疋田豊五郎景兼 (疋田文五郎)

新陰流を細川家に伝えた疋田豊五郎景兼※1(1537?~没年不詳)は新陰流開祖上泉伊勢守の高弟で、俗に新陰流四天王の一人と言われている剣豪です。匹田豊五郎、疋田文五郎などと書かれる事もあります。小伯(虎伯)とも名乗っていたと言われ、後年は剃髪し栖雲斎と号していました。

一説によると彼は天文6年(1537年)に石川県で生まれたと言われています。上泉信綱の姉の子※2で、若いころより叔父の信綱に仕え兵法(剣術や槍、軍学など)を学び、戦場で戦ったと言われています。新陰流以外にも小笠原家の小笠原流(首座流、念流)※3 、雲林院弥四郎から新當流※4などを学び、剣術だけではなく槍や薙刀の名手であったと言われています。

上泉信綱が回国修行に出た際には同行し、一説には師である上泉信綱に代わって柳生宗厳(のちの柳生石舟斎)と立ち会ったとも、上泉信綱に代わって柳生庄で指導に当たったとも言われています。一般的に柳生宗厳は大永7年(1527年)生まれとされていますので、十歳近く豊五郎の方が若かった事になります。その後、師上泉信綱よりに暇を出され、一人回国修行へ立ちます。

この時期の事はあまりよくわかっていませんが、各地で数多くの弟子に兵法を教えたようです。豊五郎が指導した有名人に、織田信忠、豊臣秀次、徳川秀忠、黒田長政、細川忠利などの名前が伝わっており、福岡市立博物館には疋田豊五郎が黒田長政に発行した絵目録(疋田新陰流剣術組絵図)、細川永青文庫には細川忠利に発行された絵目録(新陰流鑓目録)が残っています。一般に豊五郎は“疋田陰流”と名乗ったとされていますが、幾つか残っている直筆と伝わる伝書でも“新陰之流”と書かれており、彼の多くの弟子たちも“新陰流”、“新陰之流”と名乗り、疋田陰流と名乗ったものはいないようです※5。

また豊臣秀次に仕えたともあります。この時期に秀次から中條流の達人、長谷川宗喜と仕合するよう命じられるもこれを辞しました。ある人が豊五郎に何故辞したか訪ねたところ、「互いに腕に覚えがあり、仕合えばただでは済まない。武士は物の役に立つのが役目であり、無駄に危険を冒すものではない」と語り、世の人はこれを賞賛したという逸話が伝わっています。

右の絵は幕末~明治頃に出版された岳亭春信『武者修業巡録傳』です。疋田文五郎本平となっていますが、上記の逸話についての絵です。

肥後細川藩で新陰流の指南役であった和田家に残った文献によると、疋田豊五郎は丹後宮津で細川幽斎に150石で仕えたとされています。肥後藩で疋田豊五郎の後を継いだ上野左右馬助景用の父も疋田の弟子であったと言われ、当時少年だった景用も師事していたとも考えられます。

その後、理由は不明ですが還暦も間近な文禄4年(1595年、豊五郎58歳)に突然致仕し、剃髪し栖雲斎※6と名乗り、嶋田清六という弟子一人を伴って廻国修行に出発します。この回国修行は6年におよび、少なくとも24名と他流試合をおこなっています。これらの他流試合では豊五郎はすべてシナイを使い、木刀や棒、またはシナイを使う相手に全勝しています。 またこの時期に柳生へ立ち寄り、柳生新次郎に伝書を発行しています。この回国修行ののち、豊前小倉で細川忠興に150石(のちに200石に加増)で再度召し抱えられ※7、細川家中に新陰流を伝えました。細川家永青文庫には疋田豊五郎が織田信忠・豊臣秀次・徳川秀忠から受け取った起請文が現存しています。前述したとおり細川忠利も豊五郎から「新陰流鑓目録」を授かっており、また上野景用や上田勘平と言った高弟なども細川家の家臣におり、豊五郎と細川家の関係が強かったことがわかります。

