留辺蘂神社は
全町民の心の拠り所として
留辺蘂町の発展と共に歩んでまいりました
明治天皇崩御を受けて、大正元年、斎藤喜一郎・佐竹喜太郎・吉田長三郎・二瓶喜一郎・千葉新太郎・黒田四郎・光永勝助などが相謀り、現在の留辺蘂神社の地に遙拝所を建て、近隣住民一同、遙かに哀悼の意を表した。これが留辺蘂神社創祀の起源とされる。
大正初期には、その遙拝所の地に小祠が建てられ、御祭神として天照皇大神が奉斎され、毎年例祭が斎行されるようになる。
大正7年には、神社としての正式な社殿が造営され、益々地域からの崇敬を集め、昭和2年には村社に列格される。
昭和21年、神社本庁包括下の宗教法人となり、同年、近隣の大山津見神社が本殿に合祀される。
昭和29年には、奈良県天理市に鎮座する、日本最古の神社のひとつとされる石上神宮より御分霊を受け、石上大神三柱が本殿に増祀される。
平成16年には、老朽化の著しかった社殿(本殿・幣殿・拝殿)が建て替えられ、臨時大祭として本殿遷座祭が斎行される。
なお、かつて留辺蘂町役場が編纂した留辺蘂町史の年表に於いては、大正10年が「留辺蘂神社建立」とされているが、当神社に於いては、神社に残されている史料等から、神社としての祭祀が始まった大正元年(明治45年と同年)を「神社創祀」、神社の社殿が正式に建てられた大正7年を「神社創建」とそれぞれ位置付けている。
【明治40~43年頃】
川向紅葉山下(現在の留辺蘂橋北側)に、聖徳太子をお祀りする標柱が建てられる。これが、留辺蘂町に於ける神祇拝礼最初の施設とされ、また、現在の聖徳太子神社(留辺蘂神社末社)の起源ともされる。
【明治41年頃】
千葉能章が発起建立者となって、一号線付近に天照皇大神を祀る小祠が建てられ、昭和20年頃までは地域住民達により毎年例祭も斎行される。但し、この小祠は終戦直後に留辺蘂神社へと合祀され、現存しない。
【大正元年】
明治45年に明治天皇が崩御された事を受けて、現在の留辺蘂神社の地に遙拝所が建てられ、近隣住民一同、遙かに哀悼の意を表する。これが、留辺蘂神社の創祀とされる。
【大正初期】
遙拝所の地に小祠が建てられ、御祭神として天照皇大神が奉斎され、毎年例祭も斎行されるようになる(実質、地域一体の鎮守の神社として機能し始める)。
▲ 明治40年代の聖徳太子碑
▲ 大正元年に建てられた遙拝所(標柱)
【大正7年】
留辺蘂神社の正式な社殿が造営される。
【大正9年】
後に初代宮司に就任する荒木万太郎が、小樽市に鎮座する住吉神社での奉仕を経て、留辺蘂町へ移住。同年以降は、荒木万太郎が事実上の留辺蘂神社神職として、留辺蘂神社で神明奉仕していたと推測される。
【大正10年】
日清・日露両戦争で戦病没した英霊を顕彰するため、土田権作、五十嵐忠四郎、吉久久蔵、中田利三郎、佐藤清五郎、尾形直正の6名が発起人となって境内に忠魂碑が建立される。
【大正中期頃】
社殿に掲げる社名の扁額を、札幌神社(現 北海道神宮)第10代宮司 宮沢春文が揮毫。この扁額は現在も留辺蘂神社の拝殿向拝に掲げられているが、具体的に何年に揮毫されたのかは不明(扁額に宮司の署名はあるが年月の記載は無い)。但し、宮沢春文が札幌神社宮司として在任していた期間は大正4年から同13年までの間なので、揮毫も当然その期間内であろうと推測される。
【大正14年】
荒木万太郎が、正式に初代宮司(但し当時の呼称は「宮司」ではなく「社掌」)に就任。
同年、留辺蘂神社を村社に昇格するための手続きを行なう協議会が役場会議室で初めて開かれ、本件促進のため、当時の町長であった関根源三郎を委員長とする委員会が設立される。
同年、同委員のうち梨田全吾、斎藤丈人、大和田常重の3名が、境内地所有者の光永勝助と交渉し、高台一町八反地(神社の現在地)を三百円で譲り受ける事となって神社基本財産が確定し、これを受けて、神社創立願い(当時の在町有志72名が署名)が内務大臣 若槻礼次郎(翌年 内閣総理大臣に就任)宛に提出する。
【大正15年】
内務大臣 濱口雄幸(昭和4年に内閣総理大臣に就任)より、正式に留辺蘂神社創立が許可される。
