上野家から和田家の師役継承について

和田家の新陰流継承に関する疑問

肥後武道史によると、和田家に正統が移った経緯は以下の通りです。

 

肥後藩上野家の新陰流は、上野家三代目の景根没後、四代目景澄が病弱だったため景根の弟甚五右衛門が師範となった。景澄も景根没後九年で亡くなったが景澄の子景敦も未だ幼少であり甚五右衛門が引き続き師範であったが、高齢となったため和田家にその正統が譲られた。

 

としています。(当会WEBサイト「肥後細川藩における新陰流の歴史」もこの説に準じています)

肥後武道史の新陰流の記事は昭和初期の和田家当主、和田喜傳の「伝書より見たる剣道新陰流」の引用です。

 ですがこの記事は著者が書いているように、一部推測で書かれている部分があります。史料を確認していると若干解釈が変わる部分がありそうです。

参考 上野家没年および関係

 この記事で言及される上野家の人物は以下の通りです。

時習館が開設された宝暦4年12月(1755) の前年に甚五右衛門は亡くなっています。

和田家文書

 上野家の門弟一同が和田傳兵衛へ引譲られたとされている宝暦四年十一月の書状が肥後武道史に掲載されています。

その内容は以下のようなものです。

 

 

という内容です。末尾にあるように、これは和田傳兵衛を師範として取り立ててほしいという願い状となっています。別に奉行所より組頭宛ての門弟引譲りについての許可を求める八月二日付け書状の写しも同記事に掲載されています。


 これらの中では、上野甚五右衛門の門弟を引き譲ったとあります。当時景敦は景澄より家督を相続して10年が経過しており、幼少と言えるような年齢ではありませんでした。


 上野家先祖付でも

喜三右衛門(※景敦)儀剣術の門弟多くこれあり

と記載されており、すでに新陰流を指南していました。また後に時習館師役となる速水八郎兵衛は病弱だったという景澄より印可を得ています。


そもそも門弟を譲るというのはどういう事なのでしょうか?「伝書より見たる剣道新陰流」の印象では、上野家の弟子一同を譲って門を閉じ、というに書かれていますが、どうも違うようです。

門弟の引譲りと流派の指南

 実は、門弟を他の師範へ引き譲るという行為は肥後藩の記録の中で何度か確認できます。その一つは内山傳右衛門の門弟および森田弥五右衛門の門弟の例です。彼らの門弟は横田忠作が引継ぎました(寛延元年1748)。


また二天一流の断絶した系統の一門を村上派の師範が引継ぎ指南をした記録もあります。

 横田忠作の例を見ると、内山傳右衛門は横田忠作の師ですので、師の門弟を引継ぐのは理解できます。ですが、横田は森田弥五右衛門と師弟関係は無いようです。また、二天一流の例でも別派の門弟を引継いでいます。どうやら肥後藩では何らかの理由で満足に指南できなくなった場合、門弟を同流の師範に譲るという行為が広く行われていたようです。


 興味深いのは、横田へ門弟を譲った森田弥五右衛門、彼の息子は成長後に時習館の新陰流師範となり、その子孫もある時期まで新陰流を伝承していました。

また、内山傳右衛門の門弟林伴之丞は、横田が内山の門弟を引き継いだ後の宝暦六年(1757)に内山から伝授を受けています。門弟を譲った後も指導する事があったのでしょう。内山家の先祖付け等を確認すると傳右衛門は役目が忙しく指南が満足にできなかった様子がうかがえます。

 

 上野景敦の事例も森田家の例と似ています。先ほど書いたように、上野景敦は当時すでに新陰流を指南しており門弟がいました。祖父上野景根の門弟は上野甚五右衛門へ譲られたとありますが、実はすべての門人が甚五右衛門の門弟となったわけではなかったようです。前述した速水八郎兵衛は上野景根に入門し、後に上野景澄の門弟となり、免許を得ています。

 

