左右馬新陰流

左右田新陰流・相馬新陰流

こちらのWEBサイトや「諸藩武芸流一覧」によると、中津藩に左右田新陰流という流派があったことが記録に残っているそうです(※1、※2)。ソウダ新陰流と読んだとあります。左右田新陰流については武芸流派事典にも『左右田(ソウダ)新陰流(剣) 中津藩。』とだけ記載があります(※3)。先の二つのWEBサイトはこの記述を元にしたものでしょうか?

ただし、日本教育史資料(3)の旧中津藩大分県取調(※4)によると、中津藩藩校で幕末期に行われていた剣術流派の中に左右田新陰流の名はありません。残念ながら、未だどのような資料に左右田新陰流について書かれているのか不明です。

似た名称の相馬新陰流という流派について日本剣道史(山田次郎吉)に名前のみが載っています(※5)。武芸流派大事典には左右田新陰流ならぬ「相馬真陰流(剣) 豊前」「相馬新陰流(剣) 同前」という項目もあります(※3)。肥後藩の新陰流の祖は上野左右馬助ですが、相馬助と書かれた資料もあり、この豊前にあった相馬新陰流は上野左右馬助の新陰流である可能性もあるのではないかと思われます。左右田新陰流についても左右馬新陰流の誤字や誤記だった可能性があるかもしれないと考えます。なお、中津からやや距離がありますが、大分県大分市鶴崎は肥後細川藩の領地で、上野左右馬助の新陰流が明治期まで行われていた記録があります。

ところで、「左右馬新陰流」という名称は、実際に肥後藩で使われていた記録があります。

※1 中津藩の歴史と武術について詳しく記載されています。中津藩に左右田新陰流があり、ソウダと読むとあります。

※2 諸藩武芸流派一覧 中津藩に左右田新陰流剣術の名称があります。出典は不明。

※3 綿谷雪・山田史,1978,『増補大改訂 武芸流派大事典』,東京コピー出版部,p506

※4 文部省編,1891-1893,『日本教育史資料(3)』文部省,p75~77 旧中津藩大分県取調による藩校進修館で学ばれた剣術流派は、一刀流・外他流・戸田一刀流・神富流・東軍流で、江戸邸内学校では一刀流が学ばれていたとあります。

※5 山田次朗吉,1925,『日本剣道史』,p552「相馬新陰流 未詳」

左右馬新陰之流と速水家

現在、上野家の新陰流は上野新陰流と書かれる事も多いようです(※3)。

ところで、速水家の新陰流伝承者で名人だったらしい高月五兵衛(※6)、その二代あとの森野武八郎の新陰之流太刀目録(※7)が熊本県立図書館の富永家文書に所蔵されています。

(当会所蔵の高月五兵衛発給の太刀目録)


この太刀目録のあとがきには「左右馬新陰之流伝授之次第無違」とあります(画像の右端)。どうやら江戸後期、速水家系の新陰流では「左右馬新陰之流」という名称が使われていたようです。

肥後藩武芸の記録がまとめられている、肥後武道史によると、明治以降も和田家と速水家ではどちらが正統か、という論争があったようです。しかしながら、剣道史に名前を残す和田家や横田家と違い、速水家は剣道の歴史から消えてしまいます。

肥後武道史によると、上野景敦が和田博兵衛に一門を譲り渡したのちも速水家は上野家と行動を共にしていたようです。また、維新前まで速水家は上野家において流祖祭を取り行っていたとあります(※8)(これについては上野家の史料が空襲でほとんど焼けてしまって残っていないのが悔やまれます)。また、速水家の伝書には上野家の継承者の法名や名が正確に記載されており、上野家との深いつながりが伺えます。対して和田家の伝書では、伝書によって記載されている人数が違う、上野家の名前を間違っている例がある、というような状況です。

速水家と和田家と正統争いをしていた、という事はこれらの事実をみるとありそうな話だと思われます。

注1)流祖祭について。先師祭などと言われることもあります。日本各地の様々な流派でおこなわれていたようで、多くの場合先師の命日や何らかの記念日に一門が集まり、祭事や演武を行ったものです。この時、先師の肖像などが飾られる事も多かったようです。

三学と猿飛、初めにどちらから学んだか?

現在の肥後新陰流では、三学から学ぶ事になっています。ですが、上野景根の口訣之条々等では、表として猿飛と八組となっていて、その後に三学が来ています。横田利左衛門(注2)や宮脇段次の出した新陰之流一流太刀目録や高月五兵衛の出した新陰之流太刀目録でも表が猿飛と八組、裏が三学となっています。また、和田喜博は「古武道の真髄を語る」でやはり猿飛と小太刀から学ぶと思われる発言をしています。

写真 高月五兵衛の太刀目録(部分)

では、どこで肥後新陰流が現在のように三学から学ぶようになったか?というと実際の所は不明です。「昭和になってから柳生新陰流の演武に影響された」という推測をされる方もいましたが、どうやらもっと古くから三学より稽古を始めていた可能性が高いと思われます。

高月五兵衛とその孫弟子の太刀目録を比較すると(※7)、高月五兵衛の太刀目録が「表猿飛」より始まり、「裏三学」となっているのに対して、孫弟子の森野の太刀目録は「裏猿飛」より始まり、「表三学」となっています。この二通の目録は発給年が天保十四年(1844)と慶應四年(1867)と20年ほどしか離れていません。おそらく幕末にはすでに三学を表として考えている一派が存在していたと思われます。

※6 高月五兵衛は細川藩の支藩、宇土藩の剣術師範でした。五兵衛が建てた屋敷は熊本県宇土市門内町に現存しており、旧高月邸として宇土市指定有形文化財に指定されています。

※7 熊本県立図書館富永家文書、1027新陰之流太刀目録 および 1028新陰之流太刀目録。貴重資料デジタルアーカイブで閲覧できます。

※8 熊本県体育協会,1970,『肥後武道史』,p282-283

注2)横田利左衛門:横田家の新陰流師範。明治末頃まで活躍した。のちに清馬と名乗ります。 宮脇弾次は横田清馬のあとを継いだ人物で、武徳会剣道範士となります。

(2018年11月24日公開)

(2019年12月4日画像追加)