日本とビルマのかかわりで最も大きく悲劇的なことはインパール作戦であろう。ビルマワラ会のことでも記し,後述の一期一会にも登場することなので,以下にインパール作戦の概要を記しておく。
◇インパール作戦概要◇
昭和16年12月(1941年)ハワイの真珠湾を急襲した日本はアメリカを始めとする連合国側と戦争に突入した。第二次世界大戦のアジア側での始りである。しかし,盧溝橋での発砲事件以来すでに中国とは戦争を行なっていたので,単に戦線の拡大とみる事もできる。
日本は始めの内は華々しい戦果を収めるが,やがて拡大した戦線は随所で連合軍側の反撃に遭い,ガダルカナル島の撤退などを始めとして,各地での戦いは困難な状況になってきた。
このような中,昭和18年4月(1943年)敗色の濃くなったドイツから潜水艦Uボートにより一人のインド人が日本に送られてきた。名はチャンドラ・ボースという。ガンジーの弟子の一人であり,インド独立の闘士でもあった。このボースは時の独裁者・東条英樹にインド独立を日本に助けて貰いたいと持掛けた。東条は各方面の状況が思わしくなく,自分への批判が囁かれだしている状況を一変する秘策として,インド進攻・インド独立という華々しい成果を考えるに至った。
その頃,日本軍はビルマ(現ミャンマー:以下旧地名による)を占領し,ビルマ国民の親日的な感情もあり戦線は比較的静穏を保っていた。この中でインド国境方面を担当する第15軍の司令官・牟田口中将は戦線膠着の打開策としてやはりインド進攻を考えていた。この牟田口中将は前記の盧溝橋事件の時の連隊長である。
東条・牟田口両者の思惑が一致した事もあり,多くの反対を押し切ってインド進攻・インパール作戦は開始された。インパールとはビルマと国境を接するインド・アッサム州の都市である。
作戦の概要は第15軍の3師団の内,第31師団(通称:烈)がインパールの北方の町コヒマを占領し,コヒマ・インパール道を遮断しインパールへの補給路を切る。その間に,第15師団(通称:祭)と第33師団(通称:弓)はインパールを占領し,そこにチャンドラ・ボースを首領とするインド独立仮政府を作ろうというものであった。
昭和19年1月(1944年)作戦は決定され,同年3月15日インパールへ向けて軍は出発した。しかし,その直前イギリス軍は日本軍の後方にグライダー部隊を降下させ,日本軍の補給路を立切ろうとしていた。軍がインパールへ向けて出発した前日の3月14日,時のイギリス首相チャーチルはアメリカ大統領ルーズベルトにこのグライダー部隊により日本の作戦は失敗するであろう事を報告していた。
作戦の始め日本軍は順調に進攻し,烈師団はコヒマの一角を占領し,祭,弓師団はインパールの手前まで迫った。しかし,そこまでであった。ミンタミ山系の急峻な山を越えてきた日本軍は装備も乏しく,食料も尽きていた。一方,連合軍側はその時になって徹底抗戦と反撃に転じた。
作戦の発動が遅れた事もあり,その頃から前線は雨季に入った。最も遠い北に位置するコヒマの烈兵団長の佐藤幸徳中将は,撃つ弾も食料も尽きた時,あまりにひどい部隊の惨状に独断撤退をする事を決意した。撤退していく兵士達に容赦無く雨は降注ぎ,食料も無く栄養失調の体は次々にマラリア,アメーバ赤痢などの病に倒れていった。
傷ついた兵士の傷口にはまだ生きているうちからウジ虫がたかった。倒れるとウジが直ぐにその体を食い尽くしていった。そして白骨だけが残った。白骨はジャングルの中を転々と続き,撤退して行く兵士達の道標となって並んだ。
烈師団の一部は,餓えに苦しみ地獄の戦場と言われたガダルカナル島の生残りであった。この兵士達は延々と歩かなかった分だけ,ガダルカナル島の方がまだましであったと思った。
祭師団,弓師団の状況も同じであった。傷つき病に倒れた兵士は野戦病院に運ばれたが,野戦病院とは名ばかりで,特別な建物があるわけではなく単にジャングルの一部を仕切っただけのものであり,たいした薬も無く,多くの傷病兵は雨にうたれたままであった。
こうして多くの犠牲者を出してインパール作戦は終った。
戦後70年,ご遺骨の情報収集と慰霊を兼ねてビルマ側からインパールへの道を訪ねた。そこは70年前と変わらぬ,牛車1台がやっと通れるくらいの細い山道であった。そこには今も亡くなった兵士達の遺骨が埋まったままである。
池田利八画集「萬朶の桜」よりインパールからの撤退の様子を描いた絵
これらの絵はインパール作戦のことを後世に伝え欲しいと発行人であるビルマ烈部隊英霊顕彰会:小田祐弘様より託されたものである。