釈迦語録
釈迦語録
釈迦語録
もくじ
まえがき-1)仏教を一言で言うと
釈迦語録 (菊谷隆太先生)(YouTubeビデオから)
釈迦語録-1 【天国と地獄】お釈迦さまの教え
釈迦語録-2 乏しき時に与えるは、富みて与えるり勝る。
釈迦語録-3 人生を充実させるには
釈迦語録-4 お釈迦さまの言うお金のかからない施し7つ(無財の七施)
釈迦語録-5 四門出遊 仏の顔も三度まで(荒井)
釈迦語録-6 いろは、の語源(仏教に精通したひとが作った、詠み人知らず)
釈迦語録-7 日本昔話(日本に伝わる昔からの子供向けのお話)
釈迦語録-8 時節到来を待つ 白隠禅師 相手がわかってくれないに適用
釈迦語録-9 諫言を聞くこと(自分の耳に痛い事を言ってくれる人を大切に)
釈迦語録-10 果報は寝て待て(果報がくるまで時間がかかる、その間も行いを辞めずに)
釈迦語録-11 人の育て方
釈迦語録-12 お釈迦さまが説いた多くの良い行い(六度万行)を六つにまとめた物です。六度万行 (六波羅蜜)
釈迦語録-13 興福寺(人は優しさだけではダメ、智慧が働かなくてはいけない)
釈迦語録-14 賢い人と愚かな人
釈迦語録-15 自分らしく生きることは、良いことだが問題点もある、ユートピアに向かって、新しい概念を必要としている。
(菊谷隆太先生の提言)
釈迦語録-16 幸福とは(絶対の幸福と相対の幸福)
釈迦語録-17 やりなおしはいつでも出来ると言うたとえ熊谷次郎直実(くまがやじろうなおざね)
釈迦語録―18? 仏教ではありません。「人間万事塞翁が馬」
(山中伸弥教授)(阿川佐和子話荒井)
釈迦語録-19 至福の心
釈迦語録-20 「ありがとう」という言葉に秘められた力
釈迦語録-21 大人とガキの見分け方(精神年齢の見分け方)
釈迦語録-22 腹が立った時の対処法 記憶媒体と行った施しと受けた恩腹が立った時の状態
釈迦語録-23 一発逆転、幸せな心になる方法。人生に行き詰まった時の脱出法
釈迦語録-24 仏教と儒教(仏教:鳥巣禅師)
釈迦語録-25 働きたくない人に向けて
釈迦語録-26 悟りを開くまで(悟りを開く解釈 荒井)
釈迦語録-27 柳に雪折れ。真面目に生きる人に向けて
釈迦語録-28 人のせいにしない生き方が道を開く。
すべて自分に原因があると考える。
自因自果。因果応報。
釈迦語録-29 智慧。
怒りは恐ろしい(相手が腹を立てたとき一緒に腹を立ててはいけない、やるべきことはその場から逃げること。伝えたいことは智慧)
釈迦語録-30 法鏡。人間は、100%煩悩で出来て居る。
釈迦語録-31 ポジティブ思考の課題
釈迦語録-32 不安をなくす方法。
次の3つの不安を取る方法について。
バレる不安。できない不安。失う不安
釈迦語録-33 仏教の全ての宗派に共通する教え。
釈迦語録-24にも登場。
鳥巣禅師(とりのすぜんじ)が言った事に尽きる。
釈迦語録-34 一休禅師。めでたい一句
釈迦語録-35 心の宝
釈迦語録-36 慢・慢心・(うぬぼれ) 六大煩悩
釈迦語録-37 自力本願、他力本願どちらを選ぶ
釈迦語録-38 うまく行かなくなったら、
忍耐(忍辱・にんにく)することが良い種まきになる。
釈迦語録-39 つい言ってしまいそうな禁句
釈迦語録-40 人を動かす
釈迦語録-41 天上天下唯我独尊の真の意味
釈迦語録-42 人生を変える2つの方法
釈迦語録-43 永遠の真理、仏教の法(ダルマ)
釈迦語録-44 メンタルを強くする仏教の方法
釈迦語録-45 何気ないけどとても大事な日常会話
釈迦語録―46 生きるの辞めていいですか。仏教の返答
釈迦語録-47 煩悩の多い人少ない人と法鏡
釈迦語録-48 大岡越前 起き上がりこぼし
釈迦語録-49 その行動、不幸を招きます
釈迦語録-50 幸せとは
釈迦語録-51 幸せとは(その2)一水四見
釈迦語録-52 生きる意味
釈迦語録―53 芥子粒の実の中に大千世界を入れて広くもなく狭くもなくの真意
釈迦語録-54 仏教での目に見えない力
(とどろきラジオ)仏教
釈迦語録-55 仏教で一番重い罪 五逆罪
釈迦語録-56 正直者が馬鹿を見ることはあり得ない
釈迦語録―57 因果の道理
釈迦語録-58 運命は変えられる(運命ではなくなる)
釈迦語録-59 運命を生み出す行い
釈迦語録-60 善人か悪人か(仏の眼は顕微鏡)
釈迦語録-61 法鏡
(法華経)(植木雅俊先生)(NHK、100分で名著より)
釈迦語録-62 三車火宅の譬
釈迦語録-63 長者窮子の譬
釈迦語録-64 違いや個性を認め合う
釈迦語録-65 心の持ち方
釈迦語録-66 縁起担ぎは、根も葉もない。自分で善い行いをし良い運命にしましょう。(とどろきラジオ)
釈迦語録-67 すべてがあなたに丁度いい
釈迦語録
まえがき-1)仏教を一言で言うと
七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
意味
宇宙のすべての仏(悟りを開いた者)の教え
いろいろの悪いことはやってはいけませんよ。
もろもろの善を行いなさい
自分の心の行い(自浄)を清めなさい
これがすべての仏の教えです
因果の道理(自因自果、善因善果、悪因悪果、自業自得、廃悪修善)
良い行いは良い果報をもたらします。
自分で蒔いた種は、自分で刈ります。
みんな幸せになりたかったら、善い行いをします。
悪い行いをすれば不幸になります。
だから、廃悪修善でなければなりません。(悪い事をせず、良いことをし続ける)
ごまかしてバレなきゃいいやでは、ダメです。
良いことをしても無駄ではダメです。
一回言って治れば言わないが、治らないから何回も言います。
お釈迦さまは、このことだけを45年間説いてまわりました。
善いことを行って良い結果がくることも自業自得。
悪いことを行って悪い結果が来ることも自業自得。
この法則は、地球上のあらゆる宗教に同じ事が言えます。
(世界の宗教の説いていること)
仏教、因果応報。自因自果、善因善果、悪因悪果。自業自得。
改宗する必要はないと書きましたが、日本人を見て欲しいです。無宗教であると言う人が80%です。
それでいて宗教的生活をしているのです。
宗教に属さなくても、宗教的生き方ができる良い例ではないでしょうか。
因果応報の法則に則った生活を心がけるだけで良いのです。
仏教のお話は、その参考になる例が7000冊もあります。
お釈迦様は、悟りを開いた35歳から死ぬ80歳まで、教えを説きました。
正確に伝わっております。
イエス・キリストは30歳前後3年間教えを説きました。磔にされ、死んだ後、弟子達が慌ててまとめた資料が新約聖書です。
ですから、間違った箇所も多数あり、また、書き写しの誤写もありました。
これでは、聖書は役に立つかも知れませんが頼りないですね。
これの訂正にシルバーバーチは、使命をおび当たりました。
一番、良いのは、仏教のお経を分かり易く解説した書物だと思います。
たまたま、私は、YouTubeで菊谷隆太先生の仏教のお話を聞くことが出来ました。
分かり易く説明されています。お釈迦様が言われたと言うところは納得できるのですが、親鸞聖人が言われたと言うところは、首をかしげます。
釈迦語録-1 菊谷隆太先生
【天国と地獄】お釈迦さまの教え
地獄とはどういう所か
どういう所かと言うと、テーブルの上にご馳走がいっぱい並んでいて、
そこの住人は、痩せこけて、骨と皮だけになっています。
お箸は、2mあり自分の口にご馳走を運ぶことが出来ないで、痩せこけています。
他の人のことは考え無いです。
天国とはどういう所か
テーブルの上にご馳走がいっぱい並んでいて、
そこの住人は幸せそうで、いい体格をしています。
お箸は、2mあります、条件は地獄とおなじです。
しかし、自分の口に運ぶのではなく、他の人に食べさせている。
みんなそうしているから、みんな幸せです。
同じ環境にいても心の持ち方で、天国にも地獄にもなるというお話です。
自分の事しか考え無い人は、地獄、相手のことを考える人は天国です。
良いお話だな~。私は天国の心でいたいです。
お箸の長さを短くすれば良いじゃないかと言う意見に対して、ここでは、同じ条件で、心の持ち方という点に焦点を当てるので、お箸の長さが2mになってしまうのです。
また、地獄にお互いに相手の口に入れることを教えてやれば良いじゃないかと言う意見に対して、地獄では、自分の事しか考え無いので、相手の口に入れると自分の口に入れてもらえるか疑うと言う事が考えられ、教えても無駄に終わる結果となる可能性があります。
釈迦語録-2 菊谷隆太先生
乏しき時に与えるは、富みて与えるより勝る。
ある貧乏な夫婦のもとへ、お釈迦さまが行った時、そこの妻は、お釈迦さまに精一杯のおもてなしとして、粗末な麦焦がしをお昼の食事に出した。
お釈迦さまは、その妻に向かって「悟りを開く」と仰られた。
それを聴いた夫は怒り出し、「そんな馬鹿な、こんな粗末な麦焦がしで悟りが開けるか、信じられない」
お釈迦さまは、その男に言われた、「なにか珍しい物を見たことはあるか」
夫「そうね、多根樹(大木)が珍しいと思う」
お釈迦さま「それじゃ、その多根樹の種は、どのくらいの大きさだい」
夫「ほんのごまつぶほどだ」
お釈迦さま「信じられない、あんなに大きな多根樹の種が、そんなに小さいのか、挽き臼くらいはあるだろう」
夫「いや、俺は信じる。あの多根樹の木は、ごまつぶほどの種から出来た。」
お釈迦さま「それじゃ、麦焦がしを与えて悟りを開けるな」
釈迦語録-3 菊谷隆太先生
人生を充実させるには
心の持ち方、視点をどこに置くかで人生の感じ方が変ると言うお話です。
1. 自業自得
会社に勤めるとき、その会社を選んだのは自分です。
誰かの勧めで入ったと言っても、最後に決めたのは自分です。
その会社がつまらないと言うのは、自分で入社して、その結果、つまらなくなっている。
自業自得です。
他の人のせいではありません。
自分で蒔いた種です。収穫は自分で行います。
他因自果は、ありえません。人のせいで自分に悪い事が降りかかってくると言う事は絶対にありえません。仏教では、他因自果はありえないと戒めております。
2. 長所を見ること
物事には、長所と短所の両方があります。
それを、短所ばかり見ていると嫌になります。
たとえ話。
ある街に引っ越してきた住人がいました。AさんとBさんです。
その街の入り口に老人が守衛をしていました。
老人がAさんに「前に住んでいた街はどんな人達だったかい」
Aさん「親切な人ばかりで住みやすかったです。ここは、どうですか」
老人「ここも同じじゃよ」
別の日
老人がBさんに「前に住んでいた街はどんな人達だったかい」
Bさん「人の悪口を言う人ばかりで、嫌な街だった、ここはどうですか」
老人「ここも同じじゃよ」
1ヶ月後、ある飲み屋でAさんとBさんは一緒になります。
二人は、「あの老人の言ってたことは、本当だったな」
これで、わかるように、相手のどこを見るかで、人生が変ります。相手のいいところを見ましょう。
3. ビジョンを持つ
ビジョンがあれば、つまらないことはない。
将来なにをやりたいか、未来にどうなりたいか目的を持っていれば、人生は充実する。
過去に原因があり、現在に結果がある。
現在は、原因を作っている。未来に結果が出る。
だから、現在の自分が将来何をやりたいか目標を持てば、人生が充実する。
この3つを常に考えていれば、人生は充実します。
自業自得であり、長所と見て、何の為に生れて来て生きているか考えて将来に目標を持てば、
人生が充実します。
これは、たぶん、お釈迦さまの教えだと思うのですが、伝えた人は鳩摩羅什(くまらじゅう)だと思います。
この方は、仏教の経典を翻訳するのを目標にしていたのですが、牢屋に50歳まで閉じ込められていたそうです。
牢屋に閉じ込められている間も、サンスクリット語の勉強と中国語の勉強をして翻訳できるように準備を牢屋の中でしていたそうです。開放されてから、翻訳に取りかかり、中国に多くの教典を伝えたそうです。
牢屋に閉じ込められていても、充実した人生だったと。
釈迦語録-4 菊谷隆太先生
お釈迦さまの言うお金のかからない施し7つ(無財の七施)
1.眼施(げんせ) 優しい温かいまなざしで周囲の
人々を明るくするように努めること。
(目は口ほどに物を言う)
(目は心の鏡)
2.和顔悦色施 優しい微笑みをたたえた笑顔で人に接する。
周囲を和ませトゲトゲしい人間関係をスムーズにする潤滑油
3.言辞施 やさしい言葉をかける。お礼を言う。労りの言葉、優しい言葉をかける。
4.身施 労働力を提供。がれきの撤去など。雪かき。ボランティア
5.心施 心から感謝する言葉を述べること。
「ありがとう」を言う。
毎日の生活は、決して当たり前ではないことに気づき心から感謝する。
「おはよう」「大丈夫」「なるほど」(年下に向けて)
「おっしゃるとおり」(目上の方に向けて)
「気をつけてね」「ありがとう」「ごめん」
これらの言葉は、言っただけで、相手が気持ちよくなる。
6.床座施 席をゆずる。車を進路に入れてあげる。手柄をゆずる。
7.房舎施 一宿一飯の接待。その労をねぎらう親切。
西郷隆盛と勝海舟の間での出来事、無血開城につながった。
房舎施
西郷隆盛の奥さんは、お琴の演奏が上手いと言う評判だった。
あるとき、勝海舟が西郷隆盛の家を訪れた。
西郷隆盛の家は貧しかった。接待するにも、お金が無かった。
奥さんは、お琴を質に入れ、お金を工面して、ご馳走を作りました。勝海舟に出して差し上げました。
暫く食べて、「そういえば、西郷の奥さんは、お琴が上手かったな、聴かせてくれないか」とリクエストしました。
