ゲリラとの一夜
ゲリラとの一夜
2003年4月末,日本ではゴールデンウィークが始まろうしていた頃である。テレビのドキュメンタリー番組の制作のためテレビ番組製作スタッフと共に,ミャンマー(ビルマ)を訪れた。取材の目的地は首都のヤンゴンから遠くの地であった。このため首都ヤンゴンから車をチャーターし,テレビ番組製作スタッフ,現地通訳,私の一同で1台のワゴン車で夕方ヤンゴンから目的地を目指して出発した。
夜中の移動なので運転は運転手に任せて,皆居眠りをしていた。ミャンマーは慢性的な電力不足なので道の照明などは無く,また当時車の往来も少なかったので,真っ暗闇を我々の車の光だけが照らしていた。
ひた走る車の座席にうずくまり,うつらうつらしていた時,突然車が揺れて,停車した。通訳を介して運転手から聞いたところ,車が故障したとのことだった。直るのか聞いたが運転手は首を横に振るだけだった。辺りは真っ暗闇で人家も無い山の中のようだった。
どうしたものかとテレビ番組製作スタッフと話していたところに,1台の車がとおり掛かった。滅多に車の通らないところで,おまけに真夜中である。通訳に車を停めるように声を掛けた。車のライトに照らされながら車の正面に通訳が立ち塞がったので,車は停車した。通訳は暫く車の中の人と話しをしていたが,こちらの車に戻ってきた時には,顔は青ざめ手が震えていた。そして「ゲリラの車を停めてしまいました。」と言った。話す言葉も震えていた。
落ち着いて私は訪ねた。「ゲリラは何と言ってるの?我々をどうしようというの?まさか殺そうと言うのじゃないよね?もう1度よく聞いてみて。」と通訳に頼んだ。再度ゲリラにこちらの状況を話した通訳からの答えは意外なものだった。
「ゲリラは次の町まで連れていってくれるそうです。」
故障した車に運転手を残して,我々はゲリラの車に乗せて貰うことになった。車の前座席に精悍な感じのする40歳代くらいの男性と若い運転手の2人が乗っていた。40歳くらいの男性はおそらくゲリラの幹部なのだろう。
車の車幅は以外に広かったので前の座席のベンチシートに通訳を乗せて貰い,テレビスタッフ3名と私は後ろの席にぎちぎちになって乗り込んだ。車幅は広かったがさすがに後部座席に男性4人はきつかった。
ゲリラの幹部は大きめのアタッシュケースを大事そうに抱えていた。合計7人の大人を乗せた車は大分重さが増したが,山道を何とか動き出した。
ミャンマーは他民族国家で大半はビルマ族が占めているが,多くの他民族との間で紛争が続いていた。その中でも最も大きいカレン族を中心としたカレン民族戦線は長いことミャンマー国軍と戦闘を交えていた。しかし2003年頃,国軍の主体が穏健派が占めていたこともあり,最近は他民族間との紛争は下火になっていた。今回車が故障した地点はそのカレン族が支配する地域から近かった。車に乗せてくれたゲリラの幹部の顔はえらが少し張り,カレン族特有な顔付きをしていた。間違いなくカレン民族戦線の幹部であろう。
車の中で通訳とゲリラの幹部はいろいろと話していた。恐らく通訳から我々が日本から来てテレビの取材を行なっていることなどを聞いていたのだろう。暫く話しは続いていたが,程なくしてゲリラの幹部は居眠りを始めた。
そこで私は日本語で「幹部が大事そうに抱えているアタッシュケースの中身は何?」と聞いた。通訳がゲリラから聞き出した話しでは拳銃と麻薬が入っているとのことだった。ゲリラの資金源の一部は麻薬の栽培であることはミャンマーの情報から知っていた。しかし,現物を目の当たりにするのは初めてである。ゲリラはこれをこの道の先のAndaman海沿岸の港町まで持って行き,お金と交換するようである。恐らく船に乗せて密輸されるのだろう。Andaman海の先はインド洋である。世界の何処にでも運ぶことが可能になる。
暫く走ると暗い明かりが点いている小さな建物の近くに来た。その建物前に数人の男性が立っていた。車が近づいてその男達の姿が確認できた時,私は心臓が破裂するくらい驚いた。それは銃を構えた国軍の兵士達だった。
