2002

第36回研究会

日時:2002/12/14(土) 1:30-5:30

場所:東京電機大学 神田キャンパス 11号館16階1601室

1)高田 明(京都大学総合人間学部・日本学術振興会特別研究員/心理学)

「発達と文化:南部アフリカのサンにおける社会的相互行為の分析から」

今回の発表は,南部アフリカのサンにおける社会的相互行為の分析を通じて,発達と文化との関係を論じることを目的としている。

近年の発達研究では,人類学と心理学の共同が進んでいる。しかし,発達における文化差と普遍性についての議論を深めることや細分化した研究の関心を問い直すことなどの課題がある。上の課題に取り組むためには,日常的な社会的相互行為を分析することが有効であろう。

そこで発表では,まず近年の「赤ちゃん研究」の成果を社会的相互行為の発達という観点からとらえ直して整理する。これによって,乳児-養育者間の社会的相互行為は,1.リズムと調節の共有,2.注意の共有,3.記憶の共有,4.言語の共有,という段階を経て発達すると論じられてきたことを明らかにする。

つづいて,社会的相互行為の発達と文化との関係をさらに検討するため,ナミビア北部の半乾燥地帯に住むクン・サンのもとで行った発表者の研究を紹介する。この研究は,サンにおける乳児-養育者間の社会的相互行為の文化的な特徴(たとえば,頻繁で持続時間が短いという授乳様式)が生じる仕組みを明らかにするとともに,これまで普遍的とされてきた「リズムと調節の共有」の段階においてさえ,文化によって社会的相互行為は多様なあらわれ方をすることを例証するものである。

発表ではさらに,カラハリ砂漠の中央部で生活してきたセントラル・カラハリ・サン(グイおよびガナ)のナヴィゲーション技術について,発表者らが進めている研究を紹介したい。グイやガナの優れたナヴィゲーション技術は,グイやガナにおける発達は以下の3つの方向性が合わさって実現していることを示唆する:1.特定の自然環境との関わりを密にしていく。2.さまざまな社会的相互行為のパターンを習得していく。3.上の2つを通じて,グイやガナの生活世界が継承されていく。

これらの研究は,発達と文化との関係について以下のことを明らかにするものである。すなわち,1.乳児-養育者間の社会的相互行為は,最も早い段階でさえ文化と深く関わっている。2.社会的相互行為の発達の分析は,文化の実践を通じて生活世界が継承される仕組みの分析でもある。3.普遍性は,社会的相互行為の発達のあらわれ方にではなく,それを可能にする潜在的な力として存在している。

<参考文献>

小嶋秀樹・高田 明 (2001). 社会的相互行為への発達的アプローチ:社会のなかで発達するロボットの可能性. 人工知能学会誌, 16(6), 812-818.

高田 明 (2002). サンにおける養育行動とその発達的意義:ジムナスティック・授乳場面の特徴. 発達心理学研究, 13(1), 63-77.

高田 明 (2002). セントラル・カラハリ・サンにおける社会変容-人口動態,生業活動,乳幼児の体重の分析から. アフリカ研究, 60, 85-103.

2)古本英晴(現)松戸神経内科(2003.1.1.から公立長生病院神経内科)/神経心理学)

「記憶・意味・空間-神経心理学の真の対象は何か-」

1. 記憶の構造;Tulving以来のepisodic memory, semantic memoryの区別,宣言的記憶(declarative memory),手続き記憶(procedural memory)の区別,などの従来の分類と,それに基づく山鳥による新しい記憶分類の紹介を行う。引き続き,category-specificな記憶障害を含めてその分類の矛盾点を指摘し批判する。また記憶という現象の本質について情報処理的観点と現象学的観点をふまえて発表者の意見を述べる。

2. 意味の構造;1.に引き続き,意味と称されるものの曖昧性を批判し,意味の構造について従来の"category"の恣意性を指摘し,意味の階層性の視点の革新を試みる。また意味を規定する"状況"についていわゆるutilization behaviour, imitation behaviourの症例を呈示し,行為障害とされてきたものの本質が認知機能障害であることを明らかにする。できればneural-network modelにおける意味の扱いについても批判的検討を加える。

