留辺蘂神社 本殿の内陣(神様が鎮まっている部屋)は三座あり、一座目(中央の部屋)では主祭神である天照皇大神1柱を、二座目(向かって右側の部屋)では大山津見大神と金華大神の2柱を、三座目(向かって左側の部屋)では石上大神(布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯御魂大神)3柱をそれぞれおまつりしており、これら計3座6柱が「留辺蘂神社大神」として信仰・崇敬されております。
本殿以外では、境内社として本殿隣に鎮座する末社「聖徳太子神社」にて、聖徳太子を御祭神としておまつりしています。その聖徳太子神社以外には、境内・境外共に、摂社・末社はありません。
なお、上の写真の由緒略記の掲示板は、平成の御代に作られたものであるため、この写真の掲示板の「御祭神」の項には、令和7年に合祀された金華大神の御名はまだ掲載されておりません。
留辺蘂神社 本殿の御祭神
① 天照皇大神(アマテラス スメ オオカミ)
【主な御神徳は、皇室安泰、国家繁栄、国土平安、五穀豊穣、農業繁栄、繊維業守護、厄除、開運招福、子孫繁栄】
留辺蘂神社本殿の主祭神です。
高天原(天津神が住んでおられる天上の世界)を統べる女神で、皇祖神(皇室の祖神)であり、日本人全員の総氏神でもあられる、最も尊い神様です。
神社神道最大の聖地であり神社本庁及びその包括化にある全国各地の神社が本宗(ホンソウ)として尊び仰ぐ、三重県伊勢市に鎮座する神宮(所謂 伊勢神宮)の中でも、特に中心的なお宮である内宮(皇大神宮)の主祭神でもあり、太陽神・農耕神・機織神ともされ、一般には「天岩戸隠れの神話」などでよく知られる神様です。
古事記に於いては、死者の世界である黄泉国(ヨミノクニ)を訪れた伊邪那岐神(イザナキノカミ)が、黄泉国の穢れを祓うため禊(ミソギ)をされて左目を洗った時に出現したとされ、大変尊い神様である事から、伊邪那岐神から高天原の統治を委託されました。
この天照皇大神の御孫に当たる日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)は、天照皇大神から葦原の中津国(地上世界)を治めるようにとの神勅を受け(天壌無窮の神勅)、更に、天照皇大神の御魂代(ミタマシロ)として八咫鏡(ヤタノカガミ)を祀るよう命じられて(宝鏡奉斎の神勅)、高天原から筑紫の日向の高千穂峰へと天降られました(天孫降臨)。
天孫降臨後、その血統は初代天皇である神武天皇を経て、畏くも今上陛下まで続いております。
② 大山津見大神(オオヤマツミ ノ オオカミ)
【主な御神徳は、林業・製材業・木工業・鉱業・漁業の守護と繁栄、商売繁盛、登山安全、大漁満足、航海安全、大漁満足】
昭和21年に留辺蘂神社に合祀された、かつての大山津見神社の御祭神で、合祀後は留辺蘂神社本殿二柱目の御祭神としてお祀りされています。但し、合祀元となった大山津見神社が、具体的にどこに鎮座されていた大山津見神社であったのかは、残念ながら当時の記録が残っていないため不明です。
全国各地に鎮座する大山祇神社や三島神社(三嶋神社)の主祭神でもあり、一般には「山の神」として知られています。「日本の山神の総元締」的な国津神であり、山岳修験に於いても篤く信仰され、山を司る事から山林や鉱山守護のため全国にその御分霊が勧請されました。
古事記においては、伊邪那岐神(イザナキノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)との間に生まれたとされ、日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)が結婚した木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)の父ともされています。
この大山津見大神を主祭神としてお祀りする神社の総本社は、瀬戸内海の芸予諸島の中心を成す大三島に鎮座する大山祇神社とされていて、同神社は古くから瀬戸内海水軍の守護神、海上交易の守護神として信仰され、漁師からは漁船の守護神としても信仰され、また、中世から近世にかけては武門の神としても武家から広く信仰を集めており、このように大山津見大神は「山の神」としての一面以外に、「武神・軍神」「交易や商売繁盛の神」「水運や航海守護の神」「豊漁の神」など、多彩な性格を併せ持つ神様でもあります。
留辺蘂に於いては特に「山の神」「林業の神」として、林業・木工関係者から篤く崇敬されています。
③ 布都御魂大神(フツノミタマ ノ オオカミ)
【主な御神徳は、国家繁栄、必勝、魔除、厄除】
昭和29年に留辺蘂神社に増祀された「石上大神」三柱のうちの一柱で、増祀後は留辺蘂神社本殿三柱目の御祭神としてお祀りされています。
