疋田豊五郎の弟子達

疋田豊五郎には数多くの弟子がいました。

戦国武将では、織田信忠豊臣秀次徳川秀忠黒田長政細川忠利が有名です。この他にも、多くの弟子がおり、何系統もの疋田豊五郎系の新陰流が江戸時代存在していました。

戦国武将と疋田豊五郎

豊五郎から教えを受けた人間として特に有名な武将は織田信忠・豊臣秀次・徳川秀忠・細川忠利・黒田長政などでしょう。

このうち織田信忠・豊臣秀次・徳川秀忠が疋田豊五郎へ出した起請文は、いずれも細川永青文庫に所蔵されています。また細川忠利も豊五郎から『新陰流鑓目録』(トンボ絵で描かれた絵目録)を授かっていますが、こちらも細川永青文庫に現存しています。この他には黒田長政が疋田豊五郎から慶長5年に受けた猿飛之巻と位詰之巻の絵目録があり、彩色された人物画による剣術絵図は立派なもので、福岡市立博物館に『疋田新陰流剣術組絵図』として所蔵されています。

武将たちが伝授を受けた年代や年齢を起請文や免状・目録等で調査したところ、以下のようになりました。

織田信忠

…天正五年七月十一日 (1577) 20歳

豊臣秀次

…天正十七年二月二十三日 (1589) 21歳

武田信高(真理谷清雲)

…真里谷城主。年月日不明ですが天正19年頃(1591)には新陰流を教え始めています。

徳川秀忠

…天正20年あるいは文禄2年(1593~1594) 14~15歳

長岡考以

…慶長五年二月(1600年) 21歳

黒田長政

…慶長五年(1600)三月に目録伝授、同年五月に免状 31歳

亀井茲矩、政矩親子

…慶長五年(1600) 茲矩(44歳)・政矩(11歳・初代津和野藩主)

細川忠利

…慶長五年(1600)以降

織田・豊臣・徳川の有力武将の後継者たちがそろって若い頃に学んでおり、また、関ケ原の合戦の年である慶長五年に多くの武将が豊五郎から伝授を受けています。理由は色々想像できますが、注目に値する事と思われます。おそらく、これだけの人間が豊五郎から兵法を学んでいる事から見ても、16世紀終わりには兵法家としての豊五郎の名声は相当なものだったと思われます。

俗に言われる、『疋田豊五郎の技を見た徳川家康が「匹夫の剣である」と言い入門せず、柳生の剣を見て柳生に入門した』という話は、秀忠が豊五郎に起請文を出している所を見ても後世の作り話の可能性が高そうです。ただ、徳川秀忠が起請文を豊五郎へ出した年の翌年もしくは翌々年に柳生石舟斎が徳川家康の前で無刀取を披露しており、柳生家が徳川家と縁を持ったこの出会いは疋田豊五郎が徳川秀忠へ兵法指南をしたことと無関係では無いのかもしれません。

※このWEBサイトの背景にあるような、線画で描かれた人物で構えを表現した絵を『トンボ絵』と言います。

上野左右馬助景用(熊本)

上野左右馬助景用(相馬助とも)は森田栄「日本剣道史第四号」や「肥後武道史」によると、明暦三年(1657年)没。墓地は泰厳寺にありました。

左右馬助もその父も疋田豊五郎の弟子であったと伝わっています。上野左右馬助は丹後時代より細川家に仕えていたようです。島原の乱に嫡子の上野悪助と出陣、戦功があるも重傷を負ったとあります※1。細川家での身分は馬廻で、まだ何度かの戦場を経験した世代の武芸者でした。

左右馬助は細川忠利に新陰流を指南していたと伝わっています。また疋田豊五郎が使用していた木刀寸法についての覚書(慶長六年)を提出していたようで、その写しが秘伝書として伝わっていました。

その略歴を『新・肥後細川藩侍帳 - 肥後細川藩・拾遺』等から抜粋しますと、

  • 文禄四年(1595年)、15歳頃 師・疋田豊五郎が剃髪し廻国へ。

  • 慶長六年(1601年)、21歳頃 豊前に疋田豊五郎が帰参。左右馬助、師と再会(?)

  • 元和七年(1621年)、41歳頃 嫡子の悪助生まれる。(二代目の上野惣次郎(喜三右衛門)景末夢醒のことか?)

