富士山(フチの美しい山)
2009/11/2(月) 午後 10:00言霊。コトタマ。コトタマ学。その他占い
誰でも知っている富士山だが、その名前の由来は明らかでない。(この世の中そんなことだらけだが)
そこで易の神通力が通じるかやってみた。
漢字で書かれた富士山の説明にはうなずくことが多いが、ひらがなで「ふじ」と書き清音で「ふし」と発音すると、どうしても富士山の印象とはならない。
「ふ」も「し」も勢いのない静かな音で、なぜふじと名付けられたのかが出てきそうにない。どっしり静かに鎮座する姿としても、その雄大さ圧倒される感じが出てこない。(遠近もあるが)
「ふっ」と吹き飛び吹きすさぶ、「フー」と息をつく、「ふ」には力強さが不足している。
富士山の「ふじ」の由来を問う。
巽‥
離‥風火家人
離‥離為火、、風火家人
離‥離為火、、離為火、、風火家人
巽‥火風鼎、、火風鼎、、火風鼎、、巽為風
乾一風天小畜、火天大有、火天大有、火天大有、風天小畜
地雷復の初爻変で坤為地
艮為山なら山の姿だが、地雷復はその反対。逆さ富士の姿。
それが坤になってしまう。
初爻は根本から変化したことを示す。
古代から既に富士山と呼ばれていたらしいが、それ以前の名称があるということか?。
不死、不二、士富、等の漢字の意味を受け入れる以前に、富士山という事象と精神宇宙が感応していた概念的でない名前があったということか?
坤には衣はかま衣装の意味があるが、目前にそびえ立ち自分に覆いかぶさる布を拡げる感じもある。
あるいは噴火噴煙の経験もあって名が付けれていたか。
いまこんな文章を見つけました。
「富士山は古くは、「フヂ」もしくは「フチ」と呼ばれていたようで、富士の古い神社で元は現在の浅間大社(富士宮市)の地にあったのが、富知神社です。富知神社は現在は「フクチ」じんじゃと呼ばれていますが、延喜式(延喜式神名帳)では「フヂ」と読めるようです。」
「ふち」縁、淵、富士山の美しく長く立派な稜線からきているらしい
富士山と逆さ富士。地雷復。みとれるその稜線。
これなら之卦の坤為地の大地の稜線を盛り上げれば富士山になる。
「ヂ」は「チ」の収まった形、。(地震、噴火、噴煙の経験があった)
長く立派な稜線「フチ」が収まり、美しい「フヂ」になった。
それが、「フチ」、→「フヂ」、→漢字の影響で「ふじ」→「不二、不死、富士へ」
追加。
「富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ。」(ひふみ神示)
得卦の中央は離だらけ、何を意味しているのか?。
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天津日嗣天皇あまつひつぎすめらみこと、世界の精神指導者、は将来実在するか。
2009/10/31(土) 午前 6:38言霊。コトタマ。コトタマ学。その他占い
天津日嗣天皇あまつひつぎすめらみこと、世界の精神指導者、は将来実在するか。
震一
巽‥雷風恒
乾一風天小畜、雷天大壮
坤‥天地否、、風地観、、雷地予
震一地雷復、、天雷元妄、風雷益、、震為雷
巽‥雷風恒、、地風升、、天風姤、、巽為風、、雷風恒
火水未済の3-4変で山風蠱へ
今のところ卦のみ提供。
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歯がゆさからの脱出法
2009/10/29(木) 午後 6:21言霊。コトタマ。コトタマ学。その他占い
私の、せっかく良い卦を得たと思えるのに解読できない歯がゆさからの脱出法は何か。
空白九八九で得た卦を十分に解読できない。どうしょよう。
経験知識頭が足りないというだけなら勉強習得学習に頑張ってね、というところだが、
それを超えたい所に心がある。知識ある人なら解けるだろうが、所詮はその人の経験内での解でしかない。
前経験を0として、
12345678を通って、
新次元に行く、
その方法を、空白九八九の得卦に関して問うてみたい。
坤‥
艮一地山謙
坎一山水蒙、、地水師
乾一水天需、、山天大畜、地天泰
巽‥天風姤、、水風井、、山風蠱、、地風升
巽‥巽為風、、天風姤、、水風井、、山風蠱、、地風升
沢山咸の3-6変で天地否へ
調和、愛に感応すること、
と同時に今まで経験的に出会った事共を放棄すること。
愛と調和に感応することっていうのは、経験や知識でどうにかなるものじゃない。
理解したって始まらない。
心に感じることだから。
おやおやさらに難しい。
でも、どうもありがとうございます。
少しは理解、いや、感応しています。
ここから引用。
『心の規範である言霊の学問が人々の心の中から忘れ去られたということは、迷わなくてもいいことを迷っている。じゃあ、その迷いからどう覚めたらいいのか、迷うことは仕方がないことなんだと思えばそれでいい。
どうしたら、どのように、そのように考えることがもう迷いから抜け出なくなる。原子物理学者は迷うことが研究を進めることだとしておりますから、分からないから、迷うから、真理に近づくとハッキリ言っておりました。これは悟りですよ、ある意味。
でも、物質科学の先天構造の仕組みが見えてきたから言えることで、初心者の科学者はそういうことを言えない。それが心の構造でも同じ仕組みであるのなら、もう明白でしょ。
迷うことを迷わなくしようと思うと、尚更迷う、迷うことは一歩真理に近づくことなんだと捉えれば、苦しい迷いはない。何回も何回も繰り返していくうちに元に戻ればいいこと。』
-----------------------
十一月四日の追加。
今後の易の勉強は
離‥
兌‥火沢睽
乾一沢天夬、、火天大有
坤‥天地否、、沢地萃、、火地晋
坎一地水師、、天水訟、、沢水困、、火水未済
兌‥水沢節、、地沢臨、、天沢履、、兌為沢、、火沢睽
雷水解三、四爻変で地風升へ
経験知識による知解理解の追求は止めよ。
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空白とは九八九であるぞ。
2009/10/29(木) 午前 3:24言霊。コトタマ。コトタマ学。その他人文科学
ひふみ神示
五十黙示録 第一巻 扶桑の巻 第四帖
『ツミケガレ 今はあらじと はらえ給ひそ。
空白とは九八九であるぞ、八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ、空白とは最も根本を為す最も力あることであるぞ。』
面白いごろ合わせを見つけた。
空白とは九八九である。その心を知りたい。
坎一
兌‥水沢節
坤‥沢地萃、、水地比
坤‥坤為地、、沢地萃、、水地比
震一地雷復、、地雷復、、沢雷随、、水雷屯
兌‥雷沢帰妹、地沢臨、、地沢臨、、兌為沢、、水沢節
で山水蒙の3-4爻変で火風鼎へ
-----------------------------------
蒙を開く=次元の上昇
9を0とするひふみ数学よりして
九--八--九=0--8--0のこと
0--12345678--0の略されたもの。
「八と九、九と八の境をひらく」というのはどういうことか。
八から九は数字の順番として一つ上がるので分かる。
ひふみ九九のどの段のどこでもいいが、縦か横を足すと九になるので、九が八つ0を通過して九になる、0--8--0。
では九と八の境とはなにか。
この八は次の次元の八つのことか。?