奥さんは、困り、質屋に行ってお琴を引き取ります。
その代わりに着物を置いていきます。
裸で演奏することも出来ず、ふすま越しに演奏を聴かせます。
勝海舟は、なんでふすま越しなのだろうと不思議に思いましたが、家の風体を見て察します。
「そこまでしてくれたのか、ありがとう」と言います。
そして、後の江戸城無血開城につながったと言います。
これは、お金のかからない人に好かれる7つのコツですが、これ以外に
与える人は、好かれます。お金をあげる。お布施などとも共通する。
技術を提供する。電気製品の修理をしてあげる、理髪師の技術で頭を刈ってあげる、日曜大工の技術で何か直してあげる、会社において技術職で技術を提供するなど。
サービスを提供する。楽しい話をしてあげるサービスとか、飲食店でサービスするとか、コンビニで接客業をするとか、クラブで接客業をするとか、引っ越しを手伝ってあげるなど。
知識を分け与える、知識は減るのもではないのでいくらでも提供できる。
これらのことをすれば、人に好かれる。
釈迦語録-5 菊谷隆太先生
四門出遊
お釈迦さまは、釈迦族の王子として、何不自由なく暮らしていました。
(29歳くらいの頃のことです)
奥さんがいて、子供がいて、幸せな日々を暮らしていました。
お城の城壁の中だけで暮らしていました。
ある日、南の門から外へ出てみました。
そしたならば、病人が沢山居ました。
自分は、何不自由なく、病気にもならず、幸せに暮らしている、これで良いのだろうかと、思います。
お城の城壁の中に戻ります。
別の日、東の門から外へ出てみます。
そしたならば、老人が沢山居ます。
自分は、今、若いが、年を取れば、このように老人になり、生活が苦しくなるのだろうかと思います。
お城の城壁の中に戻ります。
別のある日、西の門から外へ出ます。
そしたならば、死人を見ます。
いずれは、自分も死ぬのだなと思います。
お城の中に戻ります。
ここで、つくづくお釈迦さまは考えます。
病気になったり、年老いてく、そして、死で行く。
世の中には、こんなに辛い事が沢山ある。
なのに、今の自分は、楽な幸せな生活をして居る、これでいいのだろうかと考えます。
ある日、北の門から、外へ出ます。
そこには、修行者がおりました。
何をしているのかと聞くと、「病気や、年老いていく、そして死んでいく、これらを解決するために自分は、今、修行をしている」と聞きます。
お釈迦さま、「はっと」思います。
自分の探すべき道は、これだと思います。
お城に戻ります。
お城には、父にあたる、王様や妻、子供がいます。
父に、お釈迦さまは「私は修行に出る」と言います。
父は、「今、何不自由なく暮らしているのに、何故、そんな事とするのか」
お釈迦さま「私自身の為ではありません。世の中、皆の為に解決の道を探すのです」と言います。
そして、お城から出て、ある寺にこもります。
断食をして痩せこけます。
王様は心配になり、家来をお釈迦さまのところへ、帰るように送り出します。
家来は、お釈迦さまに「是非、お城にお戻り下さい」と言います。
お釈迦さまは、「私は、まだ道を見つけていない、修行を続ける」と言います。
家来は、王様に報告します「王子様の決意は、堅いようです。ずいぶんと痩せこけております」
王様は心配します。
そこで、家来、五人をお釈迦さまの護衛として弟子にさせます。
そして、35歳になり、悟りを開きます。
因果応報の法則がすべてであると悟ります。
過去に自分が蒔いた種が現在実を実らせ、現在があり、
今、自分で種を蒔き、将来、自分でその種をかることがすべてである。
つまり、今、良い種まきをしなければならない。
今日を一生懸命、良いことを行わなければ、明るい未来はない。
100%死ぬのに生きているのは、何故だと言う問いに対して、死ぬまで、良いことを行い、死んだ後天国で暮らすためだと。
しかし、お城には戻りません。
そのまま、布教の旅に出られます。
王様もお釈迦さまの弟子になります。妻も子供も弟子になります。
ここから、四門出遊から離れます。
私の推測では、釈迦国の周辺はお釈迦さまの教えが広がった物と思います。
何年後かに、戦争が始まります。
釈迦国は、敵から襲われそうになります。
お釈迦さまは、敵軍の攻撃してくる道に座り、敵を追い払います。
敵の大将もお釈迦さまを殺すことはできず、引き返します。
また、何年後かにまた、敵が襲ってきます。
また、お釈迦さまは通り道を塞ぎます。
敵は、退散します。
また、何年後かに敵が襲って来ます。
お釈迦さまは、それをご存じなかったのか、通り道を塞ぐことが出来ませんでした。
釈迦国は、敵に全滅にされます。
ここから、仏の顔も三度まで、となったと言われます。
お釈迦さまの出家の経緯と仏の顔も三度まででした。
釈迦語録-6 菊谷隆太先生
いろは、の語源(仏教に精通したひとが作った、詠み人知らず)
ひらがなで書くと
いろはにおえど ちりぬるを
わがよたれぞ つねならむ
ういのおくやま けふこえて
あさきゆめみし よいのせず
漢字、混じりで書くと
色は匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず
意味
桜は咲いて匂えど 散るのは(世の中一切は続かない)
私の世で 常ではない(世の中変るということ)
有為(不安の世の中で)奥山越えて(やっと明るい兆しが見えるかと思って居る)今日越えて(また、今日も越えなければならない)(今日、本当の幸せを知る)(現世不退)(不退転の幸)
浅い夢を見ている訳ではない(現実を忘れて居るわけでは無い)
酔いもせず(現実を忘れて居る訳ではない)
1と2行目は、すべてのものはつづかない。
そういうものを支えとしているから、私たちは不安な人生がつづく。
3と4行目は、浅い夢を見ているわけではなく、酔っているわけでもなく、
今、この世で幸せに辿り着いたのですという仏教の教えです。
2行目と3行目の間で、この世の幸せを知ったという意味が含まれています。
仏教で説くこの世の無常を謳った歌でした。
釈迦語録-7 菊谷隆太先生
日本昔話(日本に伝わる昔からの子供向けのお話)
多くの昔話は、先人達が子供向けに仏教の教えをわかりやすくたとえ話にして話して聞かせて、教育に使ってきました。日本が、治安が良く、社会の規律がしっかりしていて、安心して暮らせるのは、長い悠久の時を経て、この昔話が語り継がれ、子供の教育に使われてきたためであると私は、分析します。
諸外国にも日本の昔話を伝えても良いのではないかと思います。
また、現在、世界各国で人気のアニメも、根底には、この日本昔話の要素があるからだと思います。
花咲かじいさん
正直爺さん、には、良い結果が待って居る。
これは、因果応報、自因自果、自分の蒔いた種は、自分で刈るの教えです。
善因善果、悪因悪果と言う事を、わかりやすく、正直爺さん、嘘つき爺さんで喩えました。
仏教のたった一つの教え、因果応報、これのみにつきます。
生きている間に、良いことをすれば、老後、良い生活が待って居る。
さらには、死後、天国に行けると言う物です。
現在の私達は、過去に自分が蒔いた種の結果を刈っている。
良い種を蒔けば、良い結果を現在受けている。
現在、悪い結果になっているのは、人のせいではなく、自分の蒔いた種である。
将来、良い結果を収穫したいのならば、今、現在を一生懸命、いい種を蒔くことです。
最終的には、人間は100%死にます。死んだ後、天国に行くために生きていると言えます。
そのために、現在を一生懸命、心に正しいと思うままに、正直に精一杯生きる事です。
釈迦語録-8 菊谷隆太先生
時節到来を待つ 白隠禅師 相手がわかってくれないに適用
白隠禅師という方がおられた。とても高僧で有名な方です。
白隠禅師の寺の前に酒屋があった。
そこの酒屋の娘は、器量が良いと言う評判が高かった。
娘が年頃になり身ごもった。
だんだんお腹が大きくなり、噂となり誰の子だと言う事になった。
父親は、娘に問い詰めました。
娘は、苦し紛れに「白隠禅師の子です」と言います。
父親は、激怒して「白隠は、あんな生き仏と言われるが、実は偽坊主であったか」と土足のまま寺に上がり込んで、怒鳴り散らしました。
それでも我慢出来ずに、「養育費をよこせ」と言った。
白隠は、「ああそうであったか」と幾ばくかの養育費を渡します。
最初、町の人達は聞いたとき、まさか白隠禅師がそんなんことするはずがないと思いますが、養育費を渡したとあっては、これは本当に偽坊主だったかと、誹謗中傷の嵐となります。
周りの人たちは、白隠和尚に言訳をされてはどうですかと言います。
白隠は、「言いたい人には言わせておけば良い、悪いことを言った者に返るだけ。
私は、痛くもかゆくもない」
娘は、あまりの誹謗中傷に心が痛みます。
本当のことを父親に言います。
父親は、白隠禅師の元へ、謝りに行きます。
白隠は「そうであったか」とだけ一言だけ言ったそうです。
時流が事実を洗い流す。
自分に非がなければ、泰然自若としていれば良い。向こうから詫びが来る。
このように自分は、常に正しい行いをして居れば、自然と時流が解決してくれる。このようでありたい。
また、相手が自分のことをわかってくれないと言う時にも適用できます。
人は、それぞれ見ているもの(世界)が違います。
夫婦でも「この部屋暑いな」と行ったところ、奥さんが「何言っているの、寒いくらいだわ」と言うように、感じ方が異なります。
ある仕事をこなして上司が認めてくれないと思っていても、上司は、これくらい出来て当たり前と思っているかも知れません。
しかし、これを、積み重ね、何年も成果を出し続ければ、上司もその内に、「あいつ、なかなかやるな」と認めてくれるかも知れません。
白隠禅師のように、他人の評価は気にせず、自分で精一杯のことをやり続ければ、時が解決してくれます。
わかってくれないの解決方法でした。
釈迦語録-9 菊谷隆先生
仏教のお話
諫言を聞くこと(自分の耳に痛い事を言ってくれる人を大切に)
大將たる者の第一のつとめは、臣下の諫言を聞くことである。
「諫めを受けねば、己があやまちを知る事ができない。
それゆえに、人の上に立つ者は、家来が諫めしよいように、よくなつかせておかねばならぬ。
武田勝頼は諫言を嫌って身を滅ぼし、信長も森蘭丸の諫めをもちいず、明智の恨みを買い失脚した。
唐の太宗は、広く諫言の道を開いたから、子孫長久の基を築いた。」
徳川義直は、口癖のように、こう教訓していた。
しかし、諫言に耳を傾け、進んで諫めをいれることは難中の難である。
あるとき、匿名封書を奉った者があった。
義直が開封すると、「お家には十悪人があります」という書き出しで、九名の名前が列挙してあったが、あとの一人が記されていない。
「もう一人はだれであろうか」
義直は、近習を見渡したずねた。
その時、持田主計(かずえい)という二十三歳の秘書が、
「それは、殿さまでございましょう」と答えた。
「なんとな、世が悪人と申すか」と声をふるわせる。
「他の九人は臣下でございます、はばかるにはおよびませんが、残る一人は、はばかるべきお方ゆえ、わざとお名をあげなかったものと思います。
お名をあげずとも、殿さまには、おわかりになると思ったのでございましょう。」
ちょうど、自分が書いたもののようにヌケヌケと言い放った。
「余は格別、思い当たるところがないが、何か欠点があれば言うてみよ」
「ございます。殿さまが、ご改心あそばししかるべし思うところが、おおよそ十ヶ条ほどございます。よろしければ申し上げましょう」
と列座の近習の前で持田主計は、立て板に水を流すごとく、義直の欠点を並べたてた。
臣下の前で、さんざんこき下ろされた義直は、一時は憤慨やるかたなし肩で荒い息をしていたが、よくよく反省してみれば、持田主計の指摘には思い当たる節が多かった。
数日後、義直は、持田主計を大忠臣として加増し、旧に倍して重用し国政に参与させたという。
名君といわれるゆえんである。
サッチャー元首相に一番大切にされたことはと言う質問に対しての答え。
「政権交代が可能な良い野党の存在」
釈迦語録-10 菊谷隆太先生
果報は寝て待て(果報がくるまで時間がかかる、その間も行いを辞めずに)
幸せな運命は、毎日コツコツとやれば自然とやってくる。
果報は、良い知らせも悪い知らせもどちらも果報である。
果報と報いは、どちらも同じ意味で運命の事。
この果報は、行いによって引き起こされる。
やったこと、言ったこと、思った事。これらすべて行った事。因
因(モミダネ)、縁(水、日光、土)、果(米)とした場合、
良いモミダネを使い、米を育てても、良い縁(良い水、良い日光、良い土)がなければ、良い米(果)は出来ない。
因と縁がそろって果がある。
因があっても縁がなければ結果はない。
縁が来るまで寝て待て。
順現業(米、年内に収穫できる)、順次業(麦、翌年に収穫できる)
順後業(柿、8年後に収穫できる)、順後業の柿を7年かけて育てても実がならないと切ってしまっては実がならない。寝て待て。
スティーブ・ジョブス
よく見ると、一夜にして起こった成功の多くには、長い時間が費やされているものだ。
ホイップクリームの法則
かき混ぜても、かき混ぜても、かき混ぜても、なんにも変化がない、
かき混ぜても、かき混ぜても、かき混ぜても、なんにも変化がない、
かき混ぜても、かき混ぜても、かき混ぜても、ホイップクリームにならない、
かき混ぜても、かき混ぜても、かき混ぜても、なんにも変化がない、
かき混ぜても、かき混ぜても、かき混ぜても、ほんとうにホイップクリームになるのだろうか、
かき混ぜても、かき混ぜても、かき混ぜて、あるとき、突然、固まり始める、ホイップクリームが出来上がる、かき混ぜていて本当に良かった。
果報は寝て待て。