同年、神社創立規則に則り氏子総代選挙が行なわれ、選挙の結果、梨田全吾、斎藤丈人、荒木徳蔵、塚原宇平、菊地茂七、窪田存造、黒瀬徳太郎の7名が当選し、留辺蘂神社初めての正式な氏子総代が決定する。
【昭和2年】
内務大臣臨時代理 安達謙蔵より村社昇格が令達され、これにより、留辺蘂神社の社格は正式に「無格社」から「村社」へ昇格する。
【昭和3年】
境内に地神碑(五柱石碑)が建てられる。
【昭和10年】
役場町長室で開催された総代会により、社殿の御造営(本殿の新築、拝殿の修築など)と、参道・階段の新設が決定し、寄附募集が呼びかけられる。
吉川岩太郎、柳ヶ瀬松次郎、三井木材株式会社、帝国繊維亜麻工場、千葉能章、西川清吉、堀川重敏などからの篤志大口寄附や、町内の崇敬者達からの一般寄附などによって同年中に目標額に達したため、直ちに事業が着手(起工)される。
同年、一連の工事が全て竣工し、本殿遷座祭及び竣工式が執り行なわれる。
【昭和12年】
仲町納税組合からの奉納により、大鳥居が建てられる。
【昭和21年】
宗教法人留辺蘂神社となる。同年、大山津見神社を本殿に合祀する。
【昭和23年】
初代宮司が退任。戦中は札幌神社(現 北海道神宮)出仕であった神職が、同年、第2代宮司に就任する。
【昭和26年】
京都の業者である松島神輿製作所より御神輿を購入し、御神輿の入魂祭が斎行される。
同年、留辺蘂神社例祭に於いて、その御神輿による初めての市中渡御が盛大に行なわれる。
▲ 大正10年に建立された忠魂碑
▲ 昭和26年に斎行された御神輿入魂祭
【昭和29年】
奈良県天理市に鎮座する石上神宮より御分霊を受け、石上大神が本殿に増祀される。
【昭和30年】
林業殉職者の慰霊碑(昭和15年建立)が、留辺蘂営林署総合工場前から留辺蘂神社境内(留辺蘂神社本殿と聖徳太子神社の間)に移設される。
【昭和35年】
留辺蘂神社創祀以来、社務所は久しく建設に至らず、初代宮司の時代は宮司の私宅に社務所の機能が置かれ、第二代宮司就任後は、境内の南隅に初めて社務所が建設されるものの地盤不良のため損傷の進行甚だしく、そのため総代長 古川忠勇により、社務所改築の議が起る。
【昭和36年】
中央橋袂に社号標が建てられる(但し現存しない)。
【昭和37年】
松谷建設株式会社により、現在地に社務所が建設される。その後2回に亘って大きな増改築が施されているが、この社務所は現存し今も使われている。
▲ 昭和36年に建立された社号標
(現存せず)
▲ 昭和37年に開催された社務所落成式
(現在の社務所はこの建物を増改築したもの)
【昭和39年】
前年に初代宮司が帰幽した事を受け、初代宮司の顕彰碑として境内に荒木大人之碑が建てられる。
【昭和41年】
境内に謝恩植樹碑が建てられる。
【昭和49年】
鳥居銅板復元工事及び付帯工事が竣工する。
【昭和57年】
境内(聖徳太子神社前)に聖徳太子神徳讃仰之碑が建てられる。
【平成8年】
温根湯神社第3代宮司が、温根湯神社の宮司に在任したまま、留辺蘂神社第3代宮司にも就任。同時に神社本庁に対して本務替申請の手続きを行ない、これにより第3代宮司は、留辺蘂神社の本務宮司、温根湯神社の兼務宮司となり、宮司としての常駐神社が温根湯神社から留辺蘂神社に変更される。これ以降、温根湯神社は留辺蘂神社の兼務社となる。
同年、御神木でもあり二之鳥居を挟んで向かい合っている、境内の樹木「アズキナシ」(樹高13.1メートル、幹周り2メートル、樹齢推定80年)と「シダレヤマギ」(樹高13.9メートル、幹周り2.9メートル、樹齢推定180年)の2本が、留辺蘂町保存樹木に指定される。
【平成12年】
松谷建設株式会社の施工により、社務所が増改築される。
【平成14年】
留辺蘂神社護持会常任総代会が発足する(発起人約40名)。
林業殉職者の慰霊碑が、留辺蘂神社本殿と聖徳太子神社の間から、現在地(忠魂碑隣)に移設される。
【平成15年】
大正7年の留辺蘂神社創建より、丁度85年を迎える。その記念事業として、老朽化した社殿を全面的に建て替える事となり、留辺蘂神社御造営発起人会(31名)が設立される。
同年、北見工業大学 桜井宏助教授により、一之鳥居及び二之鳥居の強度検査が行なわれる。
