年老いたその女性は椰子の葉でふいた電気も無い粗末な小さな小屋の中の小さなテーブルの前に一人で座っていた。訪れた私に小さな会釈をした。
モールメン(Moulmein)はタイとの国境に近い,ビルマ(ミャンマー)南部の町である。第二次大戦時,戦いに敗れた日本兵の捕虜の多くが,モールメンの捕虜収容所に集められたことから日本でも知られるようになった町で,小説「ビルマの竪琴」に登場する捕虜収容所のモデルにもなっている。
港町であり,インド国境から最も遠いため第二次大戦時は日本の船舶が安全に寄港できる港として活用され,当時の首都・ラングーン(現ヤンゴン)まで鉄道も敷かれていたので日本軍の物資もモールメンに集積され前線に運ばれた。
戦後60年を過ぎた頃,テレビ局からビルマのことについて私に取材があった。私は戦後の生まれなので,戦前のことは直接は知らないが,別のページに記したように,戦前,祖父,祖母,父,母,伯父,伯母がビルマに暮らしていたので多くのことを直接聞いていた。また,当時伯母は健在であった。
テレビ局からの取材は無論戦前のことについてであり,伯母と一緒に取材に様々な話しをした。その結果,戦前にビルマに暮らした日本人の記録をテレビ放送する企画がまとまり,テレビクルーと一緒に伯母達が暮らした,トングーのNIKKO写真館を中心に取材が行なわれ,その内容は後日テレビ放映された。ご覧になった方もいると思う。
しかし,テレビ放映されなかったが問題が難しく,かつプライバシーに掛かる問題もあるため,肝心なことは放映されなかった。
それがモールメンのことである。
別ページの「ビルマワラ会」で記したように,戦前ビルマで暮らした日本人男性は戦争が始まるとビルマに召集された。ビルマ語,英語に長けていたので仕事は主にスパイ活動,物資の調達などであった。伯父は私の父のいとこであり父の兄弟ではないので,正確には伯父ではないがここでは伯父と記す。
伯父は戦中,モールメンに配属され,そこで日本軍の物資の調達などをおこなっていた。物資の調達係りだったので生活物資は手に入れやすかっただろう。また,冒頭に記したようにイギリス軍と戦闘が行なわれたインド国境からも遠かったため,戦時中にも係わらず,モールメンは平和な日常が過ぎていた。
当時の伯父は30歳前半のまだ若者である。現地のビルマ語は達者である。物資の調達をしていたなら現地の人と多くの交流はあったろう。その中にはうら若き女性もいた。となればビルマ語の達者な伯父が現地の女性と親しくなったことは当然の成り行きだったろう。
しかし,平穏な二人の生活は長く続かなかった。日本が戦争に敗北し,ビルマから撤退したからである。ビルマ語,英語が達者な伯父は何とか生きて戦後日本に帰国した。
伯父は酒が好きであった。しかし,帰国してから伯父は一滴も酒を呑まなかった。月が大きく見えるある夜,伯父は伯母にぽつぽつとモールメンのことを語り始めた。
モールメンで女性と暮らしたこと。子供ができたこと。その人達を置いて帰国したこと。もっとも敗残兵だった伯父が女性と子供を連れて逃げることは所詮無理ではあったが。
伯父と伯母は戦前に結婚している。伯父のこれらのことは許されることではない。しかし伯母はそれを受け止めて,周囲の誰にも話さなかった。私が知ったのは伯父が亡くなって暫く経った後である。特に私がビルマのことに深く関与するようになってからである。伯母も誰かに話しておかなければ無かったことになってしまうことが気掛かりだったのだろう。
伯母と一緒にテレビ取材を受けてそのことを話した。テレビクルーは飛びついた。テレビ受けする話しである。それに伯父の子供と私とは血のつながった「はとこ」にあたる。早速モールメンの取材の話しが決まった。
モールメンは首都のヤンゴンからでも遠い。夕方ヤンゴンを出て,翌朝モールメンに入る行程になった。夜を徹して車の移動は辛かった。しかし,限られた時間での取材なので,モールメンに着くと早速伯父の恋人だった女性,そしてその子供-私のはとこ-探しが始まった。
事前に調査に入った現地スタッフを通じて,戦前日本人との間に子供をもうけた女性がいるとの情報が入った。その女性の孫にあたる若者がいるという。テレビクルーと現地の人の案内で,その若者に会いにいった。小さな中古自動車の修理工場でその若者は働いていた。現地の人の紹介と説明を聞いてその若者は笑顔を見せた。少なくとも敵意は抱いていないことが分かり私は安心した。
通訳を介して聞いたところでは,その若者は日本人の血をひいてはいるが,詳しい話しは分からないとのこと。無論祖父の名前などは知らないとのことだった。困ったなと思っていたら,通訳からおばあさんが生きているとのこと。要するに日本人との間に子供をもうけた女性のことである。今は僧院の片隅で暮らしているとのこと。ビルマでは養老院などはないので,身寄りが無く,一人暮らしの年寄りは僧院でお世話になることが多い。僧院で一人で暮らしていることからは貧しいことが知れた。孫にあたる若者がいるにも係わらず,僧院で一人暮らしとは家族も面倒を見ることが難しい状況なのだろう。
若者の案内でテレビクルーと一緒にその僧院を訪れた。僧院といってもイメージするような立派なものではない。地方の町の小さなお寺である。その片隅に椰子の葉でふいた粗末な小さな小屋があった。若者はその小屋に案内した。入口にはドアはなく,筵のようなものが垂れ下がっているだけである。その1枚の布のような仕切りを押し分けて中に入ると,家財と言えるものは殆ど無い,粗末な部屋の中に年老いた一人の女性が座っていた。