釈迦語録-11 菊谷隆太先生
人の育て方
その人を見て、長所を伸ばす育て方をするのが良い。
個性を伸ばす。
長所は短所にもなる。短所は長所にもなる。
田村正和さんは、声が小さく、主役は出来ないとレッテルを貼られていた。
眠狂四郎の役で大当たりして、主役俳優の仲間入りをした。田村正和さんのところへ、三谷幸喜監督が古畑任三郎の役を頼みに行ったときに、田村正和さんがクスッと笑った。
「僕より、声の小さい人が居たんだね。」
この二人は、声が小さい。長所でもあり短所でもある。
教育は、英語では、「education」である。「educere」引き出すが語源。
引き出す教育が重要です。
日本の教育は、詰め込み教育です。
釈迦の十大弟子。何々に第一と名前が付いている。
舎利佛――智慧第一
目連―――神通第一
富楼那――説法第一
阿難―――多聞第一
このように、お釈迦さまは、弟子の長所を見つけそれを延ばそうとした。
釈迦語録-12 菊谷隆太先生
仏教の教え
お釈迦さまが説いた多くの良い行い(万行)を六つにまとめた物です。
六度万行 (六波羅蜜)
布施 優しい人 親切 自分だけのために行うは良くな
い
人の役に立つように行う
持戒 誠実な人 言行一致 約束を守る
忍辱 穏やかな人 忍耐 誰かに腹を立てていないか
精進 努力する人 努力 笑顔で接するなどの努力を
する。
禅定 謝れる人 反省 努力している方向は、間違いな
いか反省する。
智慧 賢い人 修養
出会いに恵まれる人の要素として、これらを持つ努力をするように。
これらを実行すると周りに人から、大切にされます。好かれます。
六度万行の解説(その1)
ここに5個のリンゴがあったとします。自分で全部、食べれば5個で終わりです。
しかし、5個あった状態で、2個を他の人にあげたとします。
そうすると、あげた人からお礼として、4個返って来ることもあります。
そうすると、3+2=5だったのが、3+4=7個になります。
布施とは、そう言うもので、豊かになるものです。
心が豊かになるから余裕が出る。
そうすると周りに目を配るようになる。
そうすると、さらに良いことをして気を配り、周りから好かれる。相手のことを考える。
笑顔で接するなども、六度万行の一つです。
簡単なようで実践は難しいです。
いつでも笑顔で接するというのは、気分の乗らない時にはできないことです。
それでも行う。
それが難しいのです。
まず、いい例から紹介します。
与える人は、好かれます。豊かになります。
あの人がやっているお店だから、そこのラーメンを食べに行こうと繁盛します。
善因善果です。布施とは、増える物です。
些細なこと、笑顔を与える事でも難しいとわかり、努力して行うので、偉い人だなと好かれます。
人に何か施しをするのは難しい事とわかるので感謝の心があります。
親に育てて貰ったのは難しい事と(親になればわかる人は多い)感謝します。
感謝する人は、ますます好かれます。
親切を行った人は、与える人、布施を行う人です。
悪い例です。
与えない人は、嫌われます。嫌われるから貧する。
切羽詰まる。
貧すれば鈍する。
負のスパイラルです。
悪因悪果です。
貧すれば鈍するです。
笑顔で接するのは易しいだろうと考えるので自分ではできない。
また、簡単なことと思って居るので、他の人が笑顔で接してこないと責める。嫌われる。
笑顔で接することが出来て居ない人が、相手に笑顔で接することを要求すると、それは、嫌がられます。
自分にできないことを相手に要求するのは、自分の事しか考えておりません。
これらは、潮の流れに喩えられます。善因善果の潮流は、潮の流れにそって進めばドンドン進みます。
悪因悪果の潮流は、潮の流れに逆らって進むので全然進みません。
布施を行う潮の流れに乗ればドンドン幸せになる。
六度万行の解説(その2)
目に見えない力
知られているいないに関係無い。
業力とは、身業(行った事)、口業(言ったこと)、意業(思った事)これらは、すべて見ていてもいなくても力を発揮する。
A君 浪人生 受験勉強している。
B君 浪人生 パチンコしている。
見ているいないに関係無く、A君は花を咲かせる。
六度万行を行えば、目に見えない力が働いて幸せになる。
釈迦語録-13 菊谷隆太先生
興福寺(人は優しさだけではダメ、智慧が働かなくてはいけない)
魚を捕る道具で興福寺というものがあります。
これの名前のいきさつは、興福寺のお寺のお坊さんが、魚が泳いでいるのを見て寒かろうにと、竹の駕籠を編み、池の中に入れておきました。
お坊さんは、しばらくして戻ってきて魚が中に沢山入って、暖かそうにしているので「よかった、よかった」とその場を立ち去ります。
1時間後、そこへ漁師が来て、見かけぬ物があるな、なんだろうと手に取ってみると、駕籠に沢山の魚が入っております。
「誰が、こんないいものを考えてくれたのだろう」とその駕籠の入り口に返しを付け、魚が一度中に入ったら、出られない工夫をしました。
それ以降、何万匹、何百万匹という魚が、その駕籠で命を落とすことになります。
お寺のお坊さんは、そこまで考えておりませんでした。
優しさだけでは、ダメという例です。
思慮深さが必要であると言う事です。
スタンガン
これは、弱い女子学生用に、弱い力の人でも悪人を退治出来るように、痴漢撃退用に開発されました。
しかし、現在、スタンガンの一番の利用者は痴漢です。
これも、優しさだけでは、ダメな例です。
釈迦語録-14 菊谷隆太先生
賢い人と愚かな人
結論、因果応報を知って居るかどうかです。
自因自果、善因善果、悪因悪果これを知って居るかどうかです。
たとえ1.悪い結果が来た時の対応
賢い人は、悪い結果が来た時に、自分は過去にどのような悪いことをしたかを考えます。
そして改善します。自因自果です。
愚かな人は、悪い結果が来た時に、あいつがこんなことをするから悪い結果が来たと、他人のせいにします。
他因自果です。
たとえ2.誘惑されたときの対応
賢い人は、その話に乗らない。
どのような行動を起こしてどのような結果が来るか考えます。このような行動をして、そのような結果が得られるはずがないと考えます。ばれることを知って居る。うまい話には乗りません。
愚かな人は、ばれなきゃいいやと考え、その話に乗ります。
そのような行動で、そのような結果が来ると考えます。
たとえば、少しの投資で大きく儲かると言うような話です。こんなこ
はありません。
たとえ3.すぐに結果が出なかった時の対応(果報は寝て待ての論理)
賢い人は、すぐに結果が出なくてもやめない。すぐに結果が出ないと言う事は、大きな結果が来ることがわかっているから。
愚かな人は、すぐに結果が出ないとつまらないとやめる。すぐに、結果の出ることはたいしたことではないと言う事を知らない。
たとえ4.思わぬ成功したときの対応
賢い人は、成功の原因を考えて、さらに延ばすことを考え、より良くする。
愚かな人は、有頂天になり、その原因を考えず、そこで終わりでその後が続かない。
総括 賢い人は知恵者と呼ばれる。自分で良い種まきをする。
愚かな人は、愚痴の心を持っている。人のせいにする。目の前のことに振り回される。
釈迦語録-15 菊谷隆太先生
自分らしく生きることは、良いことだが問題点もある、ユートピアに向かって、新しい概念を必要としている。(菊谷隆太先生の提言)
自分らしく生きると言うのは、1960年代のアメリカから始まった。
アメリカンドリームというように、夢を追いかけて生きるのが良いとされた。
それまでの、価値観とは、国家のため、家のため、会社のため、神にため(神にためは、中世のヨーロッパがそうであった)が主流であった。
ここから、抜け出すために自分らしく生きると言う価値観が出来てきた。
これは、悪いことではないが、今、アメリカなどでは、行きすぎて弊害もある。
次の3点が問題となっている。
たとえ1.孤独になる。
昔の価値観、(国家、家、会社、神のため)という価
値観は、所属すると言う安心感があった。日本では、村八分という言葉があるが、仲間に所属していれば安心であった。
味噌がなくなれば、隣の家に借りに行った。今は、それが出来ない世の中になっている。
あとは、村でお祭りなどがあり連帯感が強まった。
今は、お祭りも減ってきた。
昔は、濃い人間関係であった。今は、薄い人間関係である。
菅元総理は、自助、共助、公助と言ったが、共助は望めなくなってきた。また、公助も財政負担が重くだんだん頼れなくなってきた。
自助の自分の責任でやり遂げなければならなくなってきた。
自己責任です。孤独死が増えています。
たとえ2.格差が広がる。
才能によって年収が決まる。特に、アメリカは自分らしく生きるを、もっとうとして居る為に、格差が大きい。
アメリカを例に挙げて説明します。
人口2億4千万人です。
その内の、40%にあたる1億人以上が年収200万円以下です。
下流と呼ばれます。
10%が2200万円以上です。
1%、240万人が1億5千万円以上です。
上流と呼ばれます。
さらに、世界には、ビリオネアと呼ばれる資産1100億ドル以上の人が2000人います。
この額は、日本のGDPの3倍です。
下流の人達は、手術代も払えないような境遇だそうです。
上流の人に税金を高くして下流に回すというのも良いですが、これでは、共産主義です。国家権力で再配分は、個人の自由が束縛されます。
いかにしたら良いか、今後の問題です。
たとえ3.迷走してしまう。
自己責任で行うので不安になる。
失敗したら、すべて自分の責任です。
ドリーム・ハラスメントという言葉があります。
小学生などに夢を持てと言います。
しかし、世の中のことをそんなに知らない子供は夢をどのように持
ったら良いか分りません。
夢のない人はダメというレッテルを貼られる。
夢を諦めると自分らしく生きられないと迷走することになります。
人間の願いである5欲(食欲、色欲、睡眠欲、名誉欲、財欲)が、だんだん色あせてきます。例えば、寒い所から家に入ると煖房が欲しくなります。
10分も部屋にいるとそれに慣れ、次に自分の欲求を満足するものを探します。
このように満たされてくると、次の欲が出てきます。
だんだん色あせてきます。これは、シャボン玉を壊れないように少しずつ大きくしているようなもので、死んで割れたら、すべてなくなります。夢が叶っているのか迷います。
これらの3つの問題点を解決する、新しいユートピアを目指して、新しい概念が必要です。
みんなで考えて行きましょう。
菊谷隆太先生からの提言です。
釈迦語録-16 菊谷隆太先生
幸福とは(絶対の幸福と相対の幸福)
私達は、幸福と言うと一般的に相対の幸福を感じて居る。
幸せの国ブータンは、幸せの国と呼ばれていました。
それは、スマホなどが発達する前のことです。
かれらは、よそでは、どのような生活をしているか知らなかったのです。
自分達は、生活にも困らずに生きて居ると言う事でアンケートを採ると国民の80%が幸せですと答えていました。
手で洗濯をして、釜土でご飯を炊き、それで幸せと思って居ました。
しかし、スマホが普及して、よそ国では、洗濯機で洗濯をして居るのを知ります。
そして電気釜でご飯を炊いているのを知ります。
そうすると、自分達は、本当に幸せなのだろうかと考えます。
これは、相対の幸福です。
他と比較して自分がどうかと言う事です。
スマホが普及してからアンケートを採ったら幸せの国の順位が92位まで下がりました。
しかし、彼らの生活は同じなのです。
一気に不幸せになったかというとそうではないのです。
人間本来の相対の幸福感という基準があるからそうなるのです。
生活する上で、人は一人では生きて行かれません。
他の人の世話になったりします。
災害に遭えば自衛隊のお世話になります。
(有情と言います)
生活する上で、食べ物は山の幸、海の幸で食事をして、山の幸は、水や太陽の日光や土の養分のお陰で育ちます。(自然の力などのお世話になる。非情と言います)
有情、非情のおかげで人は生きて居ます。
この間、相対の幸福の中で生活しております。
自衛隊に助けてもらえれば相対の幸福で幸せと感じます。
美味いものを食べれば、昨日より今日の方が美味いものを食べたとなれば相対の幸福で幸せと感じます。
釈迦語録-17 菊谷隆太先生
やりなおしはいつでも出来ると言うたとえ
熊谷次郎直実(くまがやじろうなおざね)
熊谷次郎直実は、源氏の武将の一人です。
源氏の今で言う、「プロジェクトリーダー」のような存在です。
戦で平家の若武者の平敦盛を討ち取る。息子ほどの年齢の若者の命を奪ったことが、戦の無情さや世の無常観を感じて心に傷を負う。
プロジェクトリーダーであるが、この無常観から、リーダーを辞めると辞表を提出し、出家する。
プロジェクトリーダーが辞めるとなると周りが騒ぐ。
戦で数々の命を奪ってきた。
このまま、進んで行って死んだらどうなるのだろう考えたらば怖くなり、仏門に入る。法然上人の元へ入門する。
そこから修行して蓮生房となる。
「熊谷が打って変わって蓮生房 変れば変ることにこそあれ」と謳われた。
いつからでも遅くはない、心を入れ替えて、正しい人生修行の道に進めば良いと言うお手本です。
釈迦語録―18? 「人間万事塞翁が馬」
(山中伸弥教授)
仏教ではありません。
「人間万事塞翁が馬」
あるところに馬を大切にしているお爺さんがいました。
あるとき、大切にしている馬が逃げて仕舞いました。
村人が集まって「お爺さん大変な事ですね」と言いました。
お爺さんは、「いやいや、これは、なにか良いことの前触れかも知れない」と言います。
しばらくして、その馬が返ってきました。その馬は、もう一頭良い馬を連れてきました。