疋田豊五郎は多くの弟子を育てました。富永堅吾が『剣道五百年史』で小田切一雲の剣術説を引用し

「挽田は西国筋に住居し、その流派はびこりて品々別れ、種々の流の名あり。」とあるが、 疋田の流儀は西国方面に広く拡まったものである。

と解説しているように、弟子の多くは西日本で名を残しています。

後の事は良くわかっていませんが、一般的には細川藩で亡くなった※8とも、肥前唐津藩に仕え、その後再び回国修行を行い慶長10年(1610年)に大阪で客死したとも言われています。 慶長10年の没年については、高弟の坂井半助は疋田豊五郎から慶長12年に免許を受けた事になっている事、真贋不明ですが元和5年に発行した伝書が存在する事、慶長10年説の根拠が不明な事、など疑問点があります。

なお細川家中では、「疋田豊五郎に子が無かったので上野景用が後を継いだ」と伝わっています。細川藩ではこの後、上野景用一門が新陰流を伝えていくことになります。

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※1. 直筆と伝わっている文書では疋田豊五郎となっていますが、諸書で匹田豊五郎や匹田文五郎、疋田文五郎、引田文五郎などとも書かれています。また信綱とともに柳生庄へ来た時期は虎伯(小伯)と名乗っていたとも言われています。また、江戸中期から昭和にかけて熊本で新陰流を伝えた和田家が発行した伝書の中には匹田豊五郎と書いたものも存在しています。

※2.堀小平『大日本剣道史』昭和8年 によると

二代 疋田文五郎景廉 又小伯,虎伯,栖雲斎,豊(ぶん)五郎/父祖 父は加賀國石川の人疋田主膳景範入道道伯、軍法、槍術、陰陽學の達人、母は上泉信綱の姉、其二男/時代 紀元二二六五年(慶長十年)大阪城に於て七十歳許りにて歿/住所 上野國、丹後宮津、豊前國中津、小倉

とあります。

※3.筑波大学武道文化研究会 『新陰流関係資料』に収録されている 坂井半助発行伝書に、小太刀虎乱書・八組として「奥山念阿弥陀仏→三首座→小笠原甲明(代々相傳)→疋田豊五郎入道栖雲斎→坂井半介茂家→…」という系図が載っています。

※4.『新史料による「天草・島原の乱」―その時、徳川幕府軍はどう考えたか』に疋田豊五郎が雲林院弥四郎に提出した起請文が紹介されています。

※5.疋田の直弟子で、岡山や鳥取で多くの弟子を育てた猪多伊折佐は疋田豊五郎から学んだ槍術に工夫を加え、“疋田流鑓術”を名乗りましたが、剣術については“新陰之流”“新陰流”と名乗っています。

※6.剃髪し栖雲斎と名乗った文禄4年は豊臣秀次が切腹した年です。かつて豊五郎が仕え、弟子の何人かが関係していたと思われる秀次の死と剃髪、廻国修行は関係があるかもしれません。

※7.再度出仕した際に細川忠興へ回国修行中行った他流試合について記した『疋田豊五郎入道栖雲斎廻国記』(もしくは『疋田豊五郎入道栖雲斎廻国心覚』)を提出しています。廻国記は長尾進先生の「剣道の発達過程に関する研究-「しない打ち」の源流をたずねて:『疋田豊五郎入道栖雲斎廻國記』の検討-」で読むことができます。

※8. カゲ墓とよばれる匹田豊五郎のものと伝わる墓があります。ただし明治時代から上野家の誰かが建てたものと言われていたようです。

引用・参考文献

相川学,1987,『肥後 新陰流太刀勢法傳』

熊本地歴研究会,熊本県体育協会 編纂,1974,『肥後武道史』(復刊),青潮社

綿谷雪,1979,『武術業刊第一集 武者修業巡録傳』,渡辺書店

富永堅吾,1971,『剣道五百年史』,百泉書房

長尾進,2004,『剣道の発達過程に関する研究-「しない打ち」の源流をたずねて:『疋田豊五郎入道栖雲斎廻國記』の検討-』,明治大学人文科学研究所紀要