疋田陰流・疋田新陰流

このページでは疋田豊五郎の流派とされる疋田陰流・疋田新陰流について解説しています。疋田陰流・疋田新陰流という流派ですが、当会では実際にこの流派を名乗った流派は存在していなかったか、もしくは伝承場所や時代がごく限られた流派だったと考えています。

疋田陰流

少し前までの剣術・剣豪についての書籍等では、

柳生石舟斎宗厳が新陰流の正統を継ぎ、疋田豊五郎景兼は疋田陰流の祖となった

とされている事が普通でした。最近の書籍では疋田豊五郎の流派は新陰流とされる事が増えてきましたが、今でも疋田豊五郎は疋田陰流、とされている事が散見されます。

当会サイトで言及しているように、疋田豊五郎自身が「疋田陰流」と名乗った可能性はほぼ無いといっていいと思います。多くの疋田直筆伝書でも「新陰之流」「新陰流」となっており、直弟子の上野左右馬助・坂井半介・香取平兵衛・猪多伊折佐などの流派も「新陰流」「新陰之流」となっています。また、疋田系の新陰流が伝わった諸藩の史料を見ても、新陰流とされているものがほとんどです。(疋田文五郎流とされている例はあります)

18世紀はじめに著された日夏弥助「本朝武芸小伝」(干城小伝)の疋田文五郎の項で

凡そ疋田に従い其の門に遊ぶ者甚だ多なり。山田浮月斎、中江新八傑出す(中略)はじめ疋田小伯と号す、今に至って疋田陰流と号す、末流諸州に在り

とあり、その後の諸書もこれを参考にしているようです。また18世紀末の三上元龍「撃剣叢談」では

匹田陰流と称するは、栖雲斎景兼の門人山田浮月斎の伝ふる所に一派を立てたるものなり

として疋田陰流は山田浮月斎の流儀としています。

思うに、後にこれらの記述が混乱し、疋田陰流が疋田豊五郎の流儀と考えられたり、山田浮月斎が疋田の跡を継いだと考えられたと思われます。当会が各地の史料調査した範囲では江戸期の史料や伝書で疋田陰流、山田浮月斎やそれに類する流派名・名前はいまだ未見です。(※1)

疋田陰流という名称が広まった理由はよくわかりませんが、なんども映画化・ドラマ化された五味康祐の「柳生武芸帖」では疋田陰流山田浮月斎が肥前唐津藩の武士となっています。このあたりの記載の影響で、

「山田浮月斎や疋田豊五郎が唐津に仕えた」

「流派名は疋田陰流である」

という説が広まったと考えています。

実際のところは上記で書いたように山田浮月斎がどこの人間か不明です。また唐津藩寺沢家に仕えた、という記載は中江新八についての記述です。疋田豊五郎(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)では「唐津に仕えた」としていますが、史料や伝書類を見る限り、豊五郎は丹後や豊前時代の細川家中にはいたようですが、唐津との関係は不明です。

ところで第二次大戦以降の資料を調べていると、流派名として疋田陰流と名乗る方もいらっしゃいます。ですが、それらの方々の流派が維新以前なんと名乗っていたか、これも史料が無いために不明です。

※1 尾張柳生の柳生厳長先生が「正伝新陰流」の中で疋田豊五郎の孫弟子、山田宗好斎勝興が発行した「疋田新陰之流」の巻物7巻が尾張柳生家に伝わっているとして伝系部分の写真が載っています。ここで柳生厳長は山田勝興について「これが世に伝えられる浮月斎であろう」と推定しています。後にただし内容については現在も公開されていません。また山田勝興は疋田宗保斎勝重の弟子となっています。(画像は正伝新陰流p21より山田勝興の伝書画像)

この記載を根拠としたのか、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」でも山田浮月斎と山田宗好斎勝興が同一人物とされています。

「山田浮月斎 デジタル版 日本人名大辞典+Plus」


疋田新陰流

近年、雑誌記事やインターネット上などで「疋田新陰流」という記述が見られます。

我々も便宜上、他派の新陰流と区分して疋田豊五郎系の新陰流を疋田流や疋田新陰流、疋田伝等と言う事があります。おそらく雑誌記事を書かれた方なども「疋田豊五郎の新陰流」というようなニュアンスで使われているのだと思われます。(正伝新陰流等によれば、尾張の柳生家でも柳生新陰流というものも第三者が使う俗称であり、新陰流もしくは柳生流とするのが正しいのだそうです。)

ところで、肥後熊本に伝わった新陰流の史料を見てみますと、「疋田新陰流」「疋田陰流」という記載はほとんど見られません。特に明治維新以前の新陰流師範の残した史料や細川藩関係の史料では今のところ未見です。

明治以降の熊本の新陰流師範が書いた伝書で「疋田新陰」という語が使われる例は見られますが、「第三者から疋田新陰等と呼ばれる事があるが、我が流は新陰流で新陰の正統である。」という文脈で使用されています。また昭和後期になると肥後系の新陰流でもわかりやすさという事で「疋田陰流」と云った名称を演武会で名乗っている例もあります。

基本的に流派として正式名称は「新陰流」「新陰之流」「新蔭流」などであり、「疋田新陰」「疋田陰流」といった名称を正式名称として使う事は基本的に無かったようです。先ほど例にあげた明治期の伝書では、流派名は単に新陰流としています。

以上は江戸時代から現代まで肥後熊本に伝わった各派の新陰流についての話であり、他所に伝わった疋田系の新陰流で疋田新陰流と名乗っている流派が存在してもおかしくはないと思いますが、残念ながら当会の調査範囲では江戸時代の史料・記録としては未見です。疋田新陰流や疋田陰流の史料について御存じの方がおられましたら、お教えいただけると幸いです。