2017

第81回研究会

第77回に続き、エンボディード・アプローチ研究会(第6回)との合同研究会になります。

日時:2017/11/11(土) 午後1:30~5:30(午後1時開場)

場所:明治大学駿河台キャンパス研究棟2階第8会議室

趣旨:オープンアクセスジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」創刊を来年に控え、以下の二講演を実施します。

司会:渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)

講演1 森岡正芳(立命館大学/臨床心理学)

【題】物語が腑に落ちるとは?—不可視の身体の働きをめぐって

【要旨】河合隼雄は物語(ナラティヴ)と心理療法の関連について,物語が「腑に落ちる」ということを強調している。論理的説明はそれがいくら正しくても,心に残らないことが往々にしてある。クライエントが「うん」と腑に落ちたときは後に続く。「その人が腑に落ちてもらうために自分で物語を発見していただく,それを助けるのが私の職業である」。このように河合は述べる。さてこの「うん」とは何か。人が変化を起こす納得とはどういうものだろう。そして、他者が介在することがどのような働きをなすのだろうか。一つには、物語が内感に沿い,しかも他者と共有可能な形を探ること。内感として物語がどのように自己と他者を触発し、実感をもって語り聴くかということが、「うん」に接 近できる手掛かりとなろう。 他者の応答関係があって、その人の自己が動き出す。対話的交流は言語レベルのやり取りというより、全身的活動である。中井久夫は「精神科の治療とは不可視的なさまざまの身体の治療である」とするが、では「不可視の身体の働き」とは何か。他者との対話が可動する潜在空間を生み出し、意識はその空間の中で緊張が高まったり弛緩したり、たえず揺れ動いている。この遊動空間は、自らの身に生じた出来事が語りを通して再構成される場となる。体験が活き活きとした形像を伴って喚起される。時間の質も変化する。心理療法場面でのいくつかのエピソードをたどりながら検討してみたい。

【指定討論】田中彰吾(東海大学/理論心理学)

講演2 染谷昌義(高千穂大学/哲学・生態心理学)

【題】ギブソン革命の肝試し—受動する心のはたらきとアフォーダンスの存在論

【要旨】妖怪が心の科学のなかに出没している。エコロジカル・アプローチなる妖怪である。伝統の権化たる心の科学は、この妖怪を退治するために、神聖同盟を結んでいる。認知科学も知覚心理学も、生物学も脳科学も生理学も、そして心の哲学の急進派も4E*も。(*4Eとは、認知主義へのアンチテーゼとして心の科学・哲学に登場したeを頭文字とする潮流、embodied, embedded, enactive, extendedを指す)

James J. Gibson(1904-1979)とは、1960年代、70年代をとおして、生き物の知覚と行動に対する「エコロジカル・アプローチ(生態心理学)」というリサーチプログラムを提起した、知覚心理学の実験家であり理論家である。生態光学、エコロジカル情報、情報抽出としての知覚、視覚性運動制御、自己知覚、知覚システム、アフォーダンス、姿勢と運動のネスティングなど、数々のアイディアを独自に練り上げ実験し、晩年にThe Ecological Approach to Visual Perception(1979, 邦題『生態学的視覚論』)を刊行した。それから約40年。今やギブソンの名はアフォーダンス概念とともに心の科学・哲学の世界ではそれなりに市民権を得ている。けれども、これら一連の思考の根底にある「ギブソン革命」の過激な意義と射程は十分に評価されていないかもしれない(と私は思っている)。

本発表では、ギブソン革命の趣旨を、あえて以下のように規定し、この革命について来られない限り、ギブソンの二つの過激な主張、 すなわち、(1) 心のはたらきについての見方の転換(知覚は情報を受容し抽出する過程であり、行動は情報に制御される)、(2) 行動という生物プロセスを可能にするアォーダンスなる資源が生物存在とは独立に環境に潜在する、がうまく理解できないことを指摘し、いわば、ギブソン革命なる妖怪に怖がらずについて来られるかどうかの肝試しをしてみたい。

染谷昌義(2017)『知覚経験の生態学 哲学へのエコロジカル・アプローチ』勁草書房(特に、序章、第1〜3章、第5章)

染谷昌義(2016)「エコロジカルターンのゆくえ—生態学はある種の形而上学である」『東北哲学会年報』、 No. 32, pp. 83-113.

【指定討論】佐古仁志(立教大学/哲学)

担当世話人:田中彰吾(東海大学,body_of_knowledge[アットマーク]yahoo.co.jp)

電子ジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」

https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/

心の科学の基礎論研究会

https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro

エンボディード・アプローチ研究会

http://embodiedapproachj.blogspot.jp/p/blog-page.html

第80回研究会

日時:2017/07/22(土) 午後1:30~5:30(午後1時開場)

場所:明治大学駿河台キャンパス研究棟2階第8会議室

趣旨:本研究会も80回目(21年目)を迎え、かつオープンアクセスジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」創刊を来年に控え、特集「心理学のエピステモロジー」と銘打って以下の企画を行います。

司会:渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)

講演1 加藤義信(名古屋芸術大学/発達心理学)

【題】アンリ・ワロンの発達論の独創性に学ぶ:現代発達心理学の批判的捉え直しのために

【要旨】心理学は人文・社会科学の中で最も自然科学化が進んだ領域であると見なされている。その一つの下位分野である発達心理学も例外ではない。

第一線で活躍する多くの発達研究者にとって、研究するとは、英語の学術誌に掲載された論文を読み、そこで共有されている問題意識を自らのものとした上で、「科学的」であると受容される方法の枠内でデータを収集し、それらを論文に(できれば英語で)仕上げて投稿し新知見のプライオリティ競争に参加することと、今や同義である。しかし、発達研究において、自然科学と同様のこうした学問の「制度化」、さらには「国際化」が、あたかもアメリカを中心に地球規模で成立していると、本当に考えてよいのだろうか。発達研究が当該研究者(及びその研究者の所属する階級・社会・文化)の発達観・子ども観・人間観に深く規定されて一定のバイアスのもとにしか成り立たない学問であるとすれば、この領域における「自然科学的な学問共同体」の存在を無自覚に想定するのは幻想に過ぎない。