村人がまた集まってきて「おじいさん、良かったですね」
お爺さん「これは、なにか悪いことの始まりかも知れない」と言います。
お爺さんには、息子がいて、息子がその連れてきた馬に乗ります。
落馬して足を骨折します。
また、村人があつまり「お爺さん、大変でしたね」と言います。
お爺さんは、「これは、何か良い知らせかも知れない」と言います。
その村では、戦争が始まり村の若者は駆り出され皆戦死しました。
お爺さんの息子は、足を骨折していたので戦争に行かずに生き残りました。
このお話で、言いたいことは、村人のように起きたことに一喜一憂するのではなく、お爺さんのようにどっしりと構え、良いことが起きても、悪いことが起きても、動ぜず、明るい未来を夢見て進んで行くことが大切であると言うお話です。
この「人間万事塞翁が馬」には、さまざまな解釈があります。「幸不幸は予測し難い」、さらには「幸不幸は予測し難いので、安易に悲しんだり喜んだりするべきではない」という意味や、「幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらない」という意味、また、「幸不幸は予測できず、何が禍福に転じるかはわからない」という意味にも使われます。
釈迦語録-19 菊谷隆太先生
至福の心
本当の幸せを手に入れようとしたら、仏法を聴くことに極まる。
法宝は、減る物ではない。
(幸せを手に入れるお話は、分け与えても減る物ではない。)
至福の心は、正しいと思った事だけ行って居れば辿り着く。
やましい心がなくなれば至福となる。
極僅かな幸せが、大きな幸せに感じられるようになれば、それは至福の心です。
釈迦語録-20 菊谷隆太先生
「ありがとう」という言葉に秘められた力
相手や、周りから言われたい言葉を恋人や、上司などでアンケートを採ると第1位の言葉は、「ありがとう」です。
「ありがとう」という言葉は、自利利他の言葉です。
言った自分が心地よく、聴いた相手も気持ちいいと言う、言葉です。
「すみません」で代用して居る方も多いですが、ストレートに「ありがとう」と言った場合の方が効果は、何十倍にもなります。
ある例1(スキージャンプ競技)
この寒い中、ずっと自分のジャンプの順番が来るまで、日本の旗を振って、待って居てくれる人達がいるんだと思うと、感謝の心が現れて、足の震えるような緊張も止み、みなぎる力を全身に感じました。
ありがとうと思った。
ある例2(松下幸之助)
自分に学問がなく、身体も弱かったと、
そのため、社員の誰もが自分より偉く見えたし、安心して仕事を任せることが出来た。
そのことが良かった。
ありがとうの言葉は、周りを幸せにする。
ある例3(盲目の人)
駅で白杖を持って壁際に立っていた男性がいたので、
「お手伝いする事はありますか?」と聴いたら、
「ありがとう、知人と待ち合わせして居るので大丈夫です。
また、宜しくお願い致します。」と述べた。
最後の一言って、多分、また、自分を見たときじゃなくて、
「困っている人を見たら、また、声をかけてあげて」という意味だろう。
優しい人。
「ありがとう」は、漢字で書くと「有難う」。
有ることが難しい事をしてくれて有難う。
(誰に言われても嬉しい言葉、心施(しんせ))
釈迦語録-21 菊谷隆太先生
大人とガキの見分け方(精神年齢の見分け方)
大人とは、旦那(ダンナ)(布施、ダーナ、転じてドナー、臓器提供者)、与える人です。
ガキ(餓鬼)、もらう人、自分が食べれば、周りが腹が空いていてもそれで満足してしまう。
こう言う人は、自分にしてくれ、しれくれの生き方です。
ガキが生活出来るのは、与えてくれる大人がいるから生活できる。
精神年齢の低い人は、もらう人です。ガキです。
(城山三郎の言葉)
一つの会社に孜々(しし)営々と十余年つとめているということ
そして妻子をかかえて暮らしていると言う事
それは、充分に人間として重さを感じさせて良いことだ。
人間としての確かさを認められていることではないか。
この言葉に感銘を受ける人は大人です。ガキには、わからない。
旦那としての生き方です。
早春スケッチブック(ドラマを見た、菊谷隆太の感想)
概要、夫役(河原崎長一郎)と妻役(岩下志麻)は再婚で、それぞれ連れ子があり、河原崎には、良子という娘、岩下には和彦という息子がいました。
このような複雑な家庭環境でありました。
そこへ、岩下の元夫役(山崎努)が現れる。
河原崎は、会社と家を往復するだけのつまらないお父さんと和彦は思っていた。
そこへ行くと、山崎は、写真家であり立ち振る舞いも行いも河原崎の数段上だなと和彦の心は、だんだんと山崎に傾いていく(実の父親である)。
そこへ、岩下は、山崎に、私の家を家庭崩壊させないでねと言う。
そうこうしているうちに、山崎は余命幾ばくもないガンとわかる。
山崎は、和彦と良子に次のように言葉をかける。
「昨日、お父さん(河原崎)、そこで仕事の電話を二本かけてたんだ。
会社のお得意さんにね。
声を使い分けて、お得意さんには一生懸命愛想良くしていた。
それを聞いて「ああ、こうやって、お父さんは、和彦と良子ちゃんを育ててきたんだなと。
その上、私の事もこうして考えてくれた。こりゃかなわないな。
君たちに利いた風な事を言う資格はないなと思い知ったよ」」
山崎は、小市民と思って居た河原崎が旦那である事を知り、和彦と良子に打ち明けて、身を引くので合った。
ガキは、失態したときに、ごまかし、責任転嫁、言訳、隠蔽で取り繕う。
大人は、失態したときに心からの謝罪で対処する。
ここで、大人とガキが見抜ける。
釈迦語録-22 菊谷隆太先生
腹が立った時の対処法 記憶媒体と行った施しと受けた恩
腹が立った時の状態
一流 胸に蛇は狂っても顔に出さない
腹が立っても平然としている
二流 歯を食いしばって口に出さない
腹が立っても口に出さない
三流 怒りの蛇を口から出す。
腹が立ったら口に出す。
腹が立った後
一流 水に文字 水にながれる。忘れる。
二流 砂に文字 砂は、その内に消える。その内に忘れる。
三流 岩に文字 自分は正であり、相手は邪であると思う。
いつまでも根に持つ
対処法
腹が立ったら10数えよ、時を置く、少し改善される。
言いたいことは明日言え。一晩考えた方が良い。
さて、相手に行った施しは、早く忘れた方が良い。
いつまでも覚えて居ると、あのとき、あんなにしてやったのに、俺には何もしてくれないと愚痴をこぼすことになる。
1番、水に文字 すぐ消える。
2番、砂に文字 その内に消える。忘れる。
3番、岩に文字 百年も千年も覚えている。
逆に、受けた恩は、忘れてはいけない。
上記2つ、似たようなたとえでした。
釈迦語録-23 菊谷隆太先生
一発逆転、幸せな心になる方法
人生に行き詰まった時の脱出法
1.思い込みを見直してみる
2.今しかできないことをやってみる
3.未来はわからないと知る
1.思い込みを見直してみる
窮すれば転ず、転ずれば通ず
困ったときは、発想を変える。そうすれば道は通ずる。
こうでなければならないと思い込むと良くない。
例えば、広い家に住むことが幸せと思い込む。
そうすると高い給料でなければならないと思う。
仕事でミスをすると給料が減りダメかと思う。
最初の広い家に住まなければ幸せになれないという思い込みが間違っている。
これは、広い家というわかりやすいたとえでしたが、誰でも思い込みはある。
東大に合格しなければならないと思い込む。
山に登るには、このルートしかないと思い込む。
山に登るルートはいくらでもある。
このルートがダメならば、別のルートを考える。
このように思い込みから開放することです。
あの人と一緒でなければ幸せになれないと思い込む。
一緒でも、そうでなくともそんなに変わりはない。
有無同然という。
それ相当の幸せがあり、それ相当の苦しみが、どんな場合でもある。
2.今にしかできないことをやる。(転ずればの切っ掛けとなる)
宮本武蔵は、18歳から21歳まで、幽閉された。絶望した。
そこへ、沢庵和尚の言葉。
「この暗黒の一室を母の胎内と思い、生まれ出る支度をしておくが良い。
肉眼で見れば、ここはただの暗い開かずの間だが、良く見よ、良く思え。
ここは、和漢のあらゆる聖賢が文化へささげた光明が詰まっている。
ここを暗黒蔵として住むのと光明蔵として暮らすのも、ただおぬしの心にある。」
和漢をきわめ剣聖の道を開く。五輪書などをしたためる。
暗い土蔵の中でも真実に目覚める本を読むことにより、幸せな心になれる。
いままで、してこなかった事をガラッとかえてやってみる。
3.未来はわからないと知る。(諸行無常)
こんなんだったら、人生の終わりと思っても、何があるかわからない。
一瞬にして光明が差してくるかわからない。信楽(しんぎょう)の心。
イダイケ夫人の例
身分の高い生活をしていて、王の妃となる。
しかし、自分の息子に七重の牢へ幽閉された。牢屋のなかでお釈迦さまの教えを知り、信楽を知る。
贅沢な暮らしの中ではなく、この牢屋の中で信楽の心を知ったとは、仏教とは、どんな教えか息子は知りたくなった。
未来の事は人間の計算では、わからない。
ただ、ひたすら仏法を聞き、ある瞬間、目覚める事もある。お釈迦さまとのご縁とは、そういうものです。
どんな年でも、どんな場所でも信楽を得る事ができる。
牢屋の中で幸せになれる心の持ち方をイダイケ夫人は会得した。
計画経済の国は、この法則をよく知り、人智では及ばないことがあることをよく知り、各人に裁量をまかせ、各人に最善を尽くさせるのが良いことだと思う。
計画経済は、計画通り行かないと、経済成長率の結果について嘘の報告をして繕う。
これでは、嘘の上に嘘を重ねていき最後は破綻する。(荒井淳)
釈迦語録-24 菊谷隆太先生
仏教と儒教(仏教:鳥巣禅師)
儒教と仏教の高名な方同士のお話です。
儒教の高名な方「白楽天」、仏教の高名な方「鳥巣禅師」「とりのすぜんじ」
鳥巣禅師が高い木の上で座禅をして瞑想していた。
その下を白楽天が通った。
白楽天「お~い、坊さん、そんなところで目をつぶって座っていては危ないよ」これは、問いかけであり、たいした返事はないものと思って居た。
鳥巣禅師「そういう貴殿こそ危ないぞ」
白楽天は、驚いた。意外な返事であったからである。
白楽天「私は、名もなき白楽天じゃ、貴殿は何と申す」
鳥巣禅師「私は、名もなき鳥巣禅師じゃ」
白楽天は、仰天する。あの有名な鳥巣禅師であったかと。
白楽天「私に仏教を教えて欲しい、それも一言で」
鳥巣禅師「もろもろの悪をするな、もろもろの善を行え。」
白楽天「そんなこと、3歳の子供でも知って居る。儒教には、いろいろな教えがある」
鳥巣禅師「3歳の童子でも知って居ても、80歳の翁が行うのは難しいことじゃ」
白楽天「・・・」なにも言えず。
仏教の教え「廃悪修善」悪いことを行わず、善いことのみ行え。
これは、因果の道理に通ずる。
自因自果、因果応報、自業自得。
釈迦語録-25 菊谷隆太先生
働きたくない人に向けて
次の改善策を考える
ア、とにかく続ける(精進)(ルーティンワーク)(完璧はない)
イ、好きな仕事を探す。(行いを変える)(仕事は基本的に辛い物)
ウ、休む(悪いことではない)(命を落とすことはない)
エ、目的を知る(目的を知ると辛い事も辛くない)
釈迦語録-26 菊谷隆太先生
悟りを開くまで
人生の大事業
何の為に生きて居るかの目的を知る事
人間に生れて来て良かったと思える。
悟りを開く道を歩けるのは人間だけ
人間に何回も生まれかわって徐々に悟りを開く階梯を登って行く。
悟りは、仏覚、妙覚と言う。
これを開くために、一番簡単な業でも行うのは難しい。
無言の業と言うのがある。
口は災いの元
部屋にて一晩中無言で過ごす業がある。
4人の僧侶が部屋の四隅に座り、無言の業を行う。
部屋の真ん中に明かりが灯り、油を注いで火を保つ。
小坊主がその役を行う。
さて、無言の業が始った。
夜も更けてきて、明かりの油が段々減ってくる。
夜明け間近、油が切れそうになる。火が消えそうになる。
油を注ぐ小坊主がうとうとし始める。
しびれを切らした、坊主が一人、「おい、小坊主、油が切れるぞ」と言った。
そうしたら、隣の隅の坊主が「今、無言の業だぞ」と言った。
それを聞いた、また、隣の坊主が「お前こそ、無言の業だぞ」と言った。
そして、残りの一人が「最後まで、言わなかったのは俺だけだ」と言った。
結局、全員、無言の業を失敗した。(笑)
こんなに簡単な業でも、実践は難しい。
釈迦語録-27 菊谷隆太先生
柳に雪折れ
真面目に生きる人に向けて
人に迷惑をかけないように生きるから辛くなる。
そうしなければならないが、捉え方を変える。
自分の言う事への反応とは、普通の人の場合
2割:味方
7割:どちらでもない
1割:悪く言う人
悪く言う人は、必ずいる。
お釈迦さまの場合
1/3:尊敬
1/3:悪口
1/3:無関心
だったそうです。
みなにてほめる人もなく、みなにしてそしる人もなし
面と向かってはいけない人
利用してくる人
ブラック企業
私は、アーノルド・シュワルツ・ネッガーが好きです。
ターミネーターだからでは、ありません。
知事選に立候補したとき、演説していて顔に卵をぶつけられました。
その時、言った言葉「ベーコンも一緒にくれよな」(笑)。
人格者として認められ当選。
釈迦語録-28 菊谷隆太先生
人のせいにしない生き方が道を開く
すべて自分に原因があると考える。自因自果。因果応報。
1,今やるべきことに集中できる。
人のせいにすると、うらむ、とがめる、愚痴る、賛者を求める、相手の言動が気になる。
集中できない。
自分はどうしたら良いか考える。
2,正しい決断ができる。
因、縁、果を考える。
自分の決断に責任を持つ。
