決されたとして、自分の意見の拡大を望んでいきます。
そして、本卦--風山漸。之卦--風水渙へ。
考えを発表すること。つづき。
2009/5/17(日) 午後 8:59易占いで行こうその他占い
つづき。
本卦風山漸の風水渙へ。
一旦途切れたためわたしの糸も切れスタイルが変わるかもしれません。。
ところで考え意見を発表した人は実はその何が解決されたのでしょうか。
地風升からの始まりを、易の卦を発表して解読しようとする、地に隠れた巽の動きと置き換えてみれます。
巽は地上にでて成長し山上の大木になろうとしています。心の中ではそうありたいそうしたいと思っています。
しかし、われわれ凡人の出発点は自分の経験の大小、知識の有無、発見の在る無しで、それらがなけなしの財産として所有する主張の根拠です。
経験の先は見えていず、知識も発見も所有するだけで精一杯で、その向こうは一切見えていない。
よく聞く科学者の発見談はいつも同じで、発見はするけれど先は見えていないという。壁から先は不明な状態なのにそのことは言わず発見したこと知識が有ることだけを言いふらしていく。
こんな状態の風山漸でも、順を追ってうまくいけばいいでしょう。うまく終点に到達すればいいけれど、初発に見えていなかった終点に到達するのでそこでまた新しい事態となってびっくりすることになる。
それでも、多少の成果は得るのでしょうか。間違った古い不要な不毛な意見をやっつけた(風水渙-風地観)、新しい正しい有用な意見を言ったと満足するのでしょうか。
まだ別の、風山漸があります。
山上の大木は根を張り山をも崩すようになり、崩れた山と共に自らも粉々に砕け散る、こんな姿です。
易占いなどやって山上の大木になどなるな。やるだけやって自己否定せよ。
「聖人は卜占を煩わせず」「善く易をおさめるものは占わず」の次元域へ向かえ。こんな教訓かもしれません。
この最後の段落を書く根拠というか、わたしなりの卦の運用を明かしておきます。
得卦天人地の互卦を作ります。
雷水解--風天小蓄-地風升から互卦。ここから主爻を抜いて新しい本卦を作り、山水蒙、主爻水雷屯を得て、風山漸の行為をする者の本質は愚か者であるを導きました。
同様に、「ケムと蜜蜂」では、巽為風--風山漸--地雷復の互卦から新本卦地山謙、主爻沢水困を導き、地山謙の世間に信用在るは困難としました。
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一里塚の淡い希望
2009/5/17(日) 午前 1:25易占いで行こうその他占い
易で占われる内容、その実相、真実は一つと言われる。易で事実を見たいし知りたい。
それで易の卦を出すと、多数複数の卦が得られるとともに、各人各様の解が得られる。
以前には出す度に違う卦になり面食らうこともこともあったし、その後しっくりくる卦が出るようになって、一回の立筮で済ますことが多くなった。
ところが今度は同じ卦を複数の視点からする解読に煩わされるようになった。
そうこうするうちに真実は一つだが、複数の見方があるということで、相反する意匠を持つ卦が出ても「そうですか」と頷けるようにはなった。自分の出した卦については、それでもよいが、他の人が出し提供したものについてはそうはいかない。
誰かが提供した卦に対して、複数の見解が寄せられ、それぞれ正しいと主張する。
わいわいやり、喧嘩も始まるが、どの人の読みもそれなりにその卦の読みとしては正しいのでどうしようもない。
後に真実が明かされれば、「あっ、そう」ということになるが、知らされない時には喧嘩も収まらない。
その逆に、もの当てなどでは開封された答えから逆算して、自分の与えた答えは間違っていたなどという。
答えを提供したときにはそれなりの正当さを主張し、自信さえ持っていたはずなのに。
どうしてこんな食い違いが起こるかは、易だから起きることなのです。
以前に 2008、03、09『易自身の見る自分の欠点』 として出した坤為地の雷沢帰妹へ、で解釈を放ったらかしにしてあるものがある。そこでは、
『 坤坤兌坤巽兌で坤為地の雷沢帰妹
これまたあやしい想いのでてきそうな卦になりました。前回の真の解釈法の真反対です。
易が自分で語る弱点といっても、易は口がないのでしゃべれない。それをいいことにお前らは勝手なことをごちゃごちゃ喋る。それでもわしは黙って静かにお前らのやりたいようにさせている。
仮定として少しだけ。
離、震、乾の激しさがない、順序よく順当に徐々に進んでいくのが可なりのような外観を与えているが、、そんなことをすれば理知、知性の邪悪性がすぐ侵入してくる。しかし、私はそのようにしか示せない制限が制約がある。もっと一挙に一挙に見て得ることだ。
これだけ書いておきます。これまた解釈は保留ですね。 』、となっている。
一年前のことなので書いたことは忘れていたが、卦だけは覚えていた。坤為地、なんという弱々し卦だ、単なる受け身か、という印象が続いていた。
最近始めた言霊学からすれば、易自身に語らせなくとも簡単に、易の弱点、欠点は分かるようになった。
易は抽象化された表象、意匠から作り上げた概念の言語体系で、元々事実実相を語るようには作られてはいなかったに過ぎない。だから易に配当された意匠の範囲内で時間場所次元を再配分しなくてはならず、直接事実を語れないに過ぎない。
初心者も経験者も年季の入った人も、自分の経験と知識を中心に設定して、概念と実相を自分の経験知識の対象としている。それをもってことにあたるため、得卦から意匠を語っている分には誰でも正しいと主張して良いし、ただそれだけのことで、事実への口出しはまた別のほうにあった。
pc不調のため後半部が失われました。何かいわくを感じたので、
何故、せっかく書いたのに後半部は失われたのか。雷山小過上六。 思い上がるな、まだ早い。
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心の御柱と得卦
2009/5/16(土) 午前 2:58易占いで行こうその他占い
心の御柱と得卦の爻位との関係を問う。
何が出るか分からないが、出れば出たで卦に沿って何とかしてみよう。
兌‥
坤‥沢地萃
坎―地水師、沢水困
兌‥水沢節、地沢臨、兌為沢
離‥沢火革、水火既済、地火明夷、沢火革
艮―火山旅、沢山咸、水山蹇、地山謙、沢山咸
震為雷の五爻変で沢雷随へ。
おやおや、もしかしたら、同じ、上下同じ、少なくとも同じという方向をとってもよい、ですか ? ?
本当ですか、違うと言ってください。関係ないと言ってください。
心臓の鼓動が早まってきてしまう。
『 大げさだよ、相手と同じだと思い込みたいのだろう、そんな無理はしなくとも、
相手は拒否してるじゃないか、相手は反対向いてるよ、
それぞれ勝手に行くところはあっても一致はしないよ 』
誰か、そう言ってほしい。
「大いに有事を失うことなし」(五爻)、
これはお前みたいなへなちょこには当てはまらないよ。
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もう一回、結界をはる。
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さあどうなるか。
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ケムトレイルと蜜蜂、そして、
2009/5/14(木) 午後 11:37易占いで行こうその他占い
yahooのgentetu氏の掲示板に投稿したものです。
gentetu氏は占って以下の卦を得ました。
『ケムトレイルはミツバチの失踪に関っているのか、を占して、
下から 震・坤・艮・巽・巽・巽 三爻位
本卦 明夷 之卦 泰
副卦 観 副卦 観
地文 復 人文 漸 天文 巽 天地 益 』
『周易つれづれ』№97、より。
以下は、わたしが yahooのgentetu氏の掲示板に投稿したものです。
『面白い卦なので解に参加させてください。
ケムトレイルが強調されているようなので、一般解は避けケムに絞っていきたい。とはいってもケムについては何も知らないのだか。
卦の構成に興味があったので返信することにしました。
之卦が地天泰で少々戸惑うところですが、ゲンテツ氏は蜜蜂としていますが、わたしはそのままケム側のこととします。
爻卦と卦全体をケムに関することとします。
爻卦の巽は風、潜伏、従う、従わすの性質を持った巽とします。
下卦は艮-坤-震で構成され、離を作り、離の飛鳥=蜜蜂、巣箱(空の)とし、
全体で、三つある巽のケムはかなりの影響力を持って蜂に吹きつけるとします。
離の蜂は艮-頭、坤-腹身体、震-足羽からなり
頭を狂わし方向感覚を奪い、風邪寄生虫を伝搬し腹身体へ悪影響を与え、羽へ付着して非行能力を低下させてるかもしれません。
このように三つのケム巽は強制的に蜂と関係しているとします。
さらに巽の権益行為を見ていかねばならないかもしれません。
三つの巽は初爻と風雷益を、二爻と風地観を、三爻と風山漸をそれぞれ作っています。(天地として風雷益をとってもいいですが)
何らかの利得行為が疑える。
風雷益-風地観-風山漸と何らかの権益の意図を持った者たちの動きがあり、ケムをまき散らして伏入させることで、徐々に益を狙う機会を窺っている様子かもしれない。
爻卦の運用からは、ケムの存在と悪利用のように思えます。
ところが、本卦は地火明夷の二爻変で、「ケムは関わっているのか?」という問いに対しては、「あってもないんだよ」というような意味の答えになっています。
爻卦の運用と本卦とが180度逆転するのはよくあることなので、それを採用します。
本卦を「関わっているか」の問い掛けにたいしての、ケム側の主張とします。
もちろん地火明夷ですのでそんなあくどい事はしていないと言っています。
しかし、それは観点による、風地観によると付け加えられています。
裁判や戦争犯罪、毒カレー事件でもそうですが、あってもない、やってもやっていない、存在してもしていない、あるいはその逆を主張するのは通常の事です。ましてや発表するのは権威側からです。
事実とか証拠とかがあっても「ない」と言い続ければいいわけで、わたしはこの地火明夷の地天泰へをこのように見ました。
在るのも無いのも風地観だ、その代わり在る在ると騒ぐお前らの主張(地天泰)も風地観だ、と言っているようです。
結局、事実を見せ、証拠を見せても、上からの主張は今のところの観点だけではその因果は分からない、というように解しました。
(感想。証拠の力なんていうものは時には非常に弱々しいもので、何にもなりません。証拠や事実を越えるものが必要です。そして、それはときには白を黒と言いくるめる狂信です。上からの発表です。あるいは宗教家の熱情かもしれません。しかし易はそれらの両者をも超えることが出来るでしょうか。易はどの位置にいるのでしょうか。) 』
以上のように投稿した。
わたしの関心はケムトレイルと蜜蜂の失踪を他人の出した卦で見てみることにあった。
ところが最後に感想としてかっこ内を記入している時、易の力に非常な無力感を覚えるようになった。
解が解を呼び、また他の人が解すれば別のものとなる。
易の教本のようなものには、これぞ、といったものが占例として載せてある。
確かに素晴らしい解となっている。
普通なら、それならわたしは ?
それでは今回のわたしの読みは ?
と、なるところだが、そういう感じは起きてこなかった。
解は解と比較され、比較された解がまた解されるだろう。
我々の頭脳はそんな循環の中にいる。
わたしは易の無力をここに感じた。
とりあえずここまで。
投稿したものの内、「感想」の部分以下はのちに敷衍されるでしょう。
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水火既済。2005.12.06。そして、本日。
2009/5/10(日) 午後 11:55易占いで行こうその他占い
この二千年というもの釈迦が説き、キリストが人の世を説いてきた。
無数の信者を作り、無数の狂信的な献身もあった。
ところが、現実はどうだ。地獄の様相に変わりはないではないか。
「これは何としたことか。」
巽‥
艮―風山漸、
坤‥山地剥、風地観
坎―地水師、山水蒙、風水渙
兌‥水沢節、地沢臨、山沢損、風沢中孚
震―沢雷随、水雷屯、地雷復、山雷頤、風雷益
下から震兌坎坤艮巽で水火既済の四爻変で沢火革へを得る。
またもや水火既済だ。三年前に「未来は決まっているか」で出した水火既済だ。
2005.12.06に出した水火既済の地天泰へをもって、わたしは周易の勉強を始め、このブログを始めた。
未だにこれの解釈は済んではいない。
その代わり毎日毎日新しい卦が積もり積もっていった。
解釈するより卦を出す方が忙しいといった状況だったようだ。
今は言霊学の勉強に凝っていて、本来ならばこんな問題は起きてこないように思われる。
ところが今日は突然こんなことになった。
水火既済の地天泰へ、水火既済の沢火革へ。
「未来」といい「二千年」といい水火既済なのだ。
わたしのこの三年間もだろう。
ただし今度の之卦は地天泰ではなく沢火革になっている。
少しは言霊学の成果で書き足して見ろと言われているのかも知れない。
( ここからはまだまだ小声でしか言えない。 )
「革ため」させられるのは貴方たち、釈迦やキリスト達なのだ。
もちろん否定されるのではない。
新しい革袋が用意されつつあるということだ。
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天の吹男の神。言霊テ。
2009/5/9(土) 午後 10:09易占いで行こうその他占い
天の吹男の神が言霊テであることがなかなか頭に入らない。
どうしても「吹く」と「テ、手」とが一致しない。
そこで仕方なく易に問うた。
「天の吹男の神を理解するヒントを与えてください」
離‥
艮―火山旅
坤‥山地剥、火地晋
坎―地水師、山水蒙、火水未済
艮―水山蹇、地山謙、艮為山、火山旅
乾―山天大蓄、水天需、地天泰、山天大蓄、火天大有
水天需の初爻、四爻変で沢風大過へ、となった。
水天需とはますます分からない。待てば解ってくるだろうなんて落語じゃないか、などと思ってしばらく待ってみる。
さて、需の主爻に艮為山がある。天の吹男の神が言霊テとして与えられているのだから、どうしても受け取らない手はない。
そこで手を組んで考えていると、組んだ手に山が見えた。親指と人指し指をくっつけると三角ができる。
とりもなおさず、山になる。
その三角の山にフッと息を吹きかける。何も起こらない。息を吹きかけながら手を離したり付けたりしても何も起きない。
ふと指で作った△をみると山から屋根の骨格になった。人差し指屋根のてっぺんは徐々に中指、薬指、小指同士とつながってとんがり屋根が出来上がっていった。かやを徐々にふいていき、茅葺き屋根ができていった。
これは天の吹男の神が屋根をふく=葺く神であることに無理やりこじつけたみたいに思える。
がしかし、こうしたイメージは得た。
でもそれ以上良い案が浮かばないので、ヒントとして頂戴した。
天の吹男の神の住む島は津島の領域にあって、イメージが考えにまとまっていく過程にある。考えはその後言葉となって出て行くがまだそこまで行かない。
手を使って三角形を作り家屋の骨格イメージとする(艮)。そのイメージに息を吹きかけ茅を葺きかけ「テ」を加えて、充分丈夫な表出するにたる考えとする(沢風大過、火天大有)。
卦はこのように解しておいて、それだけの屋根の工事をするのだから、出来上がりまでには時間が掛かる。
こうしてここは時間的に「手」を加えこと、考えにまで纏めるには「待たなければならない--水天需」とする苦しいこじつけを加えた。
また一方、くっつけた親指の相手は他の四本指になり、それぞれウ-オ-ア-エを配することもできる。人差し指でウ次元を配したならば、それをフッーと吹いてとんがり屋根の列にすることができる。この息を掛けることは父韻の仕事になるだろう。
直前の、大戸日別の神で第二爻群目を、「自分の意図で仕上げたものに満足というか、自分ラーベルを貼るところ」と記していて、大戸日別の神による個人色、個人の意図、趣向、好き嫌いの分別、それぞれの実用色を受け継いでいるので、屋根の骨格を色づけ仕上げるにはそれ相応の「手」を入れることになる。。
こうして、一応イメージは考えとしてまとまっていく。
そのまとまった姿は「大屋毘古の神」となって全体的な姿を現す。
とここまでやってきたが、未だに「水天需」がぴったりこない。
でも、これにて、また次回へ。
突如追加。
「テ」を加える方からすれば、「待つ-需」には納得できないものがあるが、三角だけの屋根の骨格にしてみれば当然出来ていくのを待つしかない。
つまり、「テ、て、手」に関することは相手にすれば「テ」を待つこととなる。救助の手。手出し。
では、「吹く」は、?
