当神社では、社会生活のなかで欠く事の出来ない、人生に於ける重要な通過儀礼、具体的には「冠」(かつての元服)、「婚」(結婚式)、「葬」(お葬式)、「祭」(先祖祭祀)を、大前にて神事として、もしくは御霊前にて霊祭として、それぞれ厳粛に斎行しております。
「神前結婚式」とはその名の通り、神社に鎮まる大神様の大前にて挙げる、神道式の結婚式の事で、明治時代になってから行なわれるようになった、実は意外と新しい形式の婚儀です。
江戸時代までの日本では、自宅で行なわれる所謂「人前結婚式」が一般的でした。人前結婚式は、新郎と新婦が床の間にある座敷などで、御神名の記された掛け軸の前にお供えをして、家を守って下さる神様の前で共に生きる事を誓って盃を交わし、その後で、親戚や近隣の人々を集めた宴会を開いて二人を祝福する、といった形で行なわれていました。
明治12年には新潟で神前結婚式が行なわれた記録がありますが、この時は、「神葬祭のある以上は神婚儀もある訳なれば、別に怪しむに足らぬものの、随分と妙な儀式にありしと、かの地より告げ越せり」(「郵便報知」明治12年5月2日付)と新聞ネタになった程で、明治時代になってからも、神前結婚式は今日の様に一般的な婚儀と言えるものではありませんでした。
神前結婚式が一般に普及するようになった切っ掛けは、皇太子 嘉仁親王殿下(後の大正天皇)の御婚礼です。明治33年5月10日、同年4月に定められた皇室婚嫁令に基づいて、嘉仁親王殿下と九条道孝公爵の四女節子様(後の貞明皇后)が、宮中の歴史に於いて初めて宮中の賢所で神前結婚式を挙げられました。そして、この御婚礼の様子が報道された事により、「皇太子様のように神職の導きで結婚式を挙げたい」と考える人々が多く出始めるようになり、こういった要望を受ける形で、日比谷大神宮(現 東京大神宮)が、新聞記者や大臣等を招いて御神前で模擬結婚式(宮中婚礼の式次第を一般向けに簡略化したもの)を行ない、神前結婚式のPRを行なったのです。
そして、これに倣う形で各地の神社で徐々に神前結婚式が執り行なわれるようになりましたが、昭和20年代以前は、都市部を除くと全国的にはまだ家庭で行なわれる結婚式が一般的でした。戦後、神前結婚式は我が国の伝統に基づいていると解されて人々から支持され、全国的な人気を博すようなり、広く各地の神社で執り行なわれるようになって現在に至ります。
このように、例え歴史は浅くとも(とはいっても既に百年以上の歴史がありますが)、我が国の神話に於ける初めての夫婦神である伊邪那岐・伊邪那美の男女二神が神慮を仰がれたように「神がめあわせ給ふ」という信念に基づいて神明照覧の下、神々に誓って執り行なわれる神前結婚式は、日本古来の伝統と美風を継承した結婚式と言え、日本で生まれ育った私達にとっては最も適合した結婚式といえるでしょう。
当神社で執り行なう神前結婚式は、『 修祓 → 祝詞奏上 → 神楽奉納 → 新郎新婦 神酒拝戴(三三九度の盃) → 指輪交換 → 誓詞奉読(新郎新婦が御神前に進み奉読) → 新郎新婦 玉串拝礼 → 御両家代表 玉串拝礼 → 御両家親族 神酒拝戴(親族杯) → 斎主挨拶 』という次第に沿って執り行なわれ、誓詞奉読では、御神縁によって結ばれた新郎新婦のお二人が、留辺蘂神社大神様の大前で、互いに助け合い労わり合って明るく円満な家庭を築いていく事と、苦楽を共にして子孫を繁栄させていく事を、声に出して誓います。
神 葬 祭
「神葬祭」(シンソウサイ)とは、日本固有の葬儀を土台として整えられた、神道の信仰に基づいて齋行される神道式葬儀の事です。
我が国於いて最も一般的な葬儀である仏式の葬儀では、故人もしくは御遺族の菩提寺の僧侶が導師として執り行ない、霊前で読経などされるのに対して、神葬祭では、故人もしくは御遺族の氏神神社・崇敬神社の神職(神主)が執り行ない、霊前で祭詞(サイシ)が奏上されるなどします。仏式の葬儀ではないので、当然の事ながら線香を使った焼香は無く、仏具である数珠も用いません。