3. 空間の構造;左半側空間無視に代表される空間処理について発表者の最近の知見を報告し,空間の概念を整理する。基本的には情報処理空間としての空間を定式化する必要性を述べる。

4. "機能"の概念;現在の神経心理学における"機能"の扱いの恣意性・無定義性について述べる。これに基づき,古典局在論の誤りの本質について論究する。

5. 神経心理学の方法論;従来の脳の損傷部位と"症状"の対応関係を重視する神経心理学の方法論の妥当性を検証し,脳が世界の一部であり,世界との相関関係から,すべての症状,あるいは"機能"が創発されるという観点を呈示し,神経心理学の真の対象が脳ではなく世界そのものである可能性を示す。このとき,我々がとるべき方法論は症状の構造分析であり,症状の背後にある日常言語を超えた構造について述べるために数理的接近が重要であるとの考えを述べる。

懇親会風景(02.12.14)

高田 明氏

古本英晴氏

第35回研究会

日時:2002/10/26(土) 1:30-5:30

場所:東京電機大学 神田キャンパス 本館2階 217室

1)小松 明(東京女子医科大学/神経生理学)

「発酵食品に含まれるモノアミンのチラミンが神経伝達物質として働き、行動を変容させる。」

チラミンはアドレナリン、ノルアドレナリン、ドパミン、セロトニンなどと同じモノアミンに属する簡単な化合物で、酵母などによって生合成されるので発酵食品にかなり多量に含まれている物質である。しかし、血中に入ると急激な血圧上昇と頭痛を引き起こし、卒倒する危険がある。食物中のチラミンは消化管にあるモノアミンオキシダーゼB(MAOB)によって分解されて血中には入らず、生体内の濃度は微量である(そのため「稀少アミン」と呼ばれる)。うつ病の治療で MAOB 抑制剤を投与された患者がワインを飲みながらチーズを食べると発症するのでかつて問題になった(チーズ効果)。このようなチラミンの作用から一時神経伝達物質である可能性が取りざたされ、チラミン受容体を探す目的でチラミン結合タンパクが2つ得られたが、これらはいずれもドパミントランスポーターであった。

1990年にキイロショウジョウバエで稀少アミン受容体遺伝子が見つかったが、初めのグループがオクトパミン受容体とし、別のグループがチラミン受容体としたため、混乱が続いていた。オクトパミンは無脊椎動物で神経伝達・修飾物質、神経ホルモンとして働いていることがすでに知られており、チラミンはオクトパミンの前駆物質である。私たちはキイロショウジョウバエのある嗅覚行動異常突然変異がこの稀少アミン受容体遺伝子の変異であり、この遺伝子がチラミン受容体をコードしていることを突き止めた。また、チラミン抗体を用いて抗体染色を行い、チラミン作動性ニューロンが存在することを明らかにした。ザリガニではオクトパミンとセロトニンによってそれぞれ独特の姿勢を示すことが知られているが、チラミンを体腔内に注入することにより、オクトパミンやセロトニンとは異なる姿勢が誘発された。すなわち、ハサミを振り上げ、腹部を伸展する姿勢をとった。このような行動変容効果は、チラミンが神経ホルモンとして作用していることを示唆する。

哺乳類では今まで稀少アミンが神経伝達物質である可能性は否定的であったが、2000年に稀少アミン受容体遺伝子が見つかった。この受容体のリガンドはチラミンとフェニルエチルアミンであり、これらが神経伝達物質である可能性が出てきた。フェニルエチルアミンは、覚醒剤のアンフェタミンやメタンフェタミンの近縁物質であり、生体内覚醒剤とも言われている。哺乳類ではモノアミン神経系としてこれまでにカテコラミン神経系(A ニューロン:ドパミンとノルアドレナリン)、セロトニン神経系(B ニューロン)、アドレナリン神経系(C ニューロン)が知られているが、この他に神経伝達物質が未同定の D ニューロン神経系が存在することが知られている。D ニューロンがチラミンないしフェニルエチルアミンを神経伝達物質として用いている可能性と、稀少アミンによる人間行動の変容の可能性を最後に考察したい。