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菅麻音図。イ-エ-ウ-オ-ア
2009/5/9(土) 午後 7:26易占いで行こうその他占い
珍しい卦が出たので記録しておきます。
とても幼い子供にパパの絵を描いてちょうだいと、描かせると単なる一つの線だったり、クシャクシャとした線だけだったりする。
これがパパかと念を押すとその通りだという。円も曲線もろくに描けないから仕方ないと思いつつ、
パパはこうだよと、眼を描き鼻を入れ口を足して輪郭を描いて訂正すると、大概の子供はそれを否定したり、上から書きなぐったりする。
満足して上手だなんてパパを褒めることをしない。
そこでこうした一連の動きを易に問うてみた。
艮―
坤‥山地剥
巽‥地風升、山風蠱
兌‥風沢中孚、地沢臨、山沢損
乾―沢天夬、風天小蓄、地天泰、山天大蓄
震―天雷无妄、沢雷随、風雷益、地雷復、山雷頤。
本卦=山沢損、主爻-山沢損
之卦=風雷益、主爻-風雷益
初上爻が震艮、二五爻が乾坤、三四爻が兌巽。
天真爛漫な子供のお絵描きが天雷无妄から始まる。
経験もないセンスもない、手の動きもコントロールできないが自由奔放な描きなぐりが、パパになる。
この動きを菅麻音図で捉えたいが、まだ後で。
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大戸日別の神、おほとひわけのかみ
2009/5/8(金) 午後 3:50易占いで行こうその他占い
大戸日別の神を勉強している途中で2チャンを見て書き込みをしていたら、大戸日別の神が出てきたように思えた。
>>751、>>斎藤氏の御二方へ、と仮にこう呼ぶだけですので、悪しからず。現実には私自身も含みます。
両者ともに共通した精神構造について易の卦はどう出るか見てみました。(易占勉強スレ)
両者とも実際に経験したことのない経験以前の姿内容を固定化して、
経験の幻想(夢)を意欲するだけのものと理解できます。
これは社会生活人生上で普通に見られることで、喋り方内容の書き方はそれぞれ個人の資質に係わることでしょう。
わたしの関心はこれらの意識精神構造が易卦にどうでるかにあって、御二方には直接関係していません。
卦は頭で考えたことが先にあって、それを問うという形です。
坎―
坤‥水地比
坤‥坤為地、水地比
巽‥地風升、地風升、水風井
兌‥風沢中孚、地沢臨、地沢臨、水沢節、
坤‥沢地萃、風地観、坤為地、坤為地、水地比
山地剥初四五爻変で天雷无妄へ。
第一爻卦群沢地萃、風地観、坤為地、水地比は各人の意識内にそれぞれ主張する内容を収拾集積して自分なりの形に仕上げるところ。
第二爻群自分の意図で仕上げたものに満足というか、自分ラーベルを貼るところ。
ついでそれらの表現表出となって、比較相手を探しに行くところ。
そして本卦になり山地剥だが、これは各人各様の自己表現の正当化を指しているようで、
最終的な果実の取得とか、自分の全守備範囲とか攻撃範囲を包括したい欲望を現している。
それが天雷无妄となって、坤為地の融通の利かない自分が自分の、ミイラ取りがミイラになってしまうという形。
易卦の欠点は人間の性状次元が現れてこないところにある。
一見すると両氏とも経験していることを主張し、進行中の経験談をしているように聞こえる。
書かれている内容ははっきりと経験に関するものであり、それへの主張対処となっている。
しかしこれは大戸日別の神において、オの経験次元が選ばれていたのではなく、ウの欲望次元を「経験」という対象に当てていることからきている。二人の話しているのは希望であって、経験ではない。
では、欲望希望を経験として話すのはどのようにしてであろうか。
大戸日別の神のどの過程で混乱が起きてしまうのだろうか。
今後の課題です。
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父韻の発生
2009/5/7(木) 午前 4:40易占いで行こうその他占い
母音に結びつく父韻はどのように発生したか。
坎―
兌‥
坎―
離‥
兌‥
坤‥
火地晋の初爻変で火雷噬ごうへ
これも急いで記録しておくだけです。
日本語を創造した古代の偉人たちの心の一端を見られるか。
離が地上にいでて、さらに進む。
離を母音とする。
之卦火雷噬ごうは口、発声器官。
三四五の坎の父韻を越えて上五四の離の母音が発音される形。
古代、母音の発音は誰でも同じようにアならアと発音されていたが、
不足する語彙を補うため父韻の使用を思い立った。
父韻の使用法を整理しないと(沢地萃)会話ができなくなり(火沢けい)、その法則を作ることにした。
その法則とは母音の発声を、声帯、胸の奥から発声させながら唇の先で発音する順位にした。
これは火地晋の卦よりして母音を喉の奥、胸の内から響く感じから、口先、くちびるの先で発音して口腔よりでていく感じを得るよう(父韻が気道を塞ぐ、沢水困、坎為水)に当てはめたものである。
長期に渡る試行錯誤の後に八つの父韻による整合性に到達したものと思われる(上五爻で水沢節)
五十音図のあ行に当てれば、胸の奥から始まる感じで、アタカマハラナヤサワとなってくちびるから出る。
とりあえず記しておきます。
この後、できれば各父韻の心理状態が分かればいいのだが。
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洛書の魔方陣。中央の五と得卦の関係を問う。
2009/5/6(水) 午後 11:34易占いで行こうその他占い
記録しておくだけです。
洛書の魔方陣。
中央の五と得卦の関係を問う。
兌‥
坎―沢水困
震―水雷屯、沢雷随
坤‥雷地予、水地比、沢地萃
坤‥坤為地、雷地予、水地比、沢地萃、
乾―地天泰、地天泰、雷天大壮、水天需、沢天夬
沢雷随の初、二、三爻変で沢風大過へ。
中央の五は自我、我、吾と取ります。
「吾」は「五」と口の組み合わせで、吾が口をもって八方向へ働きかける。
周囲の八方向に乾兌離震巽坎艮坤を配当すると、吾の周りを八卦が取り囲む形になる。
この場合の八卦と得卦と吾の関係を問うた積もりだが、
関係がありそうだという沢雷随をいただいたが、さてさて解が難しい。
難しい解の卦はダメな卦と言われればその通りかもしれないと言っておきます。
それとも簡単に、中央の五、吾は得卦に従う、あるいは得卦は吾に従うとでも言っておこうか。
この卦も後ほど再考されなければならないようです。
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奥疎の神。オキサカルの神。
2009/5/6(水) 午前 0:35易占いで行こうその他占い
「奥疎(おきさかる)の神の
奥は起き、興で、発端を示す積極・陽性音です。
疎(さかる)は離れる、隔てるの意。
そこで奥疎とは物事の発端となるものを、他のものからへだてる、ということになります。」(島田正路「古事記と言霊」)
奥疎の神は起きる、発端、始めで、何かの原初、原点、始原を現し関係しているらしい。
ではその原点に戻った始原の様子とは何かが気になる。これが占題となった。
「奥疎の神の今中とは何か、どこにあるのか」
震―
艮―
震―
兌‥
坎―
巽‥
天水訟の不変を得る。
天水訟--君子もって事をなすに始めを謀る。
奥--起き--発端--始めを謀る、で一見よくできた卦と関心はするが、
正直な話中身が何にもない。
そんなことを言っても始まらないので少しは考えてみよう。
天水訟は訴え、自分の所有感か意識の領域が他と相容れないときに、どちらかの主張を意識するときに起きる。
確かに奥疎の神の働きにふさわしいと言えそうだが、ではその内容は、今持っているものは何なのかというと、わたしには今のところちんぷんカンプン。
とりあえず、天水訟を読んで、意識に昇ってきた所のもの、としておこう。
これだけ。
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たぐりに成りませる神の名は金山毘古の神
2009/4/30(木) 午前 5:11易占いで行こうその他占い
わたしは疲れている。これまで生きてきてわたしは充分に疲れていると感じている。
おそらくは、現代に生きている人たち全員に当てはめてもいいだろう。
われわれは疲れている。これまで生きてきてわれわれは充分に疲れていると感じている、こういってもいいだろう。
なんとかしたい。
だから占いの勉強も元気を得る方法として選んでいるのかもしない。( もう三年が過ぎた )
そして昨年暮れから始めた「古事記」を言霊で読み解くことも生きていく糧を得たいからかもしれない。
あまりにも難しいと期待がつぶされる。進歩に希望が持てないと暗い気持ちになる。
そこで、わたしは疲れている、となる。
今日は占いの問いがまだ出てこない。疲れた疲れたと書くだけで終わるかもしれない。
つづけよう。
「 たぐりに成りませる神の名は金山昆古--カナヤマビコ--の神、次に金山毘売--カナヤマビメ--の神 」
イザナミの命は子を産み疲れて病気になり嘔吐したその嘔吐 (たぐり) から産まれた神です。
言霊学での解は、神代文字を粘土版に刻んだ「か具土」を手でたぐり集めると神名文字の山(金山)ができ、五十音言霊を整理するために、先ず五十音神名文字を全部集めたとなり、それの音と文字が発生した。
イザナミは必要な子供たちは生み終えもう子種が尽きてしまい、その最後の子供が粘土板を火で焼いて神代文字板を作ったものを産んだのでホトが焼かれて病気になった。
金山は神の名を書いた文字版の破片で、それをたぐり寄せて自分の手前に山と積んでみたとなる。
わたしの現状にたぐり寄せてみれば、「疲れた」という状況を何が何故どのようにどうしていつどこでどんな次元において疲れているのか、自分の前にはっきりさせるためまずはそれらを示せ提出せよとなるだろう。
毘古は霊を担当し、毘売は言を担当分担しているが、ここで問いが浮かんだ。
わたしのこの疲れの方向を見てみよう。疲れは今後どうなるか。
乾―
艮―天山遯
坤‥山地剥、天地否、
震―地雷復、山雷頤、天雷无妄
坎―雷水解、地水師、山水蒙、天水訟
坎―坎為水、雷水解、地水師、山水蒙、天水訟
風天小蓄四爻上爻変で沢天夬
大丈夫だけど、わたし自身から発する強い意志からではないようだ。
なにか非常な臆病風をひいている。
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眼を閉じて世界を思うと、、、
2009/4/29(水) 午前 2:47易占いで行こうその他占い
神話や宗教の始めには世界の創造物語から書き出されるのがよくある。
日本の古事記も天地の初発の時として始まっている。
世界の創造神話はそのそれぞれの時代に得た知識と想像力で書かれるものだろう。
大きく眼を開いて遠い遠い先を見ようとして書かれたものだろう。
しかしいくら眼を開いていても百億年前のことなど見えてこない。
では、眼を閉じて世界を見ていくとどうなるのだろうか。
そこであまりはっきりした占的ではないけれど、
「目を閉じて世界を思うと、一般的にどのようなものになりやすいか」という卦をとった。
その後に続けて、
「古事記は眼を閉じて得られた世界をつづったものか」という卦もとった。
前者は (眼を閉じて世界を思うは)
坎―
艮―
乾―
震―
兌‥
兌‥
天山遯の四爻変で風山漸へ
天山遯四爻--好めども遯る。主爻山雷頤の好み、自分の好みに埋没していく。
後者は (古事記は)
巽‥
坤‥
兌‥
坎―
巽‥
巽‥
地山謙の五爻変で水山蹇へ
地山謙五爻--富まずその隣とともにす。謙徳。
古事記の場合には天と地がころっと入れ替わっている。
とりあえず、記録だけ。
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吉本隆明『言語にとって美とは何か』。 「<う>なら<う>と発するはずである」の欠点を問う。
2009/4/25(土) 午後 7:03易占いで行こうその他占い
吉本隆明『言語にとって美とは何か』。「<う>なら<う>と発するはずである」の欠点を問う。
離。
兌。火沢けい
艮。沢山咸、火山旅
坤。山地剥、沢地萃、火地晋
坤。坤為地、山地剥、沢地萃、火地晋
離。地火明夷、地火明夷、山火賁、沢火革、離為火
本卦。雷地予。。之卦。雷風恒。
「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。
人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、
海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずである。」(吉本隆明『言語にとって美とは何か』
地火明夷、山地剥からすれば、潜在性、心の宇宙を無視していきなり<う>から始まっていて、<う>の地上に奮う象が恒久化されてしまっている。
これでは狩猟人の<う>が万人の<う>になる根拠が無くなる。
狩猟人の<う>は彼個人の<う>に留まっていないで、万人が受け入れ納得する精神機能、心の構造が必要。
後天的に教育によって教え込まれた「う」以前の <う> が必要。
離。主客交流、
兌。感情、発語、
艮。時と関係、
坤。表層、感受、
坤。潜在意識、気配、
離。潜在意識、心の宇宙、
とりあえず。
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ひふみ祓詞
2009/4/2(木) 午前 7:35易占いで行こうその他占い
ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・たり
と数( 数霊 )を勘定するらしいが、最後の「 たり 」というのは何だろう。
こういうのもある。
ひふみ神示。
む・ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここ・たり・う・であるぞ。う・たり・ここ・や・なな・む・いつ・よ・み・ふた・ひと・む・であるぞ。となえよ。のりあげよ。
普通に言えば九の次は十だが、「 たり 」は十の意味なのだろうか。古代語ではこうなんだと言われればそれまでだが、一応易神さんに聞いてみた。
この「 たり 」とは何か問う。
震―
巽‥
震―
震―
艮―
離‥
火風鼎の不変を得る。
数字に関することなので火風鼎のどこに数字があるか探してみたが見つからない。
もしかしたら離は3、巽は5、足して8に関係があるかもしれない。
足して8なら、乾艮、兌坎、巽離、震震などで足せば8を作る。しかし、いずれも数に関する意匠が出てこない。
そこで、別に数の意匠が無くても「たり」に関するものがあればと、続行してみる。
天山遯、山天大蓄、沢水困、水沢節、風火家人、震為雷、そして得卦の火風鼎。
一二三・・・ときて「たり」に通じるものは、余程ひと・ふた・み・・・の読み方に通じないとうまくいきそうもない。
結局、火風鼎の辞の読みを取ることになった。
木をもって火にいれ、煮炊きが完了しておいしくいただけるようになったら、提供して食べてもらう。
料理が出来上がった、もう充分に煮えている、等の意味から「完了して、出来上がった、もう充分」をとって、ひと・ふた・み・・・・・なな・や・ここで充分、もうこれだけで数字は「 たり・足り 」ているとした。
そこから数の勘定は九つだけで「足り」ている。全ての数は九つの数字で表現できる。九つの数霊さえあればどんな料理もできる。つまり、古代日本人は九進法の秘法を発明していた。それを千年以上も大事に復唱し続けていた、となる。
とは言ってもその九進法の内容がわたしに分かっているわけではない。残念ながら。
ただ卦の上からはそう読めるというだけ。
(神の数学というブログを参考にしました。ここでは0から8までの九つの数字を使って説明しています。9=0として。)
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国の水分の神
2009/4/1(水) 午後 10:36易占いで行こうその他占い
何故太祝詞音図のエ段は「セ」で終わるのか。国の水分の神について問う。
巽‥
艮―風山漸
震―山雷頤、風雷益
坎―雷水解、山水蒙、風水渙
坤‥水地比、雷地予、山地剥、風地観
坎―地水師、坎為水、雷水解、山水蒙、風水渙
沢火革二爻変で沢天夬へ
沢火革二爻・改めるべき日に至ってこれを改める。行けば吉。
旧弊を一新。毛改め。なめし。
暦を治め時を明らかにする。
改めるべき日に至ってこれを改める・こちら側は一先ず置いておいて、相手に到達してから理解されるだろう。相手の理解を求め、あるいは理解させようと、出発の準備が整う、決行するまで。
とりあえずは、自己頭脳内に積み荷となった伝達事項が相手に了解される前提を自覚したところ。
国の水分の神・国の・み・く・ま・り・の神。
み・・実、中身、実体、。了解される伝達事項、積み荷、イメージ、言いたいこと等の実体があると私が(主体)が決めたこと。
く・・組むのく、自分なりに積み荷を組む、相手に合わせて組む。
ま・・これを発送、発声して良いものかどうか、これで相手に届いた日には了解されるのか。主客、当方と相手、積み荷と降ろし手、言葉と聞く耳、等の交点(まじわり点)の設定。
り・・積み荷の配分、大きさ、いつ、どう、どこへ、どのように発するのか、両者の利益(り)となるような荷造りをする。
沢火革を相手を改革してしまったところまでとはしないで、自己内での改革は終わったとする。
当方からものが到達したときにうまくいくのかの準備、相手に対しては相手が当方の新しい荷物をうまく解せるかどうか、発送して(発音して)吉であるように、少なくとも当方内では完了したものとする。
沢火革を相手に向かえるかどうか客体への改革のための、新規創出のための、過分に自己内で積み荷を一先ず背負い込み留め置き、自己内改革改善をこととしていくとする。
次いで、沢天夬による決定があればOKがでる。
さて、「セ」で終わる理由を知りたいのだが、結局各段が「サ」行(タカマハラナヤサ)で終わる理由が分からなければ解明はできそうもない。今のところはここでストップしておく。
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狭土の神
2009/4/1(水) 午前 1:56易占いで行こうその他占い
メモだけ。
天の狭土の神、国の狭土の神の狭土とは何か、問う。
離
坎
艮
坤
艮
坤
沢水困の初爻三爻変で沢天夬へ。
狭土。せまい・叩く槌。
沢水困。・行き着く先の分からない狭い耳孔に入る。
沢天夬・・真あって叫ぶ。
情報の載った卦はでたが両者に共通項があるからといって、まとめて「狭土」を問うことはだめ。
一つ一つやり直し。
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元亭利貞に一字足りないものは何か。
2009/3/30(月) 午前 1:06易占いで行こうその他占い
前投稿から派生し思いついた疑問です。
元亭利貞に一字足りないものは何か。
乾―
震―天雷无妄
兌‥雷沢帰妹、天沢履
震―沢雷随、、震為雷、天雷无妄
坎―雷水解、、沢水困、雷水解、、天水訟
離‥水火既済、雷火豊、沢火革、、雷火豊、天火同人
巽為風の上爻変で水風井へ。
巽上・巽いて床下にあり。その資ふを失う。
井・井は邑を改めて井を改めず。失うなく得るなし。往来井を井とす。
メモだけ。
巽・自分の態度、行為、存在を保証する金と刀。
潜在的に自分が頼るもの。
井--豊・永遠に豊に現実に長らえるには、、、、。
地盤を支える、い-ヰで、あ-ワで、うの大神。 。
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「 易には母音がない 」
2009/3/30(月) 午前 0:26易占いで行こうその他占い
ちょっと気になることがあるので、後の記念のため記録しておくだけ。
引用元。易経総合スレ8から(2チャンネル)。
856 :買物計画を占断 ―寄り道禁止になったよ―:2009/03/29(日) 20:54:05 ID:NuoYbayp
深夜までやってる薬局(生活用品安売り店)へ買い物に。
(乾~天や漢字表記、トップダウン二分法等が示す通り)易のデフォルト文脈である亨=擲銭法しかやらないよー。
投射等方向(全体・確立統計的傾向性・ベクトル空間)型 の秩序/空間/等価性(=元亨利貞のうちの亨)には
経路・行先情報がない分だけ、数量・価値評価尺度型=スケール文脈:元を得る為に象を象る標準占法より
(意味が取れるなら)文をそのまま読めるのが長所?