一口に神葬祭といっても、その内容や式次第は各地域によってかなり異なっており、同一の都道府県内や同一の市町村内に於いてさえも、執行する神社によって相当差のある事が少なくありません。神葬祭については全国的な統一基準が存在せず、その地域の伝統・慣習や、その神社(宮司)が抱く他界観・霊魂感などに基づいて執行されているのが現状です。
特に北海道は、近代になってから全国各地より入植した人々により開拓された歴史を持つため、全国各地の様々な慣習が雑多に入り混じり合っており、神葬祭も実に多様性に富んだものとなっています。
当神社が執り行なう神葬祭では、状況によってはそうではない事もありますが、大抵は2日間もしくは3日間に亘って、「帰幽奉告・枕直し」→「遷霊祭・通夜祭」→「葬場祭・発柩祭」→「火葬祭」→「帰家祭」という流れで粛々と祭儀を執り行ない、「神葬祭」という言葉は、これら一連の祭儀の総称として用いております。以下に、神葬祭を構成するそれぞれの祭儀について、その概略を説明します。
「帰幽奉告」(キユウホウコク)とは、故人の氏神様や喪家(故人宅)の神棚に対して帰幽(当人が亡くなった事)を奉告する儀式で、一般には、神葬祭はこの「帰幽奉告」から始まります。
本来は、御遺族の代参者が氏神神社を訪ね、その神社の大前で神様に直接、故人の帰幽を奉告するのが本義ですが、実際には、喪家の神棚におまつりされている神様に対して御遺族に代わって神職が帰幽を奉告するという形に代えて行なわれる事が多く、その「帰幽奉告」の後は、「忌」の期間が終わるまで、神棚の前面に白い紙を貼ります。
「枕直し」(マクラナオシ)とは、御遺体を北枕にして(もしくは頭が上座の位置になるようにして)、御遺体に白木綿の小袖を着せ、白布で顔を覆い、その上で守り刀を枕元に置いて、故人の安らかな眠りを祈る儀式です。
「帰幽奉告」と「枕直し」は、趣旨も拝礼対象も異なる別々の儀式ですが、当神社が神葬祭を執行する場合、この両儀式は神職が故人宅に赴いた際に同時に行なっており、具体的には、先ず喪家の神棚でおまつりされている様に対して故人の帰幽を奉告してから、御遺体に対して、枕直しの祭詞を奏上します。
但し、最近は喪家に神棚が無いという場合もあり、その際は、喪家から神社の神様を遥拝する形で帰幽奉告を行ないます。
神社によっては「帰幽奉告」や「枕直し」には神職は一切奉仕しないという所も少なくはなく、実際、全国的にみると、近年は枕直しは御遺族や近親者だけで行ない、神職は「通夜祭」から奉仕する、という事例も多いようです。
ちなみに、「枕直し」が終わって、御遺体を「通夜祭」が斎行される葬儀場へと発柩する直前、故人の御遺体は「湯灌の儀」を経て故人宅にて棺に納められるのですが、神社によってはこの時、神職が「納棺祭」を執り行う所もあります。
「通夜祭」(但し道内の神社では「前夜祭」と称している所も多いです)は、故人の御霊(ミタマ)を慰めるため、神葬祭の祭儀の中では本祭に相当する「葬場祭」の前夜に執り行なう祭儀で、通夜祭という祭典名からも分かるように、仏式の葬儀でいう “お通夜” に相当します。当神社が執り行う通夜祭の具体的な次第は以下の通りで、次第中に遷霊祭も含めております。
『 修祓 → 斎主一拝 → 献饌 → 遷霊詞奏上 → 遷霊の儀 → 霊魂安定詞奏上 → 通夜祭詞奏上 → 喪主以下参列者 玉串拝礼 → 斎主以下祭員 玉串拝礼 → 撤饌 → 斎主一拝 → 斎主挨拶 』
主要な内容としては、御遺体に留まっておられる故人の御霊を霊璽(レイジ)へとお遷しする「遷霊祭」を先ず行ない、続いて直ちに「通夜祭」を行なうのですが、実質的にはその二つの祭儀が「通夜祭」というひとつの祭儀にまとまっている感じです。
そして、遷霊祭を内包しているその通夜祭が、現在に於いては事実上公式な “夜のお葬式” になっており、翌朝の「葬場祭」と合わせて葬式を二度行なうかのような感じにもなっていて、通夜祭本来の機能や意味は変質してきています。参列者の人数も、本来の意味での “お葬式” に当る葬場祭よりも、大抵は通夜祭のほうが多いのが実情です。
遷霊祭の中でもその中心行事となる「遷霊の儀」が執り行なわれる時、斎場内の照明は非常灯などを除いてほぼ全て一斉に消灯されるのですが、その暗闇の中、警蹕(神職が発する「オー」という低い声)だけが響き渡る一時は特に厳粛を極め、この独特の雰囲気は仏式やキリスト教式の葬儀には無い、神葬祭の大きな特徴のひとつにもなっています。
