お客様ニーズが見える ID-POS分析。
「巨人・大鵬・玉子焼き」とは、1960年代の高度経済成長期において、大多数の子どもが支持する、謂わば「売れ筋」の象徴でした。
当時この言葉が強烈なインパクトを放った背景には、当時の市場の商品、娯楽、メディアといった、あらゆる分野における選択肢の少なさが挙げられます。
商品という面では、折しも1962年の「流通革命」の出版に見られるように、未だ供給優位の時代でした。
娯楽という面では、現代のように室内で遊ぶ選択肢が乏しく、遊びとは、ほとんど外で遊ぶ事を指すような時代でした。また「男の子はスポーツ」といった抑圧にも似た社会全体の空気感もありました。
メディアという面でも、テレビというメディアが大きな影響力を持っていたため、「大衆の好み」が特定の選択肢に集中しやすい時代でした(マスメディアが形成するマスマーケット)。
AIを使って、この言葉を代表するペルソナである「1966年の9歳男児」に絞って推論したところ、「プロスポーツチーム『読売巨人軍』のファン」であり、「プロスポーツ選手『大鵬』のファン」であり、「大好物が『玉子焼き』である」という3つ全てを満たす、いわゆるステレオタイプは、(各々を独立事象として単純乗算 0.775 × 0.725 × 0.94 した場合)過半数である約53%に達しました。正に「猫も杓子も」という状態です。
つまり当時は、ことさらに顧客視点などと考えずとも、売れ筋商品さえ重視していれば、それがそのまま過半数の顧客の満足に繋がった「商品視点」≒「顧客視点」の時代でした。
※.前回の【生産性向上のご提案】「仮定の誤り」と「やめる」こと でも出てきた言葉ですが、高度経済成長期とは、作れば売れる「物的生産性」 ≒ 「付加価値生産性」の時代でもあり、同じ等式である「商品視点」≒「顧客視点」との間には、深い符合があります。
では、50年以上の時を経て、ペルソナを同一にした「2025年の9歳男児」において、現代の「人気No.1」で同じ試算を行うとどうなるでしょうか。
これは、あくまでAIによる推論ですが、令和の「巨人・大鵬・玉子焼き」すなわち「売れ筋」の象徴は、「ドジャース・大谷・フライドポテト」と推論されました。
人気No.1 プロスポーツチーム(「巨人」枠)
『ロサンジェルスドジャース』が人気No.1であると推論されました。NPB球団やJリーグと人気を分け合う中で、その支持率は推論値で30%です。
人気No.1 プロスポーツ選手(「大鵬」枠)
『大谷翔平』で間違いないと推論されました。スポーツへの興味の有無を超え、その支持率は推論値で65%です。
人気No.1 ご馳走(「玉子焼き」枠)
「玉子焼き」の対比として、最もふさわしい大好物として推論されたのは『フライドポテト』でした。その支持率は、かつての玉子焼きに匹敵する推論値で90%です。
「巨人・大鵬・玉子焼き」が形成したステレオタイプの割合と同様に、令和の人気No.1である「ドジャース・大谷・フライドポテト」が形成するステレオタイプの割合を計算してみましょう。
1966年側と条件を揃え、「プロスポーツチーム『ロサンジェルスドジャース』のファン」であり、「プロスポーツ選手『大谷翔平』のファン」であり、「大好物が『フライドポテト』である」という3つ全てを満たすステレオタイプは、(各々を独立事象として単純乗算 0.3 × 0.65 × 0.9 した場合)約18%となります。
この比較が示す事実は明確です。 「9歳男児」という比較的趣味嗜好が未分化なペルソナにおいてさえ、かつて53%も存在していたステレオタイプというマジョリティは、現代では18%という最大のマイノリティ(少数派)の一つに過ぎなくなっているということです。
これは、もはや商品視点 ≒ 顧客視点では無い事を示しています。
例えば、支持率最大(90%)の「フライドポテト」の顧客満足が、単体でトップクラスである事は来店目的として非常に重要ですが、店全体の顧客満足を維持し続ける為には、その顧客の実に70%が持つ「ドジャース以外のファン」といった「その他の(必ずしも売れ筋ではない)ニーズ」も重視する必要があります。
顧客ニーズを他社よりもトータルで満たせないことは、来店が無くなることを意味しますが、一方で経済合理的、物理的視点では全てのニーズを満たす事は出来ません。
フライドポテトの顧客の例が示すように、ニーズの一つが圧倒的売れ筋商品にある顧客でさえ、その他については多様なニーズを持ったマイノリティの集合体であるという、この「マスの変質」こそが、現代の商売の難しさです。
現代のマス(大衆)は、53%という単一のマジョリティ(多数派)の塊から、最大派閥すら18%に過ぎない、無数のマイノリティ(少数派)の集合体へと根本的に変質しました。
売上を基準とした「SKUの取捨選択」から「ニーズの取捨選択」をして行く時代へと変わったのです。
商売が今まで以上に複雑になった昨今、もし未だに多くの企業が、1960年代と同じ「商品視点の商売」を行なっているのだとしたら?