っ『艮下乾上 天山遯 九五、嘉遯。貞吉。』
天山遯(大事の前の小事、解説文などを参照)だーw 貞が基本、日用品の買い足しだけでお終いだな。
「小さい」計画(亨)の買い物(対他関係だから利) でGOは決定なので、買い物の内容を見ることに;
元亨利貞以外は確実・精確には読み取れないけれど、どうみても占断対象(今夜の買い物)以外が本題です
どうもあ(ry。 「局面」ごとに正解が違う卦だけれど、「この計画」は日用品買い足し以外全部「回避」か。
(毎回この位簡単だと…勉強にならないかw
858 :名無しさん@占い修業中:2009/03/29(日) 22:11:03 ID:5CiOHb+O
>>856
前回に較べて格段に分かりやすくなっています。「勉強にならないか」などといわずに、
もう一歩も二歩も下がってもらえるとありがたい。
というのも、以下のような疑問が出てしまうからです。
元亭利貞を四分法(四徳 )で使用しているようですが、本来は五分法ではなかったのか。
文言の作者はなんとか3.5分法までは理解できているような感じで、 もしかしたら2.5までしか到達していないかもしれない。
その他には2-2で区切る解もあるという。
貴殿のようにまだ駆使する段階ではないので、ご容赦を。
(引用ここまで)
----------------------
何が気になるかというと、前に出した「易の欠点、弱点」につながると思えるからです。
もちろん私としてはそれを超えたいが、新しヒントがあるような気がしたから。
それに同じ日に別のブログで奇しくも八卦は父韻、八の二乗+六の二乗は100。「 易には母音がない 」と書かれているのを見つけた。
この「 易には母音がない 」を越えられるかどうか、そこが知りたい。
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「道の長乳歯の神 」について問う
2009/3/29(日) 午前 4:11易占いで行こうその他占い
他から言われた意見に対する「道の長乳歯の神」について問う。
別の言い方をすれば他の人から何か言われたときどうするか、になる。
それを 「道の長乳歯の神」にかこつけて易に問うてみようということです。
「道の長乳歯の神」は古事記の禊ぎの章の始に出てくる神名です。
艮―
坎―
乾―
離‥
坤‥
坤‥で天地否初二四爻変の風沢中孚へ
天地否。上下交わらない、受け入れられない。自分に交わらないもの、受け入れられないもの。
風沢中孚。彼我と信じ合う、受け入れ合う。自分と交わるもの、受け入れることができるもの。
自分の感情で、自分の経験知識だけで、希望的観測だけで判断しないでくださいということですね。
否と中孚が同時に矛盾なく存続するように。
然し、感情はいくらでも変化していくし、経験も知識も増えたり減ったり一定しないし、希望はきまぐれだし、これは大変なことですね。
長乳歯は子供の歯が欠けることなく綺麗にそろっていること。一回でもいいからそんな意見の交換をしてみたい。
以下引用。
「 道の長乳歯の神とは、摂取する黄泉国の文化の内容の他との関連性を調べる働きという事になります。黄泉国の文化が他文化とどの様な関係を持っているかを調べる働きが生まれて来たという事になります。」
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この世で言う 「あの世」 とは何か
2009/3/25(水) 午前 0:34易占いで行こうその他占い
この世で言う「あの世」とは何か。
乾―
坤‥天地否
巽‥地風升、天風こう
巽‥巽為風、地風升、天風こう
巽‥巽為風、巽為風、地風升、天風こう
坎―風水渙、風水渙、風水渙、地水師、天水訟
山雷頤の五上爻変で水雷屯へ
本卦は山雷頤、とても興味を引くもので、うまくいくかどうかやってみたい。
「自ら口実を求む、その養うところを見る」で、自分と関係する視点からすれば無数の「あの世」像ができてきて、「あの世」の解釈をめぐって戦争さえ起こりそうな状況となっている。
今回は「 頤 」の卦の次元の問題として、すなわち言葉、言葉=意識の次元の問題として解いてみたい。
世界の聖人聖者は「あの世」のことは語らず我々凡人どもがあれこれわいわい語る。「あの世」とはもともとそんな程度のものなのでしょうか。
あちこちでみられる「あの世」経験、体験がどのように取り込まれるのか、それらも示すことができればさらによいことになるが・・・はたして。
継ぎ足し継ぎ足し書いていくことになりそうです。
この世で言う「あの世」とは何か。Ⅱ。
2009/3/26(木) 午後 9:51易占いで行こうその他占い
この世で言う「あの世」とは何か。Ⅱ。
乾―
坤‥天地否
巽‥地風升、天風こう
巽‥巽為風、地風升、天風こう
巽‥巽為風、巽為風、地風升、天風こう
坎―風水渙、風水渙、風水渙、地水師、天水訟
山雷頤の五上爻変で水雷屯へ
江戸時代の平田篤胤が調査記録した『 仙境異聞 』は過去世の記憶をはっきり持つ児童のことを書いたものです。http://senkyow.at.infoseek.co.jp/
これを読むと過去世は普通にあるようです。
過去世にあったことを喋って現在に実証すればすれば、過去世と現在に繋がりを見ることができるが、あの世の経験をこの世で証明はできない。せいぜい占いなどで生きている間のことなら実証できるだけだろうが、それも細部への記載を伴うことと条件を付けなくてはいけない。単なる現在の延長として未来を見るだけでなく何らかのこの世の断絶の後に来るものはどうなのかを示さなくてはいけない。
ところである種の人たちはあの世の様子を語ることができる。経験として、体験として、夢として、幻覚として、薬を使ったり器械を使用したり、その他として語ることがあるが一切実証不能、再体験不能、再現不能の中にいる。
全て個人的な出来事で、あの世のお話も多彩であり、それぞれ個性があるというか、一致しない。大雑把なあの世の次元でさえも各人各様に語る。当然この世で証明できる詳細部分は一切語らない。
そこで卦を見て考えるところは、あの世を語ることは全て「 山雷頤 」ではないのか、ということになる。
あの世を死後として語ることは、それぞれの語る者たちの個性にまかされていて、あるいは勝手に夢見をして語ることが許されていて、人々はそれに従っているだけではないのか。
それが許されるこの世の人々の精神構造があるのではないかということになる。
結局、あの世とはこの世の人々の精神構造を見ることになるのではないか。
死後とか、肉体が朽ちた果てた後のこととか、肉体を離脱した霊魂の行き先とか、そういったこととは別の、精神世界がこの世にある、それをこの世に対比してあの世という。そんな感じがしてくる。
初爻卦群に風水渙が横に並んでいる。つまり得卦には縦に巽が続いている。これの意味するところはなんだろうか。
この世で言う「あの世」とは何か。Ⅲ
2009/3/29(日) 午前 3:37易占いで行こうその他占い
この世で言う「あの世」とは何か。Ⅲ。
乾―
坤‥天地否
巽‥地風升、天風こう
巽‥巽為風、地風升、天風こう
巽‥巽為風、巽為風、地風升、天風こう
坎―風水渙、風水渙、風水渙、地水師、天水訟
山雷頤の五上爻変で水雷屯へ
風水渙、風水渙、風水渙、と並んでいる。吹き散らす、憂悶憂苦を吹き散らす、散らしても散らしても、経験できない世界のことなので、散らしようがない。それは結局口先だけの世界だよ、山雷頤の口実だよとなる。疑問を持てばそれは解けず、苦悶を持てば次々に起きてくる。
地水師、天水訟、それでもお話しや噂は聞く、立派なあの世の事象が書かれた本もある。近親者の経験談もあるだろう。それでも自分では経験できない、他力に頼っても自力を尽くしても解決できない難問、それがあの世。
巽、巽、升、こう。。。この問いの中にいる限り証明追体験はできない。多少の説明で安心感を持つことはできるだろう。それでも新たな次の疑問が控えてる。疑問と返答の相互の緊縛ごっこが始まる。
巽、升、こう。。。グルグル周りの中で新たな現象が起きる。証明解決追体験はできないが、それらの言葉はいくらでも聞くことができる。実際の世界から言葉だけの世界に住むようになる。安心を与える言葉、安心を得る言葉があの世の言葉となっていく。言葉による援助が既成事実化していく。実際言葉による材料はいくらでもある。
升、こう。。。こうなると知りたい分かりたいという欲望、観念上のことが、言葉だけの経験知識の既成化となって今度は観念上の既成事実化となっていく。判断分析の決定打がないまま、分析解明不能なまま知識経験として固定していく。
天地否。。。挙げ句の果ては今まで生きていた疑問であったもの、知りたいという欲求であったものが、捨てられ覆いを被せられ仮知識が自分を占領していく。それの度が過ぎていくと宗教的なものに教条に固定され、あの世の教えとして自らが拘束されることになる。
================
山雷頤。
そこで、易神の出してくれた本卦になる。
あの世とは素直にいって、単に口論の世界、口先だけの世界としよう。
死んだ後の実体を、身体にせよ霊魂にせよ、山雷頤の口内に放り込むのはやめよう。
まずあの世とは頤の次元の問題、すなわち言葉の次元の問題、言葉を操る観念上の問題、心の世界の問題とする。
あの世が現れるのは「自ら口実を求め、その養うところをみる」として、自分の口内に異議あるものを探して口に入れそれの砂を噛むような状態とする。自ら探して砂を口に含めば直ちに天水訟が現れる。
ここからあの世と対になったこの世も同時に考えていく。あの世この世を一つのことの表裏とみていく。
ちょうど山雷頤の卦のように、あっち側からとこっち側からと同じものの二つの見方とする。
以下は引用。
「 この世というのは心の中のこと、あの世というのは物質社会のこと、心を内側に観たこの世、世界を外側に見たあの世、とはっきり区別なさいますと心が安定してまいりましてご先祖様との関係が、霊魂のフワフワとした得体の知れないことに脅かされることはございません。
あの世を霊魂云々で説明しますと、心の内容が複雑怪奇になってまいりまして、どうしたらいいのか収拾がつかなくなります。この世というのは心の中のこと、あの世というのは物質社会のこと、心を内側に観たこの世、世界を外側に見たあの世、とはっきり区別なさいますと心が安定してまいりましてご先祖様との関係が、霊魂のフワフワ..
