肥後細川藩における新陰流の歴史

肥後細川藩における新陰流は、江戸時代初期から昭和に至るまで、もっとも勢力の大きい剣術流派でした。

細川藩に伝わった新陰流は上泉信綱の高弟・疋田豊五郎の系統です。一般的に有名な柳生新陰流ではありませんでした※1。疋田豊五郎は慶長六年頃に細川家中で剣術を指導していたようです。そのあとを継いだのは上野左右馬助景用※2です。この後、江戸時代半ばまで上野家が代々新陰流の師範となります。

景用の後は景末、景根※3と上野家で三代指南役が続き、多くの藩士が新陰流を学びました。三代目の景根は名人として名高く、伝書を整備し多くの門弟を育てました。ところが上野家4代目の景澄が病弱であったため、景根の弟にあたる景明が後見として一門を支え、景澄が亡くなったのちも景澄の子、景敦も幼かったため、続けて景明が続けて指導を行っていました。しかし景明も高齢となり指導も限界となったため、景敦は藩へ流儀一切を門弟の和田傳兵衛定高※4に譲る事を願い出ました。この願いは聞き届けられ、宝暦四年(1754)11月、多くの上野道場門弟は和田定高の門弟となり、宝暦五年には指南役も譲られました。

※調査の過程で、上記の理解は幕末期の和田家の認識で、実際は違っていた可能性がありそうです。それらについては以下のページで考察しました。2023.7.16

上野家から和田家の新陰流師役継承について 

図-新陰流指南役上野家の系図

上野家三代目、上野景根には多くの門弟がおり、彼ら高弟は各地でそれぞれ門弟を抱え指導していたようです。上野家から師範を譲られた和田家以外にも、内藤勘左衛門、速水八郎兵衛なども独立していました。和田定高が指南役となった頃には内藤勘左衛門の門下から林家や横田家なども指南役として取り立てられていました。上野景澄は和田家の他にも速水八郎兵衛や戸波十右衛門などにも指南の許しを出したようです。これらの一門が新陰流五師範家(和田、速水、横田、林、戸波)です。以下の図が簡単な五師範家の簡単な系図です。

図-肥後藩の新陰流 五師範家への系図

これら五師範家はそれぞれ明治~昭和の時代までは存続していたようです。我々東京稽古会が稽古している肥後・新陰流はこの内の和田家の系統です。

維新後の新陰流

… 明治維新から昭和までの熊本の新陰流について


※1 細川藩には柳生石舟斎から学んだ岡本仁兵衛の系統(当流神影流)や五代藩主綱利が江戸から招いた柳生家親戚田中甚兵衛の系統(柳生流)なども伝わっており、特に柳生流は他の諸流と比べて稽古道具などを藩費で用意するなど、細川家御流儀として一段上の別格の扱いを受けていたようです。また、肥後の新陰流の一派に伝わった文献には「上泉武蔵守(伊勢守)は新陰流、柳生石舟斎は柳生流、疋田豊五郎は新陰之流と名乗った」と記載されています。

※2 上野家の伝承では、疋田豊五郎に子が無かったために景用が後を継いだ、とされています。 しかし、柳生厳長『正伝新陰流』に柳生家に伝わる疋田系の伝書が紹介されていますが、そこには疋田豊五郎の子と思われる疋田宗保斎勝重から伝授を受けた山田宗好斎勝興が発行したものであり、また疋田流槍術を開いた猪多伊折佐重吉は疋田豊五郎の嫡子・疋田伝兵衛景吉に指導を受けたと伝わっているため、疋田豊五郎に子が居たと思われます。

※3 代々「喜三右衛門」を名乗っています。

※4 和田傳兵衛定高の父、和田次太輔貞昌は上野家3代目の景根の高弟であり、免許を受けています。また景根と貞昌の師弟の関係は深く、景根から貞昌にあてた手紙も和田家にはいくつも残っていたと『肥後武道史』にあります。定高は最初父より新陰流を学んだようです。

参考文献

柳生厳長,『正伝新陰流』

熊本地歴研究会,熊本県体育協会 編纂,1974,『肥後武道史』(復刊),青潮社

森田栄,『日本剣道史』