[ビルマに暮らした日本人の知られざる記録]
ビルマワラ会とは第2次世界大戦後,戦前ビルマ(現Myanmar)で暮らしていた日本の人達が戦後設立した会です。
「ワラ」とはヒンズー語で「人達」という意味です。そのままの意味では,ビルマワラ会とはビルマの人達の会ということになります。それでは日本人の会ではなくなってしまいますが,ビルマワラ会とは「ビルマで暮らしていた人達」という意味を持つ会の名前です。
会員はご高齢のため,既に全員亡くなられていますが,私は幼少の頃,そのビルマワラ会に祖父に連れられて出席したことがあります。今はビルマワラ会の唯一の生き証人となりました。ここではビルマワラ会唯一の生き証人として消えてしまう前にビルマワラ会の概要を記しておきます。
第2次世界大戦前,ビルマには多くの日本人が暮らしていました。その理由は幾つかあると思いますが,ビルマ人が親日的な点が一番の理由でしょう。そもそも言語体系が同じです。主語が省略され,文章の最後までいかないと否定なのか肯定なのか判らない。文法が同じなので単語を覚えれば直ぐに会話ができるようになったのも大きな利点です。
ビルマに住んでいた日本人の主な職業は写真屋と歯医者でした。それから商社の人達です。ビルマでは綿花の栽培が盛んだったので,当時のニチメンなどがビルマに大きな工場を持っていました。
何故当時のビルマに日本人の写真屋と歯医者が多かったかの明確な理由は解かっていません。考えられる理由は日本人は手先が器用だったからではないかと言われています。歯医者に求められる技量は現在でも器用さなので判りますが,写真屋は何故?と思われます。
実は当時の写真屋に必要な技術は撮影能力ではなく,写した写真の修整が重要な仕事でした。今では写した画面で直ぐに写真を見て,もし瞬きして目を閉じていれば直ぐに撮り直します。しかし当時はネガフィルムを現像し,写真に焼いてみなければ判りません。そこでもし目を閉じていればネガに修正鉛筆で目を描いてしまうのが修正技術です。小さなネガに目を描くのですから相当器用でなければなりません。ただ写真屋が多かったのには別な理由もあったのではないかと思います,それは後述します。
ビルマワラ会の古いセピア色の名簿が私の手元にあります。殆どが写真屋と歯医者,それに商社の方達です。その中にお坊さんもいます。ビルマは古い仏教の教えが残り,国民の多くが仏教徒であったこともその理由です。
ビルマワラ会の中心人物は永井行慈というお坊さんでした。東京で開催されたビルマワラ会の集合写真の真中にどっかりと鎮座しています。
この永井行慈というお坊さん,日本山妙法寺に所属していますが,単なるお坊さんではありません。ビルマの近代史に登場してきます。
当時イギリスの植民地であったビルマは地下資源が豊富で石油も産出していました。また鉱物資源が豊富で,無線通信の材料に必要な雲母なども算出していました。当時の無線通信は重要な軍需物資です。ここに目を付けたのが当時の軍部です。
ビルマに移り住んだ日本人達は当初は苦労もあったと思いますが,親日的なビルマの人達と交流を重ね,得意な技術を買われたりして豊かな生活をおくれるようになってきました。日本から身内を呼び寄せて,その身内に新たな店舗を持たせるなどして順調に商売や経営が広がって行きました。毎年のようにビルマ各地から集まり,お互いに情報交換したり,宴会をしたり,ゴルフをしたり,残された写真には戦前のこととは思われないくらい豊かな生活の状況が記録されています。
多くのビルマに暮らす日本人はこのままビルマに骨を埋めても良い気持ちになっていたようです。
運命が狂い始めたのは日本が中国との戦争が長引き,それにアメリカ,イギリス等が介入し,日本と間に戦争の影が忍び寄ってきた頃です。
アメリカ,イギリスなどとの戦争が避けられない状況になりつつあった1年前,昭和15年(1940年)ビルマ・ラングーン(現ヤンゴン)のミンガラドン飛行場に一人の日本人が降り立ちました。新聞記者に化けて名前も偽っていましたが本当の身分は陸軍参謀本部の鈴木啓司大佐であった。この鈴木大佐を空港に出迎え,様々な便宜をはかったのが前述の永井行慈というお坊さんです。既に事の次第は了解されていました。
ビルマのお坊さんは一切世俗のことには係らないので,まさかお坊さんが諜報活動の一端を担うとは監視の目を強めていたイギリス軍も気が付かなかったでしょう。
当時ビルマはイギリスの植民地でした。鈴木大佐の目的はイギリスとの戦争になった場合に備えて,日本軍がどうようにビルマに侵攻するか,また同時に日本が秘密裏に組織したビルマ義勇軍を蜂起させるかなどの情報を得るためでした。ビルマ義勇軍の中心人物はスーチーさんのお父さん・後のアウンサン将軍です。
先に写真屋が多かった理由に器用だからだけではなかったのでは?と記しました。写真屋の中には地方に出掛けてビルマのあちこちの写真を撮っている方がいます。その中には油田の写真,鉱山の写真,橋の写真が多い傾向があります。少し戦争に詳しい方ならお解かりになると思いますが,いざ戦争になった時,これらの情報は大変重要なものになります。