言霊の学問のあの世は近からず遠からず、というよりも遠くなくとてつも近い、あの、って言う前より近い。主体的なのはこの世です。客観的なのがあの世です。 」(引用ここまで)
まじめにあの世のことを語っている人をみると、自分の今のことを語っています。あの世が生きていることが分かります。
ところがひとたび分析し出しどうなっているのかなどと語りだすと、すぐに疎遠な感じを受けます。死んだあの世についていけなくなります。
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山の神名は大山津見の神 。 言霊学でこの神の意味するところは何か。
2009/3/21(土) 午後 6:23易占いで行こうその他占い
「 山の神名は大山津見の神 」 言霊学でこの神の意味するところは何か。
震―
兌‥
震―
坤‥
乾―
乾―
で火沢けいの初二三爻変で火山旅へ
この神は一連の自然現象の比喩で仕分けられた区画を持つ「 風、林、山、野 」の神たちの「 山 」です。
ここは「 心の先天構造の活動によって生れて来る三十二の子音言霊の中で、初めて生れ出て来る津島と呼ばれる区分のタトヨツテヤユエケメの十音の言霊の働きで、先天活動の意図が一つのイメージに形造られます。次に佐渡の島と呼ばれる区分のクムスルソセホヘの八子音言霊の働きで、そのまとまったイメージに適した言葉が結びつけられ発音されます。発音された言葉は空中を飛んで行きますが、飛んで人の耳に達する迄に言霊フモハヌの四音の機能があることをお話しました。ここまでで先月号のお話を終えました。今月はフモハヌと空中を飛んだ音(言葉)が人の耳に入るところから始まります。」(言霊百神)として説明されています。
意図・イメージが言葉を探して、その言葉が媒体を探して、その媒体が相手へと移動しようとするところです。
前段でイメージとそれを現す言葉が創生され、それらの存在が定立された。
「 風の神名は志那都比古の神 」・・・風の運ばれていく先、運ぶその意図、言わば船荷証に、いつどこに、何を何のために、どのくらい、どこまで運ぶかが書かれているようなものとして、出発地側と発送者側の様子を現している。
「 木の神名は久久能智の神 」・・・言葉としての船(媒体)に載っている積み荷に関するもので、発送側の意図に従って運ばれるものが、あるいは、全体としての船荷が相手に届いた場合に間違いのない区画にあるか明確な区画にあるかを能く保証されているかを示す。
「 久久能智 」は九九の掛け算のことで、ひふみ数詞( あめつちの数歌 )でいう九九掛け算は常に止揚された零の輪に向かうことで、発送(発声)側と受け取り側が同一であるように調和を求めるもの。
あめつちの数歌
ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり。となって十がなく九つで全て「たり・足り」ているという、零から始まる9を0とする9進法モード。
(ブログ「神の数学」参照)
「 山の神名は大山津見の神 」・・・「 山 」を移動していく全体としてみる。運ばれていくのは発送、主体側の意図・志、船荷とそれに記されていること、船(媒介)自体、すなわちこちら側の責任を持つ全部となる。
卦は火沢けいから火山旅。
万物は同じものはなく異なっているのにうまい具合にことが足りていく、そこには幾百を越える条件があるのに、ひと度こころざしによって言葉が発声されたなら相手に向かい相手に届くようになっている。
「 野の神名は鹿屋野比売の神 」・・・この神は「 山 」の神と婚姻を結んで次の段落へで子供を産むことになる。相手側到着地のこと。到着する船、荷物がうまく降ろせるかどうか、港の形状、倉庫、施設受け入れ状況、そもそも荷卸しができるのかなどの調査をしなくてはならず、接岸できるかどうか、荷を降ろせるかどうか、調べる。別名「野つちの神」とあり、つちで相手側(鼓膜)を叩いて上陸できるか見ようとする。
火沢けいの主爻と火山旅の主爻は共に沢地萃の荷物だが、受け取る側は発送側と同じ意図を持っているとは限らない。
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大事忍男の神
2009/3/18(水) 午前 0:51易占いで行こうその他占い
卦の記録だけです。
一。大事忍男の神を後天の端緒「ウ」に相当すると解してよいか。
震
巽
乾
兌
坤
震
火雷噬ごうの山沢損へを得る。
噛み砕いて益、思惑を排除して自己を外化。
===============
二。得卦の本卦を大事忍男の神の位置に置くことについて問う。
兌
巽
坎
艮
坤
坤
雷山小過の雷天大壮へを得る。
艮山が乾となって動く。
================
三。大事忍男の神は後続する操作法全ての神に忍んでいるか。
坎
艮
坤
兌
乾
乾
風沢中孚の天地否へを得る。
後続神の内にあって応じているが、後続神はそれぞれ大事忍の神の思惑から離れ独立している。
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天御中主の神と「何故もの事は始まるのか」
2009/3/9(月) 午前 2:50易占いで行こうその他占い
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天御中主の神と「何故もの事は始まるのか」、の関係について問う。
こんな事はどんなに考えても書き記してもキリがないことです。
そこで易を使っていい加減にケジメをつけてみたいと言うのが今回の主旨です。
そうでもしないとそれこそ混沌が混沌を産んで行くようになります。
坎兌坎乾坎坤で沢火革の風火家人へ
水と火
男と女
変革抗争と協調治世
どうしようもなくこれらの全体が誰の心の中にもあるため、ということにしておきます。
本卦から之卦へいくとしないで、この二つの卦をまとめて一つにくるめています。
いわば太極陰陽の心を持っているからとしておきます。
=================
一応上記のようなオチを着けておきましたが、本当はどうしようもなく混乱したまま、できればもう少しましな回答が欲しいところです。
問いを具体的なものに還元すると何とも馬鹿らしい当たり前なことになります。でも格好だけはつけて古事記の天地の初めの時の御中主の神との関係を探っています。
御中主の神がいてもいなくてもこの世はあります。ではどんな世かと言われればわたしの見て感じたこの世でありあなたの見て感じたこの世であり、各人の見て感じたこの世です。
一方には各人の勝手にまかされたこの世があり、各人の主観的なこの世を産んだ客観的なこの世があります。
各人とは独立したこの世があるが、人が介入したとたんにその人の言うこの世となる。
物質的に科学的にこの世を見ていくなら科学用語を介して共通の見方がでてくるでしょけど、こと人の主観が介入するとそうはいかなくなる。科学的になら「何故もの事は始まるのか」はある静止状態が動きはじめ別の状態になるまでを見ていき、こんどは別の状態を新たな初めとすることでしょう。力が加わってものが動くというのが基本でしょう。
では意識内の出来事はどうなるのでしょうか。意識内ではどんな力が働くのか。
例えば、「何故もの事は始まるのか」なんていうことを卦まで出して見ているのか。
それを欲望欠乏上の事とすれば回答を欲しいからとなり、
それを知識認識上の事とすれば回答を知りたいからとなり、
それを経験実践上の事とすれば回答を試し体験したからとなり、
それを芸術内観上の事とすれば回答を五感によって創りたいからとなり、
それを直接的な事とすれば回答を知りたいから知るだけ、あるいは受動的に関知するだけということになりそうです。
御中主の神を宇宙の主宰神として超抽象神のようになっていますが、そのことはとりもなおさず、現実のどの場面にも顔を出す、現実のあるところに必ずいるスーパースターという意味でもある。
現実と感じるのは各人の意識であるから、御中主の神の神性と働きはわれわれの意識を持つ働きと同じことになる。
御中主の神は
「み」・実・身+「な」・名・成・納+「か」・果・+主の神となって、実体実相に成り納め名を付けてその果実を得ようとする意識の働きの元動力因子のことで、普通に言えば、主体と客体の統一体となる。
主体が動けば直ちに客体を提供し、主体に客体を認識させる動力因となる。
卦の形は沢火革の風火家人へで、水と火の二女同居、陰陽の抗争と協調という形だが、これは中華式の易(自己主張の排他性による陰陽)を利用しているためで、日本式の陰陽(壁を超えての自己総合一体化)に読み替えれば、沢火革は旧きをすくい上げて新規を創造し、風火家人は役割分離分割による総合ではなくそれぞれをいたわる総体となる。
人の意識の働きかけを前提として「み」と「な」で客体主体・主体客体を現し、「か」でその元からある総体と意識された総体を現している。「みなか」は分析すれば三つになるが、後に、「た・かみむすび」と「かみむすび」の主客に分かれていく。そのときには「か」は上昇して御中主の神となるが、統合されている「み」「な」も引き連れている。
このように「何故もの事は始まるのか」というときには、「もの事」が御中主の神に相当する。従って意識の対象となった「もの事」には「み」と「な」と「か」の総体がもともと存在する。
今回の得卦を本卦から之卦へゆくと読まないことは、それぞれの主爻を見ると地・沢臨と天・沢履となっていて、喜びて乾に応ず、喜びて従い、で天地陰陽全般を含んでいるからです。
もの事の始まりは始まるから始まるので、その原因は解明できないと言うか、「みなか」といったり、神といったり、「一撃」といったりしなくてはならないようです。もともとあるものは解明できないのだけど、ひとたびあることになると (天風こう-本卦の互卦) それが動き太りだし ( 火水未済-之卦の互卦 )分析解明可能となる。そんな関係のように思える。
何故始まるのか
2009/3/12(木) 午前 7:52易占いで行こうその他占い
何故もの事は始まるのか。
こんな事はどんなに考えても書き記してもキリがないことです。
そこで易を使っていい加減にケジメをつけてみたいと言うのが今回の主旨です。
そうでもしないとそれこそ混沌が混沌を産んで行くようになります。
坎兌坎乾坎坤で沢火革の風火家人へ
水と火
男と女
変革抗争と協調治世
どうしようもなくこれらの全体が誰の心の中にもあるため、ということにしておきます。
本卦と之卦を別々にしないでまとめて一つにくるめています。
いわば太極陰陽の心を持っているからとしておきます。
以上とりあえず。
つづき=============得卦を書き直すと
坤‥
坎―地水師
乾―水天需、地天泰
坎―天水訟、坎為水、地水師
兌‥水沢節、天沢履、水沢節、地沢臨
坎―沢水困、坎為水、天水訟、坎為水、地水師、で、沢火革の風火家人へ
楽しそうでもなく冷たい冷やかな卦たちから革だとか家人だとかになる。ちょっと見にはわけの分からない得卦になりそうだ。
だいたい占的がそもそも??はてなで意味が通じない感じさえする。
占的の意味するところは何でもいいのです。とにかくなんでもいいから、何でこんなことになるのか、どうして物事や考えや感情が始まってしまうのか、を問うことです。つまらないことを言っているなと感じる読者がいれば何故そう感じるのかを卦で考えてみたいのです。
得卦の最初が沢水困で困っちゃうなというところですが、何故困っちゃうが始まるのか、易神さんだってどんな卦を提示しようかと困っちゃっているところでしょう。
困 ・ 卦は困を身に受けてしまったところから始まってしまったようだ。これでは困るのだ。
そこで見方を変えるために休憩する。
一。困った状態を目の当たりにしてそれを打開すべく原因を探しに行く方向を取ろう。一爻位群。
二。主体側の関わりを示すのが二爻位群。
三。思いつき考え判別識別を探るのが三爻群。そして選択選別したものが設定されたのが地水師。
四。結果反応を待つのが需。良いにしろ悪いにしろ結果の表れとそれを感じる主体が地天泰。
五。沢水困の抜けた水を、地中にあると納得するのが地水師。自分の確認。
一応爻卦群をこのように読んでおく。
つづき ===============
本卦は革だが、旧弊を一新する、新旧の対比、不和、旧の改革等の意匠は、占的からして自己撞着を起こしているように思えるので、単に新しきを創造する、変化するの意をとる。中華式陰陽論の得意とする二極対立の方向とか正反合はとらず、和をもって尊しとする二つの輪が一つになって太くなるイメージをもらう。
何かが始まって何かが始まるのは何故かというのが占的なのでこのままでは、始まりは始まりだということでしかなくなる。対立を持ち込んで多くの爻卦群を解くのも一つの方法だろうが、ここでは二つの輪が両者を止揚していく姿をとりたい。
始まりを求めて新しく始まるという卦を得たのだから、情報は卦に載っているのだろう。
そこで、わたしの解は爻卦全体を、革となって現れる潜在的な、先天的な革としたい。
ここでは爻卦を時間的な変化とか、本卦を補足するものとかにしない。本卦と同様な、対等な相手とする。
革にしろ、爻卦群にしろ主体の関わりが発動するものを受ける側が必要であり、主体の次元に応じて様々に変化する。
困を例にとれば困を抜け出すのに、単なる欲望欠乏上の問題を解決したいためにとか、知識認識上の知りたいとか、経験実践上の試し体験したいとか、芸術上の五感を創造したいとか、やるために直接やるだけとか、主体側の問題はそれを受け取る側が応じなければならないだろう。
この主体の活動が個性的に応じる相手が爻卦群となる。
即ち、革の主爻と呼ばれる地沢臨があるが、お互いに鏡を見合って和合していく関係を指していて、その現象が風火家人となって家政を整えることになる。
何故物事は始まるのかの回答内容を本卦の革とするよりも、実質的に地沢臨としたい。臨は向こう側に手ずる関係が存在することを自分が確かめるために動く。爻卦から沢火革の上爻二爻で地沢臨ですが、已日にしてすなわちこれを新たむ、君子豹変す、これを以て地沢臨にしたいと思う。
( ノート。地沢臨・八月に至りて凶あらん。八卦を使い切れないと凶あらん。八父韻のどれかを見いだせなければ凶あらん。 いずれも八がキーワードで、八父韻は子音現象を創造する、八卦は象を現し動を生ずる。)
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妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニ
2009/3/7(土) 午前 0:11易占いで行こうその他占い
古事記にある「 妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神 」を言霊学で見た場合について問う。
離 ‥
離 ‥ 離為火
坎 ― 火水未済、火水未済
艮 ― 水山蹇、、火山旅、火山旅
兌 ‥ 山沢損、、水沢節、火沢けい、火沢けい、
艮 ― 沢山咸、、艮為山、水山蹇、、火山旅、、火山旅
で雷火豊の不変を得る。
========================-
半日後再筮をして、
古事記言霊学上での「 妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神 」とは何かを問う。
兌 ‥
坤 ‥ 沢地萃、
巽 ‥ 地風升、沢風大過
巽 ‥ 巽為風、地風升、、沢風大過
巽 ‥ 巽為風、巽為風、、地風升、、沢風大過
震 ― 風雷益、風雷益、、風雷益、、地雷復、、沢雷随
で地雷復の水雷屯へ、を得る。
古事記と言霊学関係の卦を出す場合にはもともと答えの解っていることを卦によって確認しているものが多い。今回の「 妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニ 」も説明は先に読んでいた。
「 妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニ
かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。
於母陀流(おもだる)が面足と言葉が心の表面にパッと完成する原動韻であり、それと阿夜訶志古泥が陰陽、作用・反作用の関係にあることから考慮しますと、阿夜訶志古泥は「心の中心に物事の発想や記憶の内容が煮詰(につ)まってくる原動韻」と推定することが出来ます。心の中心に於ける現象なので阿夜と夜という字が用いられ、暗い所という意味を強調しています。この原動韻が父韻ニであります。」
(言霊百神というHPより引用 )
この解説をもっと理解するためにヒントを得ようとしていた。
ところが卦が読めず見えずで再筮までしたが、同様だった。
易の本など開けてみたが、たいした解は見いだせない。
今後はせいぜい無い知恵を絞ってこじつけるか放棄するしかないように思える。
心の奥底を解明した本である古事記をもっと知りたいと思って易を利用しているが、今回はまったく歯がたたない。自分の心を見るのに神仏易などに頼ることがいけないのかもしれないし、わたしの意図が邪なものなので、易神さんがストップをかけているのかもしれない。
複雑な内容を持ったものには、複雑な卦が対応しているのなら、もう少し複雑に考えれば何とか入口は見つかるだろうか、などとまだ期待はある。
--------------
卦があるのにまるで通じない。まるで開かれてこない。物があっても物がない状態にある。知識経験が何も引っ掛からない、本を読んでもこちらに留まらない。
もともと表面には表れてこない精神の先天構造を示した部分なのだから、そう簡単に解する事はできないとは解っている。先天部分にいくら経験を持ち込もうとしても扱っていることがことだけに、そう簡単ではない。
-================ 三日眺め続けているだけ。
閃いたことだけ記しておこう。
父韻を主体と客体、客体への関係化、対象の自分側への引き寄せ、相手との結びつき、橋を渡って自分を向こう側へ運ぶ、自己を他者のうちに実現する、等として見るとする。
しかしここで重要なことは主体的なこちらからの自由な判断で見る、動くということではなく、動かざるを得ない人間の性を規制しているのは、人の意志とか判断によるのではなく、「ニ妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニ」によるということだ。
物をみて、物に名前を付けて、その物を呼ぶのは、人の頭脳、認識作用を貫く言霊の構造法則による。
分かったようで訳の分からないことを書いているが、あるいは書かなくとも、そこには誰に対してもその人を貫き支配する言霊原理があって、従わざるを得ない人の認識言語構造がある。
その易的な表現を主体側からみて雷火豊となり、客体側からみて地雷復となって、主体と客体の一致する姿の始めを水雷屯としているようだ。
人は誰でも勝手なことをあるいは秩序正しく考え書いて話しているように見えるが、我々総体の頭、言語作用を支配する見えざる神の手に拠らなければどうにもならない意志疎通の世界になる。そのことを解明したのが数千年前に日本列島に渡ってきた聖人たちで、秘密を書き記したのが古事記であるという。
その古事記の先天構造の最後にあるのが妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニとなっている。このあとに現象子音が創造されていき、会話の成り立つ理由や、わたしのようなこんな文章にも分かるとか分からないとかの判断が何故でてくるのかとかが解明されていくようだ。
面白いことに、古事記の次の章の始に、「淤能碁呂島おのごろしま」を作った話がでてくる。
おのれの・こころの領域を生成して・しまりをつける・島、神話上の島でなく各人の心のあり方の話になる。
----------------
三日間眺め続けた後に一応感想文みたいなものは書けた。
この間を得卦爻卦群に照らし合わせてみることが残っている。
「妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニ」という言葉を保持していて沢山咸。
もちろんこの三日間のことが卦に出ているのではないが、言霊の先天構造にまで還元してみれば、同じ意味を持ちそうです。
占的を訪ねて超えられない山、超えようとする山、超えない山、踏みとどまって見る山、艮為山。