3,人生を変えることができる。
不幸な結婚では、相手がまず変ることをお互いに要求し、相手の罪を言い立て、相手を正そうとしている。
自分が変らないと、相手が変らない。
釈迦語録-29 菊谷隆太先生
智慧
怒りは恐ろしい(相手が腹を立てたとき一緒に腹を立ててはいけない、やるべきことはその場から逃げること。伝えたいことは智慧)
たとえ話
殿さまから我が国にはない珍しい物を他国から買ってこいと言われました。
お金はいくらでも出すから他国から我が国にないものを導入したいと言われました。
男、旅に出る。
他国に行く。
見るもの、見るもの自分の国にあるものしかない。
期日が迫る。
ある、立派な店構えの店を見つける。
店の中には、何もない。
男、「ここには、何か珍しい物は売っていないか」と店主に尋ねる。
店主「あります、少々お高いですが」
男「それは何だ」
店主「智慧でございます。きっと役に立つでしょう。」
男「智慧とな、幾らじゃ」
店主「500両ほどです」
男「良しわかった、それは、どんな物じゃ」
店主「物事を落ち着いて考え、道理を見極めよ、決してすぐに腹を立てぬように」
男、長旅から帰る。
家の玄関に見知らぬ履き物がある。
さては、長旅の俺の居ぬ間に男を連れ込んだな。
頭に血が上り剣を抜き入ろうとする。
ここで、この間買った智慧のことを思い出す。
まてよ、すぐに腹を立てぬようにとあった。
剣を収める。
部屋に入る。
奥さんが亭主の長旅の間病気をして、そのお母さんが看病に来ていました。
これを知った男、1000万両にも変えられない二人の命を500両で助けられた。
あの智慧は、安かった、安かったと喜んだ。
釈迦語録-30 菊谷隆太先生
法鏡
人間は、100%煩悩で出来て居る。
自分の心に勝つ心に克己心があります。
ダイエットしなきゃと思う。克己心で克服する。
しかし、これは、もてたいと言う煩悩から克己心で克服することになる。
自分の座っている座布団は取れない。
自分の煩悩は自分にはわからない。
これがわかるのが法鏡です。
夜、暗くなり、部屋にろうそくが灯る。
ほれ、明るいだろうと自慢する。
自慢は煩悩です。
そこへ、電球がやってきます。
俺の方が明るいだろうと自慢します。
そこへ、また、蛍光灯がやってきて俺の方が明るいだろうと自慢する。
やがて、夜が明け、太陽の日が射してくる。
他の3人は、黙る。
太陽が法鏡です。
法鏡は、天の鏡です。
心の鏡です。
何者も隠さず照らし出します。
法鏡に照らして考えることです。
お釈迦さまは、45年間教えを説いて、7000冊の経典を残しました。
お釈迦さまが亡くなる直前に、弟子が、「お釈迦さまの解かれたことを一言で言うと何ですか。」と問うた。
「汝らに法鏡を授けたのだ、仏教は法鏡なり」とお釈迦さまは喝破された。
これを、一言で言うと「良いことをせよ、悪いことはするな」です。
釈迦語録-31 菊谷隆太先生
ポジティブ思考の課題
ポジティブ思考とは、感謝、前向き、自信を持って、富と成功、健康と長寿に向かうと言う思考です。
正しい面も多いですが、幸せになれるかは疑問が残ります。
アメリカが特にこの思考を大切にしておりますが、アメリカを見た場合、囚人の数世界トップ、貧富の格差の問題があります。
銃犯罪も多いです。
ポジティブでいなければならないと思う訳です。
ネガティブな人は近づけない様にする。
自分の心が無限な方には、ネガティブな人は自然と近づけないです。
正見というものがあります。
ありのままを見る。
曲がった物は、曲がっているままに見る心です。
経営危機に遭遇した場合、優秀なアドバイザーは、危機はチャンスではないことを認めてもらう。
サバイバルでは、危険な状態になったらば下山を検討する。
次に諦観というものがあります。
あきらかに見る。
ポジティブ思考にはこれが足りない。
因果関係で、悪い結果が来た時に、原因を良く考えることです。
徳川家康は、敗戦したときに、今回の敗戦は己の慢心から来たと考え、すぐに自画像を描かせた。
そこに映し出された自分の姿は、醜いものであった。
これでは、負けると自分を諫めた。自己を見つめた。
ポジティブに、ひたむきに、プラス思考で、どこに向かって生きるかは考えなければダメ。
お釈迦さまは、ここのところを出世本懐、人生の目的を見つけるためと考えた。
釈迦語録-32 菊谷隆太先生
不安をなくす方法
次の3つの不安を取る方法について
バレる不安
できない不安
失う不安
1,バレる不安
正直に生きれば問題ない。悪因悪果でバレる。懺悔すること。
謝罪することで解消される。
2.できない不安
善因善果を信じること。簡単に結果はでない。
順現業(すぐに結果がでる)
順次業(その内に結果が出る)
順後業(ずっと後に結果がでる)この場合が多い。
成功をつかむには、善い行い、良い種蒔きをしなければな
らない。良い種を蒔くか蒔かないかが大切です。
良い種まきをする行動をして居なければ、できない不安を
解消することはできません。
3.失う不安
いつかは失うことを覚悟する。心の準備をしておく。
例えば、勤めていた人は、役職がなくなることは、わかっている。それの準備をしておく。
家族もいつかは、居なくなる。その心の準備をしておく。
そして、何を失っても消えない心の光を見つけておく。これが仏教です。
仏法を聴けば、心の光が見えてきます。
釈迦語録-33 菊谷隆太先生
仏教の全ての宗派に共通する教え。
釈迦語録-24にも登場。鳥巣禅師(とりのすぜんじ)が言った事に尽きる。
七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)という。
七仏とは、全宇宙の全ての仏のこと。
通とは、説いていると言う事。
戒は、戒め。
偈とは、歌ということ。
通して訳すと、全宇宙の全ての仏が説いている、戒めのこと。
次の様に説いている。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
もろもろの悪いことは行わず、良いことを行え、心を清めること、これ諸仏の教えなり。
これは、次の一言に集約される。
廃悪修善
悪いことはやめなさい。良いことを行いなさい。
これは、因果応報から言える。
善因善果、悪因悪果、自因自果、であり、良いことを行えば良いことが返ってくる。悪いことを行えば悪いことが返って来る。
自分の蒔いた種は、自分で苅る。
鳥巣禅師は、諸々の悪いことを行わず、諸々の良いことをせよと言った。
3歳児でもわかることだが、80歳の翁でも行う事は難しいと述べた。
これに尽きる。
釈迦語録-34 一休禅師 菊谷隆太先生
めでたい一句
ある人が、初孫が生れ、一休禅師にめでたい一句を書いてくれと頼みました。
一休禅師「お安いご用」と一句書きました。
書いた一句「親が死ぬ 子が死ぬ 孫が死ぬ」
頼んだ人、「一休禅師、めでたい句と申し上げたのに、なんでこんな不吉な句を書くのですか」と言いました。
一休禅師「こんなめでたい句は、無いだろう。
順番通り死ぬのだから。
もし、孫が先に死んだら不幸だろ」
頼んだ人、「なるほど」
死ぬのは、怖いことと思っているのが普通の世界の人です。
仏教は、死ぬのは、怖いことではないと教えているのです。
仏教の本質、死と向き合う。何の為に生きて居るか考える。
悪いことをやめ、善いことを行うを心がけていれば、死んだ後も、幸福が待って居ると教えているのです。
これが、仏教の本質です。
釈迦語録-35 菊谷隆太先生 (荒井淳解釈あり)
心の宝
三長者
家の長者 お金・財産の事 財は一代の宝
これよりいいのが
身の長者 健康
さらにいいのが
心の長者 心の幸福 未来永劫の宝
三宝
仏宝 心の幸福を知った人(悟りを開いた人、お釈迦さま)
法宝 心の幸福を得る方法を記した物。(仏教の経典)
僧宝 心の幸福の方法を伝える人(お坊さん)
法は末代の宝
第2次世界大戦の勝った負けたは、いったい何だったんだろうか?
試して見なければわからない。
薬、この薬は良く効きますよと言われても試して見ないと納得出来ません。
薬を飲んで、一気にスカッとしたらば、この薬は効果てきめんと信じます。
仏法を聴いて心の宝を手に入れられますよと言われても、聴いてなるほどと思わなければ聴く気になれません。
一度、仏教の教えを一通り聴いてみることです。
それで、心が晴れれば、効き目があった事がわかります。
釈迦語録-36 菊谷隆太先生
慢・慢心・(うぬぼれ) 六大煩悩
1.慢 自分より劣った人と比べてうぬぼれる。見下す。
軽んじる。小馬鹿にする。相手を傷つける事になる。
収入、容姿、教養、性格などを比べて比較すること。
2.過慢 自分と対等でも、理由を付けて自分の方が上だと思う心。
テストの点数が同じでも相手は塾へ通ってこの点数だと言う
比較のこと。
3.慢過慢 相手の方が上でも、色々理由を付けて相手が下だと思う心。
収入は俺より相手の方が上だが容姿は俺の方が上だと思う心。
4.我慢 俺が、俺がと間違っていても、自分の方が上だと思う心。
会議で、ある計画の立案をして相手の方が、データも方法も勝っているのに、自分が引っ込みがつかなくなり、俺の方がいいと主張するうぬぼれ心。
君子豹変の言葉通りに出来れば、そうではない。
5.増上慢 悟っていないのに悟ったと思う心。仏教を勉強して居る人が陥りやすい。
どうだ、俺は凄いだろうとうぬぼれる。
6.卑下慢 あなたは凄いですねと言われて、返事で「たまたまですよ」と返しても、陰で本当にたまたまだねと聴くと悔しくなる心。
謙虚でも慢がある。
7.邪慢 自慢出来ないことを自慢する。何人殺したとか。
これらの慢は、無くした方がいいが、それは難しいことだと思う。
少しでも減らすことです。
修行が足りん。
自分の事を一番知っているのは、自分と思っているのは、慢。
相田みつお、一番わかっているようで、一番わからぬ自分。
釈迦語録-37 菊谷隆太先生
自力本願、他力本願、どちらを選びますか
仏教には、2つの道がある。
(悟りを開く道、極楽浄土に行く道。これらへ行く道が2つある。)
1つ目、聖道仏教。
自力本願です。
これは、陸路です。
苦労が多い、山あり谷ありです。
しかし、この苦労を乗り越えなければ不退転の位に就くことは出来ないでしょう。
辛い苦労を乗り越え無ければ魂は磨かれません。
一般的には出家して修行するとありますが、全員、出家したのでは、世の中成り立ちません。
2つ目、浄土門。他力本願です。
これは、水路です。(水道を舟で行く、楽ちん)。
阿弥陀仏の用意された「大悲の願船」に載せて頂き極楽浄土に連れて行ってもらうと言う物です。
今生、死んだ後、1回は、極楽浄土に連れて行ってもらえるかも知れません。
しかし、不退転の位にはたどり着けていないと思います。
来世、生まれかわったら、また、修行が待って居るでしょう。
こんなこと何回繰り返すのですか。
どこかで、陸路を苦労を乗り越え、不退転の位に就けるように頑張る事です。
あなたは、自力本願の道、他力本願の道のどちらを選びますか。
私は、自力本願の道を選びたいと思います。
蛇足
この、自力本願、他力本願の2つの道が出来たのには、時代背景があると思います。
昔、1000年前、現代のように科学技術が発達しておりませんでした。
そこへ、社会的不安、疫病、や飢饉などが起き、民衆は不安に駆られました。
どうか阿弥陀如来さまお助けくださいと祈る(すがる)しかなかったのです。
他力本願は、時代背景から必要な物だったのかも知れません。
現代を見て下さい。
多くの病気は、薬が開発され克服出来る場合が多いです。
飢饉に備え備蓄できるものは備蓄しております。
また、どこかに行くにしても交通機関が発達しております。
東京から九州へ日帰り出張も飛行機で可能です。
情報の伝達スピードは、昔と比べものになりません。
インターネットで一瞬に世界中を情報が駆け巡ります。
私は、時代背景から、現代では、自力本願でもやっていけると考えております。
自力本願で不退転の位に就くことが出来る人が増えるのはないかと思います。
釈迦語録-38 菊谷隆太先生
うまく行かなくなったら、忍耐(忍辱・にんにく)することが良い種まきになる。
何をやっても上手く行かない、八方手塞がりという状態は、誰でもあるものです。
ここで、やけを起こして悪い種まきをしてしまっては、元も子もありません。
何もせず、じっと我慢して、忍耐してなにもやらないことも、悪い種をまかないと言う点では、良い種まきをしていることになります。
六度万行(六波羅蜜)では、善い事を行いなさいと教えています。
布施などは、積極的に善い事を行う事ですが、この中に忍辱(忍耐)も入っております。
耐え忍ぶ事も大切です。
六度万行は、良く出来た教えです。
忍耐は、忘れがちです。
誰かに腹を立てたりせず、自分で耐える事です。
やつあたりは、いけません。
釈迦語録-39 菊谷隆太先生 つい言ってしまいそうな禁句
普通に悪い言葉は省略します。
つい、言ってしまいそうな禁句を挙げます。
1.「なんで~してくれないの」
相手を責める言葉はいけない。
未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ。(因果経)
2.「あなたのせいだ」
この世の中は全て自因自果であり、他因自果は、ありえな
い。愚痴の心。
3.「いつもあなたはそうだ」
だから君はダメだと決めつけている。
仏教では、廃悪修善と言って、常に悪いことをやめ、
よい事を修善しなさいと説いている。
前に悪いことをしたからと言って、今も悪いとは限らない。
お釈迦さまの弟子にオークツラマと言う人がおりました。
