維新後の新陰流

肥後における新陰流の維新後から現在までの歴史について解説しています。主に肥後・新陰流へとつながる伝系を中心に解説しております。

図-第十六代相川学宗家までの簡易系図

和田傳

明治に活躍した和田傳(天保十四年(1843)生、大正五年(1916)没)は、和田平也の長男です。

強力大兵でははなかったそうですが、父平也の元で研鑽をつみ、若年のうちから頭角を現していたそうです。

明治4年に父の後を継ぎ指南役となりましたが、翌年明治5年に指南役が廃止され、その後西南戦争に参加しています。西南戦争後は賊軍に与したとして、明治10年に投獄されてしまいました。

明治13年に特赦された後は、戦火に遭っていた自宅道場を再建し、熊本警察署、旧藩指南役などが集まり設立した振武会、済々学、武徳会、商業学校等で撃剣教師・剣道教師とし多くの弟子を育てました。まさに熊本現代剣道の祖といえる人物です。

現在名前が残っている和田傳の弟子には、財津志満記、河野高広、山代清三、大賀信基、坂口鎮雄、沢友彦、内田直臣、大麻勇次(剣道十段)、大野熊雄などが知られています。神道無念流の渡辺昇が、和田傳の新陰流形を見た際に、「日本一である」と称賛したと伝わっています。

また、武徳会でも活躍し、大日本帝国剣道形制定委員の一人でもありました。

新陰流の他流試合と熊本の剣道道具改良

長尾進教授等の論文によると、熊本の剣術は比較的古くから防具着用の試合稽古を行っており、19世紀はじめから他国の廻国修行者との交流も行っていたようでいくつもの武者修行者の記録に肥後国の新陰流として名前が出ていました。当然ですが、使用する竹刀は現在の剣道で使用する竹刀ではなく、主に袋撓を使用していたようです。同じ肥後細川藩に伝わった雲弘流では大きな面防具をつけ、重い袋撓を使用し試合を行っていたそうです。江戸時代、水戸藩内で神道無念流を広めた武藤七之介が著した「神道無念流剣術心得書」には、肥後国の新陰流の試合ぶりが記録されています。それによると

其体は、面・小手ばかり。勢眼にて試合はことのほかやわらかなり。さりながら、あまり打かるくしてことのほか試合にくきものなり

とあります。幕末頃になり、幾つかの流派で現在の剣道に近い竹刀や防具が使用されるようになっても、肥後では古来からの袋撓での試合が行われ、それは明治維新後も続いていました。

明治以降、和田傳は袋撓には欠点があるので、現代の剣道と同じ四つ割式竹刀(以下籠竹刀)と新式の防具を使う事を主張していましたが、当時の熊本では受け入れられず、伝統を重視する高弟から猛反対を受けていました。しかし道具に工夫を凝らし、また熊本では現代剣道式の竹刀、防具を作成できる職人がいなかったので、警視庁から現代と同じ形式の剣道具を入手し稽古を行ったそうです。当時他県から来ていた役人たちの中には、籠竹刀で稽古しているものが多くいたましたが、熊本の剣術家たちは彼らになかなか敵わなかったそうです。詳しい事はわかりませんが、いくつかの研究や史料、証言によると、袋撓を使う流儀では防具とシナイの問題で安全に突き技の稽古が出来なかったため、新式の剣道具を使う流派に比べて突き技が劣っていたと言われています。

明治18年、神道無念流の渡辺昇が熊本へ会計審査院長として来た頃の話です。

渡辺昇は熊本の警察たちと試合をおこないました。このとき熊本側の剣術家は1人も渡辺に歯が立たず、さらには籠竹刀で稽古していた役人のだれも勝てませんでした。

この時、渡辺が試合した者たちを呼びあつめ、

「袋竹刀であるから技術が進歩せぬ。同じやるならもう少し発達する様に考えてはどうか。二、三人東京へ寄越せば自分が世話をしてもよい」

と語ったそうです。

野田長三郎

これに応えたのが和田傳の実弟で、野田家に養子となっていた野田長三郎です。野田長三郎は明治19年、32歳で渡辺昇を頼り東京へ向かい一年間修業を行いました。野田長三郎は兄の和田傳と協力し、熊本の剣道を振興していきました。明治33年に野田長三郎は龍驤館(りゅうじょうかん)を建てます。

和田道場、「龍驤館」ともに同じ和田家の新陰流として、互いの道場の門弟が目録などを受ける際は、両道場の高弟が立ち会ったそうです。 野田長三郎から新陰流の伝授を受けた弟子は古賀の他にも多数いたようですが、現在も新陰流の形を伝えている方がいるかどうかわかりません。和田家系統以外でも何人もの免許者たちが新陰流と名乗っていた事がわかっていますが、現在の伝承状況は不明です。