自分の身の丈を見つめて山の選択、どの方向へどの山が超えやすいのか、水山蹇。
行ったり来たり、道連れを探したり、一人で行ったり、火山旅。
宿を求めて自分にその資格があるのかないのか、火山旅。
以下略。
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いましめ
2009/3/2(月) 午前 1:49易占いで行こうその他占い
わたしは他の掲示板にこんなことを投稿しました。
「515氏をいましめるための言葉を易経に探す。そのために占う。」というものです。
まず事の始めである515氏の投稿は次のようになっています。
「515 :
506の占断わざわざ 。ごくろーさん
しかしそんな気骨こいつ(506)にゃねーよw
もっと楽な方法さがそうとしてマルチになるのが関の山
挙げ句に何処にでもいる周易名人みてーなハッタリ占者に辿り着いてデタラメな占断されて
よけー路頭に迷うのさ
気が済むまで彷徨うが良いのさ
>419
周易名人、易40年でこの占断。ギャグならウケる
真面目に人に指南する気でやってるなら 。まず経歴粉飾すんじゃねーや
さあやれよ周易名人さんよ。お前のハッタリ占断を
ここで観ててやるから 。せいぜい楽しませろよ。」
引用、ここまで。
それに対してわたしの投稿は次の通りです。
「515氏をいましめるための言葉を易経に探す。そのために占う。
( 別に何か困っていたり相手の主張を攻撃しようとするものでもない。
口は悪くても良いことも言ってるし、
こういった類の占的は有効か確かめたかっただけ。)
震―坎―離‥巽‥離‥坤‥
風地観の初爻変、風雷益へいく。「童観す、小人は咎なし、君子は吝なり。初六の童観は小人の道なり。」
515の内容はある種の経験から来るらいし自信の無さが、おとなしい性格と思い込みの硬さを伴って乏しい決断力を後押して、相手を判定していく形。
童観といっても子供じゃないのだから、それなりに経験知識と実績はあり、向上への意志も持っている。
残念な事に実践経験知識において、周易名人を断定できるだけのネタを持ち合わせず、従って指導する手段を欠いていて同じ土俵内で騒いでいるだけに見える。
ご自身でも、「ここで観ててやるから せいぜい楽しませろよ」と影で同じ土俵を用意したりしている。
易をする人の多くは、一にも二にも解読を主にする傾向がある。そんなことをいうと解せないでどうすると言われてしまうが。
しかし、適切な卦、状況をぴったりと反映する卦を出す練習をすれば、特に卦の解にこだわらなくとも、
通常の考えで自然に解が導かれていくように思える。
的外れな得卦を最高複雑な技術によって解しても、的確な得卦とは比べようがない。
得卦は向こうから与えられるのだから、それに沿った自然に与えられた解に従う方がいいと思える。童観咎なし。
童観は知識が乏しいことだけをいうのではない。知識満載の学者だってその行動の仕方、その意欲の仕方が童子というのは幾らでもいる。
また、知識量を誇りその比較を誇るというのがそもそも子供っぽいことで、それを見つめていれば見つめた本人も子供っぽくなる。
そうなれば当然相手への表現も次元が下がり始めていくだろう。
( 主爻は離為火、人のことを悪くいうと自分もそうなるよって母親は言っていました)」
以上。
いわゆる占いのためではなく、人をいましめるための言葉を探そうと、易経に相談したようなかたちで卦をとった。
得卦を得た当時はなかなかピッタリした卦だと思っていた。
人を刺す直接的な単純な表現や、口では強がりを言っても頂戴チョウダイと甘えた心を隠しているような態度が「童観」に見えた。、、、、、。
易はどんなことでも話に載ってくれると頼もしい感じも得た。
ところが、その後易経をぺらぺらめくっていると、易経全体がいましめの言葉になっているのではないかと思えるようになった。
どの卦をとってみても「いましめ」に変換できてきてしまう。そうなるといったい得卦とはなんだったのかと疑問が出てきた。
自分なりに強がりを言えば、もっとも的確な卦、性格を正直に現した卦などと言うことができるかもしれない。しかし今はそんなことも言いたく無くなった。的確とか適正とかはある種の量的な満足度に過ぎない。
その元は、分からないことがあるから質問したので、どの卦が出ようと解答となるのは当然のように思える。
なので、そこで確かめてみた。
何故全て「いましめの言葉」と取れるのか。(略筮で)
山水蒙初爻
全卦全爻わたしの「蒙を発く」ためにある、と取れた。
主爻は離為火、人のこと悪くいうと自分もそうなるよって母親は言っていました。
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天の御中主の神
2009/2/25(水) 午前 5:00易占いで行こうその他占い
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天の御中主の神
--天の中央にあって天地を主宰する神の意(講談社学術文庫)
--宇宙の根源の神であり宇宙そのものである。
太極--万物の根源であり、ここから陰陽が発生する。
以上、両者とも似たりよったりで大方の解釈となっている。
しかし、易神さんのくださる卦はそんなものではない。
---------------
天の御中主の神(言霊う)について問う。
坎乾離離兌巽で風地観の五爻変。
我が生を見る。。。これが易神の生みの親である天の御中主の神への易神さんの精一杯の感謝の回答である。
あなた自身、私自身、占的自体のことである。
----------------
物事の始め、意識した心の始めを語るのに、どこから始めるのか。
古事記はその始めを、天の御中主の神という形で示した。
何か心に感じたことを始に語るのに天の御中主の神を設定せざるを得なかった。始めがないことには語りようがない。そのイメージを「御中主」に置いた。
ただし「天」から御中として、先天的に「御中」として、我々の意識による判別以前の中央とか真ん中とか内面だとかいう、既に五感や経験意識で規定されたものの範囲の外にあるものとしてである。はっきりいえば人間には手の付けようがない、実在とその意識が係わる動きの全体としてである。
表象を持っていえば中央真ん中内面等になるが、実在感は感じてはいても五感で手にする感触以上のものである。
いわば動き動くものを感じてはいても、それをそのまま動くものとして表現できないむずむずしたものとしてある。
物も心も全ては動かざるを得ないが、動くものを動く物して表現できない全体感としてある。
物はなぜ動くか心はなぜ動くか、その原因は人間には解明できない絶対法則である。
それにも係わらず動き関係を持ちはじめなければならない。
意識は何者かへ関係せざるを得ず、対象へ向かわなければ自分を開示できない。
御中主の神はそのためにいる。彼が宇宙意識として我々を創造するのではなく、われわれが彼と結びついていくのだ。人間たちは訳も分からず彼に向かい、彼は我々を我々として示す。
この間の事情は分からない。ある人はありがたいという感じを得るし、ある人は悟りという思いを得るし、ある人は感じる触覚を得るし、ある人は欲するという欲求を得る。
すなわち御中主の神は何もせず、何も思わず何も指示しない。と同時に全てを指示し我々を統制している。取りつく島のない五感による判別を超えた動きの全体である。
何かを感じる時には始まりの兆しとして、私自身に固有な手応えのある生命感として感じられる。
天の御中主の神 = 風地観の五爻変。 我が生を見る
2009/2/26(木) 午後 8:00易占いで行こうその他占い
古事記の文頭、「天地の初発の時」とは何かを問うて、
略筮で、雷山小過初爻
中筮で、艮兌兌兌艮巽で水雷屯不変、を得た。
ついで、天の御中主の神(言霊う)について問うて、
坎乾離離兌巽で風地観の五爻変。
我が生を見る、を得た。
古事記の文頭はこの世の物理的な始まりや、宇宙、地球の始まりを述べたものではない。また神様の誕生や日本が形作られていく様子を記したものでもない。
我々は太安万侶のカモフラージュに乗せられていただけだ。
------------------------
初発の時、何かを始めようとす時、それを説明しようとする時、多くの方法がある。
外から皮を剥ぐように分析していく、内側に飛び込んで一緒に進んでみる、周りを上下左右グルグル回ってみる、同じ場所へ行く、次元を考える、等それぞれ何々法と名付けられているようだ。
説明とは所詮静的な断面図に過ぎないが、説明しなくては始まらないので、致し方なく始まりを設定することになる。
そこでまず天の御中主の神を登場させた。登場したとたんに物事は停止する。つまりわれわれの頭は御中主の神をそこにあるものとして分析しようとする。たとえ神の創造行為を言うにしても創造する神という形を作ってしまう。
確かに、まず物がある、自分がいるという始めを設定しているが、解釈の対象となってしまうと生きた姿が消えていく。神さんが一方的に創造する立場にいて、彼自身は変化せず動かないように思うようになる。
これでは天の御中主の神で得た風地観五爻、我が生を観るが死んでしまう。御中主の神さんとは我が生を観ることなのだということを生かすためには更に次の神さんを産む必要がある。次の神さんによって御中主さんが生かされるそういう構造を作ることが必要となる。
漢字で書かれた天御中主神をみていると、「中」の字に特に注意が引かれてそれによって「中」の解釈をこととするようになる傾向がある。
そこで今「中」という漢字から来る印象を消してしまおう。
天の・み・な・か・ぬ・し・の神として、
・・・実・名・果・貫・志・・・を解すると、
実相実体に名前名称を付与してその果実結果を貫き縫い合わす志の神となる。言い換えると、
実相と名前がぴったり一致していく意識の動きを司る神となる。
これならば風地観五爻、我が生を観るも生きてくるし、雷山小過の音の飛び交うも生きてくると思う。
すなわち古事記は認識、言語活動の動きを解明したことから書き出されている。
-------------------------
ところで、天の御中主の神さんを宇宙の創造神として、いい大人が真面目に考えることができますか。洗脳された頭ならそれでもいいでしょう。
神話は至るとこにあり多くの創造神がいるわけですが、はたして、古代の人間たちのロマンと幼稚な頭が作り出したものして片づけることができるものでしょうか。
二千年前の釈迦キリスト孔子たちと、何年の差があるから幼稚な頭だったというのですか。
モーゼを持ち出してさらに時代を逆上りましょうか、あるいは易経の成立から何年逆上れば、幼稚なロマン頭の神話という発想が出てくるのですか。
現在のわたしたちは、二千年分だけ釈迦キリスト孔子を超えていますか。どれだけ幼稚でないのですか。
引用です。
「日本の古代には哲学的概念に拠る言葉がありませんでした。「天地の初発の時」と言えば、現代では当然眼前に見る宇宙天体の活動が始まった宇宙の初めの時と考えるでしょう。けれど太安万侶の時代では心の現象を眼前の自然現象を以って表現するのが常でありました。「人の心が何かしようとし始めた時」、これを「天地の初発の時」と言ったのであります。
「天地の初発の時」を現代宇宙科学が説くように数百、数千億年前の全大宇宙の活動の初めと解釈すれば、その言葉に続く古事記の文章は幾百の神々が現われる荒唐無稽な、私達の生活とは関係の薄い物語となりましょう。 けれどその「天地の初発の時」を私達の何もしていない心がこれから何かをしようとする瞬間、即ち「今・此処」と解釈すべきだ、と気付くならば、それに続く古事記の神話が壮大な人間の心の全構造とその動き、並びに心と言葉との関係という現代は勿論、何時の世の人々にとっても見逃す事の出来ない重要な心の学問だ、という事に気付く事になります。」( http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no184/no184.htm )引用ここまで。
古事記が書かれる数百年以前に既に日本人は人間の認識言語活動を解明していたようです。
世界のどの民族もなし得ず、現世紀においても定説をまとめられないものを、既に神話の形を借りて表現していた。
古事記の内容を学校で習うようにでなく、学会の権威から教えられるようにでなく、その内容を読み替えてみようというのがこれからの意図です。といってもわたしの発明でもなんでもありません。「言霊百神」、(上記 )、というホームページを見て、こちらで勝手に卦を加えています。
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高天原
2009/2/26(木) 午後 9:06易占いで行こうその他占い
言霊学での高天原とは何か。
坎―
兌‥
坤‥
坎―
乾―
離‥
で山風蠱の火山旅へいく、を得た。
高天原のイメージを受けて、何もない広々としたところのように、
ここでは艮山といってもとんがり山でなく、高天原高原台地のイメージを受け取る。
山下( 台地下 )に風がある。巽の風、息、話が行き交い流通する。
高原台地のイメージから上部の平らな部分に父韻を配し、両辺部に母音、半母音を配した、あいうえお五十音図を想定できる。
左右の縦に配された母音、半母音は両辺にいるので、自由に艮為山を迂回できる。アー、と言えば息の続く限りアーーーーとなる。
しかし、母音が子音を引き連れて台地の上部から外へ出ようとしても、母音-父韻の組み合わせでは台地の上にでる事はできない。
Mを引き連れてエの母音が・メ・と言って上から出様としても、エ-Mでは音にならない。エはいくらエーーエーーとがんばっても、ME・メ・にならない。
父韻の先に出ようとする母のやぶれの例となり( 二爻変 )、かといって、父韻だけが働いて父のした事を追認追試してくのでは、その破れを増大してしまう( 四爻変 )となる。
こうしていてはそのうち疲れて、「巽にして止まるは蠱」となる。
このように、古事記を始めるに当たって、時間の領域では「天地の初発」といい、空間の領域では「高天原」といったことになる。
高天原とは発声される言葉の全領域を指したものであって、図示すればあいうえおの五十音図のことになる。
之卦は困難ともいえる音子の旅行のありさまがここ古事記初頭から始まりますという事になる。
古事記の書き出し部分は、おのごろ島=おのれの心の領域を確定するあいうえお五十音図を形成する手順を述べたものという仮定をしておくと理解しやすくする。
高天原は土俵
2009/3/9(月) 午後 10:43易占いで行こうその他占い
高天原はどこにあるか。
天御中主の神をこの現物宇宙の創造神とすると、神以前に高天原という現場があったことになり、何か矛盾した感じを受けるが、古事記を言霊学の教科書とする立場からは、天御中主の神という精神世界の主宰神はまず、「高天原」という場所にいることになる。
ではどこにあるのかと言えば、当然頭脳内にあってそのような卦がでる筈と思っていた。
高天原はどこにあるか、と問う。
艮乾巽巽兌坤で地沢臨の山雷頤へ、を得る。
得卦からは人体上の意匠を読み取れない。得卦には若干がっかりしたが、臨は相互に臨み合う意味で、山雷頤も双方が臨み合う形をしている。頤は口、しゃべる、言葉、等で言葉が望むところは、外界、自己等、対象とされる相手であり、ものである。強いては人間の言語活動の相手、それの全体を意味していき人間活動の対象全体を高天原としてもよさそうである。
卦からの印象は、現実の場所や位置を示す意匠を求めようとするよりも、そういった問題を超えたほうがよいという回答のように思える。
こちらの心が相手に望むときそれに応じて相手がこちらの心に姿を現す。そのプラットホームを高天原というようだ。
た・か・ま・は・ら
た・こちらと相手が同様にたちあがり、かま・同じかまの中で結ばれて(頭脳内でか)、は・言葉の葉として、ら・展開浸透腹に納められ確立していくプラットホームと思える。
あるいは、
主体の意識がた・たちあがり、か・相手との一致結果の果を求めて、対象との距離を越え、ま・間を取り崩していくための、はら・言の葉のプラットホーム仕事場となる。
高天原はそうした前提を提供して、言霊の神々が行為する場を用意したものだろう。
相撲で言えば土俵ことであり、ひとの行為はどこでも土俵に上がることであり、言葉も同じ土俵の上にいて通じ合うことができる。
高天原は土俵であるけれど、その上に立って行為することではなく土俵の盛り土の内部で動くように思える。
臨の大震の意匠を二爻に当てて、陰陽線で書かれた本卦之卦を横倒しにしてみると、
::::||
|::::|
こんな感じになり、臨の二爻が行ったり来たりして、まともな言葉が話せるようになるまで、地火明夷、、震為雷、水雷屯、山雷頤と自分の居所を求めて五十音図内を彷徨う姿となる。
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天地の初めの時
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2009/2/25(水) 午前 4:58易占いで行こうその他占い
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150 :三年生:2009/02/24(火) 18:52:15 ID:XYJ7/R5z
古事記と言霊関係のまとめ
>>25 『古事記』「天地の初発の時」とは何か---
震震艮巽離離で地天泰の不変を得る
>>50 言霊「ウ」は何故言霊「ア」と「ワ」に分かれるのか。
艮坎兌坤巽兌で
本卦地沢臨+風沢中孚の
之卦雷沢帰妹+地沢臨へ。
>>51
太極から陰陽へと、言霊ウから言霊アワへ分かれることの相違を問う。
坎離乾乾震震で、
本卦天火同人+雷火豊の
之卦風雷益+天水訟へ。
>>114 日本式ふとまに陰陽>>110と、中漢式太極陰陽の違いを問う。
乾― 艮― 坎― 離‥ 震― 巽‥
本卦・天水訟 (-山雷頤-風火家人 )
之卦・沢水困 (-天雷无妄-風火家人 )
>>147>>148
--------------
新規。古事記の「天地の初発の時」の「天地」とは何か。
雷山小過初爻(略筮)
同日同占。中筮。
艮兌兌兌艮巽で水雷屯不変。
151 :三年生:2009/02/24(火) 20:19:48 ID:XYJ7/R5z
>>151「天地」
雷山小過も水雷屯も、その爻卦も、乾坤の天地を一切含まず卦が出てる。
今までの知識ならば、野山月星の天地を当然のこととしていた。
雷山小過ではわざわざ音を残すといっている。音は言葉。
飛鳥は主体客体間の言葉の往来、意識の往来。言葉を運ぶもの。
上るによろしからずは、外界をさまよい探しに行っても天地は見つからず、
下るによろし、人と自分の意識と内面に天地はある、大いに吉たる所以だ。
眼を外に向けて飛び出し外界に「天地」を探しては、如何ともしがたい駄目なところだ。
「天地」と内面の精神宇宙のことだ。
古事記はその意識と客体との関係を解明した世界最深奥の教義書で、
だから理解も出来ず形だけになっても天皇家がこれほどまでに守り続けてきたものなのだろう。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/「日本語の起源、言霊百神」参照。
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古事記と言霊学
2009/2/25(水) 午前 4:54易占いで行こうその他占い
147 :三年生:2009/02/23(月) 20:53:12 ID:HqcAUXi1
移動。644 :名無しさん@占い修業中:2008/12/22(月) 18:16:11 ID:xvpXLtK4
古事記(上巻)は言霊学の秘本か。
兌巽離坤兌坤で坤為地(四、六変)の火地晋へ。
四爻、袋を括る、中身を隠している。
上爻、剥となって現れる。
封印(四爻)は解かれ(上爻)、言霊学(離)は公開された(晋、大明につく)。
しかし、未だ中天ではない。未解明の問題がまだある。
148 :三年生:2009/02/23(月) 20:54:06 ID:HqcAUXi1
移動。663 :658:2008/12/30(火) 02:42:04 ID:908fvHVl
古事記は言霊の内容を後世に伝えるための黙示か、?