ちなみに、前述の通り当神社に於いては、先ず遷霊祭、続いて通夜祭、という順番で執り行ないますが、地域によっては、先ず通夜祭を執り行ない、その後少し間を空けてから、遷霊祭を執り行なう所もあります。
上の写真2枚が「霊璽」の現物で、霊璽は、厳密にいうと少し違うのですが分かりやすく例えると、仏式の葬儀でいう位牌(イハイ)に相当します。上の写真では、鞘(覆い)を被せた状態と外した状態の2体(高さはどちらも約20cm)がそれぞれ並んでいますが、これは、タイプ(装飾)の異なる霊璽を比較するために並べて撮ったもので、実際の葬儀で使う霊璽は1体だけです。この写真のように霊璽を2体並べて使うわけではありません(但し地域や神社によっては、神葬祭で2体の霊璽を同時に使う事もあります)。
ちなみに、遷霊が終わったからといって、神道に於いては御遺体を “単なる抜け殻” とか “何もない空っぽのモノ” としては扱いません。遷霊の儀を行なった事により故人の御霊は御遺体から霊璽へと遷りますが、御霊の一部は引き続き御遺体にも留まり、だからこそ、通夜祭の翌日に行われる「発柩祭」は柩(御遺体が納められている棺)を拝礼対象としていますし、火葬場で行われる「火葬祭」も、やはり霊璽にではなく御遺体に対して祭詞が奏上されるのです。
神葬祭に於ける遷霊のイメージは、分りやすく例えると “ローソクの火の分灯” に近いかもしれません。ローソクの火を、別のローソクに分灯したからといって、意図的に消さない限り元の火は消えませんし、分灯元の火も分灯先の火も、どちらも全く同じ火である事に何ら変りありません。カセットテープなどのアナログデータは、ダビングを繰り返すとコピー先のデータは劣化していきますが(画像データは画質が荒くなって見辛くなっていきますし、音声データも雑音が多くなって聞き辛くなります)、それに対して遷霊は、ローソクの分灯同様、同一性を完全に維持したまま、御霊が複数に分かれるという事です。厳密に言うと、「荒魂はお墓に鎮まり、奇魂は霊璽に留まる」という解釈もあるので、その解釈に従うと「同一性を完全に維持したまま」とは必ずしも言い切れないのですが、兎も角、アナログデータのように劣化コピーとならない、という事です。
なかには、「遷霊後の御遺体は “単なる抜け殻” に過ぎず、拝礼対象ではない。遷霊が終わった後の拝礼対象はあくまでも霊璽だけである」と解釈されている方もおられるようですが、もしそうであるとするなら、霊璽が無い場所で斎行される「火葬祭」「埋葬祭」「墓前祭」をなぜ行なう必要があるのか、説明がつかなくなります。そればかりか、お盆やお彼岸のお墓参りでさえも意味が無い事になってしまいますが、現実には、勿論そんな事はありません。
「通夜祭」翌日の午前に斎行される「葬場祭(ソウジョウサイ)」は、故人に対して最後の訣別を告げる、神葬祭最大の重儀で、仏式の葬儀では「葬式」「告別式」に当たります。
道外では、前夜の「通夜祭」もこの日の「葬場祭」も、どちらも喪家(故人宅や喪主宅など)にて斎行される事がありますが、北海道では「通夜祭」も「葬場祭」も、葬儀専用の会館もしくは公民館などの、一般住居ではない斎場で執り行われる事が多く、喪家で斎行される事例は少ないです。当神社が執り行う「葬場祭」及び「発柩祭(ハッキュウサイ)」の具体的な次第は以下の通りです。
『 修祓 → 斎主一拝 → 献饌 → 葬場祭詞奏上 → 弔辞・弔電奉読 → 喪主以下参列者 葬場祭玉串拝礼 → 発柩祭詞奏上 → 喪主 発柩祭玉串拝礼 → 斎主以下祭員玉串拝礼 → 撤饌 → 斎主一拝 』
当神社で執行する神葬祭では、これから火葬場へと葬送(柩を移動)する事を柩前に奉告する「発柩祭」(神社によっては「出棺祭」「発葬祭」などと称する事もあります)は、上の次第の通り、「葬場祭」と合わせて執り行ないます。建前としては「葬場祭」と「発柩祭」はそれぞれ主旨の異なる独立した別の祭儀なのですが、実際には同一会場で続けて齋行するため、一般の参列者からみると、「葬場祭」と「発柩祭」は実質、連続した一つの祭典と映ります。
