護摩というと密教や修験道の儀式
というイメージが強いようですが
実は神道でも護摩は行ないます
中世神道は、現代の神社神道とは異なる点が少なくはないですが、それら中世神道の中でも、室町時代から江戸時代末期頃にかけて約四百年という長い歴史を持つ「吉田神道」の「三元十八神道護摩」の次第・作法に準拠した、火による祓いの特殊神事「神道護摩祭」を、当神社では半年毎に年2回斎行しております。
当神社の神道護摩祭では、玉体安穏、皇室安泰、国家繁栄、国土平安、風雨順時、五穀豊穣、万民豊楽、景気回復、世界平和、留辺蘂町発展などの公的な願意を、神道護摩の作法を以て庭上座礼にて祈願し、続いて、氏子・崇敬者の皆様方の個人的な願意(家内安全、開運招福、身体健全、病気平癒、生業繁栄、商売繁盛、豊穣豊作など)も、同じく神道護摩の作法を以て、それぞれの護摩木を火中に投入しながら祈願致します。
現今の神道祭祀が基本的に “静か” で “ゆっくり” としたものであるのに対し、吉田神道系の神道護摩は、勢いよく燃え盛る炎の前で素早く印契を組んだり、何折もの文量のある祝詞を続けて早口で奏上したり、大きな動きを伴う所作をするなどし、その内容はより宗教的・呪術的です。現代の一般的な神道祭祀よりも “激しさ” が感じられる、より秘術的な神事の情景が顕現します。
神道護摩祭の御案内
当神社では毎年、1月上旬に「新春神道護摩祭」として、その半年後の7月上旬に「夏季神道護摩祭」として、それぞれ神道護摩を厳修します。
毎年6月と12月に斎行する大祓式が、諸々の罪穢れや災いを、河川や大海原を経て根の国・底の国へと流し去る “水による祓い” であるとすると、1月と7月に執り行なう神道護摩は、それと対になる “火による祓い” ともいえます。
以下の画像(チラシ)は、本年7月に斎行される、次回の神道護摩祭の御案内です。来年1月に斎行する次々回の神道護摩祭については、本年12月にこのページ及び当神社SNS各公式ページで御案内致します。
神道護摩祭に参列される方で護摩木も焼納される方は、神道護摩祭当日、受付にて護摩木をお受け下さい。神道護摩祭に参列は出来ないが護摩木は焼納したい、という方や、神道護摩祭に参列する予定ではあるが予め護摩木に願意・氏名を書いておきたい、という方には、神道護摩祭前でも護摩木をお渡し致しますので、御足労ではありますが当社の社務所までお越し下さい(社務所でのお渡しは、神道護摩祭開始日の1か月前から開始します)。
神道護摩祭の次第
新春神道護摩祭と夏季神道護摩祭の次第は、いずれも大凡以下の通りです。但し、諸般の事情により以下の次第ではあえて一部を省略しており、実際には、完全にこの通りに修しているわけではありませんので御了承下さい(実際の次第はもっと長いです)。
① 号鼓
② 開式の辞
③ 修祓
④ 宮司一拝
⑤ 鳥居作法
⑥ 護身神法
⑦ 三種加持
⑧ 神宣神咒加持
⑨ 太元一気元水加持
⑩ 十寶印
⑪ 採火
⑫ 根本加持
⑬ 三元表白
⑭ 大元神号
⑮ 麗水加持
⑯ 垂迹神社勧請
⑰ 勧請祭文
⑱ 神鈴加持
⑲ 天地人神啓祓
⑳ 供米
㉑ 心中祈願
㉒ 護摩札加持
㉓ 中臣祓
㉔ 結願修真
㉕ 発遣
㉖ 護身神法
㉗ 宮司一拝
㉘ 閉式の辞
㉙ 号鼓
㉚ 宮司挨拶
▲ 令和7年 留辺蘂神社 新春神道護摩祭
神道護摩の系統・流派
密教や修験道などの護摩と区別するため「神道護摩」と称される、神道に於ける護摩には、いくつかの系統・流派があります。ざっくり大別すると大凡以下の①~④の4つに分類出来ますが、これはあくまでも便宜的な分類であり、それぞれの相互関係を踏まえた上での理論的・体系的な分類ではありませんので御了承下さい。
① 吉田神道系の護摩
中世神道を代表する「吉田神道」が伝える神道護摩です。当神社が行なっている神道護摩はこの系統で、実際はそうとは言い切れないものの建前上は、仏教色が全く無い、純然たる神道独自の護摩とされています。
