労働奉仕

「労働精神」を賞賛は、「非生産的」とされた者を強制収容所へと追いやった。「ARBEIT MACHT FREI 労働は自由をもたらす 」という言葉が、アウシュビッツをはじめ各地の強制収容所の門に掲げられた。黒正巌の労働奉仕制についての言及には次の文献がある。

独逸労働奉仕制と農業 1936年 (昭和11年)6月 農業と経済 3巻1号

労働に歓喜するドイツ青年 (昭和11年 「大阪朝日新聞」)

「しかも顔面に笑をたゝえつゝ愉快に従事してゐる青年軍を見た時、私は他の国のことながら眸のおのづからうるほふのを知らなかった。」(6月11日)

ナチス独逸は滅びず(昭和11年 「日本評論」)

「私はナチス制下に於ける独逸国民の諸運動特に国家労働奉仕制を眼のあたりに見て誠に感激に耐えなかった。」

テキスト版pdf 版 )

独逸より見たる日本 1937年(昭和12年) 1-3月 地理と経済3巻1-3号

また、この制度は、日本のに輸入された。勤労奉仕はやがて、勤労動員および学徒出陣へと変化していく。

資料

京都帝国大学新聞 昭和13年6月 5日 の記事 pdf

京都帝国大学新聞 昭和13年9月20日 の記事 pdf

文部科学省 学生百年史 戦時教育体制の進行 以下は引用

昭和十年代にはいって、いわゆる「国防国家体制」が進められていく情勢のもとにおいて、文部省は十三年六月、「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通牒(ちょう)した。作業の実施期間は、夏季休暇の始期終期その他適当な時期において、中等学校低学年は三日、その他は五日を標準とし、その対象としては農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡易な作業を選んだ。これは当時の実践的な勤労教育の考え方に基づいたものであった。翌十四年三月、文部省は中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時だけでなく随時これを行ない、正課に準じて取り扱うことを指示した。