トングー(Toungoo)は最近まで首都であったビルマ最大の都市ヤンゴン(Rangoon)とそれ以前に王宮があったマンダレーとの中間に位置する町である。
トングーにも古い時代,王宮が置かれたこともある古い町である。日本で例えれば奈良のようなところか?
マレーシアのペナンからトングーに私の祖父と祖母が移り住んだのは資料に寄れば1918年10月15日である。祖父はペナン時代に既に写真館を営んでおり,その写真館の名前を「Nikko Photo Studio」と称していた。ペナンでは1914年,第一次世界大戦の時ドイツの巡洋艦エムデンがペナン港に侵入し砲撃する様子を写真に捉えている。
何故最大都市ヤンゴンではなく,小さな地方都市であるトングーで写真館を営んだ理由は定かではないが,先輩として親しく交流していた植山さんという方が既にヤンゴンで写真館を営んでいたので,トングーにしたのではないかと思われる。写真館の名前はペナンの時と同じく「Nikko Photo Studio」と称した。
当時日本人の写真館はトングーの人達にとって珍しく,トングー周辺からもかなりの人達が記念写真を撮りに来たようである。特に若い女性達には大人気で,1枚の写真に4つのポーズを変えた写真を収めたものを作っている。プリントごっこの先駆けである。若い女性達は仲間でこの写真を見せ合うのがとても楽しかったと後年述べている。
祖父の仕事は順調で当時かなりの財産を築き,出身地である埼玉県鴻巣市の神社に大きな鳥居を寄進している。
仕事が忙しくなれば当然人手が足りなくなる。そこで日本から何人もの身内の者などを呼び寄せて写真の手伝いをさせている。無論現地人も雇っていた。
日本から呼び寄せた若者に私の父がいた。その若者は祖父の甥であった。ここまで祖父・祖母と書いたが実の祖父・祖母ではない。私の父は後に養子縁組により親子となっている。従って祖父・祖母は法律上は義理の祖父・祖母である。しかし,私はこの義理の祖父・祖母こそが精神上実の祖父・祖母と今でも思っている。
父が祖父からビルマに呼ばれる前,父の姉・祖父からは姪にあたるが,その姪夫婦に祖父はマンダレーで写真館を開かせている。やがて跡取りとなる私の父に嫁として日本から呼ばれたのが後の私の母である。
その頃母は19歳だった。父は祖父の甥だから多少の身内のよしみはあったと思う。それに上記したようにビルマには実の姉がいた。しかし親戚筋でもなく,兄弟もいないところに19歳の母は一人でビルマのトングーにやってきた。一般人は飛行機が利用できない時代だったので,船で一ヶ月近い長旅の末,ビルマのトングーまで来た。無論父や祖父には会ったこともない。仲人の紹介状と見合い写真だけである。
私は事情があり,母との折り合いが悪くこのような話しはしたことが無い。生前母との会話の記憶は殆ど無い。この話しは後に伯母などから聞いた話しである。母との思い出に良い記憶は無い。蘇るのは嫌な記憶だけである。しかし,20歳前に身寄りもない異国の地に一人で嫁いで来た母のこの度胸だけは尊敬する。素晴らしい一人の若き女性だったろう。因みにこのような女性は母以外にも何人もいたらしい。今に伝えられる昔の女性像とは違い,ビルマに渡った昔の女性は大胆で行動的だったようである。
前ページのビルマワラ会に当時のビルマには写真屋と歯医者が多かったと記したが,トングーのNikko Photo Studioの隣は筒井さんという日本人の歯医者さんだった。家族で歯医者を営み,小さなお子さん達もいた。日本人同士なので親しくしていたとのことだった。その他トングーにはビリヤード屋を経営していた日本人もいたとの記録がある。
母は現地の若い女性達と友達になり,ビルマ語を操り,現地に溶けこんでいたようである。現地の女性達と楽しそうに笑う写真が残されている。
祖父やその仲間は頻繁にゴルフをし,その後ビールで乾杯し,当時の日本では相当なお金持ちしかできないような生活をしていたようである。ビルマに暮らす日本人達は豊かで自由な暮らしを満喫していた。
暗雲が漂うようになるのは1940年頃,アメリカ,イギリスとの戦争が避けられない状況になってきた頃である。そして,1941年中頃ビルマに暮らした多くの日本人が財産を放棄して日本に帰国することになった。帰国する船の中で書かれた母の手帳には「ビルマに帰りたい」とせつせつと綴られている。
歴史に「もしも」は無い。しかし,もし戦争さえ無ければ,恐らく私はビルマで生まれて育っていたのだと思う。英語とビルマ語と日本語を操るバイリンガルな生き方ができたと思う。戦争さえ無ければ全く別の人生の可能性があったのかと思うと残念な想いがある。
若い頃会社の上司から「君の考え方は日本人らしくないな。何だか大陸的だな」と言われたことが度々ある。どこかでビルマの記憶だけは引き継いだのかもしれない。
1995年父が亡くなり幾ばくかの財産を残した。その頃ビルマは軍事政権だったが,日本にいるビルマ人達の間で民主化運動が高まっていた。父の残した財産をビルマの民主化運動に活用するため,在日ビルマ人協会に連絡をとった。電話に出た会長はトンエイと名乗った。そのトンエイ会長にトングーとの係りを話した時,トンエンさんは「家にNikko Photo Studioの写真あります」と大きな声を上げた。トンエイさんはトングーの出身で,身内はトングーにいるとのことだった。何という偶然なのだろう。いきなりトングーに当たったのだ。それから神奈川県平塚のトンエイさん宅を訪ね,トングーを訪れる計画になった。
翌1996年8月父の姉であった伯母と娘2人を連れてトングーを訪ねた。事前にトンエイさんがトングーの身内に連絡をとってくれたので,Nikko Photo Studioは直ぐにわかった。既にNikko Photo Studioは無くなっていたが,隣の建物は写真に残された戦前のままだった。古いアルバムにNikko Photo Studioの前に立つ母の写真があるが,同じところに娘2人を立たせて写真を撮った。またNikko Photo Studioの前に住んでいたお年寄りが「Mr. Nikkoが戻ってきた」と言って大歓迎してくれた。実の孫ではない私がどことなく祖父に似ているらしい。祖父が地元ではMr. Nikkoと呼ばれていたこともわかった。
2003年4月テレビのドキュメンタリー番組でトングーを取材することになり,伯母と一緒にトングーを再訪した。その前にビルマの雑誌に「Nikko Photo Studio」が大きく取り上げられたこともあり,トングーの人達は「Nikko Photo Studio」を良く知っていた。そして現在も元「Nikko Photo Studio」近くに写真館があるという。テレビクルーと一緒に訪ねた。年老いた写真館の主が出てきた。訪問の訳を話すと,館主は戦前Nikko Photo Studioで写真を撮った事を感激し,そのNikko Photo Studioの近くで戦後独力で写真館を開いたとのことだった。祖父がトングーで「Nikko Photo Studio」を開いたことは戦後もずっと続いていたのだ。不思議な人と人の繋がりである。