② 両部神道系の護摩
両部神道、御流神道、三輪神道などの密教系神道が伝える、密教の護摩の行法を用いて神々を供養する内容の神道護摩で、近年、いくつかの寺院で復興の動きが見られます。但し、これら密教系神道はいずれも仏教に内包されている神道の法流(真言宗内部の神祇秘伝を担う法流)であり、そのため神道護摩とはいってもその担い手は神職ではなく僧侶であり、現在に到るまで真言僧達によって寺院の本堂や護摩堂などに於いて伝授・実践されていて神職が関わる要素はほぼ無いのが実態です。ちなみに、神仏習合の聖地でもある日光では、真言系の流儀とは異なる、天台系の神道護摩が修されている所もあるそうです。
③ 山岳信仰系の護摩
教派神道の教団・教会や、修験道系・山岳信仰系の教団・神社などが現在も執り行っている神道護摩です。一般に神仏習合色が強く、そうではない事も多々ありますが山伏装束を纏って修される事も少なくはないようです。
④ その他の護摩
明治期の神仏分離まで神仏習合色が濃厚であった一部の神社などで、氏子・崇敬者・信徒からの依頼に応えて適宜編成されていった、その神社独自(所謂 一社の故実)の神道護摩や、一部の神社仏閣、個人(所謂 霊能者や拝み屋さん)などが神道護摩と称して行なっているオリジナルの護摩などです。稲荷教会や稲荷行者などが行なうお火焚きなども、こちらに分類されると思います。
ところで、江戸時代末期まで三位一体であった吉田神道と吉田神社と吉田家は、次項で解説するように明治期になると完全に切り離されてしまい、以降の吉田家は吉田神道の宗家としての立場も家職としての神職も継承しなかったため、長い歴史を誇った吉田神道はあっさりと廃絶してしまい、残念ながらその正統は既に絶えております(但し、吉田神社は現在でも神社本庁包括下の別表神社として存続しております)。
そのため、当神社で斎行している神道護摩祭についても、本当に細部まで原点に忠実であるのか否かは、本家本元が消滅してから既に150年以上もの年月が経っている今となってはそもそも検証のしようがありません。
以上の事を踏まえ、当神社で行なっている「三元十八神道護摩」は、より正確に言うならば「三元十八神道護摩ふうの神事」もしくは「三元十八神道護摩的な神事」と言い換えるべきかもしれない、という事もここに付け加えておきます。
吉田神道の興隆と吉田兼倶の活躍
当神社が行なっている神道護摩の背景・母体でもある「吉田神道」という、中世神道の中でも代表的な神道流派の歴史と、その吉田神道の中心人物であった吉田兼倶(ヨシダカネトモ)について、解説させて頂きます。当神社で行なっている神道護摩は、こういった長い歴史の中で成立し継承されてきた神事です。
「唯一神道」「元本宗源神道」「唯一宗源神道」などとも称される吉田神道は、天孫降臨に随伴した五部柱の一柱 天児屋命の後胤とされた、京都・吉田神社の社家 卜部性吉田家の出身である吉田兼倶(ヨシダカネトモ)によって、室町時代後期(応仁・文明の乱後)に大成された神道の一流派です。
吉田神社は、京都市左京区吉田神楽岡町に鎮座しており、貞観元年(西暦859年)に、都の鬼門(東北)に位置する吉田山(神楽岡とも称されます)に、平安京の守護神として、また藤原一門の氏神として、藤原山蔭が奈良の春日大社の神々を勧請して創建した神社です。本殿でお祀りしている御祭神は、勧請元の春日大社と同じ春日大神4柱(健御賀豆知命、伊波比主命、天之子八根命、比売神)です。
吉田神道の宗家である吉田家の前身・卜部氏は、元々は亀卜(キボク)の職能を以て朝廷に仕える家柄で、日本書紀など古典の研究も家職としていた事から、太平記によると鎌倉時代には「日本書紀の家」とも称されていたようです。