2)中垣 啓(早稲田大学/心理学)

「メンタルロジックかメンタルモデルか、それとも・・・?」

論理的推論のメカニズムに関して、メンタルロジック派とメンタルモデル派とが激しい論争を繰り広げている(Johnson-Laird et al.1993、Braine et al.1998等)。Braine らに代表されるメンタルロジック派は、主体が持つ推論規則(inference schema)を課題表象へ適用することによって論理的推論を説明しようとするところに根本的特徴がある。この立場では、命題論理学における妥当な論証式のいくつか(例えば、Modus Ponens)を推論規則として大人は普遍的に持っていると想定するのである。それに対し、Johnson-Laird に代表されるメンタルモデル派は、課題表象からのモデル構成とそれに続くモデル操作によって論理的推論を説明する点に根本的特徴がある。この立場では、モデル構成やモデル操作の仕方に規則はあるにしても、推論そのものは論理規則を用いずに演繹的推論が可能としている。Piaget理論は両派いずれの立場からもメンタルロジック・アプローチに分類されているものの、メンタルモデル派からは現代のメンタルロジック派と同列に批判され、現代のメンタルロジック派からは過去の歴史的遺物としてほとんど考慮に値しないものとみなされている。

それでは、論理的推論課題のパフォーマンスを説明するのにいずれのアプローチが最も有効であろうか。ここでは、条件文に関する命題論理的推論を具体例として取り上げながら、いずれのアプローチが有効かを検討する。条件文に関する命題論理的推論研究はもっぱら次の3つの課題を用いて行なわれており、そのパフォーマンスには各課題特有のバイアスの存在が確認されている。

1. 条件文解釈課題 前件否定バイアス

2. 条件3段論法課題 NCバイアス、APバイアス

3. 条件4枚カード問題 マッチングバイアス

上記条件型推論課題のパフォーマンスとそこに見られるバイアスを両派が如何に説明しているかを検討すると、メンタルロジック派もメンタルモデル派もその説明に成功していない。それに対し、命題を結合したり組み合わせたり、別の命題に変換したりするメンタルオペレイションを命題論理的推論の基本と捉え、命題的諸操作の織り成す全体的システムとシステムのコンフィギュレイションを支配するプレグナンス要因によって、これらのバイアスは、すべて統一的に説明できることを本話題提供では示したい。Piagetは課題解決における推論過程の記述としては確かにメンタルロジックを用いたが、その背後にあってそれを可能にするメンタルオペレイション(命題論理的推論の場合、命題的操作)を根本と考えていた。この意味で、本話題提供はメンタルロジック派としてのPiagetではなく、メンタルオペレイション派としてのPiagetを復活させようとする試みでもある。

第34回研究会

日時:2002/5/11(土) 1:30-5:30

場所:東京電機大学 神田キャンパス 本館2階 本館会議室

1)金沢 創(淑徳大学/心理学)

「瞑想の進化論:多重フレームの生物学」

瞑想とは何か?こう改めて問われるとなにやら怪しい印象をもたれるかもしれない。瞑想は語るものではなく実践するものだ。そのような答えもあるだろう。本発表は、瞑想を題材にはしているが、瞑想そのものというよりは、意識、知覚、概念、学習といった、オーソドックスな心理学のトピックスを、「多重フレームの組替え」というキーワードで検討し、その進化論的な意義について考えていくものである。その際まず、爬虫類から哺乳類へと進化していく過程で獲得した「REM睡眠」や「遊び」などの行動について検討し、これらの能力が、複雑な環境において柔軟に学習を進めるための適応プログラムとして進化してきたのではないか、との視点を検討する。ここにおいて学習とは、多重フレームの組変えの試行錯誤の過程としてとらえられることになる。最終的には、瞑想を含めた様々な変性意識状態とは、矛盾するフレーム群を前にした生体が、その矛盾に適応するために作り出した1つの問題解決システムである、との考えを検討していく。