それは「大きなチャンス」です。
なぜなら、競争相手がやっていない事、中でも「困難だ」「ハードルが高い」「できっこない」と避け続けて来たことこそが、実現できた暁には、真似する事が困難な「真の競争力」となるからです。(私たちの仕事とは、困難さを避ける事ではありません。私たちは負けるために仕事をしている訳ではありません。)
マスが変質しているのならば、当然、意思決定の中身も店舗の中身も変質して行かなければなりません。
一方で「顧客ランク」や「顧客属性」は一見「顧客視点」のように見えても、顧客の多様なニーズの中身を無視した、「従来視点のマスのブツ切り」にほかなりません。
個々の商品をそれぞれが独立した単体と見て「売れ筋か否か」で判断するのが「商品視点」でした。
それに対し、商品同士を顧客の利用行動で繋ぐことで、顧客の視点から見て「何を」「どこまで」重視すべきか判断するのが「顧客視点」であり、価値観の多様化した現代に不可欠なオペレーションです。何を?どこまで重視すれば良いのか?を示すのが、BiZOOPeの「ニーズの見える化」の役割です。
一方で1960年代と現代では、様々な言葉の定義自体が変質してしまっています。
【表】同じ言葉なのに、等式(≒)が成立しなくなったパラダイム
それにもかかわらず、令和の私たちにも連綿と受け継がれている1960年代の「亡霊」が、商品視点に偏ったこれらのパラダイム(物の見方)です。現に一見「顧客視点」のように見える「顧客ランク」や「顧客属性」が幅を効かせているように、「顧客視点」もまた言葉に過ぎないのです。
人間ですから、時代の変化の中で”見方”という重心が偏り、道に迷ってしまう事も当然あるでしょう。そんな時に私たちが常に顧みるべき羅針盤は、「顧客視点」や「生産性」といった耳ざわりの良いキャッチフレーズそのものではなく、その「言葉の真の意味」を論理的に問い続ける真摯さにほかなりません。
私たちに取り憑いている亡霊の正体は、まさにこの「言葉の中身の変質」に気づかない(気づこうとしない/気づいても変えない)事にあります。
まずはその亡霊から、あなた自身を解き放つ事です。
「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代の方が、仕事もやり易く、流通マンにとっては「ドン!と積んで、ガン!と売る」ダイナミックな「やりがい」もあったかもしれません。消費者にとっても、今と較べて一概に「不幸だった」とは言い切れない時代だったでしょう。
しかし、「ドジャース・大谷・フライドポテト」の時代は、流通マンの真の手腕が問われる時代です。
昨今のディスカウンターの台頭は、日本経済の不振もあり、「価格の安さ」が消費者の「ニーズとして許容するものの幅」を広げている象徴です。 これを「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代の再来と見る向きもあるかとは思いますが、「より良い物をより安く」という「流通革命」の精神そのものは、消費者として歓迎すべきであり、それもまた消費者の「困り事」を解決する「顧客視点」の一つです。
ともすれば私たちには「安かろう悪かろう」に思えてしまうものでも、「それでいい/それがいい」と強く求める顧客ニーズがあるかぎり「顧客視点」です。私たちもまた、「日本の文化水準」などといった経済合理性とは別の価値観(仮定の誤り)に無自覚に囚われていないか、自らの見方の偏りに自覚的であるべきでしょう。
一方で当時とは前提条件が異なり、娯楽もメディアも益々多様性を増しているカンブリア爆発のような現在、意図的な扇動でも無い限り、消費者のニーズが価格だけで「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代に迄舞い戻ってしまう事は、もう無いだろうというのが、私とGeminiの推論です。
とは言え時代は常に移り変わり、未来は常に不確定です。 たとえ「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代に舞い戻ったとしても、私たちは転生モノの主人公のように、そうでない47%の顧客のために「顧客視点」であるべきでしょうし、「言葉の真の意味を論理的に問い続ける」という羅針盤を、手放すべきではありません。
それこそが、変化に対応し続けるための、原則です。
※1.羅針盤が無くては目的地に辿り着けませんが、同様に、目的地を持たない人に羅針盤を与えても意味がありません。羅針盤とは「道具」なのですから。仕事における目的地とは「今日から将来に渡ってお金を儲け続けること」です。AIも道具ですが、羅針盤とは大分異なります。「知の冒険へのパートナー」といった感じでしょうか?しかし羅針盤と同様に、自身が目的地を強く思い描いていない限り、人間のパートナーと同様、共にウロウロと迷う事になりますw
※2.品揃えという言葉の定義については【選択肢とニーズ】品揃えの絞り込み VS 豊富な品揃え を、生産性という言葉の定義については【生産性向上のご提案】「仮定の誤り」と「やめる」こと を、併せてご参照下さい。私たちが「顧客視点」や「生産性」という言葉を、決して「お客様は神様です」といったような表層的/教条的な意味合いや、サービスを売り込むための浅薄なキャッチフレーズに使っている訳では無い事を、お分かり頂けるかと思います。
※3.蛇足ながら私の中の「巨人・大鵬・玉子焼き」は、単品レベルでは一つも売れ筋を含まない「広島・野茂・背脂煮干し」です。このステレオタイプ度(?)は、(各々を独立事象として単純乗算 0.05 * 0.05 * 0.02 した場合)わずか 0.005%(2万人に1人!)です。全て私の中のNo.2で揃えた「ロッテ・落合・魚粉豚骨」の方が、(各々を独立事象として単純乗算 0.03 * 0.06 * 0.03 した場合)0.0054%(1万8500人に1人!)と、寧ろわずかながらマジョリティ(?)に近づきました。このニーズ、大事にして頂けますかね?w