オークツラマは、人殺しで99人殺して、100人目にお釈迦さまを殺そうとしましたが、その時、お釈迦さまの説法を聴いて改心して、弟子になりました。
托鉢という修行があります。
鉢を持って各家をまわり、お布施をして貰うものです。
他の弟子達には、各家でお布施をしてくれますが、オークツラマが行くと、お前は殺人鬼だったな、お前にはお布施はしないと言われ、何ももらえません。
涙を流します。
お釈迦様のところへ行きます。
お釈迦様は、「これは、お前が今まで行ってきた行いに対する、報いであるから、耐え忍んで我慢しなさい。」と言います。
オークツラマは、「はいそうですか」と修行を続けます。
お釈迦様は、オークツラマの事を、「法を聴いて悟るものオークツラマに勝る者なし」と褒めます。
前科者でも差別せず、これからいいことをすれば、善い事が返って来ると言う教えです。
釈迦語録-40 菊谷隆太先生
人を動かす
世界を結果として天国、極楽浄土とする。
人を動かす
1.散乱放逸
人をまとめる人なんてどこにいるのか。
他人をコントロールできると思ううぬぼれである。
散乱→心が乱れている。心があっちこっち向いてい
る。禅定の反対
放逸→考えてはいけないことを考えてしまう
自分の力でまとめられると言うのはあり得ない。
2.布施
布施とは、インドでは、ダーナと言う。旦那。与える人。
リーダーとなる人は、与える心があるのかと言う問いがある。
これに関連して2つ挙げる。
アメリカ陸軍士官学校の心得である、カディケットから。
平時のアフター・ユー
何もない時はお先にどうぞ。
有事のフォロー・ミー
有事があれば、俺が行く。
この精神でないとリーダーは務まらない。
後楽園の由来
天下の憂いに先んじて憂い
天下の楽しみに後れて楽しみ
このような心がけでないとリーダーは務まらない。
3.大導師=仏(仏教)
まとめてどこへ連れて行くかを考えていなければな
らない。
リーダーは哲学が必要です。
悪いたとえ
一盲、衆盲を引いて持って火坑に堕ちる。
ヒットラーは、民衆を率いてどこへ連れて行こうとしたのか。
釈迦語録-41 菊谷隆太先生
天上天下唯我独尊の真の意味 (荒井淳解釈あり)
有名な言葉、天上天下唯我独尊の本当の意味
天上天下 この宇宙の天上(たぶん霊界)と天下(たぶん地上)のすべてにおいて。
唯我 ここで我とは、我々人間という意味です。
私という場合の我は、吾と言う字を使います。
これを勘違いして、お釈迦さま本人の事と思っていた人が多いです。
唯我とは、ただ我々人間だけがと言う意味です。
独尊 独は、たった、尊は尊いです。
通しての意味は、この宇宙の霊界、地上のすべてにおいて、我々人間だけが、悟りを開く行為(幸せな心になる)が出来る唯一のたった尊い存在という事です。
動物、植物には、この行為が出来ません。
人間に生れて来たことを喜ばなければなりません。
釈迦語録-42 菊谷隆太先生
人生を変える2つの方法
一切法は因縁生なり
これを、わかりやすく説明します。
仏教で因果応報とありますが、因(行い)があって果(結果)がくるには、縁が必要と言う事です。
さらにわかりやすく、お米の栽培を例にとります。
因(モミダネ)があり縁(土、水、日光、空気)が両方善いものでなければ善い果は得られない。
つまり、コシヒカリのモミダネで魚沼というふさわしい環境の2つが揃って、魚沼産コシヒカリが出来る。
これを、人生にたとえます。
因(自分の行動)と縁(会社、職場など、家庭)が善くなければ、いい将来(果)は来ません。
職場で自分の事を認めてくれないと職場を変える、または会社を変えるなどする。
それでもいい果が来ないことがある。
また、自分の行いが悪いのに、行いを変えず、縁だけ変えようとする。
この場合、慢が原因です。
慢、自分は出来ると思っているが、実は本当の真実は、自分が出来ない人間であることに気がつかない事にあります。
慢とは、不都合な真実です。
認めたくない心が働きます。
自分が出来ない事を理解して、我慢して、自分の行いを変える努力をして、時間をかけて様子をみて果が来るのを待つ。
縁を変えるのも1つの方法ですが、それだけではダメです。
因果応報には、時間がかかります。
果報は寝て待て、です。
人生を変えるには、因を変えるか縁を変えるかの2つの方法があります。
慢に気をつけ、果報は寝て待て、で構えることです。
釈迦語録-43 菊谷隆太先生
永遠の真理、仏教の法(ダルマ)
法(ダルマ)(ダルマはインドの言葉です。中国語では法)
三世十方 三世(いつでも、過去世、現世、未来世)
十方(どこでも、宇宙どこでも)
法 変らないもの
(人間の作った法律、法則、は時代に即して変えなければならないです。完璧な物は作れません)
しかし、仏法は時代が変っても変らない真理です。
(神の法則と同じではないかな)(荒井淳解釈)
世の中は、時代、場所、都合により人間の価値観などは、変る。
日本では、「どろぼう」と言われると怒る。
アメリカは、「どろぼう」と言われるより「チキン」(臆病者)と言われる方が怒る。
一休禅師 「今日ほめて悪く言う人の口 泣くも笑うもウソの世の中」
どのように生きたら良いか迷った時に仏教を聴くと、永遠の真理が説かれているので参考になる。
アメリカに留学した女性の話
せっかくアメリカに来たのだから英語の習得のために日本人コミュニティと関わるのを辞めました。
ところが、アメリカ人は、相手がどう思おうが関係無くストレートに表現してくる。
さすがに、しばらくして疲れてしまいました。
人生の生きる目的は何かとか、宗教、哲学に興味を持つようになりました。
自分はやはり日本人なんだと気がつきます。
日本人の根底には、仏教の思想があることを再認識します。
古今東西の普遍の真理である仏教に目覚め、現在に至り今も仏教を聴いていると言うアメリカに留学した日本人女性のお話でした。
釈迦語録-44 菊谷隆太先生
メンタルを強くする仏教の方法
1.諸行無常を知る
役職なんて、いつまでも続くものではない。
信用なんて、いつまでも続くものではない。
健康なんて、いつまでも続くものではない。
これらがひっくり返ったからと言って驚かないこと。
すべてのものは、続かない。
これを知るとメンタルが強くなる。
2.布施に生きる
人に与える人になれば、もらう事ばかり考えて居る
人よりメンタルが強くなる。
慈悲蒔けば愁苦の悩み遁れ(のがれ)さる。
医者が、目の前に患者が来て治すのに一生懸命になっていたら、自分の頭の毛が薄いとかは、気にしている暇が無い。
与える人は、メンタルが強い。
3.出世本懐を知る。人生の目的を知る。
何の為に生れて来たのかを知る。これが重要。
橋の下の乞食になろうとも、借金に追われようとも、生き抜いて果たさなければならない、生れて来た理由がある。その理由を知ればどんな苦労も解決する。
それは、心が幸せになるためであり、どんな状況(例えば牢屋の中でも)でも、心を見つめ、心の中に幸せの種を見つけ育てる。そうすれば、メンタルが強くなる。
釈迦語録-45 菊谷隆太先生
何気ないけどとても大事な日常会話
「おはよう」「大丈夫」「なるほど」「気をつけてね」
「ありがとう」「ごめん」は、書いて居ない。
1.おはよう
1日のスタート、先手必勝、挨拶、人生を幸せにする。
2.大丈夫
責任を感じて苦しむ人に「大丈夫だよ」と声をかける。子供などは特に責任を感じる。
一家の長は、これを言う事が多くなる。俺に就いてこいになる。
大変そうな人に「大丈夫ですか」と声をかける。
ささいな言葉だけど、嬉しい物です。
3.なるほど
会話が弾む。「なるほど君の言う事は一理あるな」
「なるほど、それは知らなかった」
目下の人にのみ使う言葉。
4.気をつけてね
フランスに留学してルームシェアをした日本人女性
が、シェアした相手から、いつも外出するときに、あ
なたは、私に「気をつけてね」と、気を遣ってくれて、
とても嬉しかったと言われた。
周りの人も幸せにし、自分も幸せなる言葉、言辞施という。
お金のかからない布施の一つです。
釈迦語録―46 菊谷隆太先生
生きるの辞めていいですか。仏教の返答(荒井淳解釈あり)
助け合って生きていくのはいいことです。
死にたいと言う人は、生きたいと言う本音がある人が多いです。
死にたいと言う人は、本当は生きたいと言う事の裏返しだったり、その人が自覚していない心の奥底では、生きたいと思ったりする、こんなに苦しいんだったら死んだ方がましだと思う意味。
人生相談で、私は死にたいと言う人は、助けてくれと言うSOSを発信している。
ビルの火災で5階の窓枠にしがみついて助けてくれと言っても、誰も助けられないと火が迫り来るので、ビルの窓から飛び降りるのと同じです。
やはり、生きていたいがやむをえず飛び降りる心境と同じです。
ヘリコプターや救助の手を待ちきれず、迫り来る火の熱さに耐えきれずそのまま堕ちて死んでしまう。
飛び降りたくて飛び降りたのではなく、あまりの熱さに耐えきれず、我慢しきれず、生きて居たいのに生きて居られなくなったのと同じ状況です。
このように火に耐えきれなくて飛び降りてしまうのは、しょうが無いかも知れませんが、自分が生きるのに、絶望して、SOSを発信するために死にたいと言うくらいならば、我慢して、もう少し生きてみる、生きる相談を誰かにするとかして、死ななくて済むようにした方がいいのでは、ないでしょうか。
仏教のお話を聞くのも解決策を見いだすために有効かも知れません。
心の幸せがどのようなものであり、また、これが、生きる目的になることがわかれば、死ななくて済むような気がします。
また、仏教の勉強は、YouTubeの菊谷隆太先生の「仏教」を聴く事により、深くわかります。
心に焦点を当て、心の行為(意業)が大切であることが、わかります。
ここから、いい心がけで生きて居る(因)といいことが(果)がやってくることがわかります。
因果応報です。
この宇宙はすべて因果応報で出来て居ます。
これを理解して、心がけを替え、いいことを行う(意業、口業、身業)ことを心がけるようにすれば、解決の糸口が見つかると思います。
是非、仏教を聴いてみて下さい。
釈迦語録-47 菊谷隆太先生
煩悩の多い人少ない人と法鏡
一般的に、煩悩の多い人少ない人と言った場合、煩悩の多い人は、すぐに欲しがる人、すぐに腹を立てる人、すぐに人を恨んだり嫉んだりする人を指す。しかし、仏教的に考えると違ってきます。
結論を先に書きます。
煩悩具足の凡夫であり、すべての人が、煩悩の多い少ないと言うのはなく、人間は煩悩の塊であり、108の煩悩を持っている。
煩悩100%の人間から煩悩を取ったら何も残らない。
煩悩の内、五大欲があります。
食欲、色欲、睡眠欲、名誉欲、財欲
ここで、面白い話をします。
良く、天使の声、悪魔の声と言いますが、仏教的に捕らえると面白い展開となります。
ダイエットする。それに成功すれば克己心が強いと言われますが、これは、かっこ良く見られたいと言う名誉欲です。
ダイエットするとき、
天使の声(食べたら太るわよ(名誉欲・プロポーション))
悪魔の声(少し位食べても太らないよ(食欲))
仏教的に言えば、天使の声も悪魔の声も欲から来た声です。
人間は煩悩に振り回されている。上手く行けば出世、失敗すれば刑務所行きです。
これらを上手く回避して、欲を捨てたと思っても、ここまで褒められても自制する心がある自分は、たいした者だとうぬぼれる(慢)、さらに、ここまで反省できる自分はたいした者だ(慢)、これがどこまでも永遠に続く、煩悩の塊です。
自分の座っている座布団は取れないことを知るべきです。
イタリアの童話だったと思うのですが、夜、ろうそくが明るいだろうと自慢します。
そこへランプが来ます。
俺の方が明るいだろうと自慢します。
ろうそくはしょぼんりとします。
そこへ、電灯が来ます。
俺の方が明るいだろうと自慢します。
ランプはしょんぼりとします。
そこへ、夜が明けて太陽が昇ります。
電灯もしょんぼりとします。
仏教の教えの法鏡は、これらより明るいものです。
法鏡の前には、自慢できるものはないと言う事です。
最高に明るいのは、仏教の教えを全て理解して、法鏡の明るさを得た者だけです。
釈迦語録-48 菊谷隆太
大岡越前 起き上がりこぼし
ある事件が発生する。
容疑者としてA氏とB氏がおしらすに呼ばれる。
(先に犯人を言っておく。B氏が犯人です)
詮議を進める。
A氏は、過去の記憶がおぼろげであるために、しどろもどろに答える。
起き上がりこぼしを突っついた時に揺れるように。
大岡「7月7日の6つにどこにいた」
A氏「たぶん、家で夕飯を食べていました。」
大岡「証人はいるか」
A氏「いえ、たぶん一人だったので証人はいません」
このように、起き上がりこぼしのようにユラユラ揺れる。
しかし、しばらくすると元に戻り止まる。
B氏は、ハッキリと受け答えする。
B氏「あのときは、旅籠にいました」
大岡「証人はいるか」
B氏「下足番が証人です」、しかし、これは、ウソです。
大岡は、ドンドン質問を続ける。
A氏は、しどろもどろでもウソをついていないので矛盾はない。
B氏は、ウソをついているので、質問を続けると、ある時点で、
「さっき言った事と矛盾するけど、どうかね。」
と問い詰めると最後B氏は、
「私がウソをついておりました。どうぞお許し下さい」
とバタンと倒れる。
レンガのように始め、しっかりしていても、ある限度を超えるとバタンと倒れる。
A氏の様にウソをつかなければ、起き上がりこぼしのように最後は正しい位置に止まる。
ウソをつくことは、いけないことです。
大岡越前 起き上がりこぼしでした。
釈迦語録-49 菊谷隆太先生
その行動、不幸を招きます
人格者と言われた人でもしてしまいそうな行動(ウソ)
ウソをつく。(妄語)
