我が国の古代史に於ける傑出した偉人でもあった聖徳太子は、「建築の祖神」「建築関係職人の守護神」として、特に大工・左官・屋根職・石屋・畳屋・表具師・鳶・瓦製造・桶屋・鍛冶屋などをはじめとする建築関係の業者達から篤く信仰されてきました。太子信仰は今も留辺蘂の町に根付いており、毎年、町内の建築関係者が参列して「太子講祭」が斎行されております。
御祭神と御神徳
御祭神は、聖徳太子(ショウトクタイシ)。
聖徳太子の本名については諸説あり、古事記では「上宮之厩戸豊聡耳命(カミツミヤノウマヤトノトヨトミミノミコト)」、日本書紀では「厩戸豊聡耳皇子命(ウマヤトノトヨトミミノミコト」「豊耳聡聖徳(トヨミミサトショウトク)」などとされています。
留辺蘂神社末社 聖徳太子神社 御祭神としての代表的な御神徳(所謂 御利益)は、建築関係職人の守護、工事安全、業務安全、文化興隆、技芸上達、才能開花、学力向上、立身出世、人間関係円満、心願成就。
厩(ウマヤ)の前でお生まれになった事から「馬を扱う人々の神」、物部氏との戦いに勝利した事から「戦の神」「日本無双の勝軍神」、伎楽を奨励し少年達に習わせた事から「芸能の神」、片岡山で飢人の病を呪術で治した事から「医学の神」などとしても信仰されてきました。
聖徳太子と仏教
飛鳥時代に仏教が我が国へと伝来した際、崇仏派(仏教を積極的に受容する勢力)の蘇我馬子と、排仏派(日本では古来から「神」をおまつりしているため、外来宗教の「仏」は不要であり、仏教は徹底的に排除するとした勢力)の物部守屋とが戦った内乱「丁未の乱」に於いて、聖徳太子は蘇我氏の陣営に加わって物部氏と戦い、蘇我氏の勝利に終わったその内乱後、太子は戦勝を仏に感謝して多くの寺院を建立するなどし、生涯を通して仏教を篤く崇敬・保護しました。
晩年には、中期大乗仏教の主要な経典とされる「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三経の研鑽にも取り組み、推古天皇や臣下へも講演し、更にはその三経の注釈書として「三経義疏」も著すなど、仏教への熱い思いを窺い知る事が出来ます。
仏教への太子の影響力は、太子が薨去された後、更に強くなり、日本天台宗の開祖である最澄は、太子は中国天台宗の事実上の開祖である慧思禅師の生まれ変わりであるとして太子に帰依し、また、真言宗の開祖である空海も、太子を “日本仏教の祖” として尊崇し、その後、空海は聖徳太子の後身(生まれ変わり)であるとする説も定着していきました。
法華経こそが真実の教えであると説いた、日蓮宗の開祖である日蓮は、太子が法華経を日本で初めて講義した事や、その注釈書である法華義疏を著した事などから、最澄と共に、太子を法華経信仰の道を開いた高祖として尊崇しました。
浄土真宗の開祖である親鸞の太子信仰は特に熱烈で、太子の建立と伝わる頂法寺の六角堂に百日間参籠し、その参籠95日目に観音菩薩が太子となって現れて「法然のもとへ行け」と夢告し、親鸞はそれを受けて、それまで修行の地としてきた比叡山を降りて法然の門下に入り、以来親鸞は、法然を師として仰ぐ一方、太子を “和国の教主” と称え、晩年まで二百首を超える太子和讃を作り続けました。
太子は現在に於いても、我が国の仏教のほぼ全宗派から「仏教を保護し、日本に仏教を根付かせた大恩人」として尊崇されており、寺院の中には太子を本尊としておまつりしている所もあり、例えば、国宝第1号の弥勒菩薩半跏像を所蔵している事で知られる京都・広隆寺の本尊も聖徳太子です。
このように、我が国の仏教に於ける聖徳太子への崇敬・信仰は、宗派や寺院を問わず格別であり、太子は、仏教の開祖である釈迦に比類する存在として「日本の釈迦」とも讃えられましたが、釈迦が、王子としての地位も国も妻子も全て捨てて出家したのに対して、太子は所謂 “在家” という立場を生涯貫き、出家は一度もしておらず、僧侶にはなっていません。太子が三経義疏で解説した三経典も、出家して修行する事より在家の仏道のほうが優れている事を強く主張しており、仏教に帰依した太子が決して出家しなかった理由も、そこに示されています。
