今からおよそ60年程前,第二次世界大戦の最中,極東の一角では日本がビルマ(現ミャンマー,なお以下記事の内容により旧地名を用いる,国名もビルマと記す)に兵を進めていた。そのビルマ戦線に日本軍は32万人もの兵士を投入した。その結果インパール作戦を始めとする無謀な作戦により19万人もの戦死者を出し,撤退した。
その後は,ビルマの鎖国政策その他の理由によりこの国を訪れる外国人は日本人を含めてわずかなものであった。
しかし,1900年代の終りの年,1999年2月,この国を数百人の元日本兵達が大挙して訪れる事となった。理由はこの国の首都ラングーン(現ヤンゴン)にあった2つの日本人墓地が諸般の事情により閉鎖され,新しく1つの墓地にまとめられる事になり,その新しい墓地で戦没者の慰霊祭を行なう事になったからである。
この事は一部のテレビ・新聞でも報道されたのでご存知の方もいると思います。私もわけあってこの式典に出席しましたが,一部の遺族である子息などを除くと,殆どが80歳以上のお年寄りです。
旧日本軍の兵士達がこの国に大きな集団として訪れるのは約60年前に一度,今度が二度目です。そして彼等の年齢を考えるとこれが最後になります。この慰霊祭をもって彼等の第二次世界大戦・ビルマ戦線は終焉します。約60年前に始った一つの歴史がこれで一つの幕が下ろされるわけです。
ただ,一つだけ特筆すべき事があります。それはこの式典に出席した皆さんに共通の事,それは皆この国ビルマがとても好きだという事です。他の地域の戦場ではそのような事はあまり聞かれません。この国で亡くなった多くの日本の兵士達もおそらくそう思っていた事でしょう。あの悲惨な戦争の中でこの戦線だけはそれが唯一の救いでした。
その事を伝える一つの話を紹介したいと思います。その話をしてくれたのは元兵士であった兄の代理として慰霊祭に出席した一人の女性です。その方は式典が終り,帰りの飛行機の中で,飛行機の狭い座席が広く見えるぐらい小さくちじこまり,暮れなずむミンガラドン空港の光を見詰めていました。やがて飛行機がビルマの地を離れ,その光も見えなくなると私の質問に答え,ポツリポツリ次のような話をしてくれました。
* 高橋 すみ さんの話 *
私ですか?82歳になります。山形に住んでます。兄の代理で来ました。兄は「祭」(インパール作戦に参加した3つの師団の内の1つ,第15師団の通称)の野戦病院長でその部隊は兄の名を取り高橋部隊と呼ばれていました。中佐でした。
今回慰霊祭に来れるとは思いませんでしたが,兄の部下の人達が兄の代理だという事で連れてきていただきました。その前に来たのは1988年です。帰国して1週間後にクーデターが起こり,その後行けなくなってしまいました。今回慰霊祭に来れて本当に良かったです。でもこれが最後ですね。
私が始めてビルマに来たのは終戦後しばらくしてからですね。兄に連れていってもらいました。それから何度も行きましたね。いつも兄に連れられてです。兄は本当にビルマが好きでしたね。ビルマの話になると1時間でも2時間でも・・・。そして,あいつはあそこで死んだ,あいつもあそこで死んだと,戦友や部下達の話を何度も何度もしてました。
兄と私は7つ違いです。私が1歳の時,父親が亡くなったものですから,兄は父親の代りのようでした。その兄との間にもう一人兄がいます。私はたった一人の妹でしたので兄達にはとても可愛がってもらいました。
小さい時は家が貧乏だったものですから,着るものは皆兄達のお下がりです。でも,兄達が着古したものですから,私が着る時には袖の所なんかはもう色が抜けちゃってて,生地は薄くなってて。贅沢は言えないし,文句を言わずに着てました。
でも兄の着物だから男物でしょ。そのせいか近所の男の子達とよく喧嘩しましたね。でも私の方が強かったですよ。男物を着ていたせいか,兄が付いていてくれると思っていたせいかわかりませんが。
貧乏だったけれど,その頃は幸せでしたね。
兄が大学生の頃,あの戦争が始って,兄は大学を出る3ヶ前に招集されて軍医になりました。始めは中支(中国中部)に行きました。出征の時は神戸まで兄を見送りに行きました。その後ビルマの方に配属されたんですね。
もう一人の兄もその後招集されて満州に行きました。ソ連軍に抑留されて終戦後2年経ってから帰ってきました。
私は母と日本で留守番でとうとう嫁に行きそこなってしまいました。今は山形に一人で暮らしています。