2)柴田正良(金沢大学文学部)

「コネクショニズムと素朴心理学の未来」

認知のメカニズムに関する正しい理論は、古典的計算主義なのか、コネクショニズムなのか、そのハイブリッド理論(?)なのか、はたまたまったく新しい第三の理論なのか?

いずれにせよ、それが新しい科学的心理学を生み出したとき、われわれが日常用いている素朴心理学はどうなるのか? 消去主義的唯物論がこれまでずっと主張してきたように、それは跡形もなく消去されるのだろうか?

この発表では、コネクショニズムからの消去主義的議論に焦点を当て、素朴心理学の未来の一端を占って(?)みたい。その議論とは、ラムジー&スティッチ&ガロンが展開した「もしコネクショニズムの仮定が真なら、命題的態度(propositional attitudes)に関する消去主義も真だ」という条件法的な主張である(「コネクショニズム・消去主義・素朴心理学の未来」)。彼らの主張の核心は、コネクショニズムと命題的態度の存在の両立不可能性にある。

私としては、彼らの条件法的結論を一応受け入れた上で、消去される命題的態度とは、彼らのいう命題的モジュール性(propositional modularity)によって完全に定義されるような理論的存在であることを強調したい。つまり、素朴心理学はいわば二段構えのコミットの体系であり、もしコネクショニズムが正しいなら、心(/脳)の内部メカニズムに関する素朴心理学の主張は消去されざるをえないが、それとは分離可能な、全体としての行為者を特徴づける予測と説明の道具としての素朴心理学は残るのではないか、という可能性を論じてみたい。すなわちポイントは、素朴心理学のどこまでがどのように消去されるのか、ということである。

Ramsey, W., S. Stich, and J. Garon, 1990: "Connectionism, Eiminativism, and the Future of Folk Psychology", Philosophical Perspectives 4, reprinted in C. Macdonald & G. Macdonald (eds.), Connectionism, Basil Blackwell, 1995.

第33回研究会

日時:2002/3/9(土) 1:30-5:30

場所:東京電機大学 神田キャンパス 11号館16階1601室

1)石川幹人(明治大学/知能情報学)

「量子コンピュータから多重宇宙まで―ディヴィッド・ドイッチュの実在」

量子コンピュータの万能性を証明したことで有名なディヴィッド・ドイッチュは,世界の実在を示す究極の理論として多重宇宙論を主張する。それが量子論と計算論と進化論と認識論における現在の問題を合わせて一挙に解決する道筋であるという。今回は,石川が量子コンピュータの概説を行なったのちに,ドイッチュ著『世界の究極理論は存在するか』(朝日新聞社)にもとづいた議論を行なう。議論参加者のうち,基礎物理学,基礎数学,科学史・科学論,科学哲学のいずれかの分野に詳しい方は,該当書を事前に読んだうえで議論に参加いただきたい。そうでないと,該当書はかなり広範な内容を含むので,議論の内容は,石川による極めて偏った解釈に基づくこととなる。

2)渡辺恒夫(東邦大学/心理学)

「明晰夢の心理生理学的実証と自己意識の進化」

夢の中で夢と自覚し、夢を制御できることもあるという明晰夢(lucid dreaming)は最近の話題である。東邦大学理学部心理学教室では、数年前から明晰夢研究の準備を進めてきたが、このほど、どのような人が明晰夢を体験しやすいかの心理学的条件についての調査と、明晰夢中に夢の中から発信した合図をポリグラフ上に受信し、覚醒後の夢報告と照合するという心理生理学的検証実験に、一定の成果を得ることができたので、報告する。また、明晰夢研究の意義を、自己意識の進化という観点から展望する。