ところで、もし「通夜祭」を喪家で、そして「葬場祭」を専用の葬儀場で、というように通夜祭と葬場祭の場所を分けて執り行なう場合(北海道ではそのような事例は滅多にありませんが、逆に道外ではそのほうが一般的な事もあると聞いています)、順番としては、御遺体が安置されている部屋(喪家の居間・広間・広い和室など)で「通夜祭」を行なってから、同じ場所で「発柩祭」を行ない、その後で柩を葬儀場へと発柩し「葬場祭」を斎行する事になります。
この場合の「発柩祭」は、葬儀場(葬場祭が斎行される斎場)へと発柩するための儀式として行なわれ、御遺族の方々はその儀を終えてから葬儀場へと向かう事になるのですが、それに対して北海道では、「葬場祭」と「発柩祭(出棺祭)」はどちらも同一の斎場で続けて斎行される事が多く、その場合の「発柩祭」は、火葬場へと発柩する儀式となるため、順番としては葬場祭の後になり、つまり「発柩祭(出棺祭)」という全く同じ名称の儀式であっても、葬儀場へ向かうための発柩祭なのか、火葬場へ向かうための発柩祭なのか、それによって発柩祭をどのタイミングで斎行するのかも変わってくる事になります。
普段はその違いを意識する必要は特にありませんが、もし道外の人と神葬祭の打ち合わせをしていて、発柩祭についてはなぜか会話が全く噛み合わないという場合は、お互いにその前提条件が異なっている事が考えられるので(葬儀場へ向かうために葬場祭の前に行なう発柩祭なのか、火葬場へ向かうために葬場祭の後に行なう発柩祭なのか、という違い)、その際はここでの解説を思い出して戴ければ幸いです。
ちなみに、喪家で発柩祭を行なった場合は、喪家から発柩の後、神職はその柩が安置されていた部屋で「発柩後祓い除けの儀」を行ない、家に留まる家族・親族を始め、各部屋、建物内を祓い清める事があります。
発柩祭が終わると、御遺族の方々は葬儀会社の用意したバスなどに乗車し、柩と共に直ちに火葬場へと移動します。そして、柩が火葬場の斎場(告別室)に入ると、そこで「火葬祭」が執り行われます。
火葬祭の斎行時間は概ね10分程度と短く、これが終わると、柩は直ちに火葬場職員により告別室から火葬炉前へと移動され、そこで神職が火葬炉前室の扉前で炉を祓い清め、柩は御遺族の方々に見送られながら火葬炉へと納められます。
火葬祭は省略して斎行しない(そもそも神職は火葬場までは行かない)という神社も意外と少なくはないようですが、やはり、今から火葬する旨を御霊前に奉告するという意味でも、また御遺族への配慮からも(御遺族にとっては、故人が御遺骨となる前の、最後のお別れとなります)、なるべく火葬祭は斎行したほうが望ましいと思います。火葬祭を終えた直後、ある喪主さんから「やっぱり神主さんに来て貰って良かった。だってもし神主さんに来て貰ってなかったとしたら、火葬場に着いたらすぐ炉に入れる事になるわけでしょ。それじゃあまりにも呆気ないよね」と言われた事は、今でも印象に残っています。
なお、《2》項の中で「但し地域や神社によっては、神葬祭で2体の霊璽を同時に使う事もあります」と述べましたが、道内の某神社が執行された神葬祭で私が実際に見た例では、2体の霊璽のうち1体は火葬場へ持って行き、火葬祭は御遺体とその霊璽を同時に拝礼対象として執り行ない、火葬祭後、火葬場へと持って行ったその霊璽は柩に納め、御遺体と共に火葬しておりました。もっともこれは全国的にみると例外的な事例であり、当神社を含む大多数の神社では、そもそも霊璽はひとつの神葬祭につき1体しか用意しませんし、その1体の霊璽を、火葬場へ持って行ったり柩に納めたりする事はありません。
ちなみに、最近ではそういう事例はまずほぼ無いと思いますが、御遺体を火葬ではなく土葬する場合は、火葬祭ではなく、土葬する墓前にて「埋葬祭」を執り行ないます。歴史的には、火葬は仏式所縁の葬送で、土葬は神道所縁の葬送とされてきました。