自戒を込めて言えば、発表者がこれまで行ってきた認知発達の実験的研究も、こうした研究スタイルと無縁であったわけではない。ただ、上記のような問題意識だけは若い頃から持ち続けてきたので、一方で、今や時代遅れとみなされる20世紀前半のフランス語圏の二人の発達のグランド・セオリスト、ピアジェとワロンにずっとこだわりながら、英語圏を中心とする発達研究に欠けた視点をそこから学び取ろうとして

きた。特に最近は、ワロンの発達論に含まれる幾つかのアイデアが現代の発達心理学に新たな地平を切り開く可能性を有していることに注目してきた。今回は、この点を中心に話題提供することにしたい。

講演2 山口裕之(徳島大学/哲学・エピステモロジー)

【題】心の科学のエピステモロジー:現代心理学が暗黙のうちに前提とするものを探る

【要旨】現代の心理学は、「心」を対象とする科学である。そこには、丸ごとの人間に介入して結果を質問票などで測るといった研究だけでなく、何か作業をしているときに使う脳の領域をfMRIなどで測定したり、神経細胞の電気的反応を調べたりといった「脳の研究」も含まれる。

しかし、そもそも「心」とは何だろうか。心理学において研究されている「知覚」「知能」「情動」「態度」などといった概念は、普遍的に妥当する概念なのであろうか。心は脳と単純に同一視してよいものであろうか。

少しばかり近代哲学を読んでみると、現代の心理学とよく似た主題が扱われていることがすぐにわかる知覚の研究はデカルトやロックなどに含まれているし、コンディヤックなどフランス啓蒙思想には人間の発達段階に対する体系的な考察が含まれている。しかし同時に気づくことは、そこで使われている言葉が、現代の心理学用語とは異なっていることである。mindではなくsoul(フランス語ではâme)が、emotionでなくpassionが、それぞれ一見すると前者と同じ意味で使われている。attitudeやmotivationなどという言葉は見かけず、volontéがそれらと重なりながら大幅にはみ出すような含意で使われる。intelligenceは、大文字で書けば「神」のことである。全般的に言って、当時の心(soulないしâme)の議論には、キリスト教的な色彩が濃い。

現代の心理学は、そうした近代哲学の議論を換骨奪胎することで、「科学」の一分野となったのである。そしてそのとき、「心」に対する特定の見方が、暗黙の前提として立てられることになった。今回の発表では、近代哲学から心理学へ、何が受け継がれ、何が変容したのかを考えることで、現代心理学の「暗黙の前提」を探りたい。

担当世話人:渡辺恒夫 東邦大学(psychotw[アットマーク]env.sci.toho-u.ac.jp)

第79回研究会

※人文死生学研究会(第15回)との合同研究会

(人文死生学研究会HP:https://sites.google.com/view/thanatologyashumanities/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0

日時:2017年3月25日(土) 午後1時半~6時(午後1時開場)

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟2階 第8会議室

(内容)1 「人文死生学の原理と方法(1)―自他の死の認識論的峻別 から自他の自明性の裂け目へ」1時45分ごろから。 【話題提供】渡辺恒夫 (東邦大学/明治大学) 【討論】参加者による自由討論 2 「時間と自我の再考察~インド仏教からの視点」4時ごろから。 【話題提供】重久俊夫 【討論】参加者による自由討論 ■(発表要旨1)「人文死生学の原理と方法(1)―自他の死の認識論的峻別から 自他の自明性の裂け目へ」 死生学が日本に導入されて久しいが、死にゆく他者を支援する技術(臨床死生学) としてもっぱら展開しており、肝心の自己の死という問題は置き去りにされた観がある。 人文死生学は、自己の死について人文系諸学の成果を参照しつつ考え抜くための場と して提唱され、今世紀初めから研究会活動を続けている。人文死生学を専門領域とし て確立するには二つの方法論的柱が必要となる。第一は他者の死と自己の死の認識 論的な峻別による固有の領域の確保であり、第二は直接経験を超えた自己の死につ いて思索するための方法論的工夫の開拓である。本発表では第一の柱に焦点を当て、 一見たやすい他者の死と自己の死の認識論的峻別の困難は、他者と自己を峻別するこ との困難に根源があることを、明治大学での「認知科学」講義中の実験例を踏まえて 明らかにする。自他の認識論的峻別への努力は自他の自明性に裂け目をもたらし、人 間的世界経験の根源的パラドックス構造の自覚に至るが、そこから認知科学と現象学 にとっての広大な探求領野もひらける。 ■(発表要旨2)「時間と自我の再考察~インド仏教からの視点~」 我々の経験する世界が経験通りに成り立つための形而上学的条件は何か。この問い に対して、西田幾多郎は、すべてが汎神論的絶対者(絶対無の場所)に包まれてある ことだと主張した。そして、さらに、それが成り立つためには、「矛盾」が許容され なければならないことも喝破した。 しかし、矛盾を許容することには、さまざまな難点が存する。それでは、矛盾を許 容しなければどうなるか。そうした立場で、「一人称の死」を考察することが、本発 表の目的である。結果として、「流れる時間」と「“私”の自己同一性」とは、文字通 りには成立しないことが示されるだろう。こうした考えの導きの糸になったのは、インド 仏教・中観派の思想である。本発表は、中観派(ナーガールジュナ)に対する“可能” な一つの解釈論でもある。