0--12345678のことか。?
『八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ、空白とは最も根本を為す最も力あることであるぞ。』
岩戸を開くとあるが、天照を引っ張りだすこと。
最も根本をなす最も力あることが空白だという。
山水蒙は拙い幼稚で蒙昧と外面を持つが、童蒙より我に求む、とあるように内面に自己を抜け出そうとすく意志を秘めている。
8は易でいえば八卦に相当するだろうし、全八卦を通過して次の段階へ行くとか、芽を出すとか。
八卦を現実の全場面と言い換えればそうも言えるし。
難しい。
361 : :2009/10/28(水) 23:56:44 ID:yHANtr95
難しいので最後に出来る図だけにします。何か感じた方はどうぞ。
乾兌離震巽坎艮坤
兌震坎坤乾離巽艮
離坎0離坎0離坎
震坤離艮兌坎乾巽
巽乾坎兌艮離坤震
坎離0坎離0坎離
艮巽離乾坤坎震兌
坤艮坎巽震離兌乾
魔方陣の一つですが、「河図」、「洛書」の原型、フッキが日本留学から
持ち帰った易思想の原型を示すものらしいです。
362 : :2009/10/29(木) 03:41:08 ID:21/86g3t
ひふみ神示、五十黙示録 第一巻 扶桑の巻 第四帖
『ツミケガレ 今はあらじと はらえ給ひそ。
空白とは九八九であるぞ、八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ、
空白とは最も根本を為す最も力あることであるぞ。』
面白いごろ合わせを見つけた。
空白とは九八九である。その心を知りたい。
坎一
兌‥水沢節
坤‥沢地萃、、水地比
坤‥坤為地、、沢地萃、、水地比
震一地雷復、、地雷復、、沢雷随、、水雷屯
兌‥雷沢帰妹、地沢臨、、地沢臨、、兌為沢、、水沢節
で山水蒙の3-4爻変で火風鼎へ
-----------------------------------
蒙=次元の上昇、小さな川が山に阻まれて行きどころを失う。しかしその後がある。
9を0とするひふみ数学よりして
「空白」九--八--九=0--8--0のこと
0--12345678--0123、、、の略されたもの。
無いことから有ることが無いことへ、
有ることから無いことへ、そして充実することへ、の両者
メモだけ
363 : 空白:2009/10/29(木) 17:22:51 ID:21/86g3t
空白
九(0)--八(8)--九(0)と361
361の縦の段でも横の段でも任意の段の卦を足すと0になる。
次元段階時間空間の上昇の始め、無いことから有ることへの始めを前0とすると、
次元時間空間の物事は八段階を通過して次の新0次元へいく。
ここは易の話の場ですからそれを易に変換しなくてはならないが、誰か何かを感じた方はいますか。
361の四隅が乾兌離震巽坎艮坤で囲まれていることの意味は何でしょうか。
364 : 空白九八九:2009/10/29(木) 17:32:59 ID:21/86g3t
『空白とは最も根本を為す最も力あることであるぞ。』と言われています。
362の卦を読んでいかなくてはならないが、難しい。
一爻卦群は今までの通常の思考法
二爻卦群は一爻卦群を放棄して日本古来の方法へ進めよ
三爻卦群はその手始め
四爻卦群はなすべきこと
五爻卦(群)は新しい秩序
これらを通過して山水蒙を見ていくと、
無知蒙昧でそこで留まる事ではなく、通る求むる等が出てくる
365 : 空白九八九:2009/10/29(木) 17:45:33 ID:21/86g3t
『空白とは最も力あること』
山水蒙が最も力あることに関連づけられていますが、その源泉を探さなければならない。
丁度うまい具合に芽を出す勢いを持つ水雷屯がある。
一つ所にまとめる火風鼎なっている。(0)だ。
超素晴らしい得卦の予感がしてくるのに、解度できない歯がゆさ。
参照した頁。http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/syougen1.html
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『先天構造から出発して』を問う。
2009/10/29(木) 午前 2:51言霊。コトタマ。コトタマ学。その他人文科学
問筮3。
『 言霊十七個で把握された心の先天構造から出発して、人間誰しもが持っている四つの次元の心の性能、即ち欲望、経験知、感情、選択知の典型的な構造を求めていきますと、最終の結論としてどの次元についても言霊五十個によって形造られた五十音図表が得られることとなります。』 の『先天構造から出発して』を問う。
乾一
巽‥
乾一
坤‥
坎一
乾一
火沢睽の1-3-4-6変で地風升へ
ーーーーーーーーーーー
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天の岩戸開き、天の手力男の命は誰がやるか。
2009/8/30(日) 午後 8:29言霊。コトタマ。コトタマ学。その他占い
天の岩戸開き、天の手力男の命は誰がやるか。
外国勢か、日本の学者か、皇室自身か、民間人か、あるいは物質的な事象によるか、、、、、
坤‥
巽‥地風升、
坎―風水渙、地水師、
乾―水天需、風天小蓄、地天泰、
離‥天火同人、水火既済、風火家人、地火明夷
艮―火山旅、天山遯、水山蹇、風山漸、地山謙
雷火豊の3-6爻変で火雷ぜいごうへ
現状、秘密裏に皇室自身において事が進行中と読めた。
進行中といっても皇室が自覚的に事を進行させているのかどうかは分からない。
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宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神
2009/8/22(土) 午前 1:09
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神
宇摩志・・可美(日本書紀)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
「ウマシ」は「うまし国」などというのと同じで良いものを意味する美称
良いものを心に感じて讃める語。形容詞シク活用の語幹
美味い、上手い、巧い、甘い。うまは伊勢神宮をはじめ多くの神社で神の使い。厩戸王子、蘇我馬子など、うまのつく重要人物名。古事記ではマイナーでも外宮に祀られているトヨウケさまの「豊受山」が宇摩にある
宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意
阿斯訶備・・
^^^^^^^^^^^^
「アシ」は葦、「カビ」は黴と同源で、醗酵するもの、芽吹くものを意味する。ここでは「アシカビ」で「葦の芽」のことになる。すなわち、葦の芽に象徴される万物の生命力を神格化した
「訶備」は「黴」と同源で物の発酵すること、芽ぶくこと
阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと
比古遅・・
^^^^^^^^^^
「ヒコヂ」は男性を表す語句
「比古遅」は、男性への親称
比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事
以上は引用で構成した。
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神とは何かの、易による回答は以下の通り。
坎―
坤‥水地比
坤‥坤為地、
巽‥地風升
兌‥風沢中ふ
艮―沢山咸
山雷頤の4-5変で天雷旡妄へ。主爻は水山蹇、地山謙。
山雷頤・・顎、飲食、言葉、
水山蹇・・悩み、留まる、→ 留まっている言葉→ 記憶。
天雷旡妄・・天真天命、自分勝手、望外のことまで。
地山謙・・信用、謙譲、内に自ら留まり外に従順。
本卦-主爻の山雷頤-水山蹇、及び之卦天雷旡妄-地山謙からすれば、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神は次のように解せる。
(未完)。
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菊理媛の神はイザナギに何と言ったか?
