肥後・新陰流の形

新陰流15代・古賀徳孝が16代・相川学と志岐太一郎に伝え、現在まで伝わった新陰流形は23本です。太刀の形が18本、小太刀の形が5本となっています。

これらの形の名称や構えは慶長頃の疋田豊五郎直筆と伝わる古文書類と比較すると、刀を投げる形や槍や長刀と勝負する形など特殊なものが失われたり、二本の形を続けて一本にするなどして本数が減ってはいますが、構えなどはかなり忠実に受け継がれているようです。

ただし豊五郎が伝えていた槍術、薙刀などの長物、二刀等は肥後細川藩ではかなり初期に伝承されなくなったようです。

○形の特徴

形の特徴としては力強く一刀両断と一撃で打ち倒すような形は無い事、力を入れない事、左右への体捌きが多い事、小手を押さえる事、一足一刀の間に入る際の仕太刀・打太刀の歩みや拍子に特徴がある事などです。また口伝として“小足踏み”、“団扇の事”などがあります。

○稽古や稽古道具について

新陰流では形の稽古に細身の木刀、シナイ(袋シナイ)、小太刀のシナイを使用します。下の写真は新陰流の形で使用する稽古道具です。

写真 新陰流に使用する道具(上から一番目と三番目は14代古賀栄信師範のもの。愛洲の館蔵)

上から、昭和初期の小太刀の袋シナイ、袋シナイ(現代のもの)、昭和六年の天覧演武で使用された袋シナイ、組太刀で使用する木刀です。古い小太刀とシナイは新陰流十四代古賀栄信のもので、十六代相川学によって愛洲の館に寄贈されたものです。この他に古賀栄信の稽古用の袋シナイも寄贈されています。

木刀は細身のものを使い、同じ熊本に伝わった二天一流の木刀とよく似ています。しないは剣道の竹刀と違って、中ほどまで四つ、先を八つに割った竹に革製の袋を被せ、柄側のあまり革を管の内側へ詰めます。

有名な柳生新陰流で使われる袋撓と違って柄も含め、割竹全体が革で覆われます。販売されていないので自作しますが、それほど製作は難しくありません。写真の上から二番目のシナイは自作したものです。

また、形稽古の際は基本的に庭などの屋外で裸足で稽古する事も特徴でしょうか。江戸時代は特に地方の流派では特定の稽古場が無い場合も多く、庭や土間で稽古される事も多かったそうですが、そういった伝統を受け継いでいると考えられます。

○三学について

袋シナイを使用し、四本あります。新陰流の明治に新陰流を伝えた和田傳の子息、和田喜傳によると「簡単な動作ではあるが演じるのが困難で、演じるものの実力がわかる形」とされています。またこれが出来れば「小学校は卒業」と言うような形でした。

三学の二の太刀の打ちこみは、刀を頭上に振りかぶるのではなく、古い流派である立身流や香取神道流のように、肩に担いで打ち込みます(真直ぐ振りかぶる場合もあります)。組太刀に比べて腰を落とし構え、介者剣術(甲冑着用の剣術)の趣がある形だと思います。

一本目は頭の左を囲うように左側に構え、二本目はまっすぐ正面に構え、三本目は一本目の逆に頭の右を囲うように右側に構えます。和田喜傳によるとこの三つの形が「新陰流三学」(陽の太刀、光陰の太刀、陰の太刀)であるとされています。四本目は伝書上は二本の形ですが、いつの頃からか続けて使う事になり、現在は一本の形として使います。

○組太刀について

細身の木刀を使用し、六本の形を一気に続けておこないます。「猿飛」ともいいます。三学に比べると動作や足捌きが複雑で、”すける”と言われる独特の動作があります。

現在の肥後・新陰流では三学の後に学ぶ事になっていますが、江戸中期から明治にかけての資料を見ると、同じ熊本に伝わった他の系統では「」として猿飛から学んだようです。古くは「おもて」と言われていました。

柳生家の伝承によれば猿飛は愛洲移香の陰之流から伝わる古い形とされ、東京国立博物館に所蔵されている天正年間の愛洲陰之流の目録に記載される形名と最初の六本が同じです(※)。

写真 明治三年に横田清馬(利左衛門)が発行した新陰之流猿飛之目録(愛洲の館蔵)

○小太刀 八組について

小太刀の袋シナイを用い、四本の形があります。小太刀は組太刀を学んだあとに稽古します。

古くは「表」の小太刀とされ、組太刀の次、三学の前に学びました。相手に小走りに駆け寄り正面から突破する技や、打太刀の連打を受けながら詰め寄る技などが含まれています。当流の小太刀は日本剣道形の小太刀のように片手で使うだけではなく、両手で小太刀を掴み使う動作が多いのが特徴です。

八組の形は伝書によると念阿弥陀仏から赤松三首座、小笠原家へと伝わった念流(小笠原流、首座流)のようです。小笠原甲明までは馬庭念流の系図と同じです。疋田豊五郎が細川家中に新陰流を伝えた当初は念流の二刀もあったようですが、上野家に伝わった以降は小太刀の形のみを伝えたようで、現存の肥後新陰流には二刀を伝えていません。

想像でしかありませんが、年齢的に上野左右馬助は宮本武蔵とも会っていると思われるので、二刀を伝えなかった事に武蔵の存在が影響していていたと考えると面白いですね。他国に伝わった系統では江戸時代に入ってからも二刀(小太刀虎乱)は伝わっていたようです。

○小太刀 目付について

小太刀の袋シナイを用い一本あります。一気に間を詰め懐へ入ります。

○位詰について

袋シナイを用い、五本あります。和田喜伝によると「人格の形」「三学が小学校なら中学校」とされた段階の形です。三学のように小手を押さえた後に大きく二の太刀を打たず、どの形も構えで詰めて終わります。

○中極位について

袋シナイを用い、三本あります。天狗書とも書かれていました。位詰同様、構えで詰めて終わります。


※ 愛洲陰之流目録では、猿飛・猿廻・山陰・月陰・浮船・浦波・獅子奮迅・山霞・陰剣・清眼・五月雨となっており、疋田豊五郎の猿飛之目録、猿飛・猿廻・山陰・月影・浮船・浦波と六本が同じです。不思議なことに豊五郎の師、上泉武蔵守信綱が柳生石舟斎へ伝えた燕飛は燕飛・猿廻・山陰・月影・浦波・浮舟となっており、最後の二つの順番が愛洲陰之流や疋田豊五郎の猿飛之目録と違い、弟子の豊五郎の方が陰之流と同じ順番になっています。