卜部氏は平安時代末頃から、神祇官(朝廷の祭祀を司る官庁)に於いて「大副」や「少副」(次官)などの役職を代々継承し、その後、平野神社の神職を務める家と、吉田神社の神職を務める家とに分かれました。
室町時代になると、吉田神社の神職を務めていたほうの卜部氏は、家名を吉田と称するようになり、当時の吉田家当主であった吉田兼煕は、第3代将軍 足利義満から厚い信認を得て吉田家としては初めて公卿となり、その後も吉田家は、朝廷や足利将軍家などから支持を得る事で勢力を伸ばしていきました。そして、吉田兼煕から3代を経て登場したのが、稀代の卓越した神道家として後世にも知られる吉田兼倶です。
兼倶は応仁元年(1467年)に公卿となり、神祇官の役職である「神祇権大副」に就きますが、応仁・文明の乱という大乱の勃発により、吉田神社や吉田邸は焼失してしまいます。しかし兼倶は、そういった逆境にもめげる事なく、弟子達に積極的に神道伝授を行なったり、日本国中全ての神々をお祀りする修法所として「斎場所」を自邸内に設けて第8代将軍 足利義政のために願文を奏上するなど、この時期にも活発に活動を続けます。
更に兼倶は、各地で「中臣祓」や「日本紀」などの講義・伝授も盛んに行ない、それによって、大乱直後の混乱した時期でありながら公家・武家・僧侶に多くの信奉者を生み出していき、そして兼倶は、花山天皇の後胤で神祇伯(神祇官の長官)を代々世襲する白川家に対抗して、自らを「神祇管領長上」「神祇長上」「神道長上」と称するようになります。
文明16年(1484年)には、兼倶は自邸内にあった斎場所を、足利義政の正室(御台所)であり女傑と評される事も多い幕府の実力者・日野富子からの積極的な支援を受けて、都を見下ろす吉田山(吉田神社境内)へ大幅に拡張した上で「大元宮斎場所」として移設(遷座)しました。
主神である太元尊神(国常立尊)と天神地祇八百万の神々をお祀りする大元宮は、八角形の形状をした独創的な神殿で、兼倶はそこを神武天皇以来の全国神社の根源地と主張し、更にその大元宮に対して土御門天皇から「神国第一の霊場、本朝無双之斎場」という、賛辞を惜しまない内容の勅額も下賜され、吉田神社大元宮を並ぶ者の無い “本朝無双のパワースポット” と化す事に成功しました。
しかも、兼倶は「伊勢神宮の御神体が空から吉田山の斎場所に舞い降りた」と喧伝する事で、伊勢神宮への信仰までも取り込む事に実質成功しました。ちなみに、神宮の御神体が舞い降りたとする兼倶のその主張に対して、朝廷も公式なお墨付きを与えたため、伊勢神宮側は再三に亘って朝廷にも強く抗議しています。
このように、兼倶は多くの人達から支持される反面、自らの教説の正統性を示すため、他宗教ばかりでなく同業者である神職達とも論争し、軋轢も多くありましたが、大乱によって中絶を余儀なくされていた神祇官の祭祀を復活させるなど、朝廷祭祀の担い手であった側面も大きく、また、後述するように吉田神道の教説は中世神道思想の集大成といえるものであったため、兼倶の唱えた教説が中世から近世への神道の架け橋となった意義も、歴史的には大変大きかったといえます。
▲ 吉田兼倶 肖像画
兼倶は、吉田神道の事実上の創始者ともされる
▲ 斎場所大元宮(サイジョウショダイゲングウ)
かつての吉田神道の根本殿堂で、現在は吉田神社末社
吉田神道はそれ以降も、伊勢神宮系の神職達と激しく対立しながらも、その一方で織田家・豊臣家など時の権力者達からは支持を得て更に勢力を拡大し(織田信長の推挙によって吉田家は上級公家である堂上家の家格も獲得しています)、織豊政権期には、神祇伯の白川家が主宰する「伯家神道」(白川神道)や、南朝と結びついた事に加え内宮・外宮両門前町同士の抗争などから勢力を失っていった「伊勢神道」(渡会神道)などを凌ぎ、最大勢力の神道となりました。
