渡船場跡は、星山と大巻間の赤川が北上川にそそぐ川口、大巻側の岸に位置する。
赤石渡船場はいつ頃から始まったか詳しい記録が無いが、中世の頃からあったのではないかと思われる。対岸の志賀理和氣神社(創建1200
年以前という)への参拝の道であり、赤石の樋爪館(平泉藤原氏同族)の街並みが対岸に拡がっていたらしく、そこへの通行が必ずあったことであろう。東側には大迫街道が繋がり、佐比内・赤沢には金山が多く、その関係の往来もあったことが考えられる。
藩政時代になると『盛岡藩家老席日記』にしばしば記載されているので極めて重要な交通機関であった事がうかがえる。
郡山(日詰町)を起点とする大迫街道を結ぶ赤石渡船場は、人の行き交いや物品の流通、延いては経済の興隆の上で重要な交通方法。又志和稲荷神社への参拝の道でもあった。
明治23
年(1890
)、東北本線が開通し、日詰駅への道であり、乗船の人が増加した。以後、昭和40
年(1965
)代まで通勤通学には欠かせないとても大事な渡船場であった。昭和25
年(1950
)当時1
日300
人、昭和46
年(1971
)1
日30
人だったという。
馬舟は長さ約8
間、幅約7
尺、深さ約1
尺5
寸で、大正末に廃止された。客舟は長さ約4.5
間、幅約4
尺、深さ約1
尺5
寸で、両舟縁にバランスを取るように腰かけた。
船頭は棹一
本で漕いで渡した。正に名人芸というべき技で、相当な洪水や嵐、厳寒の朝でも越してくれた、利用者にとってとてもありがたい渡船場であった。
昭和29
年(1954
)当時の渡船場を利用した通勤通学者は約30
名位で、行きと帰りに必ず利用した。その外の渡船客も結構多かった。しかし、次第に自転車、バイクで通う者が増え、更にバスを利用する者、はては自家用車の普及と交通方法が変わってきて渡船場の利用者がどんどん減少していった。そして船頭の老齢化、後継者がなかったことなどから、昭和49
年(1974
)3
月31
日を以て赤石渡船場は廃止された。
NO72.赤石船場跡.mp3