艮坎坎坎坤乾で火天大有の沢天夬へ
その孚、交如威如。いよいよ、言霊内容が五爻より最上爻に上りつめ、明かされる時がきた。
爻卦。黙示の内容である言霊学は困難な戦略的として、秘められ隠されていた。
否定的な爻卦の配列から一転して、光輝く本卦の時代となった。
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生命の樹と易
2009/2/25(水) 午前 4:50易占いで行こうその他占い
146 :三年生:2009/02/21(土) 22:36:42 ID:av7CKXCE
洛書とカバラ生命の木は易の解読に有効なところはあるのかと思い、
両者の関係を問う。
山地剥の四爻。(略筮)
両者とも「碩果」を求めて益を得ようとするのは同じであるばかりでなく、
事象の解には同じベットの上で肌を触れ合い、肩を並べる様なものだ。
洛書を変形して生命の木にするのか、生命の木を変化させて洛書のようにするのか、
何かいい案はないものか?。
生命の樹と周易後天図
2009/2/25(水) 午前 4:55易占いで行こうその他占い
149 :三年生:2009/02/23(月) 21:32:08 ID:HqcAUXi1
>>146生命の樹と周易後天図
十個のセフィロト--八つの卦
柱三--縦の列三つ
これを中筮で表記したい。
数が合わないのが難点。
中央五に本卦。中央の柱に本卦。その下に之卦。
中筮で出来た爻卦を配置。
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批判する心
2009/2/25(水) 午前 4:40易占いで行こうその他占い
118 :三年生:2009/02/12(木) 20:37:19 ID:1ZYJFhPB
ここ2チャンネルでは知識のある人もない人も、他人を批判することが多い。
楽しいと感じる人もいれば、醜いと感じる人もいる。
悪口を言うだけで満足するようなものから、文献を提示し理論を駆使するものもある。
一度覗いただけでもうこない人もいて、批判する気のない人もいる。
さて、人は何故他を批判するのでしょうか。
あるいは、何故批判しないのでしょうか。
批判しない人にも、さまざまな水準があります。
無言であざけるのが楽しい人もいれば、悟っているからと言う人もいる。
批判するのは人の心の本性であるようにさえ感じられます。
もしそうなら様々な批判の段階や形を超えて、批判する心の法則さえあるではないかと、疑いたくもなります。
人はなぜ相手を批判するのか、あるいはなぜ批判しないのか、その心を問いたい。
119 :三年生:2009/02/12(木) 20:42:07 ID:1ZYJFhPB
中国式陰陽は、天水訟、なんですね。
易は元々、天水訟が似合っているのでしょうか。
120 :三年生:2009/02/12(木) 20:49:18 ID:1ZYJFhPB
批判はネガチブ思考で、批判をしようとすると自分の脳にダメージを与える
と言う人もいるらしい。
潜在意識の知識も必要になりそうで、、、
卦を出そうか、どうしようか、?
123 :三年生:2009/02/13(金) 21:05:33 ID:Cp1cqLcM
人はなぜ相手を批判するのか、その心を問う。
坤‥
兌‥
坤‥
巽‥
巽‥
坤‥
坤為地の火雷噬ごうへ
>>121さん、どうもありがとう。
とても興味のわく卦ですね。
並べると、
地山謙 → 水地比
坤為地 → 火雷噬ごう
124 :三年生:2009/02/13(金) 23:27:57 ID:Cp1cqLcM
>>121-122
「力量」、水準、次元とか、そしてそれに応じた「成果、視点、解釈」等は、
現実に当然あって各人に付きまとうもので、
どちらかというと、記入してもらった現実の分析よりも、
人間の心の中にある批判する本性みたいなものが欲しかったわけです。
それにしても、ためになるいい解といい卦だと思います。
122の方は何か秘密のお話みたいで能く分かりませんでした。
125 :三年生:2009/02/14(土) 01:47:01 ID:O0SeRg6e
せっかく本卦之卦が二つ集まったので、全体を通して卦読みが出来ればいいと思っています。。
地山謙の二三四坎に注目すると、批判の坎の心が上昇して、相手を突き破る山地剥の一歩手前まで行っている。
二三四坎を逆向きにすると、坤為地に沈み込み、火雷噬ごうは一二六の離中に批判の心坎が潜んでいる形。
坤為地を先天性潜在的なものとし、地山謙-水地比を現象として、うまくいくかやってみようと思う。
坤から顕現、地山謙、までに何か足りないものが-地水師-があって、それを補足すればうまくいきそうな感じもする。
あるいは、地山謙-水地比をも、批判する心の次元に組み込めるか見てみたい。
126 :三年生:2009/02/14(土) 23:35:48 ID:O0SeRg6e
>>123 批判する心
坤‥
兌‥ 地沢臨
坤‥ 沢地萃、坤為地
巽‥ 地風升、沢風大過、地風升
巽‥ 巽為風、地風升、、沢風大過、地風升
坤‥ 風地観、風地観、、坤為地、、沢地萃、坤為地
坤為地の火雷噬ごうへ
「 批判する心 」の始まりが無地な畑からというより、既に種が蒔かれ相手をなり物をなりを識別しているところから始めたい。
爻卦初二で風地観なので、そこから始めて、自己と他者、主観と客観の分離が成立していることとする。
自他との判別があって、それは二方向に行く。相手を識別しても、見ると見られる関係は、
一つは自分とあいての関係で、一つは自分と自分が見たものとの関係の二つある。
この段階で、批判するしないを問題にするのなら、両者は未だ両立しているものとする。
風地観が二つ続いているが、後者は自分が見てるいるものを自分に内省して、新たな自分の見る対象とすること。
自分のものを自分で見ること。
坤為地、坤為地と続いている。蒔かれた種は相手であると同時に自分でもある。
第一段はいかなる次元水準の批判であれ、その心はまず、相手の判別と、判別した自分への意識があるとなる。
127 :三年生:2009/02/15(日) 18:43:44 ID:/LOgMWJV
>>123>>126批判する心
卦には坤為地としてしか現れないが、(中筮なので、) 内容は頭で考えてしまうが、
坤の「方」を四角として四種類とすれば、それに見合ったことは可能で、
それぞれが陰陽を持つとして、八つの坤の内容が可能になる。
一段目を自他との判別としたので、その四種類を探ってみると、
A、自分の心のままに直接に(無分別に)子供のように遠慮なく欲した通りに自他を分けること。
B、取捨の可能性を持てるようになり、経験、記憶に頼った判別を手繰りせること。
C、自他ともにプラスマイナスのわきまえを見越した判別ができること。
D、自然と直覚的に内容が分別できて収まること。
これらを一段目の沢地萃の内容としてもいい。
「批判の心」が現象化すると、A-Dはそれぞれの次元力量として現れるだろう。
128 :名無しさん@占い修業中:2009/02/15(日) 20:57:36 ID:6K+/L1eY
>>123
占的とずれるのかもしれないけど、
主爻の兌巽がそっぽ向いて本卦坤は無関心に近いようにも見える。
上卦は言いっぱなし、下卦は肚では何か思っててもはいはいと聞き流すような情景。
そこから噬ごうにどう繋がるのかはノープランですが。
種が蒔かれるという見方はいいですね。観升ときて臨に変わるのかな。
あと、謙→比は凄いですね。
考えを卦にまとめるというか予測の卦というか、そういう訓練があるんでしょうか?
129 :三年生:2009/02/16(月) 01:37:57 ID:vIQoQNk2
>>123>>127
初爻位群で、四つの水準次元が現れてきた。それがそのまま「批判」の水準となって後に現れるのだろうけど
「なぜ批判するのか」はまだ明らかではない。
二爻位群は、従って、昇って、ストレスを感じたまま昇ると読め、
相手対象との違いから来るストレス(大過)とも読める。
三爻爻卦群はこちら側の問題、自分側の意識に対するストレス昂進と見える。
相手との違い、その違いを蒔いた自分へのストレスととれる。
なぜどうしてそうなるのかは、直接卦に現れないので、ちょっと手を加える必要がある。
今は対象と自分、相手と自分が応じる関係を見ているので、「応じる爻」を見ていきたい。
「応じる卦」は上-三、五-二、四-初となって、それぞれ、升-大過-坤となっている。(本卦の主爻を取るには>>128さんのがある。)
それら三つの卦の主爻を抜き出すと、(三つの卦の陰陽を縦に書くと18爻位になる)、
新しい卦が出来て、「応卦の本卦-之卦」が坤為地の山沢損へ、になる。
ここから相手とこちら側がどういう相応関係にあるかを見ていくと、
坤のテリトリーに蒔いた自分の種が、損益関係得失関係になっているからだと読める。
ここでは坤-中ふ-萃、などが現れ、人間と言うものは余程自分のものに執着を持つという感じを受けます。
そこで「蒔いた種」は常に四つの水準次元に規制されているから、欲求、感情、知識、経験、等各人の関心あることに従い、
それぞれの表現になる。
主爻に関しては>>128さんの解と同じです。
こうした思想問題みたいなものは、わざわざ易占しなくても、頭で考えればいいのだけど、
まあ、ちょっとしたコジツケ勉強ですので。
批判する心 2
修正削除 移動
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2009/2/25(水) 午前 4:47易占いで行こうその他占い
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137 :三年生:2009/02/17(火) 06:45:40 ID:7A1JbPd1
>>123>>129「批判の心」
四五位爻卦群。こうして自分にストレスが溜まって「批判する心」が表面化する手前までいった。
自他へ向けた失得の内容として、自分が先に経験したことへの価値判断、自分に保存されている性能領域、
知らないことが来ると挑戦と思う自己保護主義、新知識への吸収を拒否して相手も拒否、など、
集めればこんなものになるようです。
水準とか次元に関して、
心の赴くまま子供のように思い欲した通り直接的な批判、
判断判別をするのに記憶経験を知識量を頼って取捨する批判、
自他ともにその行方、プラスマイナスを見たわきまえのある批判、
自然と直覚的に的確に表れて収まる批判、または原理原則からする批判、
というようなことを想定しました。
130-136の書き込みを読むと上記のどれに当たるのか考えてしまいますが、
「批判する心」で書いたものではなく、自己確認のようなので上記には当てはまらないようです。
四爻位にある沢地萃をだいたいこう解しましたが、沢地萃卦では物の集まりを異次元間(廟、霊)にも適用しています。
これを真似ますと、異次元間の「批判の心」もまたある、となります。兌の水をかけるような罵倒に発展していくものです。。
質的に違いを見ることができても、未熟な心を持っているということになりそうです。
138 :三年生:2009/02/17(火) 07:04:08 ID:7A1JbPd1
>>123>>137批判の心
さて、本卦です。
批判の心が坤為地の受動で現されるとはちょっと?が起こります。
批判の攻撃性、排他性、と矛盾しているように見えます。
一方批判する者は批判されたい下心があるとも言われています。
そこで本卦の坤為地ですが、ここは主爻である沢風大過の相反する方向を見るのがいいと思う。
相反する方向は前にも書いた通り、自-他と自-自の二通りと思えます。
ここでは沢風大過の互卦、乾為天、を囲む互卦、沢天夬と天風こうを重点とします。
坤為地の主爻の沢風大過の互卦の乾為天と沢風大過の互卦の沢天夬と天風こうの関係です。
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日本式陰陽と中国式陰陽
2009/2/25(水) 午前 4:37易占いで行こうその他占い
108 :三年生:2009/02/08(日) 17:26:49 ID:aOXazXod
「AとBの差異を問う。」このような問いがあった場合に、得卦は
--Aから見た差異
--Bから見た差異
--AB特定せず、両者間の差異
--本卦にA、之卦にB (あるいは逆)
等、どのようになるのか。
ABに関して予備知識があれば特定しやすいが、両者に無知な場合はどうなるのか。
また、
得卦、本卦-之卦には
--本卦は量的なものと、之卦は質的なものとして別々に現れたり
--Aは本卦で低次元、Bは之卦で高次元というように、分離したりするのか。
お月さんとお日様はどう違うのなんて聞かれると、「うるさい、見りゃ分かるだろ」なんていうのが最高の答えだったりしてね。!!!
あるいは、第一印象がお前に与えられた差異だよ、だったり。おまけにそんなの相対的なもんだと切り捨てられたり。、、、。
109 :三年生:2009/02/08(日) 19:04:55 ID:aOXazXod
>>108
易に関係した「差異」の例題について考えています。
陰陽に関するもので、
中国式(中国人式)の陰陽と
日本式(日本人式)の陰陽の違いです。
多少の予備知識がいります。
110 :三年生:2009/02/08(日) 19:12:42 ID:aOXazXod
>>108
予備知識は以下の二点です。
中国式陰陽
『易に太極あり、これ両儀を生ず』(繁辞上伝)
日本式陰陽
『天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、
天の御中主(みなかぬし)の神。
次に高御産巣日(たかみむすび)の神。
次に神産巣日(かみむすび)の神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。』(古事記)
111 :三年生:2009/02/08(日) 19:28:18 ID:aOXazXod
>>108
易経は、漢民族の儒教教典の始に置かれて、いわば漢民族の精神的支柱です。
中国人式精神のよりどころです。
古事記は、日本の始、日本の言葉の始を書き記した心と精神です。
いずれにしても、遠い昔のことで現代には影の薄いものとなっていますが、
DNAのように、中国人を支配し、日本人を支配する見えない力を持ったものと思えます。
112 :三年生:2009/02/08(日) 19:36:24 ID:aOXazXod
>>108
そこで占的は
太極陰陽(中国、漢)と宇宙剖判ア-ワ(日本)との違いを問う、です。
ア-ワは阿波踊りで手を上に挙げてメビウスの輪をえがきなが踊ることと通じているらしいです。
113 :三年生:2009/02/08(日) 22:36:04 ID:aOXazXod
>>108
大風呂敷を拡げれば中漢式頭と日本式頭の構造にまでなるだろうけれど、
当方にはそれだけの学識は無い。
また一方、中漢式の易経に日本を語らせて、信頼がおけるのかという感じも出てくる。
だからといって日本式の易を知っているわけでないし、まぁ、できるとこまで止まりですね。
114 :三年生:2009/02/08(日) 22:55:28 ID:aOXazXod
日本式ふとまに陰陽>>110と、中漢式太極陰陽の違いを問う。
乾―
艮―
坎―
離‥
震―
巽‥
本卦・天水訟 (-山雷頤-風火家人 )
之卦・沢水困 (-天雷无妄-風火家人 )
115 :三年生:2009/02/08(日) 23:01:11 ID:aOXazXod
>>114
前もって、お断り。
というのも、こういっ問題は自分の知識を卦にかこつけて強引に解釈しがちです。
わたしもそういった傾向があります。
116 :三年生:2009/02/09(月) 02:08:12 ID:Tbt19+Z1
>>114
易をやる人は誰でも共通のあんちょこである易経に依拠する。そこで易経にすがる場合には、
単に誰かよりも知識があるか、読みができるかが差異として出てくる。
易経の基本である陰陽論も中国の陰陽論と相場が決まっていて、
日本の陰陽論との差異が知りたいといっても、比較対象とする相手が定かでない。
日本で出来た日本固有の陰陽論に関する定説がなく、文献も限りなく乏しい。
従って、易の卦を読んでも不明な相手を対象としていることになる。卦を読む意味がない。
一応卦は出ているが、易経から覗いてみた日本固有の陰陽論らしき概要に
触れることが出来るかどうか程度のことしか出来ないだろう。
117 :三年生:2009/02/09(月) 03:32:36 ID:Tbt19+Z1
>>114
得卦から、辞を解釈して、
本卦天水訟を中国式陰陽とし、
之卦沢水困を日本式陰陽とする。
中国式の陰陽と易は
上下両卦の対立と相互関係を現し、自己主張と所有権の確保を主眼として、
二気の感応も自分の設定した排他的相手との交合となる。(天水訟-山雷頤 )
中国式陰陽の動きは、主体の領域を明瞭化していき、客体の現象化を求めて、
外へ向かって分離分解個別化していくような動きになる。
日本式陰陽( 沢水困--「沢水困」の表象を内包外包とする-天雷无妄 )は自己主張による排他性による認識に拠らないので、
内外に向かうときには自己同一化あるいは自己総合化の形をとり、固定した状態では自己一体化になる。
壁の向こうとこっちではなく、壁を消し去ろうという動きになる。
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再筮
2009/2/25(水) 午前 4:32易占いで行こうその他占い
93:三年生:2009/02/05(木) 03:49:53 ID:b7IiIGHP
山水蒙。
そこには「初筮は告ぐ、再三すればけがる、けがれば告げず」とあり、
だいたい待ったなしの一発真剣勝負だから、得たものを神意として答えを疑うなとか、
心にそぐわないからといって利益吉を求めて再筮するな、とか言われている。
筮を取ることを勉強するとか広い意味で受け取ると、社会では再三再四繰り返しの必要なものがいくらでもある。
そんなところか、最後の雌雄を決する場面のことだという人もいた。
実際、易の勉強には繰り返しが必要であり、一回だけで済ませてもらってはなにも得るところは無い。
94 :三年生:2009/02/05(木) 04:00:28 ID:b7IiIGHP
>>93
初筮で得た卦を解することができないことはよくあるので、そんな時には
多角的な視点を得るために再三筮を取ることもいいのではないか。
確かに、初めに駄目な場合には二度目の卦もうまく解せないことが多いが、
こちらには助けて欲しいという願いさえあるのだから、易神さんはなんとか考えてくれないだろうか。
暫く置いておけとか、副卦を取れとか、もっと勉強しろとか言われるだろうが、
ここではあえて、同じ占的での「再三」について問いたい。
95 :三年生:2009/02/05(木) 04:07:22 ID:b7IiIGHP
「再三すればけがる」(山水蒙)とは何かを問う。
兌‥
坎―
乾―
坤‥
兌‥
坤‥
本卦・沢地萃の
之卦・水火既済へゆくを得る。
96 :三年生:2009/02/05(木) 22:50:53 ID:b7IiIGHP
>>95
同一の占的で「再三」しました。
「再三すればけがる」(山水蒙)とは何かを問う。
離‥
坎―
離‥
坤‥
艮―
坤‥
本卦・坎為水
之卦・水天需、、を得る。
坎為水の互卦には山水蒙があって、わたしが困って再筮したことを認めてくれたのかな。
>>95
否の陰陽不交で雨降らず、困そして節の取水制限?
