昭和初期、本島分教会は独特の海外布教を行ったことがあり、その発案者は片山好造会長で、実行者は、後に本邦宣教所長に就任した津野兼盛である。
それは、航海布教と言ってもよく、布教師を外国航路の大きな船に乗り込ませるのだが、対象とする者は高級船員でもなく下級船員でもない、中間程度の船員で、まず、この人たちに別席を運ばせ、一時、下船させて別科へ行かせる。修了してからは、おたすけの経験を踏ませて後、再び乗船させるのだが、これには、かなりの期間が必要で金もかかるので、教会としてもいろいろと困難が伴った。しかし、成功すれば幾多の効果も生まれてくる。
例えば、船員布教師は各国の風俗習慣を調査することもできるし、 その国の様子を知ることも容易で経費は殆ど不要であり、将来の海外布教に貢献する要因になる、というのが片山好造の考えであった。一人の船員布教師が南米へ航海した時、船内で婦人と知り合った。彼女が船酔いで困っていたとき、布教師がおさづけの理を取り次いだから非常に喜ばれ、上陸してこれが夫に通じ、夫は在留邦人に話したので講演を頼まれたこともある。
津野兼盛は片山好造会長から「アメリカには岡崎ヨ子と鳥沢林蔵がいるし、南方は津野さんに任せるから、しっかりやってもらいたい」と励まされ、船の自室に神様を祀り船員仲間をにをいがけた。
彼が日本郵船銀洋丸の酒場主任時代(津野はカクテルをつくるのがうまくて、宮様が乗船したときには特に選ばれた)、船が上海に寄港したことがあり、そのとき菓子職人が密輸銃を酒倉に隠したので責任者の津野に嫌疑がかけられた。
津野は神戸の弟に事情を電報で知らせたところ、弟は山崎久衛に連絡し、彼女は本島分教会の長尾幸太郎にお願いづとめを願った。
職人は、その後すぐに犯行を自供して事件は解決し、津野兼盛の信仰はこれを機会に一段と進んだ。
山崎久衛の夫の山崎豊實は元船員であり、横浜時代、津野兼盛を世話して船員に仕上げた人で、津野の妻鶴遊は久衛の姪になり、牛原家の次男の兼盛が養子に迎えられ、牛原から津野に改姓した。
上野作次郎(ホノルル教会初代)と妻津志(本幹分教会二代会長須崎綾二の実姉)が昭和四年、布教のためハワイへ向かったとき銀洋丸を利用しており、津野兼盛が船中で世話した。
昭和初期、アメリカ布教に出発した人たちは同様に日本郵船の銀洋丸に便乗した。
津野夫婦には子供が生まれなかったから牛原三郎と春江の間にできた彰が養子になった。しかし、彼は教会を出て道を離れ、若くして出直した。
昭和三年、本邦宣教所が神戸市内で設立されているが、大正末期には市内の神田町に多くの若い船員が下宿して常に活気があり、そうした船員の中から部内教会の初代が三人生まれている。
津野兼盛が出直したあと妻の鶴遊が二代会長のお許しをいただき、三代会長を継承したのは部内(黄浦江分教会初代)の花田雄七であり、昭和六十二年辞職し、花田百一が四代会長に就任しており、立教百五十五年五月立派な神殿のご守護をいただいて移転した。
(天理教 本島大教会史より)