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肥後・新陰流兵法とは

 
 
 肥後・新陰流
は肥後細川藩(現在の熊本県付近)に伝わった
新陰流剣術です。

疋田豊五郎と新陰流


 新陰流といいますと、有名な柳生新陰流を想像される方も多いと思いますが、我々が稽古している新陰流は、上泉伊勢守の高弟で彼の甥と言われる疋田豊五郎(疋田文五郎)が伝えたもので、柳生新陰流とは伝わっている形が異なっています。
 
   …疋田豊五郎について簡単に解説しています。
 
 疋田豊五郎は織田信忠豊臣秀次、徳川秀忠、黒田長政細川忠利などの大名に剣術・槍術を教えたことで知られています。西日本で数多くの弟子を育てましたが、特に天正年間から文禄4年(1580頃~1591)­と慶長六年前後(1601)頃に細川家中で新陰流を教えていたと言われています。これは有名な宮本武蔵が熊本を訪れる約40年前の話です。
 

肥後細川藩と新陰流

 細川藩では疋田豊五郎の高弟、上野左右馬助(そうまのすけ)が新陰流師範となり、左右馬助以降、上野家で代々師範が受け継がれました。江戸中期に上野家は衰退しましたが、新陰流はさらに発展し、何人かの弟子が独立していました。上野家が衰退した際に上野家から弟子を引き継ぎ正式に師範を継承したのが和田傳兵衛です。

図- 肥後の新陰流の江戸中期分派までの系図
 現在の肥後・新陰流はこの和田傳兵衛の系統になります。肥後の藩校時習館が設立された際、採用された剣術流派は
 
・柳生流(柳生新陰流)
・当流神陰流(柳生新陰流系)
・新陰流(上野家の系統)
・雲弘流
・四天流
・寺見流
・武蔵流
(二天一流)
 
の7流派15名で、どの流派も師範は1名か2名でした。しかし上野系の新陰流は5名が師範として採用され、藩を代表する流派でした。また江戸時代後半には他流試合も盛んにおこなっていたらしく、いくつも残っている武者修行者の英名録(いつどこのだれと試合や稽古をした、という記録)には肥後藩の新陰流としてよく出てきます。
 

明治維新後の新陰流

 維新後、当時の和田家師範、和田傳は肥後伝来の袋撓と防具での試合稽古から、現代剣道と同じ剣道具(四つ割竹刀と防具)での試合稽古を取り入れました。また弟の野田長三郎を神道無念流渡辺昇の元へ送り一年間修業させるなど、熊本の剣術試合の改革を行います。武徳会が組織されてからは武徳会熊本支部として積極的に活動し、大日本帝国剣道形制定委員の一人でもありました。
 傳は熊本警察署、武徳会、学校等で剣道教師とし多くの弟子を育てました。熊本現代剣道の祖といえる人物で、弟子の中には戦前・戦後に活躍した有名な剣道家が何人もいます。その技は神道無念流の渡辺昇が、和田傳の新陰流形を見た際に、「日本一である」と称賛したと伝わっています。

 図- 平成までの系図
 

第二次大戦後の新陰流


 戦前まで免許・目録等を持った剣道師範が本当に多数いた新陰流ですが、第二次大戦後の社会状況の変化や現代剣道が一般化した事により、新陰流の形が稽古される事も少なくなり、形を演武できる人間も少なくなっていきました。
 昭和38年、当時病床にあった古賀徳孝は熊本から新陰流の絶える事を憂い、剣道高段者であった相川学に新陰流の伝承を依頼しました。この流れが現在の肥後・新陰流となります。
 
 
 
 
 

疋田新陰流(疋田陰流)と肥後・新陰流


 一般的に疋田豊五朗の流派は疋田陰流(疋田新陰流)疋田流
などと言われますが、肥後細川藩に伝わった系統では明治頃まで疋田陰流等と名乗った例は無く、一貫して「新陰流」と名乗っていました。
 
 現在は『肥後・新陰流』と名乗っていますが、正式な名称は『新陰流』です。新陰流と名乗ると他の新陰流(有名な柳生家の新陰流など)と紛らわしいために、昭和三十八年に新陰流の十六代を継いだ相川学先生らによって『肥後に伝わった新陰流』という意味で『肥後・新陰流』『傳肥後・新陰流』等と名乗るようになりました。
 
 現在、熊本では剣道の名門、「龍驤館」で紫垣正光師範・紫垣正刀師範によって伝承されています。
 
肥後新陰流剣術(熊本県古武道会のページ)
※熊本県古武道会のWEBページがリンクされなくなったので、WEBアーカイブのページにリンクしています。
 

三重県に伝わった経緯


 三重県に伝わった経緯ですが、三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦は愛洲陰流の開祖、愛洲移香斎久忠の出身地と言われ、昭和五十年中頃から愛洲氏と移香斎を顕彰しようという運動がありました。
 
  その際、愛洲移香斎を開祖とする流派として相川先生が五ヶ所浦へ招かれ演武をし、その後に地元の人に新陰流の形を指導し、肥後・新陰流三重支部という形になったのが始まりです。この時から相川先生および京都在住の志岐太一郎先生(野田派二天一流十六代、相川先生の兄弟弟子)の両先生が亡くなられるまで学ばれたのが山本篤先生です。

… もうすこし詳しく肥後の新陰流の歴史について解説しています。
 



 

伝承されている新陰流の形

現在伝わる新陰流形は、太刀の形18本、小太刀の形5本の合計23本です。形では下の写真のような木刀と袋シナイを使用します。
 
肥後・新陰流の稽古道具。上から小太刀の袋竹刀(昭和初期)、袋竹刀(現代)、昭和6年の天覧演武で使用された袋竹刀、木刀(古いシナイは愛洲の館蔵)

 袋シナイ(袋ジナイ)は袋撓・袋竹刀などと書かれ、現在の剣道の竹刀の元になった稽古道具です。新陰流の祖・上泉伊勢守の発明と言われており、先を割った竹を革袋に詰めて作ります。袋シナイは木刀に比べて柔らかいため、実際当てても怪我につながらず、剣術を安全に稽古する事が出来るようになったとされています。

 形の本数は一見少ないように思えますが、戦国時代末に疋田豊五郎が弟子に与えた絵目録(新陰流の形の構えが一つづつ書かれています)などによると、基本的には太刀の形が23本あったようです。現在の18本と比較すると5本の形が減っています。ですが失われた形は刀を投げる技や、槍長刀と戦う技など特殊な技で、大部分は400年前の絵巻物そのままの構えと名称で現在に伝わっています。

 また、他の多くの武道とは違い、基本的に稽古は屋外で裸足でおこなわれます。幾つかの記録によれば、多くの武術で江戸時代や明治頃には庭や土間で稽古が行われていたそうです。そういった伝統を受け継いでいるのは比較的珍しい事だと思います。もちろん現在では時と場合に応じで履物を履いていますが、基本的に屋外で稽古しています。

 

  
… 現在伝わる肥後・新陰流の形について概要を紹介しています。