花田雄七は熊本県天草郡高浜村で父長吉、母ツルの長男として生まれ父は雑貨商人であった。雄七は幼い頃から苦労を重ね、丁稚奉公に出されたこともあり、十二才のとき父母は子供を残したまま家出し、家族はバラバラになってしまった。翌年、彼は、軍属として働いていた叔父の小松弥吉に引き取られ、中国黒龍江省シベリヤのクツチャクへ行った。そこはハルピンから汽車で一週間もかかるところで、河の向こう側には日本人が三百人程いて、日本人の遊廓や料理屋もあった。雄七はその土地の宮崎病院で朝の四時から起きて掃除をし、昼はビン洗いや医者の靴磨きや小使いで歩り回わり、そのうち薬局で働くようになって九年間を過ごした。
しかし、日本軍のシベリヤ徹兵があったので東京へ引き揚げ、大正十一年、モトチヨと結婚し、翌年は関東大震災に遭って、従兄弟がいる神戸へ家族を連れて移った。神戸では、前川孝一 (津野兼盛と船員時代の友人)が加藤と共同でクリーニング店をやっていたので、花田雄七は加藤の下で注文取りをすることになった。そのある日、前川孝一に連れられて、やはり彼の船員時代の友人、山崎豊實(後の本海宣教所初代) に初めて会った。「天理教に入ったら貧乏するとか、悪くなる、と言う人もいるが決してそんなことはない」と山崎豊實から神様の話を聞かされ、雄七は「道理にかなった教えだ」と感じ、三人は、そのまま津野兼盛の布教所を訪ねた。
後年、妻が産後の患いで前川孝一からたすけられ、大正十五年姑のツルと別科へ入った。花田雄七は昭和七年別科四十七期を修えて信仰を深めてゆくうち、片山好造本島分教会長に会ったとき、「シベリヤの布教は、今のところダメだ。現在、本宮寛がフィリピンのダバ島で頑張って布教している。それに中国では、一千万人もの中国人が華僑として外国へ進出しているから、まず、中国人を道の人にするのが肝要だ。外国への布教上、これは非常に効果もあることだから、海外に縁のあるお前は、中国の玄関口である上海で布教せよ」と言われた。
血気盛んな雄七は、その言葉を受けて昭和八年、妻と三才の娘を連れて見ず知らずの上海へ向かった。当時、六人の子供が生まれたが次々に出直し、残った幼い娘を本邦宣教所に預けたままの上海ゆきであり、知る人は、一人もいなかった。上陸したとき手元に残った金は、わずか四円であったから、家族は貧しい中国人宿に泊まって布教の第一歩を始めた。妻モトチョは助産婦の資格を持っていたというもの、後から来た母のツルと、連れて行った幼い娘を一週間のうちに次々に死なせ、夫婦は、骨と皮ばかりのどん底生活が続いた。
市内には、中国人のスパイが出没していた頃だから、花田雄七はその一人に間違いられたこともあったが、最初、にをいがかったのは大分県玖珠郡出身の長門チクであり、彼女がヒョウソウを患ったとき別科行きの心を定めさせ、おさづけで鮮やかなご守護をいただいた。チクの夫は軍属の一員であったとはいえ、バクチ打ちであり最後の死に方は惨めであった。チクは、一人娘と花田雄七夫婦と苦労を分かち合いながら一緒に暮らし、家政婦としてよく働いた。
昭和十二年十二月の奉告祭は七千円の予算で、そのうち一千円を花田雄七から申し渡され、毎月、百円程の収入であったから、さすがにチクは驚いた。が、「先生が御用をかけて下さったのは、私にできるからこその親心に違いなし」と信じ、「上海で一番、金持ちの家で働いてみせます」と言って、事実、それを実行した。長門チクは戦後、上海から引き揚げて長崎で再婚して熊谷姓になり、昭和四十一年六月、長崎県大村市で布教所を開設した。
昭和三十五年三月七日、津野鶴遊本邦二代会長が出直したので、花田雄七が三代会長のお許しをいただき、花田モトチョが黄浦江分教会二代会長のお許しをいただいた。花田モトチョ会長が出直したあと、熊谷チクの娘婿の熊谷忠義が三代会長を継承して長崎に移転した。
(天理教 本島大教会史より)