第32回研究会

日時:2002/1/12(土) 1:30-5:30

場所:東京電機大学 神田キャンパス 本館2階217室

1)平石 界(東京大学社会情報研究所)

「革命の成果/産物として進化心理学を捉える」

「進化心理学」は、ヒトの行動や、その背後にある心理メカニズムも進化の産物であるという視点から心理学研究を行うアプローチである。こうした、人間行動や人間社会の研究に進化の視点を導入しようとする試みは、自然淘汰理論の提唱者であるDarwinによるものを含め、何度も繰り返され、その度に大きな論争を引き起こしてきた。近年では、1975年に出版されたE.O.Wilsonの「社会生物学」(Sociobiology)を巡る論争が有名である。しかし、1990年代初めから進みつつある「進化心理学」という”プロジェクト”にかんして言えば、もちろん論争はあるものの、比較的好意的・積極的に受け入れようとする研究者も多いように思われる。発表者は、こうしたことの背景には、以下の2点の変化が関係すると考える。1つには、生物学の領域において1960年代後半から70年代前半にかけて生じた「淘汰のレベル」にかんする大きなパラダイムシフトと、それがもたらした豊かな理論体系、ヒト以外の動物における実証研究の蓄積が挙げられる。これらは、ヒト以外の動物の行動にも、極めて複雑な適応デザインが隠されていることを明らかにするものであった。もう1つには、心理学における認知革命を挙げることができる。これによって、ヒト(もしくは生物体)の行動の背後にある心理メカニズムを、行動の観察を通して明らかにする手法が開拓されたことは、ヒトの行動が「進化・適応」の産物なのか、それとも合理的意志決定の産物であるのか判断する上で、大きな意味を持つ。これら2つの変化(または「革命」)がもたらしたことの意味について、発表者の専門である「推論」をめぐる研究を題材に使いつつ、考察していきたい。そして時間があれば、「進化心理学」が説得的な研究を行う上では更に何が必要か、議論したいと考えている。

2)河野哲也(防衛大学校/哲学)

「形而上学的主観と独我論の解決」

本発表では、トマス・ネーゲルが提示した問題の解決を目指します。ネーゲルは、意識の科学が発展し、脳のあらゆる働きが明らかになったとしても、主観性や意識にかかわるひとつの難問が未解決で残ってしまうと主張します。その難問とは、“how can I be a particular person?”という問題です(The View From Nowhere, New York: Oxford)。

つまり、ネーゲルによれば、「わたし」は、「河野某」という固有名で指される個人(その物理的・心理的なあらゆる属性や状態を含めた個人)とは区別されなければなりません。「わたし」は、純粋な主観性そのもの、世界を眺めるある種の視点そのものであり、それが、たまさか「河野某」の人格(身体・精神)に宿っていると考えざるを得ないと言うのです。

皆さんも、「意識や心は世界のなかに無数に存在するのに、どうして「わたし」はこの自分だけなのだろう?」とか、「なぜ、わたしはこの人物でしかないのだろう?」とお考えになったことはありませんか。

話を広げれば、多くの哲学者が同じ問いに突き当たっていたように思います。たとえば、おそらくデカルトがそうでしょうし、フッサールの「超越論的主観性」やヴィトゲンシュタインの「形而上学自己(metaphysical self)」も同種の主観性を指していると思います。

こうした主観を想定する哲学者は、「そうした主観は事実の世界には属していない」とか主張したり、他者の存在を疑う独我論を唱えたりします。あるいは、「世界はわたしの表象(知覚対象)にすぎない」と言ったりします(観念論)。

しかし、わたしはこうした「形而上学的主観」など存在しないと思います。独我論も観念論も超越論的主観性も、言語における「一人称」機能を実体化した不健全な概念の使用から生じたものであり、一種の幻だと指摘したいと思います。そして、主観(心・精神)とはいつも身体的存在であることを語用論的な分析的に明らかにしたいと思います。