三
然らば独逸が他の諸国よりも物質的条件が悪いのに、何故
にかくも力強く復興し、隣国民をして無気味さを感ぜしむる
に至つたか。それは他なし、独逸国民天性の労働尊重の精神
と盤石の如き国家精神の賜に外ならぬ。独逸国民は国家と労
働の為めには常にベガイステルンされ、感激するのである。
殊に大戦後の国民の極度の窮乏は益々独逸国民の国家的感激
性を大ならしめて居る。独逸的なるもの、独逸人の手になれ
るものに対しても絶大の尊敬と感激とを有する。去る市の選
挙の前夜二十八日の伯林の上空に新造のチェッペリン・ヒン
デンブルグ号の来た時の如きは、四百万のベルリン人は歓呼
を以て之を迎え、国民的法悦にむせんだのである。かくの如
きは到底日本人の想像だも及ばぬ所である。かかる国民的感
激は凡べてのものに現はれ、特に今日の政治の上に於て然り
とす。
私は三月廿九日に行はれたヒットラー及びナチスに対する
信任投票の有様を見るの良い機会を得た。ナチスに於て最も
勢力のある宣伝大臣ゲッペルスや航空大臣ゲーリング等の演
説は各地で行われそれは常にラヂオによって放送されて居た
が、酒場でもカフェーでも皆が熱心に聞いて居る。中に「然
り」と呼んで拍手するものもある。殊にヒットラーの演説に
至っては国民は挙って之に耳を傾けて居る。蓋しナチスはそ
の言ふ所をとに角着々と実行するのであるから、その一言一
句は直ちにパンとバターに影響するのみならず、凡べての行
動、自由に関係し、同時に国家の休戚に関するのであるから
女中も給仕も耳を大きくしてラヂオを傾聴せざるを得ないの
である。三月二十七日にヒットラーがエッセン市のクルップ
工場の大機械の上に立って獅子吼した演説の如きは全く歴史
的なものである。後二十万人の労働者に呼びかけ、感憤興起
せしめたのである。その日の演説は午後四時より五時すぎ迄
行われた。この間、政府は命令を以て全国民一斉に仕事を休
止せしめた。丁度お茶の時間であるが、我々旅行者は外出す
る事も出来ない。宿に止つて女中のラヂオセットを借りてこ
の演説を聞く事としたが、二人の女中も共に聞かねばならぬ
といふことであった。そこで退屈なものだから女中にコーヒ
ーを注文し、女中にも一杯おごるからとて依頼したが、女中
の曰ふのには、今よりは仕事を休止してヒットラーの演説を
聞かねばならぬと称して、遂にコーヒーを立てゝくれなかっ
た。そして時々拍手して賛意を表するのであった。ラヂオに
よれば数十萬人の聴衆は文字通りに歓呼と拍手を以て迎へ、
一時間以上の長演説は巨弾を乱射するが如く国民を感激せし
めてしまつた。終つてドイッチュランド・ユーバー・アレス
の国家が合唱され、全くの国民デーであった。そしてその翌
日には全国民はヒットラーに信任投票をなし、九八％ハルと
いふ世界記録を作つたのである。投票者は「自由とパン」
Freiheit und Brot と記した真鍮の圓いマークをつけて国民
的矜持を以て都大路を練り歩いた。その夜、このマークなく
してカフェーやレストランへ行けば、鉄拳の一つも食はされ
るといふ有様であった。
右の如くドイツ国民は何事にあれ国家の為めとあれば、凡
べてを忍苦するの覚悟を有する。勿論六千七百万人の人口の
内には、ヒットラーに反対するものも少くない。併しヒットラ
ー一派の人々の国家的熱意には到底反抗する事は出来ない。
ヒッットラーこそはドイツ精神の権化であり、祖国の守護者で
あるとし、行ける所迄押し立てゝ行かうといふのが、今日の
独逸国民の決意である。「今日は」といふ代りにハイル・ヒッ
トラーと言ふて右手を挙げ挨拶する様を見、独逸国民は国家
を通して国民的発展を念願するの心情が、
覗はれるのである。