運転手は車の速度を落としたが,車を止めることなくゆっくり走らせた。若い運転手の心臓は相当高鳴っていたはずである。しかし,顔色を変えることなく知らん顔をして前方を見ていた。ゲリラの幹部は眠っていて状況に気が付いていなかった。ところがテレビスタッフの一人が小型のビデオカメラを回し始めた。夜間撮影用の青いライトが点いた。私は慌ててカメラを手で塞ぎ,下に下げた。
テレビスタッフは次の瞬間に何が起こるかを想像していたに違いない。銃を構えた国軍兵士と拳銃を携えたゲリラが鉢合わせしたのである。滅多に遭遇できない国軍とゲリラの銃撃戦である。ジャーナリスト魂が瞬間にカメラを向けさせたのである。しかし,私がカメラを塞いだことにより,テレビスタッフも我に返った。
テレビカメラが回っていることに気付いた国軍兵士は車を止めるだろう。目覚めて慌てたゲリラの幹部が拳銃を抜く。兵士達が銃撃で応戦する。銃撃戦になれば車に乗っている我々の身体は蜂の巣にされるだろう。たった1~2秒間が凍りついた長い時間だった。
ところが意外なことに国軍の兵士達は車を停止させることなく,通過させてくれた。車の後部座席にすし詰めの状態だったため,私の顔は窓ガラスに張り付いていた。車の外からでも私の顔は確認できたはずである。私は色白なので兵士達から見れば,街灯に照らされた車の後部座席の私は明らかに外国人に見えたはずである。服装も現地のものとは全然違うし。即ち外国人を乗せた車と思っただろう。真夜中にわざわざ車を止めて外国人と面倒なやり取りをするのを嫌ったのかもしれない。
運転手の落ち着き払った態度も,不審さを感じさせないものだった。車の速度を落とし逃げる素振りをしなかったのが功を奏したのだろう。何気なく車は国軍兵士達の前を何事も無いように通り過ぎた。建物の明かりが見えなくなるまで生きた心地がしなかった。建物が見えなくなると運転手は車のスピードを上げた。
それから2時間ほど走ると,空が明るくなってきた。やがて車は田舎町の中心部に着いた。ゲリラの幹部と通訳が何事か話すと,一軒の建物に入っていった。暫くすると地元の人が一緒に出てきて何事か相談していた。暫くして通訳が「ここで車が借りられるそうです。」と言った。
我々はゲリラの車から降りた。ゲリラの幹部が近づいてきて手を差し出した。私は握手をした。通訳に「お礼は?」と訪ねたら,何がしかを支払ったとのことだった。大した金額ではないらしい。ゲリラの幹部に「ティズテンバレー(ミャンマー語でありがとう)」と謝礼を言った。
記念に写真を撮ろうとしたら,幹部から拒絶された。顔写真は確かにまずい。どこで政府側に渡ってしまうかもしれない。決してゲリラは一見の我々を信用している訳ではない。その代わり幹部は名刺を持っているかと訪ねてきた。そこで私の名刺を渡した。そこには私のE-mail addessが書かれている。
幹部は「I'll send E-mail to you later.」と言い,手を振って去っていった。それを見送りながら私は名刺に書かれたE-mailが古いもので,今は使えなくなっていることに気が付いた。しかしゲリラの車はもう遥か彼方にあった。
1時間ほど後,1台のワゴン車がやってきた。我々はその車に乗り目的地に向かった。少し時間のロスはあったが,その後の取材は順調に進んだ。ゲリラのお陰である。ただ残念なのはゲリラからE-mailを受取ることができなかったことである。連絡手段はもう無い。
ゲリラの幹部は実に紳士的であった。一般に麻薬を扱うようなゲリラというと野蛮なイメージがあるが,服装は別として立派な紳士であった。若い運転手も実に度胸が据わっていた。
その後二人は元気で無事でいるだろうか?戦闘に巻き込まれてはいないだろうか?今でも無事でいてくれれば良いが。ゲリラとのたった数時間の一期一会であったが,長い時間を共にしたような気持ちが残った。