豊臣秀吉は没後、朝廷から「豊国乃大明神」の神号と正一位の神階が授与され、豊国神社に御祭神としてお祀りされましたが、その際の豊国神社への遷宮の儀も、吉田家の当主である吉田兼見が中心になって取り仕切っており、豊国神社の宮司職は兼見の孫で養子の萩原兼従が、豊国神社内の神宮寺の社僧には兼見の弟である神龍院梵舜が、それぞれ就いています。
江戸時代初期には、天台系の習合神道である「山王一実神道」に圧されて吉田神道は一時勢力を弱めるものの(徳川家康は没後、一旦は吉田神道の流儀に則って久能山に埋葬されますが、その翌年に日光へ改葬された際は、家康のブレーンでもあった天台僧 天海によって山王一実神道の流儀に則り改葬されており、その事例からも当時の山王一実神道の勢いが窺えます)、吉田家はその後巻き返しを図り、第4代将軍 徳川家綱の治世下で幕府から発布された神職統制の基本法令「諸社禰宜神主法度」などによって、全国の神職に対しての官位の執奏権、神道裁許状の交付等が吉田家当主に認められる事となり、それによって吉田家の権勢は完全に復興され(むしろ以前よりも強大となり)、実質、全国の神社や神職の大多数は吉田家の支配下に置かれるようになりました。
江戸時代は概ね吉田家が、全国の神職達に対して神職としての事実上の免状を交付していたため、当時の吉田家は、神職に対して階位や身分を授与している現在の神社本庁の機能も果たしていたと言えなくもありません。
神道史に於いても、吉田神道の教説は中世神道思想の集大成といえるもので、神仏習合色が濃く本地垂迹説(仏が主で神が従の立場)を採っていたそれまでの神道説と違い、吉田神道は仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀・修法を持つ、初めての本格的な神道説(反本地垂迹説)でもありました。
吉田神道以前では、伊勢神道も、吉田神道同様に反本地垂迹説を採る立場ではありましたが、吉田神道に比べると規模的に、まだ独自で本格的な神道説といえるものではなかったのです。
吉田神道が本格的に確立される以前、神社や神主達は世界宗教である仏教に圧倒され、特に本地垂迹説が常識とされるようになって以降、一部の例外を除いて神道勢力は仏教勢力にほぼ従属する形を強いられ、そのため多くの神道家達は僧侶よりも下位の立場に置かれていましたが、そんな世相にあって吉田兼倶は、神道こそが万法の根源であると説き、その上で「吉田家にだけ唯一伝わっている、仏教の混濁が一切無い、神代直伝の純粋で最高の神道」を唱え、その唯一・純粋・最高の神道である吉田神道を、神仏が習合しているそれまでの神道(吉田神道でいう所の両部習合神道)や仏教よりも明確に上位と位置付け、神主仏従(神こそが仏の真の姿であり、仏は神の仮の姿である)の立場から反本地垂迹説を理路整然と展開しました。
これによって吉田神道は、長らく仏教の風下に置かれていた全国の神道家達に大きな自信・勇気・希望を与え、神道を仏教から “解放” したわけですから、吉田神道の大成は、日本宗教思想史上に於いても間違いなく大きな転換点であったといえます。
江戸時代に起こった、林羅山が唱道した儒家神道の一派「理当心神道」や、吉川惟足が吉田神道に朱子学の思想を取り入れて道徳的側面を強調した「吉川神道」、山崎闇斎がその吉川神道を更に発展させ幕末期に於ける尊王思想の思想的バックボーンを形成する事となった「垂加神道」なども、ベースとなっているのはやはり吉田神道であり、そういった事実からも吉田神道が後世に与えた影響はかなり大きかったといえます。
明治期になると、幕府に代わって新たに発足した新政府は、それまで吉田神道の宗家であり吉田神社の社家として神社界に君臨していた吉田家から、吉田家権勢の源泉となっていた神道裁許状交付の特権を剥奪し、また、吉田家も華族(子爵)には列せられたものの京都から東京へ移転させられる事となりました。