2009/8/14(金) 午後 7:34
菊理媛の神はイザナギに何と言ったか?
離‥
坤‥火地晋
坎―地水師--火水未済
坎―坎為水--地水師--火水未済
兌‥水沢節--水沢節--地沢臨--火沢睽
坤‥沢地萃--水地比--水地比--坤為地--火地晋
本卦・雷山小過--主爻・坎為水
之卦・沢火革----主爻・火沢睽
雷山小過は貴方と私は一線を画して向こうとこちら、あっちの世とこっちの世、私は私貴方は貴方、これはわたしの仕事それは貴方の仕事、というように互いの立場地位状況と時間に際立った違いがもたらせられる事。
沢火革は、その上でそれぞれが常に新たな行為に、仕事に励む事。
------
以上の事から物語る。
イザナミには二人の代理が現れて彼らに語らせています。
イザナギとイザナミはこの世とあの世の堺で立ち会います。
境に立つと半分は向こうの世が見えてしまうので、イザナミははそれを避けるため代理に語らせます。
当然、なぜ向こうの世を見ないのかも語られるでしょう。
まず、泉守道者が言います。
「 イザナミ神があなたイザナギに言いたいことがあるということです。
『貴方と共に国や子供を産んできて、その仕事は既に終わりました。どうしてこれからも同じような二人の生活ができましょうか。
私はこの国に留まってわたしの仕事をしていくのであなたと共にいく事はできません。』
といっております。」
と言い、
ついで、この時同時に、菊理媛の神が言いました。
「 ---------------- 」
イザナギはそれを聞いて喜びほめて納得した後、それぞれ分かれ去っていきました。」
日本書紀は以上のようです。
さて、
イザナギは黄泉国に行ったのは「つたなかった未練からだった」と自分の間違いを反省しました。
その時に、上記のことが起こっています。
そこでは『 いかにぞ更に生かむ事を求めむ、吾は此の国に留まりて共に去ぬべからず 』と、
非常に強い調子で、イザナミの今後の生き方方針が告げられる。
それはこれからのイザナミの変わる事のない主体的な生き方のイザナギとの決別宣言でした。
イザナミの主体的な生き方は伝えられたが、主体的な希望欲望を述べられても納得するには不十分であり、
イザナギの喜びを誘うまでには至らない。宣言など誰にでもできる事で、口先だけかもしれない。
そこでその時同時に菊理媛が言うこととなる。
「 美の命は黄泉の国に戻り留まり、ご自身の仕事を続けて生きていくことを主体的に宣言されました。
ついては続いて申されることには、
『 このわたしの仕事はイザナギの命様とは関係なく私独自の方法において結果を導き成果を出してまいります。』
と申しております。」
イザナギはそれを聞いて納得し、喜んだ。
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古事記と占い。
2009/6/11(木) 午前 2:44言霊。
古事記と占い。
わたしは易経による占いの書庫もあって、そこから少し引用してみます。
2009年一月の占いから。
『 易の起源は日本の言霊原理にあるか。言霊原理のコピーか。
乾坎震坤巽艮で山天大蓄の火風鼎へ
大蓄は現在において乾を山中に抱く象。=乾は日本の言霊原理。易は言霊原理を真似たもの。
主爻山水蒙を真似るとした。
之卦は中華式料理法。
上爻と五爻で山風蠱、「闇の後に満月来る」立派にコピーができた。』
当時はこれだけを書いただけでした。
ちょっと解説してみます。
艮―
巽‥山風蠱
坤‥風地観、山地剥
震―地雷復、風雷益、山雷頤
坎―雷水解、地水師、風水渙、山水蒙
乾―水天需、雷天大壮、地天泰、風天小蓄、山天大蓄
山天大蓄の火風鼎へ。
山天大蓄は大いに止めてる、大いに蓄えているで、易経は言霊原理のコピーかという問いなので、はいそうです。易経は日本の言霊原理のコピーです、となります。
次の火風鼎は同じ釜の飯を喰うで、言霊原理と同じ釜の飯を喰っていますとなる。同じ釜の飯といっても、火風鼎の内容を示す風天小蓄です。風天小蓄は少々問題はありますが、といっています。
山天大蓄の内容の山水蒙は生徒が先生に教えを請うということです。
歴史的に言えば、易経の作者伏義は三千年前に日本に来て素晴らしいフトマニ言霊原理の教えを請い、それを元にして主客の意義を解することなく真似をして易を作った、です。
卦を出すだけでそんなことが分かるのでしょうか。
こんな卦も出しています。
『易が自分自身で語る易の弱点とは何か。』と問うたことがあります。その時の卦は坤為地でした。
坤為地は全部が陰爻で出来た卦です。
易が自分で自分を語るには、わたしは陰世界に生きているのだよ、ということです。
わたしはこれによって易は根本的にだめな部分を抱えていると知りました。(それにも係わらず今でも続けていますが。)
伊耶那岐の命は伊耶那美の命が先に口走ったため子供とならない蛭子を生み、淡島を生みました。
易とは蛭子の典型なのです。
それでもそれなりの存在理由があるので流布し続けています。
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言霊学と心、1。
2009/11/17(火) 午後 11:48易占いで行こうその他占い
わたし一人のために
『永遠に動かぬ今に立つ』
方法を問う。
兌‥
離‥沢火革
震一火雷噬嗑、沢雷随
兌‥雷沢帰妹、火沢睽、、兌為沢
坤‥沢地萃、、雷地予、、火地晋、、沢地萃
兌‥地沢臨、、兌為沢、、雷沢帰妹、火沢睽、、兌為沢
雷地予の二爻変で雷水解へ。
--------------------------------ありがとうございます。-----------------
ことにわたし一人のためにと断わりましたが、わたし一人の独占物ではありません。
-----------------------------------------------------------------------
第一章 天地の初発の時
古事記の神話は「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまはら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。……」と始まります。
この「天地のはじめ」を前文でお伝えしましたように「眼前に展開している大宇宙が大昔、何かの活動を始めた時」と、天体物理学や天文学が考える「宇宙の始め」と解釈しますと、「コトタマ学」の「コ」の字も現われては来ません。
ここでは眼の鱗(うろこ)を剥(は)がして、「心の内面の広い広い宇宙」なのだ、とお分かり下さい。この心の宇宙の「はじめ」となりますと、何もない心の中に「何かが起ころうとする時、」ということになります。
「何かが起ころうとする時」とは何時だ、と考えると、それは「今」だ、という答えが出て来ます。
よくよく考えてみますと、人間は常に「今、今、今……」に生きているということになります。
そうすると、そこは何処だ、と言えば、「此処」だ、ということになりましょう。
人間は常に「今、此処」に生きています。
