2022年夏現在 Myanmar は歴史的にみて最も困難な状況になっている。2021年2月軍事クーデターによりミンアンフライという司令官が独裁政権を築いて政権に居座ってしまった。そして2022年7月,民主化を指導した4名を処刑してしまった。
Myanmar は第2次大戦の後,一時期を除いて軍事政権が続いた。しかし,これまでの軍事政権ではデモを鎮圧するために兵士が発砲し殺された民間人はいたが,単に民主化を指導しただけで一度に4名もの関係者が処刑されたことはない。そして2021年2月以来,独裁政権に反対する人々を何百人も殺害した。気が狂ったかのような異常な殺害である。
これまでの軍事政権にも問題はあったが,これ程激しい一般人への弾圧はなかった。特に1900年代終わり頃から2000年初頭のキンニュン首相を中心とする軍事政権はスーチーさんとの融和を試み,庶民への弾圧は極力制御していた。
民主政権と軍事政権とどちらが良いかは比較にならない。民主政権が良いに決まっている。しかし,日本も戦前までは極短期間を除けば鎌倉時代からずっと典型的な軍事政権である。ただ,いつの時代も庶民が弾圧されていたかと言えばそうではない。多少の抑圧はあったが大らかな時代もあった。
要するに庶民にとっては自由で安心して暮らせるなら,どのような政権であっても良いのである。無論それが民主政権なら一番良いが。
1998年,私はつてを頼りに Myanmar の政権中枢に近づいた。個人でできることは限られている。しかし接触した政権中枢の幹部は思ったより穏健な人達だった。特に情報省 top のチョーウィン少将,その後を継いだティンウー准将は親しくお付き合いさせて頂き,当時のMyanmarでは多人数での集会が禁じられていたが,日本の戦友会の多人数での会合を快く許可して貰った。また当時日本のテレビカメラを Myanmar の地方に入れることは難しい時代だったが,直ぐに許可をしてくれた。少なくとも事情を話せば聞く耳は持った人達だった。
その頃からこれまで強硬派で独裁者であったタンシュェも柔軟な姿勢をみせるようになる。やがて長年一緒に行動をともにしてきたティンセインに実権を譲る。2007年反政府デモで日本人ジャーナリスト・長井健司氏が射殺されるなどの不幸な出来事もあったが,大統領になったティンセインはNLDも参加した総選挙を実施する。これまで総選挙すれば必ずNLDなどの民主政党が多数を占めたが,軍事政権はこの結果を無視して居座り続けた。
今度もまた,総選挙を実施しても単なる国際社会に対するポーズだけかと思ったが選挙前にもたらせた情報では「今度は軍政側も本気で民主化を進める気持ちがあり,選挙の結果を尊重するらしい」との事だった。その理由は確かではないがティンセイン大統領は心臓に病を抱えていて,民主化を最後の花道にしたいとのことだった。
ことの次第はさておき,私が選挙直前に仕事でヤンゴンに滞在していた時,道行く車がおおっぴらにNLDの旗を掲げて走っていた。これまでは考えられない光景であった。軍事政権の妨害が無いのである。これは間違いなくNLDが大勝すると思われた。そして選挙の結果,スーチーさん率いるNLDが大勝し,政権を担当するようになったことは周知のとおりである。
民主化の後,Myanmar の民主化に僅かなりとも係わってきた私を知る知人は「良かったね」と言ってくれた。確かに世界は Myanmar は民主化された国になったと報道された。しかし,私が「軍事政権は権力を手放した訳ではなく,いつひっくり返すか分からない」と答えると怪訝な顔をしていた。そして予想が最悪の形で現実のものとなってしまった。
冒頭に記したように今回の政権が行なったことはあまりに傷が深い。ロシア,中国を後ろ盾にした政権は反省の様子はない。ミンアンフライ司令官が亡くならない限り事態が収束するのは難しそうである。いや,その後を継ぐ者がさらに悪いかもしれない。今回の軍事政権の仕業を殆どの国民が許さないだろう。暫くは不幸な時代が続くのではないだろうか?
2020年コロナウィルス,その後のクーデター。毎年のように訪れていた Myanmar にそれ以降訪れる機会を失ったままである。コロナウィルスが収束すれば入国できるかもしれない。しかし,恐らく荒んだ Myanmar は見るに耐えない。もう1度トングーに行きたい。行くことができるだろうか?
軍事力と言うのは時限爆弾を抱えているようなものである。いつそれが自分達に向かってくるかも知れない。国際紛争のために軍事力を持たないと規定した日本国憲法は庶民にとってはかけがいのない安心な憲法である。
今,日本では憲法改定の議論が盛んに叫ばれている。庶民が自分達のために本当に憲法改定を望んでいるなら変えてもよいかもしれない。しかし,権力を握る立場の者が先導する憲法改定はとても危険なものである。やがていつの日か庶民を襲ってくるかもしれないのである。