この女性が伯父が一緒に暮らした女性なのか?どんな暮らしをしていたのだろう?伯父のことは憶えているのだろうか?自分は何を話せば良いのだろうか?胸の鼓動が大きく高まった。
通訳を介して女性の名前を聞いた。ところが女性はいきなり「名前はマサミです」と日本語で話し始めた。びっくりした。ただこちらが日本語で話しかけると,きょとんとした顔になった。こちらの言葉は分からないらしい。要するに昔覚えた片言の日本語で名前など話せることだけを話しただけのようだった。
通訳を介して,当時暮らした日本の男性の名前を聞いた。伯父の名前が聞ける瞬間と思い心臓の鼓動が早くなった。しかし,その答えは意外な名前だった。「大内」という。
伯父の名前でなかったのは半分気落ちしたが,気分は少し楽になった気がした。いきなり貴方と私の家族は血縁関係です,と言われても受け止める覚悟はできていなかったから。関係の無い他人であれば気持ちは楽になる。でも折角だからいろいろ話しを聞いた。
一緒に暮らした大内さんは日本軍の将校で,所属する部隊の名前は田中部隊という連隊だったこと。大内さんは優しい人だったこと。一緒に暮らしたのは昭和17年から3年ほどの間だったこと。その将校の出身地は九州の島原,そして住所の番地までマサミさんは覚えていた。大内さんとの間には男の子2人,女の子1人の3人の子供が生まれ,名前は日本名らしく「まさお」,「まさじ」,「まさえ」と名付けた。
でも昭和20年,日本軍が敗走する中で,一緒に行くのは難しかったこと。戦後はマサミさんの父親が医者だったので,看護婦をして3人の子供を育てたこと。いろいろ話してくれた。しかし私の伯父◇◇のことは知らないとのことだった。
日本に帰国したらその日本軍の将校であった人を探すことを約束して別れた。それまで夢中で話していたのでテレビカメラが回っていたことをすっかり忘れていた。テレビクルーは僧院の周りを撮影するということで,小屋を出て行った。暫く時間があるので,小屋の中で待たして貰うことになり,通訳と私だけが小屋に残った。
テレビカメラが出た行ったことを確かめると女性は「◇◇のことか?」といきなり日本語で話した。これまでとは顔付きが変わり,険しい顔付きになっていた。先程は伯父のことは知らないと言っていたのに。何だ!知っていたのか!日本語で話せたのはそれだけで,それから先は通訳を介して聞いた。
伯父が暮らした女性とマサミさんは仲の良い女友達だったこと。伯父の子供は男の子だったこと。伯父は敗戦が濃厚になった時,戦の前線に行ったが病になりモールメンに戻ってきたこと。イギリス軍が迫ってきていたのでマサミさんと女性で後方に逃がしたこと。伯父の子供は今は政府の高官で日本人の血をひいていることを隠していること。だから探し出さないで欲しいとのことだった。
私の血の繋がる「はとこ」は確かにこの地で生きている。今はそれなりの地位にあり元気であること。でもそれを今更探り出すことは迷惑なことになること。でも伯父が暮らした女性は何人もの孫にも恵まれ,その後も幸せに暮らしたこと。会うことが叶わないのは残念であるが,その話しを聞いて安堵した。
そこにテレビクルーが戻ってきた。録音マイクがONのままだったので,どうも話しは聞いていたらしい。テレビクルーは取材を試みようとしたが,私は拒否して車に乗り込んだ。今更伯父の話しを蒸し返してもどうにもならないことだから。でもテレビクルーはとても残念そうだった。遠くまで時間とお金を掛けてきたのに・・・手ぶらで帰るのか。これでは中途半端でテレビ放映は無理だという雰囲気が読み取れた。ドキュメンタリーの最後には丁度良い締めくくりの話しなのに。今思うと申し訳ないが,仕方ない。
女性には日本軍の将校・大内さんを探すことを約束した。住所も聞いた。女性は日本語は書けない。ずっと60年間発音だけを頼りに大内さんの住所を憶えていた。きっと訪ねたかったに違いない。九州に行き,その住所を聞き,訪ねたかったかったに違いない。でも夢は叶わなかった。
代わりに探すことを約束していながら,私は帰国してからその住所を探していない。探すべきか迷った。しかし,自分の仕事が忙しいことを言い訳にして探さなかった。戦後60年以上が過ぎている。その日本軍の将校はもう生きてはいないだろう。残された家族はいるかもしれない。でもこんな話しをいきなり持ち込まれても迷惑かもしれない。私の「はとこ」のように。探すべきだったのかもしれないし,探さないで良かったのかもしれない。今でも私の中では答えを出せないままである。
日本軍の将校との話しをしていた時,女性は時折遠くを見るような目をした。昔のことを思い出しているようだった。3年という短い間だったが幸せだったことを思い出していたのだろう。まさか60年後に遥か日本から,一緒に暮らした男性の国からその事を訪ねて来る者がいるとは思いもよらなかったろう。恐らく日本語も60年ぶりに話したのだろう。話している時の女性の顔はとても穏やかだった。60年ぶりの思い出にひたっているように見えた。
でも戦後は苦労の連続だったように思える。今も家族と離れて電気も無い粗末な小さな小屋で一人で暮らしている。恵まれない一生だったかもしれない。でもきっと女性はひと時の幸せだったことで人生を諒として,生きてきたように思えた。