 これらの例を見ると、門弟を譲る事がそのまま流儀の正統を譲る事や指南を辞める事までは意味していないのは明白です。門弟を譲るという事は、何らかの理由で指南が満足にできないため、門弟の稽古継続のために移籍させるという事のようです。 

藩の指南役とは

さきほど例に挙げた上野景敦の書状は浪人である和田を新設された時習館の師役へ推薦する推薦状ですが、上野景敦も時習館の師範となっています。先ほどあげたように横田忠作へ一門を引譲った森田弥五右衛門の息子も時習館師となっています。


 新陰流の師役について調べてみると、時習館開設時の師範は

上野喜三右衛門(景敦)、森田弥五右衛門、横田忠作、和田傳兵衛、戸波儀兵衛

の五名です。この後、上野喜三右衛門が隠居して四名となりますが、直後に速水八郎兵衛が師範役となり再び五名となっています。


その後、安永四年(1776)に林伴之丞も師範となり、六名となりますが、寛政十一年(1799)に40年以上師役を務めた森田弥五右衛門が隠居し、ふたたび五名となります。その後は知られているように、和田、速水、戸波、横田、林の五家の系統から師範が出ています。

時習館開設の経緯やその後の師役追加を見ると、師役が新たに任命される場合は、実力や評判、推薦などで指名する性質のものだったようです。若干の師役としての扶持もあったようですが、通常の役目と比べると軽いもので、内山傳兵衛や和田系の杉浦津直のように役目を優先して師役を辞退する例も見られますが、その逆は見られません。

また、老いや病気を理由に役目を隠居しても、時習館の師役は亡くなるまで務めている例が多数見られます。通常の勤めに比べて負担も少なかったのでしょう。

次は時習館開設頃の新陰流師役関係者の師弟関係および門弟引譲りの関係図です。

上野家新陰流の正統は?

 門弟引譲りの実態や、その後も上野家の師範が指導を続けていた事実を考えると、上野家の新陰流は甚五右衛門が一門を引き継いだ後、独自に当主の景澄も指導を開始したようです。これにより上野家道場が甚五右衛門一門と上野家当主の二つに分かれたと考えるのが妥当に思います。

 

時習館師範の五系統の伝系を見ると、以下のようになっています。なので系図上は



 の三系統となります。(戸波家系では甚五右衛門と景敦の両系統の伝書があり、おそらく上野家から何度か伝授を受けていたのかもしれません)


 上野家と新陰流師役の関係を見ると、上野甚五右衛門は無役の上野家育み(部屋済み)で藩の師役でもありません。また、上野景敦も師役について「家業ではこれなく」と書かれており、少なくとも時習館成立前は藩の師役ではなかったようです。


ここで前述した上野景敦の書状の意味について考えると、新陰流の正統や師役を和田傳兵衛へ譲る事を藩に願い出たと考えるのはかなり厳しいように思います。浪人和田傳兵衛を師範役へ就職させるための推薦状と考えるのが適当ではないでしょうか?傳兵衛の師甚五右衛門は育みの身で直接藩に推薦できませんし、そうすると上野家当主の上野景敦が推薦するのが筋と思われます。


そのように考えると、和田傳兵衛はたしかに上野景根⇒甚五右衛門と続いた上野家道場の一門を引き継いだ立場ですので、上野新陰流の正統であるとは言えます。ですが上野景澄⇒上野景敦と再度門を開き指導していた系統は別にあり、こちらは和田家とは無関係な正統であったと言えます。

 また、当時の上野家は藩の師役ではない、私的な師範でした。ですので、和田伝兵衛は肥後藩師役である上野家正統を継いだのではなく、新たに藩の師役を家業とするようになったと考えるべきでしょう。 

主な参考文献等

「肥後武道史」青潮社,1974

永青文庫「肥後藩先祖附」(熊本県立図書館所蔵写し)

赤羽根龍夫「新陰流(疋田伝)の研究」2007,  http://doi.org/10.18924/00000388


2023年7月16日公開