昭和6年の武徳殿熊本支部での天覧演武や昭和13年の東京で行われた古武道振興会演武大会で、和田傳の息子である和田喜傳と、野田長三郎から新陰流形を受け継ぎ伝承した古賀栄信(最初和田傳に入門・二天一流師範)が、新陰流形を打太刀和田、仕太刀古賀で演武しています。和田道場や龍驤館は熊本剣道の重要な礎となったようです。龍驤館は戦後再興され、現在でも肥後・新陰流も継承されている紫垣先生により剣道の名門として存続しています。

図- 昭和13年の武徳祭大演武会の演武番組

上の図は昭和13年におこなわれた武徳際大演武会の演武番組表です。剣道形として新蔭流の演武を教士澤友彦と練士井上八十郎、二天一流を教士古賀栄信(二天一流師範で肥後・新陰流の第十五代)と教士加納軍次(野田派二天一流師範)が演武しています。

和田傳は「新陰流の精神は形と傳書にある(技は新しい試合形式で磨く)」とし、この後熊本の剣術流派の多くは従来の防具と袋撓での試合から、近代的な竹刀と防具を使用した試合形式を取り入れていったようです。また武徳会が結成された後は和田傳は熊本の武徳会の中心となっていきます。ただし、すべての流派や人物が近代的な剣道具や試合方式を受け入れたわけではなく、肥後古来の試合方式を墨守し、武徳会の試合でも素面素小手で出場したと言われる雲弘流の井上平太(右図)のような人物もいたようです。 この他、横田系の新陰流を継いだ武徳会剣道範士宮脇弾次(左図)、宝蔵院流槍術師範で大正7年に武徳会の槍術範士の称号を受けた宮川末五郎(戸波系新陰流)などが他系統の新陰流の剣道家として名前が残っています。

戦後の新陰流

戦後、熊本で活躍された剣道家の中には野田長三郎や宮脇弾次などから新陰流の免許を受けた人が少なくありませんでした。熊本各地の剣道教師にも多くの新陰流道場出身者がいました。しかし前記したように、近代的な試合方式を取り入れた新陰流は剣道主体となり、新陰流形はあまり稽古されなくなっていったようです。昭和35年の熊本国体で新陰流の形が演じられたような例を除き、第二次大戦後には新陰流が表舞台で演じらた記録はそれほど多くありません。

そのような状況の昭和38年、当時病床にあった古賀徳孝が熊本から新陰流の絶える事を憂い、剣道高段者であった相川学に新陰流の伝承を

依頼しました。古賀の弟子であり、野田派二天一流十六代の志岐太一郎も当時伝承されていた新陰流の形をすべて

学んでいましたが、近く転勤で熊本を離れる事が決まっていました。相川学は志岐太一郎と新陰流の形を稽古し、古賀徳孝が亡くなる前に、短期間で伝承されていた形を身につけました。

相川学が新陰流を受け継いだこの頃まで、特に「肥後・新陰流」と呼ばれる事はなく、単に「新陰流」と呼称されていたようです。


南伊勢町五ヶ所に伝わった経緯

昭和55年、陰流流祖愛洲移香斎の生誕地の縁から、三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦に相川学宗家が招かれ、当時京都大原在住だった志岐太一郎師範と肥後・新陰流や二天一流の演武が行われました。それ以降も相川宗家は何度か五ヶ所浦に招かれ、剣祖祭での演武や指導が行われました。相川宗家が熊本から関東へ転居された後も続き 、現在山本篤師範ほかによって新陰流の形が伝えられています。また、五ヶ所浦の愛洲の館には古賀栄信が昭和6年の天覧演武で演武した際に使用された袋撓と稽古用の大小の袋撓が、相川宗家から寄贈され保管さています。

愛洲氏顕彰祭・剣祖祭

… 愛洲南伊勢町五ヶ所で毎年開催されている、愛洲氏顕彰・剣祖祭について

東京稽古会について

引用・参考資料

熊本地歴研究会,1974,『肥後武道史』,青潮社

富永堅吾,1972, 『剣道五百年史』 島津書房

村上晋 (編),1921,『大正武道家名鑑』,平安考古会

長尾進,1989,『肥後雲弘流における形、「組方」について』,武道学研究

森田栄,『日本剣道史』

剣道家写真名鑑刊行会,1924,『剣道家写真名鑑』