西洋の哲学者スピノザはこの「今」のことを「永遠の今」と呼びました。
「若者は明日に希望を馳(は)せ、老人は昔に生きる」と言うじゃないか、と反論するかも知れません。
けれど若者が明日の希望を夢見るのは矢張り今であり、老人が昔を懐かしむのも今なのです。
そうと理屈としては分かるけれど、心中にしっくり行かない方も多いことと思います。
何故なのでしょうか。
仏教の禅に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉があります。
過去の心は既に過ぎ去ったもので、「これだ」と掴むことは出来ない。
現在の心といっても、次から次へと移り変わってしまうから、これも掴むことは出来ない。
未来心とはまだ来ない日の心なぞ尚更掴むことは出来ない。
どれもこれも空々漠々、確かにこれだ、ということが出来ない、ということです。
その常に移り動いている心からは、止まっていて、動かないものも、動いているように見えて、動かないものを、これだ、と指定することは出来ません。
要は自分が動いているから、すべてのものが動いて見えるのです。
若し何らかの工夫の上で、『永遠に動かぬ今に立つ』ことが出来るならば、その今・此処の中に、自分に関係する過去の一切のことが今・此処にぎっしりと詰まっており、その過去一切のものを活用して、今の一点に於て自分の責任で、自分の思うままに、将来への創造の第一歩を自由に踏み出す事が出来るでしょう。
矢張り禅の言葉に「一念普(あまね)く観ず無量劫(むりょうごう)、無量劫の事即(すなわち)今の如し」とあります。
簡単なようでいて、「今・此処」を掴むことは宗教修行の一生をかけた目的となっています。
常に前に前に進むことが善だと信じ、その結果「まだ、まだ」と現状に半分不足・不満の念を残す現代人が、比較的容易に今・此処の心を確保する方法をお伝えいたしましょう。
それは何時、如何なる時にあっても、「今、自分が置かれている状況は、自分にとってすべて必要だから起こっていることなのだ。
だから私は希望はどうあれ、これ等の状況一切を有り難く受け入れ、感謝の心で迎えよう」と心を空っぽにしてこれに対します。
すると案外、素直に自分の置かれた状況を冷静に受け止めることが出来るのを感じます。
そうしたら、自分を取り巻く状況の真実がはっきり見えて来るものです。
それによって対応する手段が心の中に次々に浮かんで来ましょう。
この方法はどんなに大きな事件についても活用可能です。
何故なら人々の心の本体は広い広い宇宙そのものなのであり、その宇宙の内蔵精神は愛であり、慈悲であり、人々は誰もがこの宇宙の心を心として生きていますから、感謝の念で物事を見ますと、物事の状況(実相)をよく把握することが可能となるからです。
ある先輩から聞いた話ですが、愛という字は「受ける」の字の中に「必ず」という字が入って出来ています。
愛とは人それぞれの本体である宇宙(これを言霊アと呼ぶのですが)が持つ基本の心なのでありますから。
大きな鏡の前に立ってみて下さい。
貴方はその鏡に映ずる容姿と、人としての経験、社会的財産、等々が御自分のすべてだ、と思っていらっしゃるのではないでしょうか。
若しそうだとしたら、それは大変な間違いです。
人の心は、眼前に見る客観宇宙と同じ広さの、内観される心の宇宙を本体とし、鏡で見る自我は、その宇宙本体から一瞬々々現出する現象の自我に過ぎません。
私達が今まで「自分」と思っていたのは、自我の本体ではなく、現われ出た現象の自我に過ぎないものなのです。
人がこの世に生きているということは、言霊の学問を学んで行く間に、素晴らしく大規模で現代人が夢にも思えない程精妙な生命が人類という大きな使命を持ったものの一員として、限りない生命を生き貫いて行くのだということを認識なさることとなるでありましょう。
神話の初めの「天地のはじめ」を解説するのに、風呂敷を広げすぎたかも知れません。
でもお話する私自身としては、人という生物がこの地球という素晴らしい天体の中で、今後人類が辿(たど)るであろう栄光の歴史をお伝えしようとして、これでも慎重に筆を動かしているつもりなのです。
言霊学とは、現代の原子物理学や、人間の遺伝子の学問と同様の厳密な法則を備えており、これを正しく操作・活用するならば、この地球上を環境的に、政治的、経済的に、また芸術的に真実の楽園たらしめることなど朝飯前の如く考えられ、心中ワクワクとしながら筆を執っているのであります。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no216/no216.htm
以上引用。
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量の変化をどう見るか。
2009/11/17(火) 午前 2:28易占いで行こうその他占い
。
。
量の変化をどう見るか。
乾一
震一天雷むぼう、
坎一雷水解、、天水訟
艮一水山蹇、、雷山小過、天山遯
艮一艮為山、、水山蹇、、雷山小過、天山遯
震一山雷頣、、山雷頣、、水雷屯、、震為雷、、天雷むぼう
乾為天の上爻変で沢天かいへ
乾上爻・貴くして位なし、進を知って退くをしらず、存するを知って亡びるをしらず
とりあえず得卦だけ。
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天の御中主(あめのみなかぬし)の神 と五十音言霊ウを如何にして結びつけたか。3。
2009/11/10(火) 午後 9:43易占いで行こうその他占い
天の御中主(あめのみなかぬし)の神 と五十音言霊ウを如何にして結びつけたか。3。
離‥
離‥離為火
坤‥火地晋、、火地晋
震一地雷復、、火雷噬嗑、火雷噬嗑
坤‥雷地予、、坤為地、、火地晋、、火地晋
巽‥地風升、、雷風恒、、地風升、、火風鼎、、火風鼎
地山謙二爻、四爻変で雷風恒へ。
前回はブルドッグの唸りとか、富士山の地中にいる気持ちだとか言い出した。
本能的、感情的、経験的に、そこから類推推察するとか、要するに既得の概念から始めようとするわけだ。
ところがここでは概念を生じている言葉「ウ」を問題にしているので、このままでは無いもので有るものを説明しようとしていることになる。
得卦を解読しようという以上仕方ないことだが、もしかして、易神さんはわたしに微笑みかけているものがあるのではないかと、ずるい期待がある。
せっかく浮かんだ考えなので暫く保持することにする。
地中に巽を潜在する気の働きと「天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊」の占いの項で見たわけですが、それならばそれがどうして「ウ」と結ばれるかというのが、今回の主題です。
もともと古代日本人一万年の歴史をたったの一二分でころころっと卦を出して見ようとするのはアホなことだと判っています。易は八卦の組み合わせしかないし、8×八×⒏×⑧×、、、、をいくら増やして数万の選択肢があるといっても、所詮は八からでる事はできないのです。
