7 是信房墓等遺跡 彦部字石ヶ森 紫波町文化財指定


是信房とは

是信房は、治承4年頃(1180年頃)、京都で生れた。俗名吉田大納言藤原信明(ふじわらのしげあき)といい、朝廷に仕えていたが、思わぬ罪により、越前国(福井県)に流刑された。その後無実の罪であることがわかり、罪をゆるされたが、朝廷へは帰らず、出家して常陸国(茨城県)稲田というところで浄土真宗を始めた親鸞聖人をたずねて弟子となった。是信房は、親鸞聖人の高弟24人の内第10番の弟子。(二十四輩第十番)


是信房が東北地方~彦部へきたわけ

建保3年(1215)に、親鸞聖人から、奥州に行き浄土真宗をひろめよ、と命令され、岩手県和賀郡(現在は北上市)一柏村にしばらく住み、浄土真宗をひろめた。そのあと斯波郡彦部村の石ケ森に移り、石森山重願院本誓寺を建てて浄土真宗をひろめた。

また、岩手県内、秋田県等にでかけ布教を行った。

是信房のお墓

文永3(1266)1014日、86歳で死去。花巻市栃内で火葬したと伝えられ、現在「上人塚」として小公園となっている。その後、彦部の石ケ森に葬られ、現在も「是信房の墓」がある。地元では「お墓山」と呼んでいた。

お腰掛石

「木像親鸞聖人坐像」が最初に坐ったところといわれている。別記伝説「見えなくした仏さま」がある。

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伝説「見えなくした仏さま」

昔、親鸞という偉い和尚さんの弟子に是信房という和尚さんがいました。ある時、親鸞和尚さんが是信房和尚に、お前は奥州に言って、仏の教えを説きなさい。と言って自分が彫った木の仏さまを是信房にわたしました。

それからいく日もいく日もかかって、是信房和尚さんは今の秋田県を歩きまわり、和賀郡の一柏という所にたどりつき、一宇を建て仏さまの教えを説きました。

ある日のこと、親鸞和尚さんから頂いた仏さまをどうした事か見えなくしてしまいました。是信房和尚さんは大変困って、食べ物ものどを通らず、一生懸命探しましたが、どうしても見つかりませんでした。疲れ果てた是信房和尚さんは、うとうとと眠ってしまいました。 その時、北上川を北へ北へと上って行くがよい。誰かの声が

したので、はっと目を覚ましましたが、誰もいない。ははー、これが仏さまの声だったのか。急いで旅のしたくをした是信房和尚さんは、舟にのりながら北上川をのぼって、彦部のあたりまできたとき、「魚がよくとれますか」と和尚さんは一人の魚とりに声をかけると、「さっぱりだめだす、石ケ森という所から、ふしぎな光がでて、川の魚がびっくりして、とれないす」。是信房和尚さんは、これはなにか、わけがあるなと思ってその石ケ森と言う所をたずねると、そのころ、彦太夫という人の子供が、二日ばかり前から見えなくなって、村の人達が探し回った所へ、是信房和尚さんが出会い、一緒に石ケ森に探しに行ったところ、もう、日がとっぷり暮れて、大岩の近くが明るく輝いて見えたので、皆急いで一緒に行って見ると、岩の上に見えなくした仏さまが、にっこり笑って、そのそばにさがしている子供が楽しそうに遊んでいました。このことあって、是信房和尚さんは、この石ケ森に住み、仏さまの教えを説いて、一生くらしたとさ。(資料工藤隼人先生より)


蓮池

ある年、本誓寺が野火による火災になり、大事な「木像親鸞聖人坐像」も火難にあい、近くの池で蓮の葉をかぶっているところを発見された。黒くこげていることから木像を「黒仏さま」とか「蓮かぶりの仏さま」と呼ばれている。

清水

「お腰掛石」の下の「蓮池」のとなりに、往時からの清水が現在も残っており「長寿清水」と呼んでいる。

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