上の兄はビルマに配属された後,インパール作戦にまわされました。ひどい戦だったそうです。沢山の兵隊さん達が死んだそうですね。
兄のいた野戦病院はインドとビルマの国境付近にありまして,病院でも沢山の兵隊さんが死んだそうです。兄はずっとそこに行きたがっていましたけど,とうとうビルマ政府の許可が下りませんでした。兄もそれが心残りだったようです。いまだに亡くなった兵隊さん達の遺体はそこに埋められたままなんだそうです。
インド側からインパールに行った時もやはり許可が下りなくて,インダス川の河原で慰霊祭をしました。迷惑をかけたインパールの人達にと用意してきたお土産は全部マザー・テレサの病院に寄付しました。皆の持ってきたお土産を全部出したら大きなテーブルの上が山のようになりましたね。
インパール作戦では沢山の兵隊さん達が死んだそうですね。なんでも丸かった山の上の方が平らになるほど大砲の弾を射込まれたそうです。でもこっちからは打返す大砲も弾も無かったそうですね。夜になると砲撃が止むので,それから死傷者を収容に行くのだそうですが,可哀相で,泣きながら引張って来たそうです。
その山の名前ですか?4241高地ではなかったかということですか?ごめんなさい。山の名前は聞きませんでした。その4241高地でも「祭」の兵隊さんが沢山死んだんですか?そうですか。もしかしたら兄が言っていたのはそこかも知れませんね。後にそこは「死に良い(4241)高地」と呼ばれたんですか。いやな名前ですね。
兄の話では司令官だった人は戦地であるにもかかわらず,女を何人も囲っていて,前線にも来ず,指揮をしていたそうですね。だから兄達は鉄砲の弾は前からばかりではなく後ろから来る事もあるぞと言って脅かしたんだそうです。そのせいで,尚更前線には来なかったんですかね。
その司令官の名前ですか?牟田口中将て言ってました。なんでも要領のいい方で,戦後も生残って上手くやったそうですよ。
兄は何とか無事にビルマから帰ってきました後,病院を開業しました。でも沢山の兵隊さんが,亡くなった事が何時も気にかかっていたようです。それで毎年高野山の成福院に摩尼宝塔というビルマのパゴダと同じようなものがあるのですが,元の部隊の方達と毎年お参りしていました。私も兄と一緒に行きまして,兄が亡くなった後は兄の代理として私が毎年お参りしています。
摩尼宝塔というのは,戦前ビルマにいらした上田天瑞さんというお坊さんが,ビルマで沢山の兵隊さんが亡くなられた事に心を痛め,高野山にお建てになられたものです。ビルマ戦線で亡くなられた多くの方の英霊と遺品がまつられています。
兄はビルマの遺骨収拾や慰霊団としての訪問にも一所懸命でしたね。それでよく兄に連れられて私もビルマに行ったんです。いろいろな所に行きましたね。でも今はもう何処へ行ったか殆ど忘れてしまって。
ある時イラワジ河の河原にいたら子供がぼろぼろになった鉄兜を持って来ましてね,持っていたお菓子や何かを全部その子にあげました。その鉄兜は先程お話した摩尼宝塔の中に納めました。摩尼宝塔の中にはその他にもいろいろな物が納められていますよ。夏になると高野山の成福院には毎年ビルマ戦友会の皆さんが集まるんですが,最近は出席者が少なくなりましたね。
まもなく兄の13回忌になります。ある時ビルマの慰霊団の人達を空港で見送っての帰り,脳溢血で突然死んでしまったんです。
兄の遺骨は小さな骨壷に入れてビルマに持って行き,兄の部隊の仲間だった人達と皆で少しずつイラワジ河に流しました。兄はイラワジ河がとても好きでしたから。パガンの少し南のあたりです。丁度太陽が西に沈む時でした。その時が一番悲しかったですね・・・。ごめんなさい,思い出すと涙が出ちゃうものですから。
兄に変わってインパールへも行きたかったですが,もう無理ですね。でも,今回の慰霊祭に来れて本当に良かったです。兄も生きていたら来たかったでしょう。これ兄のしていた腕時計なんです。変な腕時計をしているなと思われたでしょう。今こんな時計している人いませんものね。
まもなく日本に着きますか?え,?日本は大雪ですか?一人暮らしなものですから,何日も家を空けてしまうと家の前に雪が積もって家に入れなくなってしまうんです。家に着くのは夜になってしまうし,どうしましょう。ビルマはあんなに暑かったのに。
注記:本文は1999年5月20日発行の「恋するアジア」に掲載されたものを転載したものである。よって,年数などの表記はその時のものであり,現時点からの年数とは異なる。