易をつくったフトマニの原理を易で解こうというのは、子供が父親の頭の中を見ようとするようなもので出来ない相談です。こうしていろいろな形容をしたところで、時間の無駄です。
-----------------
しかし、今回の五爻、六爻位で離為火なぞ造っているのは憎らしいかぎりだ。
「ムッ」とするが「ウッ」とこない。
ムとウもともにウ行に属していて、感情の低い段階に対応している。
ムが自分は客体として対照的に単なるあっちにいる相手として見られているにたいして、
ウは主体的な意志を持ちながら押圧されている感じを持つ。
ウの意志の発現の仕方によってさまざまな表現になるように思われる。
卦では5-6で離為火を与えられ「ムッ」と来るが、「ムッ」を受け取りこれはなんだ、どうしてだ、何事かと思うようになると、自分の無力を感じて何とかしたいと「ウッ」となる。
今「何とかしたい」と言ったが、これは古事記冒頭の「天地の初発の時」に相当する。
意識の目覚めが押し上げられてきたところだ。5-4、6-4の火地晋、火地晋みたいだ。
4-3の地雷復は目覚めだが、未だ離と震に内包されている形(火雷噬嗑)をしている。
何がか。それは何か。潜在先天的にある、または意志の次元で表現したければ、3-2-1爻卦群になるだろう。
さあこうして、本卦之卦というところで行き詰まる。残念。
地山謙を噴火する富士山が地中にいるというのはうまいひ譬喩だと思うが、その暗示呪示象徴表現に「天御中主の神」となっいることが、説明できない。
漢字を分解すればそこからする意味は受け取れる。
天御中主の神から言霊ウに行くことは出来そうだが、その逆は簡単ではない。
意識が「ウ」から始まるのは何とか分かりそう。
おそらく、御中主の「中」という漢字からくるイメージに縛られている野でないかと思われる。
ウの言霊とする、占的にまで行き着けない。残念。
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天の御中主(あめのみなかぬし)の神 と五十音言霊ウを如何にして結びつけたか。2。
2009/11/10(火) 午前 6:01易占いで行こうその他占い
天の御中主(あめのみなかぬし)の神 と五十音言霊ウを如何にして結びつけたか。2。
離‥
離‥離為火
坤‥火地晋、、火地晋
震一地雷復、、火雷噬嗑、火雷噬嗑
坤‥雷地予、、坤為地、、火地晋、、火地晋
巽‥地風升、、雷風恒、、地風升、、火風鼎、、火風鼎
地山謙二爻、四爻変で雷風恒へ。
最初に浮かんだイメージはブルドッグ犬が「ウーー」と唸る姿でした。
ついで山や活火山が地下で唸るになり、地鳴り地響きになった。
一万年前の古代人たちは自分が発音する音にどんな感情があるか、一つ一つ図っていったことでしょう。
それらの成果を持ち寄り発音と実物との相関を見いだし、言葉と思惟意志との実際のつながりを確定して入ったのではないか。
個人的には考えるとは何かに疑問を抱き、何故思惟行為があるのか、どのように操作して豊かな現実を創造していくの、創造する私の人生とは何なのか等をいろいろ考えたことと思う。
誰でも、と思う、青少年時代には考えとは考えるとは何かという抽象的な問題を抱いていた。現代の我々には単なる抽象的な取り止めもない人生問題でしかなくなっていたが、社会そのものの勃興期、そこに生きる人類の青年期を生きていた古代の人たちには、それこそ真剣な問題であったことだろう。
古代の人たちはそこでとうとう考えるとは何か、何故言葉で考えるか、何故言葉が通じるのかの秘密を解明してしまった。その原理原則を見つけ解明し操作し人間生活に応用する技術を見につけてしまった。
それは最終的には、自分が考えるとは何かから、自他との交流を双方とも無駄なく構築する技術を身につけて入った。それは次いで、集団と集団の維持に関することとなり、精神原理によるスメラミコトの行う政事にまでなっていった。
さて、占的は思考は何故始まるのか思考の始まりとは何か、何故、思考の始まりを言霊ウで古代の日本人は表現したかである。その始まりに天御中主の神と記載された書物が古事記だが、それ以前から古事記に至る数千にわたって、そして現在にまで、御中主の神は言霊ウであることが継承されている。
それがとりも直さず、誰でもウと発音したときに感じる元初への感覚だ。
この感覚を経験知識認知したこと共で表現したのが御中主の神である。漢字の知識が元となっている表現なので、漢字知識の垢がこびりついている。
得卦は地山謙で噴火する富士山が地中に押し込められた形で、その富士山の気持ちを見るわけですが、地中内で巽の気が運動し、振動し、揺れている之卦となっている。
離--天の御中主が卦では地中からのメッセージという形になっている。
離--離は火、日、霊であって先天的な言霊が地上にでる形。
坤--ここから下が地下活動、同時に地上地下全人間活動の元。
震--巽による霊振動。
坤--潜む気による、活動とその産物。
巽--御中主の神の前に天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊( あめゆずるひあめのさぎりくにゆずるつきのくにのさぎりのみこと )
易をやっているので仕方なく卦の解にカッコだけはつけた。
本当はこんなことはしたくないが、、、、、、。
((易人間は読みだとか解だとか卦の読解にうるさい。習得した知識と持ち合わせの理性の限りを尽くして最高の解釈を提供して、問題を解決していこうとする。
助言だとか、カウンセリングだとか言って、卦読みでもって相手の人生に切り込みをかける。
いったいどれだけの真実と実相の上からそれらの言葉が出てくるのか。一切保証はない。易解の言葉は直接真実を衝いたものとして提出されていくが、易者に易卦の真実は解釈として保証はされても、所詮それは「解として」の範囲で実態実相を解明したことではない。
それにも係わらず知識と経験と習得努力の上塗り薬がかけられて、得卦と解への愛着執着から逃れることができず、自己の解を唯一のものとして固執していく。--これが坤地に潜む天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊( あめゆずるひあめのさぎりくにゆずるつきのくにのさぎりのみこと )になっている。))
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天の御中主(あめのみなかぬし)の神 と五十音言霊ウを如何にして結びつけたか。
2009/11/10(火) 午前 3:37易占いで行こうその他占い
五十神と五十音を如何にして結びつけたか
古事記の神話には天の御中主の神に始まり、五十番目の火の夜芸速男(ひのやぎはやを)の神まで、言霊五十音を指し示す神名が登場します。
これ等五十神と五十音を如何にして結びつけたか、は一切その理由を述べておりません。
言霊学成立上の大先輩である山越明将氏、小笠原孝次氏の著書にもその結び付きの理由は記されておらず、唯「天の御中主の神・言霊ウ……」と五十神と五十音が如何にも当然と言うが如く結ばれています。