先の鈴木大佐のビルマ訪問の後,日本陸軍から何人もの諜報員(スパイ)がビルマに送り込まれています。この時利用されたのが在ビルマの日本人達です。諜報員がホテルなどに泊まりうろうろしていたのではイギリス軍が直ぐに怪しみます。前述に「日本から身内を呼び寄せて」と記しましたが,商売の手伝いとして来たのなら怪しまれません。また今と違い,一般の人はカメラは持てませんでしたので写真撮影をすれば直ぐに怪しまれます。しかし写真屋なら写真撮影をしても言い訳ができます。
因みにこのような諜報員を家に匿っていた写真屋の家族は,いつイギリス軍の官憲が踏み込んでこないか気が気ではなかったそうです。
また,陸軍がビルマの諜報活動を始める前から海軍は退役軍人であった国分正三にビルマでの諜報活動をさせています。国分正三はラングーンの歯科医院を隠れ蓑にしていました。先に記した日本人は歯医者が多かったのもこの理由に寄るものかもしれません。国分正三もビルマワラ会の一員です。
日本陸軍・海軍はここで協力してビルマの諜報活動を行なうこととなり,大本営直属の南機関が設立され,鈴木大佐,国分正三は一致して情報収集をするようになります。
そしてついに昭和16(1941年)年中頃,アメリカ,イギリス,オランダとの戦争が避けられない状況になり,殆どの日本人はビルマで築いた多くの財産を放棄して日本に帰国することになりました。帰国する船の中で書かれた日記にはビルマから去りたくない気持ちが切々と書かれています。
その年の12月,日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まります。翌年1月,日本軍はビルマに攻め込み,破竹の勢いでイギリス軍を攻め立て,5月にはビルマ第2の都市・マンダレーを占拠しました。イギリス軍はあっけなくインドに退散しました。
これらの戦いにビルマで暮らした男性達は徴兵され,通訳,諜報員として再びビルマの地を踏むことになりました。新兵は通常2等兵とされますが,通訳や諜報員として招集された人達は下士官並みの待遇でした。これは当時の新兵にとっては大変な厚遇でした。2等兵は軍隊内で大変ないじめにあった話しがよくありますが,通訳,諜報員として召集された人達からはそのような話しはあまり無かったようです。
また,日本に帰国した女性達もビルマから日本に派遣されたビルマ義勇軍の若者達の通訳をし,ビルマ語を生かし活動した記録が残されています。
ビルマ戦線は最初は勝ち戦だったので,日本軍は余裕をもった統治をしていました。イギリスを追い出した日本軍はビルマ人達から好意的に迎えられ,暫くの間は南国気分を味わっていたようです。
しかし,インド征服を目指したインパール作戦が失敗に終わると状況は一変します。通訳,諜報員として召集された人達にも過酷な運命が訪れます。
インパール作戦に参加して行方不明となった者,厚遇が終わり軍隊内でいじめを受け脱走してビルマ人から匿われた者,現地人に紛れて現地の女性と結婚してビルマに残ったもの,現地の妻と子供を残して帰国した者,イギリス軍の捕虜となった者,様々な戦後を歩みました。戦争は人生を大きく変えてしまいます。
ここまでの記述ではビルマに暮らした日本人は皆戦争に協力していたように思われがちですが,殆どの人はそのようなことは考えもしないでビルマに渡り,異国の地で新しい人生を切り開こうと思っていた人達ばかりです。しかし,時代の流れのなかで次第に国の方策に組み込まれていきます。そして築いた多くのものを失うはめになりました。戦争とはそのようなものです。
戦争に翻弄されましたが,戦後は英語が堪能だったため進駐軍に勤務したり,通訳になったりと,少しはビルマに暮らしたことが救いとなる人達もいました。
戦後の暮らしが落ち着き,昭和30年頃,戦前のビルマにいた人達が連絡を取り合い,ビルマワラ会を作りました。東京で開かれたワラ会の会合では戦後初めて会う者も多く,当時を懐かしんでビルマワラ会は大変盛り上がりました。
また,ビルマは日本からの戦後賠償を棚上げしてくれたため,日本との友好関係は続き,最初の東京オリンピックの際にはビルマの選手団から選手村に招待されたりということもありました。私もこの集いに参加する予定でしたが,待ち合わせ場所が違っていて参加できませんでした。携帯電話の無い時代だったので。
◇ビルマとMyanmarという呼び方
日本では古くからMyanmarのことを「ビルマ」と呼んでいました。現在は一般にはMyanmarと呼称されます。「ビルマ」という呼び方は元はオランダ語とされています。恐らく江戸時代から知られていた呼び名なのでしょう。因みに英語ではBurmaです。
何故ビルマではなくMyanmarという国名が近年使われるようになった理由ですが,Myanmar政府が国名の呼称をMyanmarと表記するようになったからです。
日本も海外からは「Japan」と言われますが,日本人は「日本」と言います。厳密には違いますが「ビルマ」と「Myanmar」の違いはこのようなものと思って頂ければよいかと思います。ここではビルマワラ会が開かれていた頃使われていた「ビルマ」で表記しています。