同年、留辺蘂神社御造営奉賛会の結成総会が開催され、御造営に関する事業を行なう同奉賛会が正式に設立される。
【平成16年】
留辺蘂神社御造営仮殿遷座祭、旧社殿解体工事安全祈願祭、階段建設工事地鎮祭、鳥居改修工事起工安全祈願祭などの一連の神事が斎行されてから、本殿の御神体が仮殿(神輿殿)へと遷座され、留辺蘂神社の社殿(本殿・幣殿・拝殿)が一旦取り壊される。
同年、留辺蘂神社御造営地地鎮祭を経て、株式会社井上工務所の施工により社殿御造営(建て替え)工事が始まる。なお、本件(御造営に関する事業)は多くの方々から御奉賛を戴いたが、特に代表的な篤志大口寄附者は以下の通り(敬称略)。 松谷貢、松谷建設株式会社、野村興産株式会社、板垣進、北見信用金庫。
同年、社殿御造営と同時に起工した、参道の階段建設工事(旧石段を撤去して造り替え)と大鳥居改修工事(旧鳥居の改築・補強)が竣工する。
同年、留辺蘂神社御造営上棟祭などを経て、社殿御造営工事が竣工し、竣工後直ちに留辺蘂神社御造営本殿遷座祭が執り行なわれる。
▲ 解体直前の旧社殿
▲ 仮殿遷座祭(神輿殿内)
▲ 改築された一之鳥居と参道階段
▲ 新社殿の上棟祭
▲ 本殿遷座祭(現社殿)
▲ 本殿遷座祭(現社殿)
【平成17年】
温根湯温泉街のホテル「大江本家」にて「留辺蘂神社御社殿御造営落成式並びに祝賀会」が挙行される。落成式では、次第のひとつとして、社殿御造営事業への格別の功労者に対して表彰も行なわれる(神社本庁総裁表彰、神社本庁統理表彰、北海道神社庁長表彰)。
▲ 社殿御造営落成式
▲ 社殿御造営祝賀会
【平成18年】
所謂「平成の大合併」により、北見市・留辺蘂町・端野町・常呂町の1市3町が新設合併し、新生「北見市」が発足する。この合併に伴い、登記上、当神社の鎮座地が「常呂郡留辺蘂町字宮下町115番地」から「北見市留辺蘂町宮下町115番地」に変更となる。
【平成22年】
第62回神宮式年遷宮に奉賛した事に対して、「神宮大宮司 鷹司尚武」と「伊勢神宮式年遷宮奉賛会 会長 岡村正」両名の連名を以て、留辺蘂神社護持会(総代会)に対して感謝状が贈呈される。
【平成24年】
大正元年の留辺蘂神社「創祀」より、丁度100年を迎える。
【平成30年】
大正7年の留辺蘂神社「創建」より、丁度100年を迎える。
【令和2年】
前年末より新型コロナウィルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)が発生した事に伴い、毎年行なわれていた秋まつりに於ける神輿渡御が、同感染症対策のため当年より休止となる(令和6年より再開)。
【令和5年】
第3代宮司が、本務社である当神社と兼務社である温根湯神社の宮司を同時に退任。その翌日付で、留辺蘂神社権禰宜のひとりが、昇進して第4代宮司に就任(留辺蘂神社の本務宮司と温根湯神社の兼務宮司に就任)。
【令和6年】
末社「太子神社」の社名が「聖徳太子神社」に改称される。
同年、新たな恒例行事(祭典)として、神道護摩祭、東日本大震災物故者慰霊祭、勧学祭、聖徳太子御廟遙拝式、明治天皇祭、明治祭、新嘗祭、煤払いが斎行される。
同年、平成16年以来休止されていた手水舎の利用(通水)が約20年ぶりに再開される。
同年、新型コロナウィルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)により令和2年より休止されていた、秋まつりに於ける神輿渡御が、5年ぶりに復活する。
【令和7年】
新たな恒例行事(祭典)として、紀元祭、国土平安祈願禊、大祓式、戦没者慰霊祭が斎行される。
同年、神社公式ホームページが開設される。
※ 留辺蘂の語源
留辺蘂は、アイヌ語の「ルペシュペ」からでたものとされる。
アイヌ語では、道のことを「ルー」、越える道を「ルペシュペ」と称し、本町の場合は佐呂間別川へ越す道の意味で、ペをベにし、シュペをシベにして「ルベシベ」と訳し、さらに漢字の「留辺蘂」をあて、今日に至っている。
留辺蘂神社 公式ホームページ
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