自分の家の井戸(>>83の五上を踏まえて)が役に立たないので他所の泉に出かけた。
それできちんと用が済む。(井戸は水が出ないまま)
>>96はよくわからない。勘が働かないので保留。
萃の「二途」を重坎で表してるのかもしれない
下卦は山頂から懸命に天に手を伸ばしてる様子かな
あと変爻の位置が豊の盲目とか明夷の昏暗に見えなくもない。無理読みですが。
98 :三年生:2009/02/06(金) 19:20:58 ID:hGH6xaBF
>>97さん、解説ありがとうございます。
これから検討します。
99 :三年生:2009/02/06(金) 19:22:02 ID:hGH6xaBF
>>95。とうとうやってしまった。こんなことは始めてだ。何故こんなことをしたのか分からない。
三回目です。「再三すればけがる」(山水蒙)とは何かを問う。
乾―
震―
離‥
兌‥
離‥
乾―
本卦・風雷益
之卦・水地比、、を得る。
101 :三年生:2009/02/06(金) 19:28:44 ID:hGH6xaBF
>>95
ますます混沌としていきます。
こんなことは始めての経験で、誰かからは冒涜だと言われそうな感じさえする。
さっき気がついたのですが、結局六変筮を三回(95、96、99)やったから、時間をかけて本筮が一回分できたことになる。
そこで下から三つの本卦を積んでいくとどうなるか、見たいと思った。
巽。‥
震。―風雷益。(99)
坎。―
坎。―坎為水。(96)
兌。‥
坤。‥沢地萃。(95)。。本筮でできた卦は、、本卦・沢山咸。。之卦・沢火革。
初筮は告ぐ。再三すればけがる(「大講座」はみだる)。けがるれば(みだるれば)告げず。(山水蒙)
102 :三年生:2009/02/06(金) 19:37:54 ID:hGH6xaBF
>>95
こんなことを続けていくと、同じ占的で百人が卦を取れば、64卦全部出揃ってしまう。
一つの占的には複数の視点があるというり、64通りの観点があるとすれば、別に不思議でも何でもない。
出た卦はそれぞれの立場、時間、場所、上下左右、次元等から見られるので、驚くには当たらない。
とは言っても、問題は解釈できないことだ。
103 :三年生:2009/02/06(金) 23:18:42 ID:hGH6xaBF
>>100
ほんとうにどうでもいい、となってきそう。
でも、いつか、
その人なりの次元にピッタリ合ったと思える卦にぶつかる可能性もあると考えられる。
能書き抜きで何とかやりたいので、少々お時間を、、、
104 :三年生:2009/02/07(土) 00:00:53 ID:zPrv9MwO
>>95
山水蒙の辞を読むと「初筮」と「再筮」との間に、あるいは第一回目の始の問いと、続いて出てくる二回目以降の問いとの間に、
根本的な段差が設けられているようです。
その内容・一回目とそれ以降・が判れば、再筮してもよいのか、再三再四しても良いのか悪いのかが判別できるのではないかと思える。
わたしは再三再四しても「良い」という言葉を挟んでいますが、辞の言葉「けがるれば・みだるれば」を条件として、
もしそうでなければ「良い」とされることもあると思えるからです。
それらの条件が沢地萃であったり、坎為水、風雷益であったりその他どんな卦でもあったりするのではないかと思いました。
わたしの得卦では、当面それらを沢山咸の初爻でまとめて、解していけと言われたように思います。
105 :三年生:2009/02/07(土) 00:34:56 ID:zPrv9MwO
>>95>>101
沢山咸初爻は足の拇指に感じる、志は外にあるです。
山水蒙は童蒙を教育する次元にあります。
もちろんここは、童に限らず学問的に法則を探しているような大家としてもよいし、
スポーツの反復訓練としても、受験勉強の暗記練習とか、易で言われる再筮とか、論争相手の再批判とかでも、
二回目三回目の飲食物のお替わりでも、
童蒙と結び付けられれば何でもいいわけです。
要するに、自分の山水蒙を開くために課した何かの事柄で、初回とそれ以降に、
断絶する「告げず」という条件を探せばいい。
それを足指に見ていきたい。
106 :三年生:2009/02/07(土) 06:27:50 ID:zPrv9MwO
>>95>>101
初筮のたとえ話をします。
子供がおもちゃを選ぶ時、最初に選んだものを否定すると、あれもこれもと手当たり次第にほしがるときがある。
食べ物でも、食べもしないのに欲しい欲しいと要求し手に入れたがります。
誰でも怒る時、最初の怒りを受け入れられないと怒るために怒ることが発生します。
初筮での吉凶に納得しないと、内容に関係なく吉凶だけを知りたがります。
日常同じようなことを繰り返していても、始めて経験したことだけは別扱いです。
ここまで書いてきていることも、初めに卦を取った疑問は消えて、書くために書くようになってしまいました。
そこで得た知識は知識のための知識で、最初にかんじていたより良く解釈したい気持ちが希薄になりました。
身体を使うことでは、最初の頭での感覚は捨てて、身体に覚え込ませることも必要でしょう。
初筮に関してあれやこれやと書いてみました。
さて得卦は何を言っているのでしょうか。
107 :三年生:2009/02/07(土) 20:07:43 ID:zPrv9MwO
>>95
再三再四して結果を集め一喜一憂(沢地萃-兌為沢-風山漸)、既存のものとしても(水火既済-水沢節)、内容がない((火水未済)。
>>96
得卦が気に入らない駄目な場合。
坎の繰り返し、内容が悪い思った通りでないと決めつけ(坎為水-水山蹇-山雷頤)、それらと違う別なことを期待して(火沢けい-水山蹇-水天需)いる。
>>99
いい卦が出ていると思われるのにの場合。
もっと良い返答が欲しい欲しい頂戴な(風雷益-火天大有)と、さらなる気に入る返答利益を求める(水地比-雷火豊)。
>>101。
本卦-沢山咸(初爻を重点的に読む)。
まず之卦から。 沢火革-風沢中孚-天風こう。
自分との真の相手は自分であり自分と向き合うことである(風沢中孚-天風こう)ので、
そのように意識の向きを変える(沢火革)
本卦。沢山咸初爻。その足拇指に感ずる、志は外にある。
元となっている山水蒙の「我」と「童蒙」の関係を、易神と自分、先生と自分、教える者と教えられる者との関係として見ないで、
我童蒙を自分のこととする。
「再三すればけがる」(山水蒙)とは何かを問う。
自分が初めに持っていたはずの、困っていた問題に対してその誠実な心を放棄して、得卦返答と称する単なる象徴でしかないものを受け入れること。
心も身体も動きだしたいと外に向かっているのに、それに連れて動きだす足指の感覚しか見ないこと(逆説風に)
そのために自分の意向と違うからといって再筮しても、結果は同じような卦が出るので当人に解読する力は備わっていない。
「告げず」とは易神さんや先生が告げないのではなく、当人が自分に告げられないということ。
結局、先生に教えてもらうにしろ、教えられた内容を解するのは自分ですので、自分内の問題としました。
101の之卦からヒントを得ました。
初めに持った問いの心持ち(天真無垢な蒙-大岳)が持続するなら、再筮も可としたいと思います。
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卦読みの次元
2009/2/25(水) 午前 4:25易占いで行こうその他占い
82 :三年生:2009/02/02(月) 22:46:26 ID:JbxQJe57
卦読みの次元を上げたい。
得卦を前にしてやはり上手に解読したいと思う。
本を買うなり、先生につくなりして、勉強し、教えてもらい、他人の読みを学んで、知識を溜め込んで、判断できるようになり、
経験を積んで、こなしていって、一応の自在性が備わって、
その上でカン直感と霊感が冴えるようになり、
そしてその先は「占わず」ということになるのだろうが、
自動的に次元が上がっていくわけではない。
そこで易神さんに「卦読みの次元を上げるには?」などと問うとどう答えてくれるのだろうか。
返ってお説教されてしまうのだろう、実用知識を与えてくれるのだろうか、
白々とお前の勝手にしろと突き放されるのだろうか。
わざわざ問うまでのこともなく、意欲を持続してやっていけばいいだけかもしれないが。
83 :三年生:2009/02/02(月) 23:04:58 ID:JbxQJe57
卦読みの次元を上げるには?
坎。―
巽。‥
兌。‥
離。‥
艮。―
兌。‥
山水蒙の不変を得る。
84 :三年生:2009/02/02(月) 23:27:45 ID:JbxQJe57
>>83
勉強の卦です。もっと努力してください。
既に勉強している積もりです。
易経は道徳の教科書でもあります。虚心に九二に教えてもう態度が欠けています。
すみませんが、そういうのは私の最も嫌う解釈です。何か他のをお願いします。
86 :名無しさん@占い修業中:2009/02/03(火) 09:36:26 ID:3X6RI/Iv
珍しくシンプルな読みしてますねw
蹇と革が何だろう。なんだと思います?
蒙は、腑に落ちたらまたいらっしゃい、と(易神が?)言ってるのだと思う。
87 :三年生:2009/02/03(火) 22:54:27 ID:Ofypbz0m
>>83
卦読みはどこまで行けばいいのかと思うところを記せば、問いの実体に到達してその行方を見ればいいのではないかと思う。
さて、
山水蒙は、山のふもとに湧きい出る泉や、山中に浸透した行方知れずで隠れた水、水脈が突如滝となり現れ流れ落ち、あるいは
濁流となって姿を現すともとれる。
即ち、
この源泉や隠れた水脈や滝や渓流が「卦読み」に該当する。これは二爻陽で坎の主爻となっている。
二爻は山水蒙の五爻に応じていて、五爻を読解力の各人の「次元」とする。
不思議なのは之卦が無いこと。これがこの得卦の肝心なところと思う。
通常ならば、泉やチョロチョロの流れが大河となって海へ注がれていくとなるところだが、
之卦への動きを見ないでいいという御告げに感じる。
主爻に水山蹇などを持っていて更にその感じは強まる。
坎の流れる方面をどうするのだろうか。
問いには次元の上昇とか成長とかの意味が含まれているのに、坎をどうしようか。
88 :三年生:2009/02/03(火) 23:19:52 ID:Ofypbz0m
>>83
不変卦なら不変のままにしておこう。
余計なことは考えずに、後の大河だとか大家だとか大げさなことにするな、というお達しかもしれない。
つまり、
泉自体、各人の源泉自身に既に我々各人の読解力の次元が内包されているので、それを考えろということかもしれない。
もしそうなら、ことさら蒙昧初心者迷うものという意匠を取るとしても、
それがどうなるとかは一先ずあっちへ置いておくことができる。
わたしは三年目に入る三年生だが易の先生も大家も「童蒙より我に求む」は等しく当てはまるとしてよい。
先導者を求めたり、良い理解者を探したりして、成長する流れをあてにする線も消してしまおう。
そこで何が残るといえば「(無知な)私」だけになる。
ソクラテスも無知な私といい自身を知れといっているくらいだから、
大家達をも無知と呼んでも問題はないだろう。「私はいつも初心者」という人もいるくらいだから。
89 :三年生:2009/02/03(火) 23:30:41 ID:Ofypbz0m
>>83
私の場合には、卦読みの読解力を上げたいという下心があって卦を取ったわけだが、
その答えは「汝、自身を知れ」というとになりそうだ。
本卦(山水蒙)、之卦(水山蹇)、互卦(地雷復)をまとめて、箴言風に言うと、、
汝自身の無知を知れ、
自己の判断に凝り固まるなかれ、
常に初心に戻り努力せよ。
こんなことになりそうだ。
91 :三年生:2009/02/03(火) 23:53:04 ID:Ofypbz0m
>>86
今回は天人地も爻卦群も見ていません。もっぱら、不変の本卦+主爻だけでした。
革がありますが、まだ何も感じていません。
92 :三年生:2009/02/04(水) 00:16:36 ID:IZHgUH5+
>>86
>>88で先達(あるいは易神)に対する関係はなくてもよいと言っています。
さすがにこれを書いたときは自分でもちょっとおかしいと思いました。
しかし文書の勢い上そうなってしまって訂正しませんでした。
その後>>86さんの書き込みを見て参考にしようと、二爻と五爻の関係など探しているうちに、
山水蒙五爻を大成卦の主爻とする、山雷頤の五爻を見つけました。
箴言風の結論の範囲内にあるように感じています。
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皇太子妃の歌
2009/2/25(水) 午前 4:20易占いで行こうその他占い
75 :三年生:2009/01/26(月) 00:48:31 ID:v2WxxLin
前に>>29で「表層を問えば表層を。深層を問えば深層を答える。」という意見をいただいたことがある。
今回は問いの言葉に深層心理という言葉を入れてみた。
歌会始。皇太子妃雅子。
『制服のあかきネクタイ胸にとめ一年生に吾子はなりたり』
この歌より皇太子妃であることへの深層心理を問う。
乾--。。。。。。。。。。本卦--風天小蓄+火天大有
乾--乾為天、。。。。。。之卦--地火明夷+乾為天
離--天火同人、天火同人
坎--火水未済、天水訟、、天水訟
乾--水天需、、火天大有、乾為天、、乾為天
艮--天山遯、、水山蹇、、火山旅、、天山遯、天山遯
を得た。
76 :三年生:2009/01/26(月) 18:34:44 ID:v2WxxLin
>>75
爻卦の半分が乾。
乾で水と火がくるまれる。
実体の乾と空虚の乾、権威の乾と虚飾の乾、
神、みかど、祀りごとに対する乾と空な、実が伴わない、形がない乾。
天山遯、水山蹇、火山旅、天水訟、心底から嫌がる思いか。
例えば、理由の分からぬ儀式しきたりと結婚してしまったこととの繋がり。
どのように歌と通じるのか。
制服を着る、ネクタイを締める、「とめる」の意味。
なぜ「あかき」色が目につくのか。赤は反抗の象徴か。
天火同人は救いを求めるのか、同人たれと要求されているのか。
それさえも、乾為天に制御されているのか。
77 :三年生:2009/01/26(月) 20:38:52 ID:v2WxxLin
>>75
本卦風天小蓄の中の「密雲」が主爻火天大有、大いにある。
何が大いにあるのか、その内容は天火同人、「人に同じうする」。
この「天火同人」は四位爻卦群にあるそれではなく、以下のように取得した。
75の縦の列中央にある、天水訟、乾為天、火山旅はそれぞれ上三、五二、四初の応じる卦(応卦)でできている。
五二は家人卦でいえば、厳君。
上記を通常の得卦のように並べて爻卦として、上から、乾坎(天水訟)乾乾(乾為天)離艮(火山旅)、を得る。
それらの主爻から、(陽陽陽陽陰陽となって)、応卦群の応卦本卦(天火同人)+(之卦)をつくる。
この中筮では爻位の応否を見るのに、卦を作って新たな相応関係の視点を得ている。
78 :三年生:2009/01/26(月) 21:18:22 ID:v2WxxLin
>>75
「制服のあかきネクタイ胸にとめ」
「赤」の心理。生命力、攻撃的、自分をアピール、情熱的、革新、、、
憎しみ、怒り、恨み、、、