  • 寛永三年(1625年)、45歳頃 小倉の左右馬助の知行地で不作が続き、ついにこの年は日照りでコメの一粒も取れず困窮する。

  • 寛永九年(1632年)、52歳頃 細川家一同肥後藩へ。役職は御馬廻衆百五十石。

  • 寛永十四年(1637年)、57歳頃 島原の乱に息子の悪助(十六歳)と出陣、二ノ丸攻めに参加して石垣下で石に当たり重傷を負う。息子悪助は槍で活躍、敵を討ちとった。

  • 明暦三年(1657年)、77歳頃 この年に亡くなる。

上野家の伝承から推測すると、上野左右助は天正八年頃の生まれになるため、左右馬助は宮本武蔵より二~四歳程度年長ですが、ほぼ同年代の武芸者になります。武蔵が小次郎と決闘したのが細川家時代の慶長年間と言われていますから、まさに左右馬助が豊前小倉藩で新陰流師範だった時代の出来事という事になります。

宮本武蔵の決闘の少し後、元和四年(1618年)に豊五郎の弟子、上野勘平が発行した三学の巻が富永堅吾「剣道五百年史」に紹介されています。この勘平というのが左右馬助の親族なのかわかりませんが、左右馬助も疋田門下だったと言われているので、細川家の上野一族には疋田門下が多かったのかもしれません。

※1 綿考輯録「皆当家の士卒争ひ走て二丸にせまる、上野左右馬助・田中又助・鈴木伝兵衛一所ニ働き、左右馬助ハ石垣下ニ而石手を負、嫡子上野悪助十六才は鑓をあはせ敵を突伏る」 嫡子悪助は十六歳です。

(この項、2020年11月29日修正)

猪多伊折佐重能(疋田流槍術・岡山、後に鳥取)

猪多伊折佐は特に槍術で名を残しました。岡山藩の池田忠継、忠雄の二代に仕え、光仲の国替に従い鳥取へ移り、そこで亡くなったようです。墓は鳥取県鳥取市の興禅寺にあります。『因幡の墓標 興禅寺

彼は疋田豊五郎から学んだ槍術等に「不足が多い」として多くの工夫を加え、素槍を基本に、長刀(ナギナタ)、十文字槍、鍵槍、太刀(槍に太刀で対する)の五種類の武具を使う流派として「疋田流」を大成させました。重能が出した伝書では疋田豊五郎とその子と思われる疋田伝兵衛から学んだ事になってます。剣術自体は「新陰之流」としてそのまま伝承したようです。

彼が仕えた岡山、鳥取など中国地方を中心に、愛媛や仙台など全国各地に素槍の名流として伝わりました。「新陰疋田流」「匹田流」とされる場合も多いです。

猪多伊織佐は彼が出した印可状によると槍やナギナタは疋田流(新陰疋田流)として、剣術は新陰流として伝えましたが、後の弟子たちは槍を中心に伝え、江戸中期には彼の弟子筋で太刀で槍に勝つ「太刀入」以外の元来の新陰流剣術を行うものは少なかったようです。岡山大学の池田家文書の中には、疋田流の師範が藩主の一族へ出した免許類がいくつも残っており、岡山藩では重んじられた槍術流派だったようです。

なお、鳥取藩で雖井蛙流を創始した深尾角馬は猪多系、もしくは次に記載している香取系の新陰流剣術を学んだようで、井蛙流の伝書には「雖井蛙流の極意驪龍剣は新陰流の極意鉤曲と同じであり、井蛙流は実は新陰の骨随である」と書かれています。

疋田流は伊折佐が亡くなった後も代々鳥取藩では重んじられ、明治~大正にかけて活躍した武道家、松田秀彦(槍術範士・剣道教士・薙刀術教士)などが維新後も伝承していました。疋田流のうち薙刀術に関しては鈴木卓郎からその娘に伝わり、現在、鳥取市内の尚徳錬武館田中武子師範が伝承されています。

香取平左衛門忠宗(新陰流剣術・備前岡山)

最初豊臣秀次に仕え、晩年は岡山藩に仕えたようです。岡山中心に豊五郎の新陰流そのままを伝えたようです。

『撃剣叢談』によると備前の新陰流は香取によって広められたそうで、香取平左衛門の技は入神の域に達していたとされています。備前では香取家が師範として代々伝えていたようです。同書では「新陰之流」として疋田系の目録や伝系が挙げられています。また、槍や長刀は「香取流」として教えていたようで、槍は香取家の家傳、長刀は穴澤浄見の系統の新當流長太刀の系統だったようです。

菅六之助正利

剣術家ではありませんが、黒田如水の二十四騎の一人で、新免無二と疋田豊五郎から学びその妙を得たと言われています。後に菅六之助の子孫から黒田家に提出された疋田豊五郎直筆の伝書類の写しが黒田藩の剣術師範家の文書の中に残っています。