言霊学の学徒である私・著者もこれを踏襲いたしました。考えても見て下さい。五十神と五十音の結び付きは全部で幾通りあるか、まさに天文学的数字となる事でしょう。
この作業を人間一代や二代で始めから終りまで再検討することなど不可能事に属します。多分私達日本人の祖先は遥か遠い昔、大勢の人が長い年月をかけて、物事の空相と実相の単位と五十音との結び付きに関して探究し、討論し、その結論として完成したのに違いありません。
その正当性を証明する唯一の方法があります。言霊五十音の一つ一つをお分かり頂けた時の話ですが、その言霊を結び付けた日本語の単語を御覧になり、その言葉がその物事の意味・内容(実相)を見事に表現して誤る事がない、という事実であります。
以上の事から古事記編纂以来、日本の皇室の中に、神話の五十神と日本語五十音との結び付きを記した記録が現存しており、言霊学復興を始められた明治天皇以来の諸先輩はその記録をそのまま踏襲したものと推察されます。
「古事記と言霊」講座
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/
以上、上記からの引用。
------------------------------------------
天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。
高天原
この章の中の高天原とは簡単に心の宇宙の何もない広々とした領域の事です。透き通っていて清らかな大きい心の宇宙の事であります。「古事記と言霊」では、この他に高天原という言葉に二通りの内容がある事を述べておりますが、この事についてはその都度説明することにして話を更に先に進めます。
成りませる神の名(みな)は、
この文章をそのまま読みますと、生れて来た神の名前はという事になります。これだけでは単なる神様のおとぎ話で終りますが、古事記の神話が言霊学の教科書だという事が分かった今は、「成りませる」は同時に「鳴りませる」と天の御中主の神という神名が指月の指として指し示している言霊の音として受け取ることも出来ます。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神
言霊ウ。
天の御中主の神という神名のそのままの意味は心の宇宙の(天の)真中にいる(御中)主人公である(主)神という事になります。そしてその神名が指し示す言霊はウと言霊学で記されます。「あゝ、そうか」と簡単に受け取ってしまえば、それで事は終りとなります。けれど私がこうお話しますと、聞いて下さった人の中には「宇宙の中心にいる主人公の神」とはどんな神なのか、またそれが言霊ウである理由、言霊ウでなければならない理由は何なのか、という疑問を持つ方が必ずいらっしゃいます。そして質問される方も多いのです。そこで今回の講座では、今まで簡単にお話して来たこの二つの事柄について詳細に説明させて頂く事といたします。と申しますのも、この聞き流してしまえばそれで何事もないように思える事柄が、実は言霊布斗麻邇の学を勉強する上で最も重要な事を示唆しているからであります。それは何か。
言霊学といいますのは、人の心を内にかえり見て、心の構造とその動きを研究し、学ぶ学問であります。
百パーセント内なる心の学問である言霊学では、これからが本番なのです。客観世界の学問では、従来の学問の成果をマスターすれば、次は自分なりにその学問の新しい分野への挑戦・探究が始まるでしょう。しかし言霊学のこれより本番となる勉強は全くそれと相違します。言霊学の勉学の対象は人間の心の内でありますから、勉学者にとって勉学の対象とは勉学者本人の心の内だけという事になります。他人の心の内を探っても、その真相を完全に把握することは出来ません。頼りに出来るのは自分自身の心だけです。
この様な事を理解しようとして、初心者がそれまでの学問のように「古事記にこう書いてあるが、何故だ」という疑問を起こして、今まで自分が勉強して来た経験知識を総動員して理解しようとする事は殆ど無意味に近い事なのです。
言霊学の勉学者が自分の習い覚えた経験知識を土台として言霊学の書物の内容を解釈・理解することが出来ないとしたら、残る方法は唯一つしかありません。それは古事記の神話が呪示している言霊学の書の内容を心の鏡として、その鏡に自らの心の構造を映して行く事です。勿論初心者は言霊学の内容が真理であるか、否か、を確かめた訳ではありません。けれどそれが真か偽かかは別に、假に真実だとした上で、それを鏡として自らの心を顧みる事とするのです。
以上引用。
---------------------------------------------
先代旧事本紀(巻第一)天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊 ( あめゆずるひあめのさぎりくにゆずるつきのくにのさぎりのみこと )
----------------------------------------------
問う。五十神と五十音を如何にして結びつけたか。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神 と五十音言霊ウを如何にして結びつけたか。
離‥
離‥離為火
坤‥火地晋、、火地晋
震一地雷復、、火雷噬嗑、火雷噬嗑
坤‥雷地予、、坤為地、、火地晋、、火地晋
巽‥地風升、、雷風恒、、地風升、、火風鼎、、火風鼎
地山謙二爻、四爻変で雷風恒へ。
自分の心の構造とその動きを見ろと言われ、理解しようとすることは無意味に近いことと言われた。
残る方法は唯一つしかありません。それは古事記の神話が呪示している言霊学の書の内容を心の鏡として、その鏡に自らの心の構造を映して行く事です。
-----------------------------------------
御中主の神の前に天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊 ( あめゆずるひあめのさぎりくにゆずるつきのくにのさぎりのみこと )がいたという。
御中主神の場合は私の意識が動いて天地を感じるときに成ります神のことだが、天譲の神さんはわたしに天地を感じさせるさらに奥にいる神さんです。
譲る、禅るは揺する揺れる揺られる揺すられるのことで、自然現象で言えば、地鳴り地震地響きに似た、その潜在的な力動韻、秘められたエネルギーと取れます。
狭霧も霧状のバイブレーションを意味し、気を視覚化すると霧雨状のものが移動していく様子が見えます。
いまはとりあえずここまで。
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406 :名無しさん@占い修業中:2009/11/17(火) 21:15:56 ID:T41HsfVy
>「未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ」
之卦の地天泰は、上卦と下卦が交わる・天地交わるで、天の動きと、人間などの存在たちの
動きが作用しあう、とも読めますかね??