大国主神(オオクニヌシノカミ)からの国譲りを成功に導いた武神・建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)が帯びておられた神剣「韴霊」(フツノミタマ)に宿られる御霊威で、奈良県天理市布留町に鎮座する石上(イソノカミ)神宮の主祭神でもあります。
神剣「韴霊」は、日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)による天孫降臨に先立って天津神により葦原の中津国(日本の国土)平定が行われた際に、建御雷之男神がお使いになった剣で、神武東征の際には、建御雷之男神から高倉下(タカクラジ)へと下され、高倉下は神武天皇へと献上し、神武天皇が無事大和に御到着されるのをお助けになられました。
その後、邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)の御子・宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)により宮中でお祀りされていましたが、崇神天皇の御世に、勅命によって、物部氏の祖・伊香色雄命(イカガシコオノミコト)が、現在石上神宮が鎮座している地にお遷しして「石上大神」としてお祀りするようになり、これが石上神宮創建の由緒とされています。
④ 布留御魂大神(フルノミタマ ノ オオカミ)
【主な御神徳は、無病息災、延命長寿、病気平癒、疫病鎮静、精神安定、認知症予防】
昭和29年に留辺蘂神社に増祀された「石上大神」三柱のうちの一柱で、増祀後は留辺蘂神社本殿四柱目の御祭神としてお祀りされています。
物部氏の祖先神である邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)へと授けられた、死者をも蘇らせるとされる凄まじい霊力を誇る御神宝「十種神寶」(トクサノカンダカラ)に宿られる御霊威が神格化された神様です。
神道行法(鎮魂法)の神でもあり、神職が神道行法としての鎮魂を行う時は、石上大神、特にこの神様の霊力を借り受けます。
⑤ 布都斯御魂大神(フツシミタマ ノ オオカミ)
【主な御神徳は、必勝、魔除、厄除、悪縁切】
昭和29年に留辺蘂神社に増祀された「石上大神」三柱のうちの一柱で、増祀後は留辺蘂神社本殿五柱目の御祭神としてお祀りされています。
天照皇大神の弟である須佐之男命(スサノオノミコト)が出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際に用いられた神剣「十握剣」(トツカノツルギ)に宿られる御霊威が神格化された神様です。
布都御魂大神(当社三柱目の御祭神)同様、剣の神であり、勇ましい武神・軍神です。
ちなみに、三種の神器のひとつとされる天叢雲剣(草薙剣)は、このとき須佐之男命が退治した八岐大蛇の体内(尾)から見つかった神剣であり、十握剣とは別物です。
⑥ 金華大神(カネハナ ノ オオカミ)
【主な御神徳は、金運上昇、財福、商売繁盛、金鉱守護、山林守護】
令和7年に留辺蘂神社に合祀された、かつて留辺蘂町金華に鎮座されていた金華神社(大正4年創建)の御祭神で、合祀後は留辺蘂神社本殿六柱目の御祭神としてお祀りされています。
来歴がほとんど不明な謎多き神ですが、金華地区では「山の神」としても祀られていた事から、②の大山津見大神と同一神であるとする説もあります。
かつて金華地区には「住友鴻ノ舞金山 奔武華支山」があって有望な金鉱石が採掘されていた事や、「金(カネ)」の「華(ハナ)」という語呂などから、当地に於いては特に金運・財運の上昇が代表的な御神徳とされています。
末社 聖徳太子神社の御祭神
◎ 聖徳太子(ショウトク タイシ)
【主な御神徳は、建築関係職人の守護、工事安全、業務安全、文化興隆、技芸上達、才能開花、学力向上、立身出世、人間関係円満、心願成就】
留辺蘂神社末社「聖徳太子神社」の御祭神で、第31代 用明天皇の第二皇子にして、第33代 推古天皇の皇太子・摂政でした。
敏達天皇3年(西暦574年)にお生まれになり、中国の文化を採り入れるための「遣隋使」派遣、個人の能力を重視する「冠位十二階」制定、争いの無い平和国家を実現するための「十七条憲法」制定など、後世に残る数々の業績を成し、推古天皇30年(622年)に49歳にて薨去しました。
聖徳太子への信仰は、平安時代中頃より次第に各地に広まり、鎌倉時代には、太子は人々を苦しみから救って下さる観音菩薩の化身として信仰され、室町時代から江戸時代にかけては、技術・芸能の祖としても崇められました。
寺院建築の技術が一般でも用いられるようになるにつれ、太子は大工・左官・屋根・石材の祖神としても庶民から広く信仰され、殊に留辺蘂に於いては「建築の祖神」として、建築業関係者から篤く崇敬されています。
留辺蘂神社 公式ホームページ
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