先日、ヤフーオークションで上野左右馬助の次代、喜三右衛門景末(※1)が元禄4年(1693)に上野織介へ発給した天狗書秘伝の巻が出品されていました(以下景本伝書。図‐1)
剣道五百年の著者、富永堅吾が所蔵していた上野景用発給の伝書が行方不明となっている現在、上野家の新陰流伝書では唯一現存があきらかになった、かつ肥後藩新陰流の伝書の中では最古の伝書となります。
東京稽古会も落札を目指しましたが、残念ながら落札できませんでした。しかし、この景本伝書はおおよそ全体の画像が公開されていたため、その内容でいくつか疑問だった事が判明したため、そういう意味でも肥後藩新陰流関係者にとっては貴重なものだと思われます。
図-1 出品されていた伝書
景本伝書では喜三右衛門は喜左右衛門景本と自著しています。これによって喜三右衛門が喜左右衛門と書いていた事、少なくとも元禄4年には景本と名乗っている事がわかりました。上野家はこの後代々喜三右衛門と名乗ります。読みはキゾウエモンと読まているので喜左右衛門でも読みは同じです。父の左右馬助も相馬助と書かれる場合があるとおり、ソウマノスケなので左右(ソウ)が共通しています。
図‐2 景本伝書相伝系図部分
上野家剣術二代目は新陰流の伝書相伝系図では景本となっていますが、上野家の過去帳では景末となっており※1、なぜ違っているのかこれまで疑問でした。少なくとも元禄四年(無くなる数年前)までは景本と名乗っていた事が本人の伝書で判明しました。肥後藩に提出する先祖附では通称のみが書かれ、諱は省かれている事がおおいため、過去帳を作った際に誤ったのかもしれませんし、元禄四年以降に本を末に変更したのかもしれません。
※1 上野家蔵。過去帳は和田家の大正~昭和初期の当主、和田喜傳も閲覧しており、肥後武道史等で上野家歴代の名前を過去帳に準じて記述している。
・鈎極の図にある朱点
景本伝書では鈎極の絵図、天狗に対峙している仕太刀の周辺に朱色の印が多数描かれています。速水幾太郎の天狗書秘伝の巻(※2)にも同様の印がありましたが、東京稽古会が調査した多数の肥後藩の天狗書には同様の印はありません。
この記号の描き込みは速水家で追加されたものではなく、上野家剣術二代目の時点ですでにあったという事です。
図-3 景本伝書の鉤極
図-4 速水幾太郎の鈎極
・天真上代之相伝
天狗書秘伝之巻の最後には「天狗書之巻畢也」とあるのが一般的ですが、景本伝書には次に「天真上代之相伝」とあります。これも速水幾太郎の天狗書と共通しています。
図‐5 景本伝書の巻末尾
図‐6 速水幾太郎伝書の巻末尾
東京稽古会ではこれまでの調査から、上野景敦のあとに上野家の一門を引き継いだのは速水八郎兵衛景名と考えていますが、伝書形式からも裏付けられたと言えそうです(※3)。
※2 赤羽根龍夫「新陰流(疋田伝)の研究」に掲載されている速水幾太郎より楠田柳太郎宛の天狗書。楠田柳太郎は上益城のいわゆる郷士のようで、剣術以外に柔、槍、砲も皆伝、熊本一と言われた武芸者ということです(墓が史跡になっています)。木倉手永手鑑(熊本近世史の会 編「肥後国郷村明細帳 2 (肥後国史料叢書 ; 第6巻)」1984掲載)によると中小姓にして上益城の武芸世話役~とあります。
※3 速水八郎兵衛景峯(景名)は元の名を武兵衛元敏としており、ニ代目喜三右衛門(景根)の門弟。四代目喜三右衛門(景敦)から皆伝、師範を継いでいます。上野家から和田家の師役継承 および「肥後藩新陰流伝書(一)」肥後藩上野家の新陰流 を参照。
伝書を受け取った上野織介については詳細は不明です。上野家の文書の多くは太平洋戦争の空襲で燃えてしまったため、伝書類は残っていません。発給年が元禄四年ですから、次代となる上野景根はすでに皆伝になっている事だと思われます。弟の甚五衛門の前名、もしくは別の弟、あるいは単に上野姓の人かもしれません。先に述べたように上野家の史料の多くは現存していないため、別の家にあったものの可能性が高いように思います。上野家から養子に出た人のものかもしれません。
肥後藩士の先祖付はご子孫が保存されているもの以外に永青文庫に所蔵されているため、調査することが可能です。確認したところ両上野家※4の先祖付けや他の上野家※5の先祖付にも織介の名が見られないので、さらに調査が必要です。
※4 上野左右馬助景用の嫡男平八は細川忠利に召し抱えられて父とは別家を建てています。こちらの上野家も現在まで続いておられます。
※5 肥後藩には上野左右馬助の子孫以外にもいくつも上野家がありました。中には近代以降に柳生系新陰流である當流神影流の師範となっている家もあり、上野左右馬助家と混同されている例も見られます。
天狗書秘伝の巻の記号や末尾の書き込みなど、速水幾太郎の別の伝書では描かれていない例もあります。これらの違いにどのような意味があるのか現時点では不明ですし、和田や戸波などの伝書に本当に存在しないのか、まだ調査が必要と思われます。
(2025/6/14)