聖徳太子と神道
古代日本の傑出した皇族・政治家であり数々の伝説を残す、聖徳太子の代表的な事績といえば、国際的緊張の中で中国の統一国家「随」に対して遣隋使を派遣し、大国である隋に対して「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや」の文言で知られる国書を送り対等外交に成功した事、冠位十二階や十七条憲法を制定した事、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った事などが特に有名ですが、仏教を篤く信仰しその興隆に努めたという事も広く知られております。
しかし、太子が仏教を崇敬・保護し、その普及に努めた事が殊更強調されるあまり、逆に、聖徳太子と神道との関係については、世間一般ではほとんど知られていないのが実態です。
現在の中学校や高校の授業などで使われる歴史の教科書にも、太子と仏教との関係についてはほぼ例外なく書かれているのに対して、太子と神道の関係については全く記述がなく、そのため太子を「神道側ではなく仏教側の人」と思っている方も少なくはないようですが、実際には、太子は神様への対応や神道の扱いを決して疎かにしていたわけではなく、神道は従来通り崇敬し、その上で仏教も崇敬し手厚く保護をしていました。少なくとも、聖徳太子や、太子の仕えた推古天皇が、神道に対して批判的であったり、神道を排斥したなどという事実は一切ありません。
以下は、『渡部昇一「日本の歴史」第一巻 古代編 現代までつづく日本人の源流』という本(渡部昇一著、ワック刊)からの転載です。
『 聖徳太子憲法の第二条は、「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」となっている。
この場合の「仏・法・僧を敬え」というのは、決して「神道のかわりに尊べ」という意味ではない。
太子の憲法に流れている思想体系は、主として儒教・仏教であるほかに、法家や道家の思想も入れられている。その条文の用語には漢訳仏典系のものが多いが、そのほか詩経、書経、論語、孟子、荘子、中庸、礼記、管子、史記、文選などから採ったものがある。つまり太子は、当時の唐・天竺(インド)の文化と思想の精髄を集めようとしたらしいのである。
仏教は、当時にあっては、まだすぐれた宗教哲学としてのみ存在し、大祈祷など、今日の仏教が行うようなことはしていなかった。したがって、「法」とはすぐれた学説であり、「僧」は学者である。つまりこれは「新しい学問、新しい文化を尊べ」ということであるから、明治以後でいえば、「西洋の学問およびその学者を尊べ」というのと似たような発想なのである。したがって、太子が寺を建てたのは、今日でいえば大学とか病院を建てるようなものであった。
しかし、「神道のことがまったく書かれていないではないか、だから聖徳太子は日本の神を斥けているのだ」という説を唱える学者も戦後には出てきた。だが、そんなことはまったくあり得ない。日本の神を崇めるというのは、自分の先祖を敬えということであって、あまりにもあたりまえすぎてわざわざ憲法で規定するまでもないことだったのである。
たとえば、日本料理を紹介した本に「箸を片手に二本持って食べなさい」などと書いていないのと同じことである。
私のドイツ留学中のことだが、日本料理が出たとき、箸を片手に一本ずつ持った人がいた。それを見て、「ああ、そうか」と気づいた。箸は片手で二本持つに決まっているから、わざわざそんなことは誰も書かないが、箸を初めて見る人にはそれがわからないこともあるのだ。あまりにも当然のことなので、聖徳太子は「日本の神を敬へ」などとは言わなかった。だから誤解する人も出てくるのである。 』
つまり、十七条憲法の第二条でいう「篤く三宝を敬へ」の三宝とは、現代日本の仏教とは必ずしも同質のものではなく、故にこの条文を以って直ちに、仏教が優遇されるあまり神道は排斥されていたに違いない、と解釈するのはやや早計であるという事です。