以降の神社界に於ける中心的神社の地位は、京都の吉田神社から伊勢の神宮へと移り、京都を離れた吉田家も、吉田神道宗家としての立場も家職としての神職も継承しなかった事などから、それまで一体不可分であったはずの吉田神道・吉田神社・吉田家の三者は実質切り離されてしまい、吉田家門弟の中にも吉田神道の正統を継承する者は現れなかったため、あれだけの権勢を誇った吉田神道は、約400年という長い歴史を持ちながら、ごく一部の傍流を除きその大半はあっさりと廃絶してしまいました。
ちなみに、前出の伯家神道も、同様に明治期になると著しく衰退し、吉田家が一応は現在も続いているのに対して白川家は、実子がいなかった当時の戸主が昭和30年代に死去した事に伴い、その血筋までも断絶しております。
神道や神社から宗教色が排除され「神道は宗教にあらず」「神道は国家の宗祀」と位置付けられた所謂 “国家神道” の時代には、宗教色が濃く秘術的要素が強く、それでいて教派神道に衣替えする事もなかった吉田神道や伯家神道は、残念ながら国家や当時の神道界からはもう必要とされなくなった、という事だったのかもしれません。
吉田神道の護摩
吉田神道の勢いが盛んであった中世から近世にかけては、吉田神道に於いても神道護摩が積極的に修されておりました。それまで主流であった密教の護摩とは明確に一線を画す独自の神道護摩(実際には密教からも強い影響を受けている事は否定出来ませんが、吉田神道は仏教の混濁が一切無い純粋で唯一の神道を標榜していた事から、建前としては吉田神道完全オリジナルの護摩としています)で、火中に天神地祇八百万の神々を勧請して供物を捧げ吉田神道の世界観を護摩壇上に顕現させて祈祷する、というもので、吉田神道が主流であった当時の神社界では、神主は神道護摩が行なえて初めて一人前という風潮すらあったようです。
吉田神道で行なわれていた代表的な護摩法としては、天地人の三元と五行の秩序の中で幽玄な神道世界を顕現させる三元十八神道行事に護摩の作法を加えた「三元十八神道護摩行事」(当神社が行なっているのはこの系統です)と、炉を中心とした八角形状の特別な護摩壇や専用の鳥居などの大がかりな荘厳と多様な神具が必要となりその所作も更に複雑となる「唯一神道大護摩行事」などがあります。
但し唯一神道大護摩については、その次第の内容や作法等は残念ながら現在ではほぼ失伝しており、今も実際に執り行なわれているという事例は、私の知る限りに於いては寡聞にして知りません。
しかし三元十八神道護摩については、一部の神社や一部の神道家、その他の団体・個人等に於いて、機会は少ないながら現在でも行なわれており、当神社に於いても年に2回、三元十八神道護摩の次第に則った形で定期的に神道護摩の神事を執行しております。
三元十八神道護摩のより具体的な内容について、ここではこれ以上の言及は避けますが、更に具体的で詳細な次第や作法等については、一部の専門書(例えば、皇學館大学第一号となる文学博士号取得者である出村勝明先生が、同大学院後期課程在学時に学位請求論文として執筆され、同学長の田中卓先生が序文を寄稿されている、神道史學會刊「吉田神道の基礎的研究」など)には掲載されていますし、また、ネットで検索すれば、東京大学文学部宗教学研究室所蔵の「三元十八神道次第」や、宮内庁書陵部所蔵の「大護摩略次第」などがヒットし、それらのデジタルアーカイブからもある程度は、どなたでもその一端を窺い知る事が出来ます。興味のある方は是非それらも御覧下さい。
なお、北海道内に鎮座する神社神道の神社(教派神道系や古神道系の神社は含めない)で、定期行事として神道護摩を行なっているのは、当神社が把握している限りに於いては当神社1社のみです。
▲ 留辺蘂神社 新春神道護摩祭
▲ 留辺蘂神社 夏季神道護摩祭
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