ウソには、相手を気遣ってウソをつくウソも方便というのもあります。
しかし、ここで言うウソは、そうではありません。
一つのウソが段々大きくなって、ウソの上塗りを繰り返し、最後に発覚する時には、大きな事となっている。
惑業苦 ウソをついた事が大きくなり言えない。
ひどくなる。
自己嫌悪になる。
因縁和合 → 果がくる。
たとえ話。
岡山の市議会議員が入院したとウソをついて、議会を欠席して、北陸旅行へ行きました。
そこで、写真を撮られていました。
別の旅行者の背景に映り込んでいた。
それが、地元紙の新聞に掲載されました。
市民がみつけ通報する。
議員は、よく似た人がいるもんだとしらを切る。
入院証明書を偽造して、提出する。
その内にウソがばれる。
議員辞職します。
因縁和合、果がくる。です。
正直に生きましょう。
釈迦語録-50 菊谷隆太先生
幸せとは
夏目漱石の草枕からはじめます。
智に働けば角が立つ 情に棹させば流される
意地を通せば窮屈だ とかく人の世は住みにくい
これを脱出するために次の様に考える
一年生になったら友達百人できるかなというCMがありました。
これは、次のステージに行けば幸せになれると思って居るからで、
現実は、次のステージでも、何が起きるかわからないので、
いつまでも不満を持っていると天国になりません。
周りの人達の良いところを見て過ごせば、良い環境だなと思え、天国です。
ここまで菊谷隆太先生の言葉を引用しました。以下、荒井説。
地上で辿り着いた境地で、霊界で過ごす事になります。
霊界は、変らない世界です。地上は変われる世界です。(究理学参照)
地上で変らなければ天国にはなりません。
小さな幸せを大きく感じられれば、大きな幸せは、天にも昇る心地でしょう。
苦労は、徐々に大きな物を乗り越えましょう。
虎舞竜ロードの一節
「なんでもないようなことが幸せだった。」まさにその通り。
釈迦語録-51 菊谷隆太先生
幸せとは(その2)一水四見
幸せとは(その2)一水四見
一水四見のもともとの意味
同じものが、見る人により変ると言う物です。
同じ、水を見たとき、人間は飲み物と思う。
魚は住む所と思う。
餓鬼は炎と思う。
天人はルリと思う。
というような具合いです。
釈迦語録-52 菊谷隆太先生
生きる意味
意味がわからない事は辛い。
ただ、穴を掘れと言われて重労働させられたら苦痛です。
しかし、エジプトの考古学の発掘で、この下に宝があるかも知れないと言う目標ができ、掘る目的(意味)が明確になれば、肉体的に重労働でも、意味がわかれば掘ると言う重労働も苦痛ではなくなります。
そう言う意味で生きる意味を考えるのは重要な事です。
生きる意味
死んだ後、天国や極楽浄土に行くために、みんなの幸せが自分の幸せであり、人の役に立つようにして、心の正しいと思うままに、正直に一生懸命生きることに意味がある。
因果応報で、善因善果、悪因悪果、自業自得、もろもろの悪いことをせず、善いことを行う事。3歳の童子でもわかるが、70歳の翁でも行うのは難しい。
善いことを行い自分が幸せと感じるまで、他の人も幸せに出来れば、悟りの境地でしょう。
お釈迦さまは、悟りの境地まで行かれ、他に人も幸せにするために、因果応報、六度万行(六波羅蜜)を説いた。
釈迦語録-53
芥子粒の実の中に大千世界を入れて広くもなく狭くもなくの真意
菊谷隆太先生
芥子粒の実の中に大千世界を入れても広くもなく狭くもないとお釈迦さまは言われた。
私の解釈
物質界は原子、分子で出来ております。
原子の解析は進歩しました。
量子力学は、だいぶ確立されました。
半導体の技術などはこれの応用です。
さて量子力学は、調和解析です。
(調和解析とは、直交性のある級数、周期関数など(SIN,COS)による展開が関係するところで広く使われる言葉で、フーリエ変換に直接関わる)
これを用い、量子力学では、電子の振る舞いである電子軌道を解明致しました。
さらに、原子核の中も解こうとしておりますが暫定理論です。
超弦理論と言う物が言われております。
原子核の中では、極小さな弦が振動して記述できるのではないかと検討されているようです。
弦の振動解析ですから調和解析です。
私は、ここに、この宇宙も波動方程式で表されるのではないかと考えております。
どのような式になるかは具体的に示せないのですが概念だけを申し上げます。
宇宙が波動方程式であれば調和解析で解けます。
ということは、お釈迦さまの言葉から連想して、芥子粒の中に大千世界を入れて広くもなく狭くもないと言うのをこれに当てはめると、原子核の中の波動方程式を宇宙の波動方程式にすると言う事は、考えられないかなと思った訳です。
そうすれば、宇宙は調和解析で解け、その構成要素である原子も調和解析で解け、さらに原子の原子核の中を波動方程式で記述して調和解析で解くと言う構図です。理論構築のお手伝いをしました。
釈迦語録-54 菊谷隆太先生
仏教での目に見えない力
一般的迷信 パワーストーン、方角、パワースポット、これらは、あり得ない。
石に力があるなんて、そんなことは、あり得ない。
方角に力があるなんて、そんなことは、あり得ない。
場所にちからがあるなんて、そんなことは、あり得ない。
仏教での目に見えない力
人の見ていない所での行いによる結果が来る力が目に見えない力です。
行いには、意業、口業、身業があります。いずれも行いです。
ここでも、善い種まきをすれば知られている、知られていないに関係無く見えない力が働いて、縁が結びついて目に見える善い結果が来る。
業力不滅(業とは行い。行った事はによる力は不滅です。)
たとえ
浪人生Aさん、一生懸命、相当勉強する。(蒔いた種は善い)
浪人生Bさん、パチンコ、麻雀に明け暮れる。(蒔いた種は悪い)
春(縁)になれば、結果はわかる。浪人生Aは、合格。
浪人生Bは、また、浪人生です。
善い行い。六度万行(六波羅蜜)を行う。
これは、自分の為にだけではなく、人の役に立つように行って居るだろうかと反省しながら行う事です。
もっと幸せになれます。
六度万行を行えば、目に見えない力が働いて幸せになれます。
六度万行(六波羅蜜)をまた書いておきます。
布施 優しい人 親切 自分だけのために行うは良くな
い
人の役に立つように行う
持戒 誠実な人 言行一致 約束を守る
忍辱 穏やかな人 忍耐 誰かに腹を立てていないか
精進 努力する人 努力 笑顔で接するなどの努力を
する。
禅定 謝れる人 反省 努力している方向は、間違いな
いか反省する。
智慧 賢い人 修養
これらの行いを人に知られている、知られていないに関わらず、黙々と行う事です。幸せなれます。
釈迦語録-55 仏教で一番重い罪 五逆罪
(とどろきラジオ)
親殺しの罪
ある企業での仕事募集の記事
1.ほぼ、すべての時間立ち作業でとても体力を必要と
する。
2.仕事は週に135時間以上、基本的に週7日毎日
24時間
3.休憩時間は、実質なし
4.徹夜の日もある。
5,プライベートな時間は、諦めてもらう。
6.ボランティアのような感じで完全無給。
次々に出される条件に応募者達から「ありえない、非人道的だ」と意見が出た。
採用官は、「もし、現実に今、この瞬間にも、この職に就いている人がいるとしたら?」と問いかける。
「いったい誰」と言う声。
採用官「お母さんですよ」
これは、ある企業で母の日に、ちなんで企画したデモンストレーションです。
赤ん坊の頃、お乳を飲ませてもらったり、おむつを取り替えてもらいました。
病気になれば、寝ずに看病して貰ったり、離れて暮らせばいつも心配してもらって成長してきたのです。
大恩ある親を自ら手で殺す→人間の心を持たぬ鬼の仕業。
殺すより劣らぬものは、思う罪。意業>口業>身業
かつて、女手一つで、四人の男の子を大学まで出させ、一流企業に入社、結婚させたお母さんの悲劇が報道されました。
その四人の兄弟夫婦が集まり、年老いた母の面倒を誰が見ると言う事で、深夜まで激論したが誰一人として面倒を見ると言う者が居ませんでした。
その、一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、翌朝、電車に飛び込み自殺しました。
手にかけて、殺していなくとも、私達は、心でどれだけ親を殺しているかわかりません。
心当たりはありませんか。
釈迦語録-56 正直者が馬鹿を見ることはあり得ない(とどろきラジオ)
悪賢い者がずるく立ち回って得をして、正直者がかえってひどい目に合い損をすることはあり得ない。
まいた種は必ず生えるが生えてくる時期に前後がある。
順現業 蒔いた年に収穫出来る。米など
順次業 翌年収穫できる。麦など。
順後業 数年後に収穫できる。栗、柿など。
若い頃からの生活習慣(因)が糖尿病、心臓病、脳卒中(果)となる。
10代、20代の種まきが、その時には結果に現れなくとも、20年後、30年後を大きく左右する。
これらは、他人が見ているとかいないとかに関係ない。
善いことをして損をすることもなければ、悪い事をして得をすることも絶対にあり得ない。
蒔いた種の生え方には2通りある。
1.等流因等流果 なぐった、なぐられた。
人間関係でも、他人を尊重しない人が、他人から尊重されるはずはありません。相手を大切にしない人が、相手から大切にされるはずもありません。
2.異熟因異熟果 因と果が異質
他人の物を盗んだことはなかったのに、なぜ置き引
きにあったのか?
健康に気をつけて居たはずなのに、なぜ病気で苦しむことになったのか?
他に原因があったことになります。他人の物を盗む以外の悪い事をしたからとか、健康に気をつけていたとありますが、他のこと(健康以外)に原因があったと考える事ができます。
原因を探すのは難しいです。
因果関係を証明するのは、難しい。
因果の道理 善因善果 悪因悪果
たえず善い事をすれば良い。廃悪修善。
釈迦語録―57 因果の道理(とどろきラジオ)
善い結果が来た時には、因果の道理は間違いないと思う物です。
しかし、不幸や災難が来た時には、「自分がどんな悪い事をしたというのか」と猛反発します。
不幸や災難は、あいつのせいだ、こいつのせいだと他人のせいにしたがります。
これは他因自果といいます。
他の人がお腹いっぱいに食べたからといって自分が満腹にならないのと同じです。
ナワを恨む泥棒。
ご用となった泥棒は自分を苦しめているのはナワだと言うのと同じです。
自分が犯した罪に原因があるのにナワを恨むのは、自分に現れた悪果を他人のせいにするのと同じです。
他因自果です。
火の車造る大工は、なけれども、己が造りて己が乗りゆく。
火の車とは、苦しい状態です。
これは、他の誰かが造ったのではありません。
自分の蒔いたタネで自分がその報いを受けます。
覚えがないだけで、蒔かぬタネは絶対に生えません。
他人のせいにして恨み呪っている間は、心の平安は来ないのです。
「自分が悪かった」と認め、悪因悪果、自因自果を受け入れた時、心がスッーとして、平安が訪れるのです。
釈迦語録-58 運命は変えられる(運命ではなくなる)
(とどろきラジオ)
お釈迦さまは、運命は生れた時に決まっていると言う考えは、間違っていると、徹底的に排斥しました。
そうでなければ、努力しよう頑張ろうと言う気持ちが持てません。
もし、そうならば、無気力でダメになってしまいます。
私達の運命は、自分の行いによっていくらでも変えられるのだよとお釈迦さまは教えています。
運命はすでに決まっていると信じている人でも、試験の前には勉強します。
試験結果が変ると思っているからです。
病気になれば、病院に行きます。病が快復すると思って居るからです。
会社に出勤するのは、生活の安定につながると信じているからです。
本当に結果が決まっているならば、勉強しなくても、病院に行かなくても、会社に行かなくても変らない事になって仕舞いますが、誰もそのようには考えません。
自分が行ったことが将来を変えると信じているからです。
因果応報です。因果の道理。
釈迦語録-59 運命を生み出す行い(とどろきラジオ)
意業 心に思う事 感心した 怒ったり
口業 口で言う事 褒めたりけなしたり
身業 身体で行う事 おんぶしたり、掃除したり
意業>口業>身業 の順で重要です。
殺るより劣らぬものは思う罪
心で殺す罪は手にかけて殺すより恐ろしいです。
思わなければ口に出ない。殺さない。
「悪の根源は殺そうと思うこと!」
全ては「殺そう」と思うことが悪いことですよね。
これらの行いで運命が決まります。
運命はどのようにして決まるのでしょうか。
解き明かされた仏教の言葉 自業自得
業は行いです。自得とは、自分の結果を得ることです。
お釈迦さまは次の事を言っております。
手相、先祖、神などにより運命が決まる事(迷信)は、絶対にないですよ。
すべて自分の行いで運命が決まるのですよ。と。
現在は、悪い結果の時だけ自業自得と言いますが、仏教では、あれも、これも、どれもすべてが自業自得です。
善いのも悪いのも自分に現れる運命のすべては自業自得です。
釈迦語録-60 善人か悪人か(仏の眼は顕微鏡)
(とどろきラジオ)
法鏡に映し出された人間はすべて悪人である。
心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善
心常に悪を念じ 口常に悪を言い 身常に悪を行い曽て一善無し
(お釈迦さま)
仏さまの眼からは、人間は心も口も体も悪ばかりで
一つの善もない。
エピソード
ある有名な布教使が寺で説法していた時のこと。
大の仏法嫌いであった村の校長先生が話しを聞きに来ていました。
「仏教は、すべての人間は悪人であると説くから気にくわぬ。有名な僧侶がくるなら、一度行って、懲らしめてやろう」と思ってのことでありました。
