ドイツ国民社会党の経済政策を探る1  黒正巌


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第三帝国を案出する

千九百二十三年、余は最も驚異すべき出来ごとをドイツにおいて経験した。これは、恐らく空前絶後と思はるゝマルク相場の暴落、これに伴ふ経済生活の混乱、人心の動揺であつた。各地において大小の混乱が勃発した。その中で最も統一的組織を有し、国民社会主義の旗幟を押し立てゝドイツ全国を震駭せしめたのは、ミュンヘンを中心とするいはゆるヒットラー一揆であるしかしこの一揆は失敗に終り、首謀者は何れも投獄され、ベルリンはつひに彼等によって占領せられずにすんだ。

ドイツは遂にレンテンマークなる独特の貨幣を発行し、一ドルが四兆二千億マークまで下落してをつたのを、一挙にして、四・二0レンテンマークにしてしまった。しかしルール地方は依然として佛国兵に占領せられ、次にドーズ案によって賠償履行を強制せられた。ドイツ国民はあたかも長い病気で痩せ細ってゐるものを重い布団で押へつけるやうに苦しめられた。ドイツ国民は苦しき布団の下で辛うじて呼吸をするために産業合理化なるものを案出した。しかしそれでもなほ救はれさうにもないので遂には第三帝国への到達を考えた。第三帝国、それがドイツ国民社会党の天国である。最初の間は多くの人々は第三帝国の如何なるものなるかを理性的に考へたのではない。何でもよい、今よりもよい国家生活が出来ればよいといふ絶望的状態から生れ出た考へにすぎなかった。今日の国民社会党員でも、なほそんなのが少くないやうである。一つの信仰ともいへる。

つひに第二党を獲得

連合諸国の賠償金調達が続けばつゞくほど、ドイツ国民の苦痛は増加する一方である。資本主義が存続する間は彼等は浮ばれぬ。ヒツトラー一派の主張が期せずして大衆にアッピールしたのは当然である。この有利なる客観的情勢を洞察したヒットラーその他の党目は。その熱狂性と勇敢とをもって宣伝に努めた。遂に千九百三十年九月十四日のドイツ議会の総選挙で奇勝を博し、百七個の議席を獲得して第二党となった。

余はすでにこの時より、ドイツの国民性とわが国のそれとが著しく類似するところがあり、この国民社会党の大勝は必ずやわが国民思想の重大なる影響を与えるに相違ないと考へ、自来その方面の研究を試みた。しかしその一党の発刊する文献、またはその主張、運動に関する第三者あるひは反国民社会主義者の批判のみによっては、真相を知り得ない。また多少とも系統的なる批判は概ねドイツ国民社会主義に反対するものによつて行はれてをる。こゝにおいて余は昨年夏、急に思ひ立って国民社会主義に関する文献の蒐集、運動の状態および他のドイツ国民の態度の研究をかね、ドイツ大学学生共済運動の調査に出かけたのである。

理論よりも実行と熱

今日のドイツは七年前に比し、表面的にはさまで悪化しているとは思はれない。しかし一度ドイツ人の私経済を立ち入って見る時、誠に陰惨なる感に打たれざるを得ない。いよいよ食ひつめいをるといふ感じがする。

ドイツ人特有ののんびりとしたところがなくなり、底力のある哲学が失はれてをる。「何でもよいから、とに角早くよりよくしてほしい」という思想が、あらゆるものの中にまざまざと覗はれる。理論よりも実行と熱で行かうとする国民社会党が拡大して行くのは当然だと思はれた。同時に余は、もしわが日本において、いまの如き堕落その極に達する政治が行はれ、横暴なる資本家が民衆を圧し、この生活が悪化するにおいては、必ずや日本独特の国民社会主義が膨☆として民心に食ひ入るべきを痛感した。さらに外国のあくなき掠奪に苦しみながらも、将に滅亡せんとする祖国のために、幾人の同士が共産党員によって射殺さてようともあへて悔ゆるところなく奮戦しつゝあるドイツ国民の雄々しさを目撃し、同時に遠くはなれて祖国日本を顧みたときに、私は従来よりの日本主義を最も勇敢に主張すべき決心した。

国民社会主義を確信

祖国日本を救ひ、同胞愛に基づく国家生活を実現するには、ただ一つの日本国民社会主義あるのみだと確信するに至った。偶々滞欧中、日支紛争の起るや、これを契機として、国民社会主義は大河の決するが如く日本国民の心臓をうちつゝあるを見て、長々と欧州に流転すべきではないと考へ、大急ぎで祖国への途へついた。余は信ずる、殆どすべての日本国民は、たとひ理論的に意識せざるまでも、その心底には必ずや一片の日本国民社会主義を胚胎し潜在せることを。今後はたゞ如何にしてこれを発現し達成するかといふことが問題である。されば、ドイツ国民社会主義は、その政策において根本精神において著しく異なるものあり、もって直にわが日本国民社会主義運動に採用し得ないものもあるが、これを十分に理解することは、日本国民社会主義の発展と実現のために、最も必要なる事柄である。

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