407 :易解と心:2009/11/18(水) 02:37:58 ID:v06xWBf3
>>406「水火既済の地天泰へ」の卦を出したものです。
わたしの卦に関心があるようですが、まず他の人の文章の引用を紹介します。
というのも今日、次のような問いで卦を取りました。
『わたし○○一人のための「永遠に動かぬ今に立つ」方法を問う』
この答えと406氏への答えとは全く同じと感じています。、
そこで、まず自分への確認として引用をすることにしました。
得卦は後に書きます。
408 :易解と心:2009/11/18(水) 02:39:06 ID:v06xWBf3
以下引用です。
人間の生活の中の出来事は全く同じ事が起るという事はまずないと言っても過言ではないからです。
調べ考えるには記憶に頼る他はありません。
ところがこの「記憶に頼る」という事の中に大きな問題が潜んでいるのです。
人は自分の体験を想起するにも、過去の「今・此処」の出来事をそのままそっくり想起するのではなく、
自分の心の中から選んだ一つの観点を通して再現するのです。
その選ばれた観点を論理学で「概念」と呼びます。
少々分り難い言い方となってしまいましたが、簡単に言えば、
最初の「今・此処」での体験事実そのままが太陽の光の下での光景であるとすれば、
想い起こされた記憶による光景は月の光の下の光景という様に譬えられます。
記憶によって想起した光景は概念という月の反射光によって照らし出されたもので、
原光景の全体像を復元したものではありません。
その結果、経験知による思考は、思考を積み重ねれば重ねる程、物事の実相から離れてしまう事となります。
409 :易解と心:2009/11/18(水) 02:42:26 ID:v06xWBf3
経験知が過去の記憶から割り出された「今・此処」の実相に帰ろうとする性能である。
人は永遠の「今・此処」に生きています。
その今が過ぎた後、即ち過去の記憶の集積・検討から経験知は生れます。
原因と結果(因果)という構造を持ちます。
「かくかくの事が起れば、こうこうの結果となる」という考えです
経験知は法則であり、定形であり、そこに自由はありません
言霊オの経験知は物心ついた時からテレビや学校、世の中の付き合い等で沢山身について行きます。
好奇心旺盛な若者にとってこれ程興味をそそるものはありません。
そうして集められたこれ等経験知によってその人の人格また自我意識が形成されて行きます
410 :易解と心:2009/11/18(水) 02:45:06 ID:v06xWBf3
経験知は飽くまで過去のものなのです。
今・此処の現在や将来に関係して主役を務める事態となると、人間の煩悩や苦悩の原因となります。
争いを始め、お互いの経験知の交錯から和解と新しい創造への転換まで、どんな経緯が考えられるでしょうか。
両者が争い始めた時から、二人のそれぞれの経験知による批判・攻撃が飛び交います
経験知(言霊オ)は月の光による夜の知識の事です。
その知識が集まり積もれば積もる程世の中を見る眼は暗くなります。
眼を曇らす経験知という雲が晴れて、太陽の光が差し込む昼間の時、これが言霊アの境涯の世界です。
物事の実相(本当の姿)がよく見えます。
411 :易解と心:2009/11/18(水) 02:49:40 ID:v06xWBf3
続いて引用です。易経とは何者か
中国の儒教の中の「易経」を取上げます
易経に於て人の心の先天構造を示すものに太極図があります。
易経の解説書である繋辞伝に「易に太極有り、是れ両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生ず」と言って、
この太極図が物事の現象を生じる原因となる人間の心の先天構造を表わしている事を示しています。
言霊学の天津磐境と易経の太極図は同一の図形である事が分ります。
図形は同じですが、図形を構成している因子が違います。
天津磐境はその因子を表わすのに実体そのものである言霊を以てするのに対し、
易経は概念と数を以て示している事です。
たとえば、言霊学は「蜜柑(みかん)」と言うのに対し、
易経は「柑橘類の一種、比較的小型で果汁は甘酸(あまず)っぱい」と表わしている様なものです。
磐境(いはさか)が太陽の光なら、易経はその反射光である月の光と言ったらよいでしょうか。
天津磐境が分れば太極図は見ただけで理解出来ますが、
太極図を理解出来たからと言って磐境の言霊図の実体は分るものではありません。
逆は真ではないのです。
412 :易解と心:2009/11/18(水) 02:54:01 ID:v06xWBf3
上の事実は何を意味しているのでしょうか。
明らかに言霊学による心の先天構造である天津磐境の原理が先に発見され、
その後その原理を概念と数の法則として中国に教えた事を示しています。
日本及び世界の古代史の一つである竹内古文書には「鵜草葺不合(うがやふきあえず)
王朝五十八代御中主幸玉(みなかぬしさちたま)天皇の御代、
支国(えだくに)(中国)王伏羲(ふぎ)来り、
天皇これに天津金木を教える」と記されています。
天津金木とは言霊ウ(五官感覚に基づく人間の欲望次元)の精神構造を言霊五十音を以て表わしたものであります。
易経は言霊学の天津磐境を中国語の概念と数の法則に脚色して伝授したものと考えられます。
では易経を初めて称えた中国の伏羲という王は何時頃の人なのでしょうか。
これまでの中国古代史研究では、中国の歴史は紀元前十八世紀頃の殷(いん)の時代から始まるとするのが定説。
近年は、それ以前の夏の時代の存在を証明する考古学的発見が主張されています。
とすると、殷が今より三千八百年前、その前の夏(か)は四千数百年前となります。
中国伝説には夏の前に三皇五帝の代があったと説かれ、易を始めた伏羲王は三皇(燧人[すいじん]氏、
伏羲氏、神農氏)の一人であります。五帝の中には有名な尭(ぎょう)や舜(しゅん)と言った王が含まれています。
413 :易解と心:2009/11/18(水) 02:56:13 ID:v06xWBf3
この様に太古を探って行きますと、伏羲の時代が少なくとも今より五千年以上前という事になります。
竹内古文書にも「伏羲が帰る年を神武天皇即位前二千二百八十年」とあります事からもその年代の正確である事が確認されます。
伏羲来朝の時の天皇は葺不合王朝五十八代であり、その葺不合(ふきあえず)王朝の前に
日本には言霊原理に基づく政治が行われた邇々芸、日子穂々出見の二王朝がありました事から考察しますと、
日本民族の祖先による言霊学の発見は今より八千年乃至一万年前と見るのが妥当という事になりましょう。
414 :易解と心:2009/11/18(水) 03:01:42 ID:v06xWBf3
以上引用でした。後半は知っておいて損はないというものですので、、、。
分からない用語、知らない言葉が出てきますがわたしは気にしていません。
さて、わたし一人のために『永遠に動かぬ今に立つ』方法を問う。
得卦は次の様です。
兌‥
離‥沢火革
震一火雷噬嗑、沢雷随
兌‥雷沢帰妹、火沢睽、、兌為沢
坤‥沢地萃、、雷地予、、火地晋、、沢地萃
兌‥地沢臨、、兌為沢、、雷沢帰妹、火沢睽、、兌為沢
雷地予の二爻変で雷水解へ。
415 :易解と心:2009/11/18(水) 03:30:47 ID:v06xWBf3
>「未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ」
之卦の地天泰は、上卦と下卦が交わる・天地交わるで、天の動きと、人間などの存在たちの
動きが作用しあう、とも読めますかね??