坂井半助茂家(新陰流剣術・岩国)

坂井半助(半介)は岩国に伝わった文書によると、慶長12年(1607年)に疋田豊五郎から免許を受けています。

彼は岩国に滞在し、数多くの弟子を育てたようで、彼の名前が記載された伝書がいくつか見つかっています。岩国では坂井半助から学んだ筏次郎右衛門(伊賀田次郎右衛門)の子孫が幕末まで師範で、岩国藩の剣術三流儀の一つでした。その三つは柳生系の新陰流の桂家、もうひとつは片山家の片山流、そして筏家は疋田系の新陰流(愛洲神陰流、愛洲蔭流)です。

半助自身は新陰之流として疋田豊五郎から習ったままを弟子に伝えたようですが、彼の末流には鞍馬楊心流、金輪流、真心陰流、岩国や江戸の愛洲陰流など、様々な流派があらわれています。水戸藩の御流儀とされた水府流の元になった三流儀のうちの一つ、真陰流も彼の弟子筋の人間が伝えたようです。

また彼と同じ名前(坂井半助)を名乗った人物が細川家の田辺城籠城戦で戦死しています。もしかすると細川家と関係のある人物だったのかもしれません。

参考:和田哲也,1988,武道学研究21,『岩国藩における竹刀打込み稽古について』※PDFです

新藤雲斎(無敵流剣術・不明)

彼に関しては良くわかっていませんが、末流からは気楽流柔術が現れます。

寺沢半平(中江流・広島)

唐津藩主、寺沢広高の甥で疋田の弟子と言われていますが、伝書によると中江新八の弟子となっています。

後に広島の浅野家に使え、弓、剣、槍の名人であったと言われ、立ち会いに来た二刀使いに立ち会う前に勝敗を告げ、さらに弟子に望まれた勝ち口で勝った逸話や、竹で打ちかかってきた相手に扇で圧勝した等の逸話が伝わっています。また浅野長治に疋田伝の「活套」の印可を与えたとあります。

参考『道標(みちしるべ) 広島藩の剣術流派 9

中江新八(電撃抜刀流・柳川、後に唐津)

中江新八は中井新八などとも書かれ、最初秀次に仕え剣術は豊五郎と中條流の長谷川宗喜の二人から学んだと言われています。後に抜討流(抜刀流、電撃抜刀流とも)を開流します。(※電撃抜刀流は中江新八の息子や弟子によって創始されたようです。中江の弟子が発給した伝書は新影疋田文五郎流となっています。)

抜討流は中江新八が仕えた柳河藩に伝わりました。また日置流弓術の名人としてしられ、香取流槍術なども身につけていました。中江の槍術については、示現流開祖、東郷重位が元和6年2月(1621)に中江新八より伝授された槍目録が残っています。柳河藩ののちに唐津藩に仕えたとあります。抜刀流は柳川以外にも伝わり、昭和初期頃まで伝承者がいたようで、武徳会で抜刀流を名乗る方もいました。(この項2021/3/10追記)

参考『道標(みちしるべ) 中江新八 (日置流弓術・電撃抜刀流)』

   村山輝志『示現流兵法 史料と研究』島津書房,p184

真理谷清雲(心影流・栃木)

疋田豊五郎の初期の弟子と思われます。本名を武田信高と言い、元真理谷城主です。豊臣秀吉の命を拒み野に下り医術や兵法を教えました。

後に現在の栃木県に住み、その地で「心影流」「疋田文五郎流」などとして伝承されていました。江戸中期までは地元の農民富裕層などに伝承されたようで、伝書などがいくつか残っています。

参考:

『8代目真里谷信高関が原戦以後の暮らし

真理谷清雲の墓所』大田原市名所・旧跡

山田浮月斎(疋田陰流・不明)

『武芸小伝』に「(疋田文五郎に従い)その宗を得る」とあります。疋田豊五郎の孫弟子ともされています。

『撃剣叢談』によると、彼が一流を工夫し「疋田陰流」と名乗っていたそうです。最近の諸書では唐津藩に仕えたとされていますが、初出の武芸小伝には彼が仕えた先や伝承地の記載はありません。柳生厳長『正傳新陰流』によれば、尾張の柳生家には疋田豊五郎の孫弟子、山田勝興が発行した疋田新陰之流の伝書七巻があり、柳生厳長によれば、この山田勝興が浮月斎ではないか、としています。