そうとは知らぬ布教使、いつものように、
「仏さまの眼からごらんになれば、善人は一人もありません。皆、悪人なのです。」と力説しました。
説法後、控え室を訪れた校長先生は、早速、
「あなたは、さきほど、人間はすべて悪人と説かれましたが、まことに困る。そんなことを認めたら、教師も皆悪人になり、教育が成り立たんじゃありませんか」
「善人もいれば、悪人もいるのが常識です。今後は、かようなことは、言わないでもらいたい」と、猛攻撃しました。
何を言い返してくるかと身構えているとどうしたことか、その布教使、サーッと下座に下がり、土下座して誤った。
「いや~、これは、これは、あなたのような方がお参りとはつゆ知らず、とんでもないことを申し上げました。何卒お許し下さい」
あまりに意外な反応に、校長先生、薄気味悪くなってきました。
なにしろ歯に衣着せぬ物言いで知られる布教使が、今は、ただただ、謝り果てているのです。
「いやいや、そこまでせんでも、今後、あのような説教さえしてもらわれなければ良いです」
そう言って、校長先生は、早々に退散しようとして居ました。
「じゃあ、私はこれで」靴を履き、玄関を出ようとした時、
「先生、ちょっとお待ち下さい」と布教使が声をかけました。ビクッとした校長先生、いよいよ来たかと身構えました。
「先ほど、先生は、この世には、善人もいれば悪人もいると言われましたな」
「はい、そう申しました」
「では、校長先生、あなたご自身は、その善人でいらっしゃいますか。それとも悪人でしょうか?」
答えにくい質問をする。今更、悪人とは言えません。
さりとて、善人と答えるのもはばかられます。
校長先生が返答に窮していると、
「他人のことではなく、あなたご自身のこと。なぜこたえられないのでしょうか。
では、質問を変えましょうか。
あなたは、学校でうそは善だと教えられますか、悪だと教えておられますか?」
「もちろん、うそは泥棒の始まり、悪い事だと教えています。」
「それでは、先生は、これまでうそをつかれたことはありませんか?」
校長先生ならずとも、誰にも身に覚えのあること、ぐうと言葉に詰まってしまいました。
「では、喧嘩はどうですか。善悪、いずれに教えられていますか?」
「悪に決まっています」
「では、先生は、喧嘩をされたことは、一度もないでしょうか?」
思い返せば、夕べも夫婦喧嘩をしたばかり。
言い返す言葉がないです。
「生き物を殺すことはいかがでしょうか。子供達に善だと教えますか。悪だと教えますか?」
「言うまでもなく、悪だと教えます」
「それならば、あなたは、一切生き物を殺しておられませんか。また、肉や魚は食べられないのですか?」
「そ、それは、・・・・・・」
まごつく校長先生に布教使は、
「うそも喧嘩も殺生も、皆、悪だと知りつつ、毎日それを繰り返しているのではありませんか?」
日常、何とも思わずに重ねている悪を一つ一つ指摘される内に、さすがの校長先生も反省の心が起きてきました。
ついに玄関に座り込み、
「先ほどは、失礼なことを申し上げました。よくよく振り返れば、自覚なしにどれだけの悪を造っていることでしょう。ご無礼をお許しください。」
とお詫びし、それ以来、熱心に仏法を聞くようになったと言います。
私達は、法律を犯すような事をしなければ善人と思っています。
仏教は法律、倫理、道徳によるわけではなく、仏さまの眼からご覧になった姿を見ます。
たとえば、手のひらを見たとき、肉眼で見た場合、泥やインクが着いていなければ綺麗と思います。
虫眼鏡で見た場合、多少は細かい汚れが見えるかも知れません。
顕微鏡で見れば、雑菌だらけな事がわかります。
たとえで表せば、肉眼で見た物は法律により見たものです。
虫眼鏡で見たものは道徳、倫理で見たものです。
顕微鏡で見たものは仏の眼で見たものに相当します。
仏の眼は、微塵の悪も見逃さない厳密なものです。
釈迦語録-61 法鏡(とどろきラジオ)
法鏡 真実の鏡(仏教のこと)
仏教を聞くことが真実の自己を聞くことで、法鏡によってありのままの私の姿を見る。
室町時代のこと一休さんと蓮如上人の七曲がり半の松
七曲がり半にぐねぐねと曲がった松の木の前に人だかりができている。
そこへ、蓮如上人が通りかかられました。
群がる人をご覧になり、「一体、何の騒ぎじゃ」と尋ねられました。
「これは、これは、蓮如さま。実は、あの一休和尚が
“この松を真っ直ぐに見た者には、金一貫文を与える”
と立て札を立てたので、賞金ほしさに集まっているのです。」
と返事しました。
なるほど、ある者は松の木にハシゴをかけ、ある者は寝転がり、また、ある者は逆立ちしたりと、それぞれに工夫を凝らして松を見ている。
けれども松を真っ直ぐに見た者がいない。
事情を聞かれた蓮如上人は、
「また、一休のいたずらか。では、私は真っ直ぐに見たから、一貫文をもらってこよう」と事もなげに言われたので、一同仰天した。
一休ところへ訪れた蓮如上人、「おい、一休いるか」と呼びかけも屈託ない。
「あの松の木を真っ直ぐに見たから、一貫文もらいに来たぞ」出てきた一休さん。
「ああ、蓮如か、おまえはあかんよ。立て札の裏を見てこい」と答える。
実は、立て札の裏には、“蓮如は除く”と書かれてあったのです。
智慧のすぐれた蓮如上人には、見破られると一休も最初からわかっていたのでしょう。
戻られた蓮如さんに気がついた人達が、
「蓮如さま、一体どうやって真っ直ぐに見られたのですか?」と身を乗り出して尋ねてくる。
蓮如上人は、こう答えられました。
「曲がった松は、『曲がった松じゃのぉ~』と見るのが、真っ直ぐな見方じゃ。曲がった松を真っ直ぐな松と見ようとするのは曲がった見方」
「黒い物は黒、白い物は白と見よ。ありのままに見るのが真っ直ぐな見方、正しい見方なのだ」
「なるほど!、さすが、蓮如さま」一同感服したと言います。
仏法を聞く→法鏡に近づく。仏法を聞けば、今まで気がつかなかった自分が見えてくる。
法鏡に近づくほど、こんな我が身であったかと思っても寄らない自分の姿に驚くのです。
都合や、欲目を取り去ったありのままの自分はどんな姿かよく見ることです。
釈迦語録-62 三車火宅の譬(法華経)
(植木雅俊先生)(NHK、100分で名著より)
ある資産家の豪邸で、火事が起きた。
子供たちは、火事の恐ろしさ知らないで遊んでいる。
逃げようとしない。
そこで、資産家は、子供たちの好きなおもちゃで誘い出そうとする。
「お~い。羊の車と鹿の車と牛の車をあげるから出てきなさい。」
子供たちは、家から出てきました。「お父さん、おもちゃを下さい。」
資産家は、本物の立派な牛の車を1台ずつ与えた。
この譬は、火事に見舞われた家は、苦しみに満ちた現実世界。
子供たちは、刹那主義的な生き方をする衆生。
(声聞、独覚、菩薩)。
資産家は、如来。
おもちゃの鹿の車は声聞乗です。
羊が独覚乗です。
牛が菩薩乗です。
本物の牛の車が如来になる一仏乗です。
資産家は腕が強いのに腕力を差し置いて、巧みな方便によって、それらの子供たちを、その燃え上がった家から、脱出させ、脱出させて後に、それらの子供たちに立派な大いなる乗り物を与えました。
正しく完全に悟った尊敬されるべき如来もまた、如来の智慧の力と、
四つの畏れなきことを具えているのに、
如来の智慧の力と四つの畏れなきことを差し置いて、
屋根と覆いが燃え上がっている老朽化した邸宅のような三界から、
衆生を脱出させるために、
三つの乗り物、声聞のための乗り物(声聞乗)、
独覚果になる乗り物(独覚乗)、
菩薩のための乗り物(菩薩乗)を示されているのですが、
本当は一仏乗しかありません。
(おもちゃは比喩です、声聞、独覚、菩薩と差別していますが皆平等であると言う意味も含まれています)
釈迦語録-63 長者窮子の譬(法華経)
(植木雅俊先生)(NHK、100分で名著より)
50年前に行方不明なった息子を探す物語
誰でも悟りを開けるのだよと言う譬
努力していれば、必ず報われる。
50年前に行方不明になった息子を待ち続ける資産家がいました。
資産家の家の前を、その息子が通り過ぎました。みすぼらしい格好をしていたので、捕らえられてひどい目に遭わされると思い通り過ぎました。
資産家はすぐに自分の息子をわかり、連れてこようとしますが、男は。恐怖の余り気絶してしまいます。
父親は、誤解を解くために男を逃がします。
あるきっかけで、その息子は資産家に雇われます。
始め、汚物処理を任されます。
一生懸命にやります。
(当時のインドでは、カースト制度がありカースト以下の人間が汚物処理を行っておりました。カースト制度への批判もあります。)
(仏教の平等思想)
そして、段々と重要な仕事を与えられます。
ついに、資産家の資産の管理を任されます。
資産家は、男に息子と言う愛称をつけます。
男は、本当の息子でもないのに息子と言ってくれると喜びます。
資産家は、臨終間際に、この男は50年前に行方不明になった息子である。私の全ての財産を与えると言う。
求めずして思いがけない宝物を手に入れた。
努力していれば、必ず報われる。
ここでの比喩は、宝=仏性、父親=釈尊、息子=4人の弟子、衆生
(残り3人は、カースト制度の身分ある地位についている)
誰でも悟れる事を示している。
仏性は、人間の人格形成で完全なる人格をそなえた場合に得られるものであるが、ここでは、誰でも(カースト以下でも)仏性(悟り)を得る事が出来ることを譬えている。
釈迦語録-64 違いや個性を認め合う(法華経)
(植木雅俊先生)(NHK、100分で名著より)
迦葉よ、この三千大千世界に草や灌木、薬草、樹木たちが生えている。
それらすべては、大きな雲によって放出された雨水から、能力に応じて立場に応じて水の成分を吸い上げるのだ。
そして、それらは同一の雲から放出された同一の味の大量の雨水によって、それぞれの種類の種子に応じて、成長、発芽し、大きくなるのである。
そのように、それらは、それぞれに花と実を着け、それぞれにさまざまの名前を得るのである。
しかも、それらの薬草の群落や種子の集団は、すべて同一の大地に生えて、同一の雨水によって潤されるのである。
声聞、独覚、菩薩の違いがあっても同じだよ。
世界に一つだけの花
一人一人咲く花
釈迦語録-65 心の持ち方 チューリップ企画
心の持ち方
幸福や不幸は、過去の自分の行動の結果としてあらわれる。
自因自果。
○逆境に遭えば、過去にまいた悪業を知らされて、
懺悔し、二度と再び、そのような悪因をまかぬように努力する。
○順境に恵まれれば、こんなに恵まれているのは、
聖人のご加護と感謝して生きる。
こんなに恵まれて幸せと思う。
○常に自利利他の精神で布施を心がける。
実践してこそ人生はかわる。
本当の幸せに向かって、今日から一歩を踏み出しましょう。
釈迦語録-66 縁起担ぎは、根も葉もない。自分で善い行いをし良い運命にしましょう。(とどろきラジオ)
ある男のお話
大根の種まきに出かけてた時、隣のお嫁さんに出会って声をかけると
「虫歯が痛んで歯医者へ行く」という。
「こんな日に大根を蒔いたら葉が虫に食われてしまう。」と家に帰ってしまった。
翌日も道端で会った近所の主人がタオルを落としたので拾って渡すと
「はばかりさん」と礼を言われた。
「葉ばかりの大根ができてたまるか」と、その日も断念した。
翌朝も家を出たが村長と会ってしまう。
無視もできず、一昨日からの経緯を伝え、何も言わずに行ってほしいと哀願すると、
村長「そんな根も葉もないことを言うもんじゃないよ」とカラカラ笑った。
「ヒャー、根も葉もなければ全滅じゃ」
男は、とうとう大根蒔きができなかったと言う。
縁起は仏教由来の言葉「因縁生起」
どんな結果も因と縁が結ばれて生きると言うことです。
稲でも、モミダネという「因」があって、日光、土、水という「縁」が結びついて初めて収穫という結果「果」が生れます。
私達の運命も同様に各人の行為の「因」と様々な環境の「縁」で私達の運命の果「果」は現われるとお釈迦さまは言われています。
決して、根も葉もない語呂合わせで、運命が決まることはありません。
迷信に惑わされないようにしたいものです。
善い行い(因)が、善い結果(果)をもたらすのです。
善い運命にしたければ、自分の行いを正して、善いこと(人の役に立つ)ことのみ行えば良いのです。
釈迦語録-67 すべてがあなたに丁度いい
お釈迦さまの言葉
すべてがあなたに丁度いい。
今のあなたに今の親が丁度いい。
今のあなたに今の兄弟が丁度いい。
今のあなたに今の子供が丁度いい。
今のあなたに今の妻が丁度いい。
今のあなたに今の夫が丁度いい。
今のあなたに今の会社が丁度いい。
今のあなたに今の上司が丁度いい。
あなたもそれらと同じレベルであるのだから丁度いい。
出典:小林正観さんCD「こころの遊歩道」
以上、釈迦語録でした。
お釈迦さまの教えは、7千余巻のお経に残されております。
ここに書いたのは、極一部です。
しかし、仏教の本質を突いたところを拾い上げたつもりです。
お釈迦さま自身も、私の教えはやがて消えるであろう。
しかし、ずっと残って欲しいものがある。
それは、無量寿経です。
私の法話にも出てきた無量寿経です。
私は、浄土三部経と言われる、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」これらは、
後世に語り継がれていって欲しいと思います。
なにしろ慈悲深いです。
これらのお経で争いが起きることはないでしょう。
極楽浄土の風景や、その光景を思い浮かべる方法などが、述べられているのですから。
如来の願が書かれているのです。
一度は、意味を理解して聞いて頂きたいお経です。