自分の414の得卦と406氏の易解とが同じと感じられるといいました。
片や動きを見ているのにこちらは不動を問うています。
これらの説明は概念的になってどうなるかは、引用で語りました。
その後はお互いの性格や地が出てくるでしょう。
易解は知識の勝負みたいなもの、経験知識を神聖化する傾向が強いので、
その内容に知的な限界を見たならば双方ともにたわいのないことを、
言い合っているとなります。
今回の得卦に言いなおすと、一爻卦群の個人の経験知識内での獲得物への喜びは、
雷沢帰妹、火沢睽の喜びが本質となっているとなって、それを乗り越える方向が示されている。
406氏にしても、自分なりの意見が考えがダーッと幾らでも出てくることと思います。
416 :易解と心:2009/11/18(水) 03:42:42 ID:v06xWBf3
わたしは易の信頼できる師を探していますが、解の上で、人格的に信頼できる方は
いるように思えますが、易を超え、易解を超えそうな方は見えていません。
そうこうするうちに違う分野で易解を超えている例を見たような気がしています。
現在はその移行期のつもりです。
今回は406氏から「読めますかね??」と言われ、わくわくびくびくしました。
素晴らしく斬新な観点に、納得できる視点に感心して、わたしの内に
取り入れるにはどうしたらいいのか考える始末です。
417 :406:2009/11/18(水) 22:39:40 ID:5OFgfLva
僕の場合、易の(というか占い全般?)のセンスそのものはありませんが・・・・・
418 :406:2009/11/18(水) 22:48:50 ID:5OFgfLva
というか、難しいことが自分に理解できるのかと・・・
419 :易解と心:2009/11/19(木) 03:21:13 ID:NfnIM3Nv
>>406 :「未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ」
之卦の地天泰は、上卦と下卦が交わる・天地交わるで、天の動きと、人間などの存在たちの
動きが作用しあう、とも読めますかね??
64卦のどれをとってもそれぞれ、「上卦と下卦が交わる」わけで、指摘されていることも当然含まれていると思います。
理解するというのは、新しい疑問を生むこと、新規の曖昧さに浸ること、結論がはてなマーク?になって次の疑問の始まりに成ることです。
理解した、了解ガッテンと言ったらそれで終わりです。何の進歩もありません。
自分の出した読みに疑問符が付く。だから進歩があります。理解することは重要ですが縛られてはならない。
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未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ
2009/11/7(土) 午後 9:47易占いで行こうその他占い
「未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ、2005、12、6日の得卦」の解釈を問われて。
>>382「易占家の易断勉強スレ」
やってみましょう。(ただし、易を使って。ちょっとずるいやり方かもしれないが)
「未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ」の得卦の何を解すればよいのか?
坤‥
坤‥坤為地
乾一地天泰、、地天泰
巽‥天風姤、、地風升、、地風升
巽‥巽為風、、天風姤、、地風升、、地風升
兌‥風沢中孚、風沢中孚、天沢履、、地沢臨、、地沢臨
雷地予の4-5-6変で風地観へ
上卦が全部変わります。
上卦頭とすれば、思考頭の問題で頭を変えれば変わるというヒント。
上を現実に対する未来とすれば、決まった(安泰)な未来はなく未来は変化を受け入れるというヒント。
下から。
さて問いの得卦に対する最初の評価は風沢中孚です。
天沢履に運命天命という概念を持ち込めば、水火既済-地天泰の得卦はこの世と未来の運行に関して相互に関連している。(地沢臨)
ところで風が吹けば桶屋が儲かるように、(巽為風)、運命の風とのコンタクト(天風姤)はこの世の現象を上下左右に変化をもたらす。(地風升-地風升)
もちろん、そういった変化もそもそも決まったものといういい方も出来て(天風姤-地風升)、上卦へ。
今あるものを過去から見てくると有るべくして有ることとなる。(地天泰)
では今有るべくして有るものはどうなるか。どこへ行くか。(地天泰)
今後あるものは今を受け入れて成る。(坤為地)
爻卦はだいたいこんなものでいいのでは。続いて本卦-之卦へですが、まだ準備ができていません。
今のところ三つの次元に分けて述べる必要があるのではと思えます。
中断します。
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モーゼ来朝は史実か
2009/11/6(金) 午後 7:39易占いで行こうその他占い
「竹内文書」には・・・・
鵜草葦(うがや)不合朝(ふきあえずちょう)第69代神足別豊 天皇の即位200年、ヨモツ国よりモーゼロミュラス日本に来たり、12年間住む。
この間にモーゼは万国五色人の守る十戒の法を作る。この十戒を刻み込んである宝石を、モーゼは天皇に献じ、天皇はこれを皇祖皇太神宮に納祭する。
モーゼは、天皇の内親王、大室姫と結婚、七人の御子を生む。
モーゼ583歳にて神幽り、能登宝達山、ネポ谷に葬る。
とあるようです。(本文未確認)
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モーゼ来朝は史実か
坤‥
震一地雷復
艮一雷山小過、地山謙
坤‥山地剥、、雷地予、、坤為地
坎一地水師、、山水蒙、、雷水解、、地水師
艮一水山蹇、、地山謙、、艮為山、、雷山小過、地山謙
兌為沢の三、上爻変で乾為天へ
古代の情報網、交通網をもってしても、モーゼを引きつけた古代日本の魅力あるいは、古代日本のマル秘事項、とは何だったのか。
毀折の兌の上下二カ所とも満たされている。引かれて、来りて。
問いの答えとしてはイエスとなるだろう。
兌をモーゼの希望願望と取れば満願で喜ぶになるし、不信と取れば不信の解決となる。
モーゼは何を求め、何を知りたかったのか。スメラミコトが与えた十戒を祖国に持ち帰り民に分け与えた後、死地を日本にするため舞い戻った。
とりあえず。
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