以下は、『わかりやすい神道の歴史』という本(神社本庁研修所編、神社新報社刊)からの転載です。
『 日本において、仏教の教理の摂取を飛躍的に推し進めたのは、聖徳太子であった。太子は、皇族の中では最も早く仏教受容に積極的な姿勢を示し、法隆寺を建立したほか、経典の注釈書もまとめた。
(中略)
ただし注意すべきは、仏教の受け入れが進んだからといって、在来の神々への祭祀がないがしろにされたのではないことである。第三十三代推古天皇はその治世十五年(六〇七)二月に、「歴代天皇が世を治めるに当たり、身のおきどころがないほど畏敬して、天つ神・国つ神をうやうやしく祭ったように、自分の世にあっても、どうして神々の祭りを怠ってよいことがあろうか」との詔を下され、聖徳太子と蘇我馬子に命じて朝廷の役人を率いて神祇を祭らせたと、「書記」の記事にある。これは同年の遣隋使の出発に先立って行われた行事であって、その史実性を疑うには及ばないであろう。 』
このように、聖徳太子を自らの皇太子・摂政として立て、太子と共に公正な政治を推し進めた我が国初の女帝・推古天皇も、歴代天皇同様、神々に対しては常に尊崇・畏敬の念を抱いておられました。
ちなみに、これは一般に広く定着している説とは言い難いものですが、中世には、吉田神道の一派が「推古天皇が仏教を受容したのは、聖徳太子が、天竺の仏教は我が国の神道が伝わったものであってそれが東漸してきたのだ、と天皇に上奏したためである」と主張し、そういった事を理由に太子を “神道の元祖” としています。
建築の祖神としての聖徳太子
聖徳太子は、民間信仰においては古来より大工をはじめとする建築関係者から篤く崇敬されており、太子をおまつりし太子の忌日(命日)に崇敬者一同が集まって参拝する組織「太子講」などでは、太子は建築関係職人の守護神とされてきました。
そもそも太子が在世されていた当時の仏教は、純然たる宗教もしくは宗教哲学である現代の仏教とは大きく異なり、諸々の生産技術や工芸なども含めた最先端の一大総合文化であり、太子はその渡来文化を国内で積極的に推進させるためという側面もあって、造寺造仏を奨励し、四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・法起寺・葛木寺などの大寺院を次々と建立しました。
当然、それら大寺院の造営やそれに伴う諸々の建築には、我が国に伝来したばかりの先端的な技術が積極的に導入・反映されており、その結果、木工の大工をはじめ、建築に関わる様々な職種に就く職人達の育成が、飛躍的に促進される事になりました。
そういった経緯から、太子は民間信仰に於いては古来より大工をはじめとする建築関係者から篤く崇敬され、太子をおまつりする太子講などでは、聖徳太子は「建築関係職人の守護神」「建築の祖神」とされ、大工が使う曲尺(カネジャク)を手にした太子像も造られました。
特に近世になってからは全国的に、大工・左官・屋根職・石屋・畳屋・表具師・鳶・瓦製造・桶屋・鍛冶屋などの職人達が太子講を組織し、太子を仏様としてではなく神様としておまつりする慣習が広がっていきました。
留辺蘂と太子信仰
留辺蘂に於いては明治40~43年頃、川向紅葉山下(現在の留辺蘂橋北側)に、留辺蘂町に於ける初めての神祇拝礼施設として、聖徳太子をおまつりする標柱が建てられ、これが聖徳太子神社創祀の起源とされています。
早くもその頃には、町内の大工左官家具職人を中心として、太子の御神徳を仰いで太子講が設立されていました(具体的に何年に設立されたのかは記録が残っていないため不明です)。
聖徳太子神社では現在でも毎年8月に、地元の建築会社の社長さん達参列の下、聖徳太子神社例祭として太子講祭が執り行われております。
留辺蘂神社 公式ホームページ
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