ピカピカのランドセルでも、靴でも、身分証でもよかったが、歌では制服とネクタイになっている。
制服もネクタイも、規律、規制、既成、従属、同一同人、、、
「胸にとめ」、動かない、止める、留める、締める、絞める、閉める、、、
とめる立場ととめられる立場、あかきを持ってとめとめられ、あかきを持つことを留めとめられ、、、、
これらを主体側、能動側からと客体側、受動側から見る。
ただし、之卦は地火明夷で、赤は沈み込む
その動詞的表現は「なりたり」
二位爻位ある水天需は何を待つのか。ある種の密約か。
79 :三年生:2009/01/27(火) 18:05:15 ID:oiQKdsKl
>>75
歌と卦の接点を探すと
「あかきネクタイ」の赤色が目につく。
風天小蓄三四五の離、赤、は乾に囲まれている。四は離と巽の主爻でもある。
之卦では離は地下に落ちる。
下卦の乾は離になって、空洞化する。
上卦の巽は巽順の美徳礼儀が坤となって地につく。
爻卦に三つもある乾はすべて地火明夷となる。
「胸にとめ」を写真で見ると制服に付属する輪に通してタイを固定してある。
子供は従うことを元とするが、「とめ」とは、子供に巽順を要求しているのか、
その反対に子供に離の「あかき」思いを胸を通して手渡すともとれる。
80 :三年生:2009/01/29(木) 17:43:27 ID:mcec2/KI
>>75
「あかき」は「丹き」で、夜明け前のほの明るくなってきた様子という。
81 :三年生:2009/02/02(月) 00:33:38 ID:JbxQJe57
>>75風天小蓄
五陽爻を六四の陰が留める。
密雲雨降らず、降らせず、降らしたくない、早く降れ、降ればいいのに、、
上爻。陽。天皇。。。乾。帝。
五爻。陽。皇太子。。乾。父。
四爻。陰。雅子妃。。離。火水未済、小狐。
三爻。陽。宮中関係。坎。いじめ、いびり、火水未済、小狐。
二爻。乾。家族。。。乾。信。
一爻。陽。国民。。。艮。待つ。
(三四でグルと解するのも可能か)
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易神さんの要求
2009/2/25(水) 午前 4:18易占いで行こうその他占い
68 :三年生:2009/01/24(土) 04:58:36 ID:PDUiNVZw
わたしは易神さんの存在を設定しているので、卦を出すことについてときどき彼の意見を聞きたく思うことがある。
得卦はわれわれによって解読されるが、易神さんはわれわれの解読を見てどう思っているのだろうか。
出た卦に何らかの態度とか、注文とか、易神さん自身の意見とかがあるのだろうか。
見事な解をする大家がいて、教科書の反復でしかない解があって、自分の経験の範囲内で相手を否定する解があって、
まぁ、とにかくいろいろとある。
易の性格として仕方ないことなんだろうけど、>>35 、
得卦は相談者の意向に沿うとか、解読者に勝手な解釈をしないでもっと精進しろとか、そういったことを言うつもりは無いのだろうか。
せっかく卦を出してくれるのだから、易神さんが一言言ってくれたらうれしいのだけど。
69 :三年生:2009/01/24(土) 05:10:34 ID:PDUiNVZw
>>68
そんなことを思いながら、易神さん自身の要求する解があるのかとか、
われわれがあれやこれやの相反する解などを出すことにどう思っているのか、問うてみた。
坤--。。。。本卦--地天泰+風天小蓄
巽--。。。。之卦--山火賁+地天泰
巽--。
艮--。
乾--。
艮--。を得た。
71 :三年生:2009/01/24(土) 17:20:09 ID:PDUiNVZw
>>69易神さんから見た得卦の性質
A-地天泰は消長の基本卦となっているが、下卦乾の爻卦艮乾艮の構成から、上下の動きを止められている乾として、
動きなく、安泰、中立を保っている、無色透明とし、消長の観点を排除する。
B-之卦への配慮、消長の観点を考慮する。。
として、AB両者とも取り入れることになる。
占的を易神さんから見た得卦の性質としましたが、結局はわれわれが解釈するのでここでは私の解と言う事になる。
いい加減だ逸脱しているという誰かの声も聞こえますが、、私の解、非難の解ともに許容する易神さんがいることを
示せればいいと思っている。正解誤解の我々の理解の元を提供したのは易神さん自身です。
さて、、、、、
72 :三年生:2009/01/24(土) 21:49:48 ID:PDUiNVZw
>>69易神さんから見た得卦の性質
易神さんは動かない地天泰Aと動く地天泰Bを提供してくれた。
A。動かない地天泰といっても接点はある。下卦だけの易卦はないからここではもちろん上卦地との接点を言う。
相手は地でそれは現実を指し、現実とは今の占的においては我々の頭脳意識易占解読行為を指す。
ここに出された卦としてガンと存在する無色透明無味無臭客観的に中立な状態である卦があり、
それを見ている人間たちとの接点があるということです。
下卦の成り立ちは艮乾艮で三爻二爻で山天大蓄をつくり、二初爻で天山遯を作っています。
大蓄は「家食せず」とあり、家食する前提があるので、外との交流なく家の中で充足していることで
卦は卦としてそこにあるだけの意味です。(そこに意識が向かえば隠れた宝の山がある)
初二爻での天山遯は、易神さんの与えた卦のあり方を示し、「世を逃れている」、つまり、
我々の解釈の色付けから独立して亭通を得ていることを示している。(そこに意識が向かうと小人としてしか係われない)
こうして出された卦は当面は易神さんだけのものとしてそこにあります。
(そこに意識が向かえば、陰影の形跡しか見つからない。)
そのような卦であってもひとたび我々が意識すれば、接点は面となり頭をもたげざるを得ないものとなる。
己を隠していた謙虚中性の艮だった卦が、暫時目覚めていくのが一位爻卦群で、その
中核エネルギーとなるのが、主卦の主爻風天小蓄の「密雲」です。
密雲とは我々の意識内にある知識判断内容のことを指す。
73 :三年生:2009/01/24(土) 22:45:02 ID:PDUiNVZw
>>69
地天泰その一。卦を解する意識が固定してしまうこと。
地天泰の接点には次のようなどうしようもないこと(不可抗力)が内包されている。
地天泰二爻変。
地天泰は天と地、陰と陽、卦と解読等が、半々、釣り合っている、上下が同様のものであるという意味がある。。
そこで卦を見ればその解釈は自分の考えと同様なものと思う、あるいは卦は自分の知識と同一なものと思えてくる。
今までで得た知識経験で既に納得してしまい、解し終えたとしてしゃべりだす。
これはどうしようもない。
少なくともしゃべったことの幾つかは的を得ていると思い込む。(形の上では二爻中を得ている)
地天泰上爻。
そうなれば当然、自分の知識とその推量は勉強知識、経験にって築き上げてきたものだから、
卦と同一であり的を得たものであって、無言の卦が発言をし始めるように感じるて、
通ると主張していくことになる。
74 :三年生:2009/01/25(日) 22:44:46 ID:n3NsGR/w
>>69
地天泰の主爻は風天小蓄で、爻卦の五爻と二爻より成る。
得卦の五二爻より主爻が成ることを風火家人の卦に例えると厳君卦となって、
全面的に風天小蓄の内容が地天泰を制御しているといってよい。
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オバマ大統領
2009/2/25(水) 午前 4:15易占いで行こうその他占い
58 :三年生:2009/01/21(水) 16:54:42 ID:4KNKWRu3
「易経総合スレ」からの引用。
708 :名無しさん@占い修業中:2009/01/20(火) 22:03:55 ID:CLu/TLWz
「オバマ大統領の就任式。無事成功するか?」を中筮で占う。 雷澤帰妹之卦地雷復 上爻より離巽乾兌乾震
「歸妹、征凶。无攸利。」思わぬハプニングが起りそうな。震はオバマ、兌は観客とすれば、キャパを超える観客が原因か?
之卦が地雷復なので、一時的なものだと思うけど。
引用ここまで。
就任式は小一時間ほどで終わり中継を見てる上ではその後の式典が続いていた。
この708さんは「ハプニング」を予断したが、テレビでは観客との間には見つけられなかった。観客はむしろ一言も声を発せず
聞き入るところもあったくらいだ。
ところで「就任式。」という場合占的は何だろうか。
開催者運営主体は?(上院議長か?)(最高裁判所長官か)(大統領就任式実行委員会か)。
オバマ自身ではない。聖書の神でもない。もちろん観客でもない。
わたしはしらない。708さんも知らないと思う。
59 :三年生:2009/01/21(水) 19:23:28 ID:4KNKWRu3
>>58就任式
占的の中身を知らなくとも易は答えてくれる。それが長所でもあり短所でもある。
易は象で返答するので、読みは十人十色になる。
708さんのは事故や混乱を念頭に置いたように見える。
中継では確認できなかったが、事故混乱喧嘩等ハプニングがあったろう。
テレビに映らず新聞にも出ないだけかもしれない。
救急車のサイレンが聞こえていたからそういうことはあっただろう。
あったとしてもそれに係わった人間はごく少数だろう。多くの救急隊員、警察官兵隊には、
観客同様知らないことだったろう。
「キャパを超える観客」による混乱はあったろうし、「ハプニング」はあって当然だろう。
二百万も集まれば何かあるだろう。しかしそこで爆発があったとしても、何人の人に影響があるのか。
就任の宣誓は行われなければならないのだから続行されるだろう。
宣誓と承認を行うための「式」なのだから。
もしそうならば爆発があろうと「就任式。」を乱さなければ関係なかろう。
卦にハプニングを読んでも爆発を読んでも、オバマの宣誓、就任の式とは関係ないことになる。
60 :三年生:2009/01/21(水) 19:47:17 ID:4KNKWRu3
>>58就任式
では「就任式」に関する本質に内容に関する知識が必要なのだろうか。
つまり易はそこから、本質次元から返答してくれるのだろうか。
易は本質次元から返答するからこそ、そこから末広がりになり、百人百色の解読を許し
それぞれに「当たり」の御褒美をくれるのだろうか。
薄められ繋がりが希薄になっても末広がりのおすそ分けがあるので、問いの内容本質を知らなくとも構わないのだろうか。
観客によるハプニングが場所取り喧嘩で、それがテレビに映ったとしたら、708さんの解読は当たりなのだろうか。
誰かが我慢しきれなく小便をするだろうと雷沢帰妹を占い、
その場面が確認されたらやはり当たりなのだろうか。
61 :三年生:2009/01/21(水) 19:51:27 ID:4KNKWRu3
>>58就任式
当所、宣誓の言葉の復唱でオバマがつまずいたことを、雷沢帰妹とむすびつけようとしていたが
62 :三年生:2009/01/21(水) 19:54:11 ID:4KNKWRu3
>>58就任式
書いていくうちに別の問題になってきたのでストップします。
63 :三年生:2009/01/22(木) 03:47:03 ID:ujfBhOGR
オバマ大統領。宣誓の言葉の復唱でつまずき最低の出だし。
就任演説を読んで卦を取った。
翻訳文だし、27歳のスピーチライターによる原稿にのっとったものらしい。流し読みしただけ。
問い。。オバマ大統領はどこまで自分の主張を通せるか。
巽--、、、、、、、、、、本卦--坎為水+坎為水
坎--風水渙、、、、、、、之卦--沢水困+風水渙
坤--水地比、風地観
兌--地沢臨、水沢節、風沢中孚
坎--沢水困、地水師、坎為水、風水渙
兌--水沢節、兌為沢、地沢臨、水沢節、風沢中孚
64 :三年生:2009/01/22(木) 04:01:19 ID:ujfBhOGR
>>63 オバマ
第一印象は、坎、坎、困、困難難関
風水渙はプラスかマイナスか
坎四爻ー剛柔交わればなりを、九五陽の傀儡尻拭き役なのかという感想が出た。
65 :三年生:2009/01/22(木) 17:12:01 ID:ujfBhOGR
>>61宣誓式
読売新聞。「就任宣誓のやり直しは、ホワイトハウスで21日夜に行った。
20日の「本番」では宣誓のことばを最初に述べるロバーツ連邦最高裁長官が
「誠実に大統領の職務を遂行する」と言うべきところを、「大統領の職務を誠実に遂行する」と語順を間違え、復唱するオバマ氏が言いよどんだ。
「易経総合スレ@708の卦」>>58
離--、、、、、、、、、、本卦--雷沢帰妹+天沢履
巽--火風鼎、、、、、、、之卦--地雷復+風雷益
乾--風天小蓄、火天大有、
兌--天沢履、、風沢中孚、火沢けい
乾--沢天夬、、乾為天、、風天小蓄、火天大有
震--天雷无妄、沢雷随、、天雷无妄、風雷益、火雷噬ごう
初位天雷无妄--沢雷随。メモを持たないで暗記しているとした宣誓の言葉に従って始めることから、
つっかえて火雷噬ごう、「おい大丈夫か」二爻位天沢履、、というオバマの声が聞こえそうな、見事な配列を持った卦。
わたしは当所オバマの間違いとして読んでいた。508さん大当たり。
67 :三年生:2009/01/23(金) 01:28:07 ID:LVdVMGrN
>>63 オバマ
63の副卦として、大統領首席補佐官ラーム・エマニュエル(イスラエルとの二重国籍らしい)に
関して「吉と出るか、凶とでるか」で、
卦をとったところ、風水渙の沢風大過へ、の卦を得た。
風水渙は63の之卦の主爻となっている。
アメリカ政治に詳しくないが、アメリカ帝国皇帝に貢ぐのがオバマの役割で、
人気とり用に少々のことをやらせてもらえるが、それ以外は別の政治になる。
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易の欠点
2009/2/25(水) 午前 4:11易占いで行こうその他占い
57 :三年生:2009/01/20(火) 04:47:15 ID:B+UhTmC+
>>35。。易経総合スレから見つけた同じ占的。
522 :名無しさん@占い修業中:2008/11/12(水) ついでに、「易の欠点」について卦を出してみました。
沢地萃の四爻--大なれば、吉
四爻は艮、相談者の行き止まり、の主爻
それは坎水に囲まれていて、相談者は困難を訴えている。
---------。
>>35 ではこうなっている。
35 :三年生:2009/01/11。易が自分自身で語る易の弱点とは何か。2008.3.9.
兌、巽、坤、兌、坤、坤、で坤為地の雷沢帰妹へ
兌--、、、、、、、、、、本卦--坤為地+風地観
巽--沢風大過、、、、、、之卦--雷沢帰妹+地沢臨
坤--風地観、、沢地萃
兌--地沢臨、、風沢中孚、兌為沢
坤--沢地萃、、坤為地、、風地観、沢地萃
坤--坤為地、、沢地萃、、坤為地、風地観、沢地萃
-------------。
易経総合スレの524返答。 :名無しさん@占い修業中:2008/11/12(水) 21:30:50 ID:ihTnLlqx
易が焦点ではなく、使う人のほうが問題なんじゃない。 易に手足が生えて、勝手に動き回るんじゃないんだから。
あと、易って人の不幸を占ったりするものっていう決め付けが 浅いと思うよ。開運の道具とかなんで範疇狭めるのかなあ?
沢地萃の四爻--大なれば、吉 。これってそういうこと言ってるんだよ。