御遺骨となった故人が、御遺族と共に、通夜祭や葬場祭などが執り行なわれた斎場に再び戻ると、すぐに「帰家祭」(キカサイ)が執り行なわれます。帰家祭とは、故人の御霊に対して葬儀が滞り無く終了した事を奉告する祭儀で、本来は帰家祭という名称の通り、火葬(もしくは埋葬)を終えて家に帰ってきた事を御霊前に奉告する儀式なのですが、現実には、喪家で帰家祭を斎行出来るだけのスペースが確保出来ない、喪家で祭壇やお供えなど諸々の準備が出来ない等の事情により、当地に於いてはほとんどの場合、葬場祭の行なわれた会場で執り行なわれます。
必ずしもそうとは限りませんが、葬場祭は午前9時もしくは10時から斎行される事が多く、その1時間後くらいに火葬場へと発柩し、火葬場の混み具合や御遺体の状況などにもよりますがだいたい1時間半程度で火葬が終わり、そして火葬場で収骨してから、葬場祭が行われた葬儀場へと再び戻るため、以上の流れを踏まえると帰家祭は早くてもだいたい昼の1時以降、遅い場合だと2時半頃から斎行される事になります。
当神社が執行する神葬祭は、この帰家祭の終了を以って一段落し(但し五十日祭もしくは一年祭まで神葬祭は続くという考え方もあります)、これ以降は御霊前(霊璽の御前)で、旬日祭や式年祭などが斎行される事になります。
霊 祭
御先祖様をはじめとする故人の御霊(ミタマ)を慰め申し上げ、子孫の繁栄などを願う「霊祭」(ミタママツリ)は、日毎、月毎、春秋などの季節毎、年毎などに行なわれます。「霊前祭」もしくは「祖霊祭」ともいいます。
神葬祭(帰家祭)が終わった後は、喪家にて「翌日祭」「十日祭」「二十日祭」「三十日祭」「四十日祭」「五十日祭」「百日祭」「一年祭」と霊祭が続きますが、これらのうち「翌日祭」と、「二十日祭」から「四十日祭」までの霊祭は省略される事も多いです。
仏式でいう初七日は「十日祭」、四十九日は「五十日祭」に当たります。納骨する時期については特に定めはありませんが、だいたい五十日祭の前後に納骨するのが一般的で、神葬祭の事実上の始まりとなる「帰幽奉告」の際に喪宅の神棚前面に貼った白い紙も、五十日祭を以て外します。なお、翌日祭から百日祭までの、日毎に行なう霊祭は「旬日祭」と総称されます。
「一年祭」以降の、年毎に行なわれる霊祭は「年祭」と称され、年祭は仏教でいう年忌法要に相当しますが、儀礼を行う年次は法要(仏事)とは異なり、そうではない場合もありますが大抵は1・2・3・4・5・10・20・30・40年と行なわれ(より丁寧に、毎年欠かさず行なう場合もあります)、具体的には「一年祭」「二年祭」「三年祭」「四年祭」「五年祭」「十年祭」「二十年祭」「三十年祭」「四十年祭」と年毎に行ない、そして故人の没後50年に、最後の年祭として「五十年祭」を執り行ないます。
五十年祭が行なわれると、その頃には、故人の事をほぼ全く知らない世代が遺族の代表となっていますので、それをひとつの節目として「まつりあげ」を行ない、以後は個人としてのおまつりは行なわず、歴代の祖先と共におまつりを行ないます。まつりあげ後の故人の御霊は、清められて、神様と祖先の元に帰るといわれています。
但し、地域や事情によっては30年でまつりあげを行う事もあり、その場合は、三十年祭がその故人に対して最後の年祭となります。また、かなり稀な事例ではありますが、故人が特別な人物であった場合(生前に格別な業績を残した場合など)は、御遺族やその御子孫によって50年以降も年祭が継続される事もあり、例えば歴史上の偉人となった人物などに対しては、百年祭や二百年祭などの霊祭が行なわれる事もあります。
なお、毎年の命日(帰幽当日)に行なわれる霊祭は、「命日祭」もしくは「正辰祭」(セイシンサイ)といいます。「一年祭」「三年祭」「五年祭」「十年祭」などの年祭は「式年祭」とも言いますが、一部の神社で行なわれている由緒ある式年祭(例えば20年毎に行なわれる伊勢の神宮の式年遷宮、12年毎に行われる鹿島神宮・香取神宮の神幸祭、7年毎に行われる諏訪大社の御柱祭など)と区別する意味から、通常は単に「年祭」という事の方が多いようです。
ちなみに、忍手(音をたてない拍手)をいつまで行うかは、地域や神社によって見解が異なりますが、当神社が執行する霊祭では、五十日祭からは柏手を打っております。
留辺蘂神社 公式ホームページ
Copyright (c) Rubeshibe Jinjya All Right Reserved.