一
私は本年の正月以来三度欧州を視察するの機会を得た。通
信機関の発達せる今日のことであるから、欧州の情勢は態々
出かけなくても、日本に居て大体の模様を知る事ができるが、
併し私の如く約五年目に欧州を訪れたものにとっては、その
移り変りの有様がよく覗はれて、多くの知見を得る事が出来
た。然らば欧州は如何といふに、形の上では殆ど変化して居
ないが、何だか次第に暗くなりつゝある、段々下り坂になつ
て居るように見うけられる。従て各国民の心気も明朗と活発
を失ひ、生活が極度にゆき詰って居る感がある。之は世界大
戦の古傷が次第に体内に内訌しつつある証拠で、戦争に負け
た国は勿論、勝つた国も、戦争のおかげで独立国になつたもの
でも、皆同じ苦しみをなめつゝある。だから今日では各国と
も経済的にも心理的にも戦争をなし得ない状態にある。伊太
利があんな横紙破りの行動をとっても、独逸がロカルノ条約
を無視してライン非武装地帯に出兵しても、戦争が起らない
のである。欧州の各国のやって居る事は、それが軍事的行動
にしろ、外交的折衝にしろ、その目的は国内の人心を収攬し
国論を統一して国家経済の充実を計る事に存するのである。
国家は最高の道徳であるとは大哲学者ヘーゲルの有名な詞
である。我々は国家生活を通して真に完全なる人間となり得
るのであるが、併し国家の経済的精神的充実なくしては真の
国家は在り得ない。一個人が如何に富裕になっても国家社会
の統一と充実がなくては真の幸福も人格の完成も之を期待す
る事は出来ない。今日世界の各国が経済的精神的に苦悶を味
ひつゝあるのは、国家の統一と充実がないからである。而し
て国家の統一と充実を計らんとすれば、国民が真に国家の大
義を理解し之に心からなる奉仕をしなければならぬ。この点
に於て、世界大戦に於て最も大なる苦杯を嘗めさせられたに
拘わらず、独逸は他の戦勝国に比し、国家の統一と充実が行
はれつゝある所以が了解出来るのである。