いると思えばいる。ないと思えばない。信じる心に見えてくる利益(りやく)が、神様の姿なのです。
神様は、目に見えませんが、神様が、お話してくれた「おことば」は、文字になって、目に見えます。そのおことばを信じることが、神様を信じることなのです。
神様の教えは、この世界の決まりやルールみたいなものです。これを「理」といいます。
交通ルールを知らないで、車を運転したら、事故を起こしますよね。
知らないと、人間が苦しむことになってしまうルールを、神様が教えてくれているのです。
神様が罰を当てているのではなくて、ルールを知らないから困ったことになっているだけなのです。
簡単にまとめると、神様は、3つのことを教えてくれています。
かしものかりもの。
心通りの守護。
人間の心は自由。
この3つです
*参考(道友社刊行 八つのほこり 序文より)
人間の身体は、親神様からのかりもので、心だけが自分のものであります。身体をはじめ、身の周りの一切は銘々の心通りに御守護下さいます。・・・・
「かしものかりもの」とは、私達の肉体や、形ある全てのものの真実です。
肉体や、形は、神様だけが動かす力を持っているのです。なぜなら、肉体や形を、作ったり動かしたりするのは、神様にとっても大変に難しいことだからです。それほど、複雑で大変なものを、人間が勝手に使えたら、たちまちめちゃくちゃにしてしまうでしょう。
そこで、人間を守るために、神様がだけが、肉体や形を動かしているのです。
だから、私達の身体は、自分のものではないのです。「身体は、神様から借りている」、「神様が人間に肉体を貸している」、これを、「貸しもの借りもの」と、言うのです。
借りているからと言っても、人間に身体を動かす力はないのです。身体は、絶対に人間に動かせないのです。身体は、神様だけが動かせるのです。
身体の具合が悪くなると、「病気」などと人間はいいますが、神様は「病気というものはない」といいます。
病気ではなく、「身体は人間に絶対に動かせない」という真実を少し体験させてもらっただけなのです。
この「かしものかりもの」こそ、神様が教えたい一番のことなのです。
人間の喜びのために、神様が決めたルールなのです。
神様と人間の間には、このたった一つのルールしかないのです。
私達人間は、他人の心の中は絶対に見えません。けれど、神様には、人間の心が丸見えなのです。そして、人間が使った心を、神様は全て受け取るのです。そして受け取った心通りに、神様が働いて下さっているのです。
人間は、肉体も形も動かす力はありませんが、心が自由で、神様が心通りに守護して下さったら、誰にとっても喜びですよね。
身体は、神様しか動かす力がないのです。
人間が自分で自由に使えるのは、心だけなのです。
人間は、心しか使えないのです。
肉体が、かしものかりものなら、人間は、自分のものといえるのは、自分の心だけなのです。
けれど、その心を使えば、絶対に動かせない肉体や形を、神様が動かしてくれるのです。
心を使えるだけなら、何を願っても、むなしいだけです。
けれど、神様が受け取って、願いをかなえて下さっているのです。
これこそ、いつでもある最も大きな喜びなのだと思いませんか?
そうです。心通りの守護とは、どんな心も、その通りに、神様が守護するというルールなのです。
そんなことはありません。人間は、ほぼ全ての願いをかなえてもらっています。
歩きたいと思えば、直ぐに足が動いてくれる。
水を飲みたいを思えば、美味しく水を飲ませてくれる。
人間は、絶対に身体を動かせないし、神様しか身体を動かす力を持っていないのですから、神様は一日中、私達の心に寄り添って、願いをかなえてくれているのです。
神様は、人間の心を全て受け取って、必ず守護します。
ただ、守護するタイミングは、神様が決めるのです。
すぐに受け取り、すぐに返す守護もあるし、なかなか返らない守護もあるのです。
簡単に言うと、良い心は、早く返り、そして世界中に返るのです。反対に、悪い心は、遅く、しかも自分だけに返るのです。
だって、「あいつなんて死んじまえ」なんて思ったことが、直ぐに実現したら、大変ですよね。
だから、悪い心は、心を改めるための時間を与えたり、自分だけに返ってくるようになっているのです。
また良いことであっても、世界中の人間を助けるというような大きなことは、直ぐには守護できませんよね。
ただ、必ず心通りの守護をしていただけるのだから、心さえ使えたら、あとは楽しみばかりなのですね。
人間が思っている以上に、心は自由なのです。
身体は、神様のかしものなのです。かしものは、神様のものです。神様が、大切に管理し、守っているのです。つまり、私達は、自分のことを心配する必要がないのです。
今まで、自分自身のことを大切にすることで、心の中は一杯でした。
けれど、自分を大切にしてくれている神様を知ったら、自分の心配から解放されるのです。
そうしたら、自分だけでなく、他人のことや、周りのことを、考えることができるようになるのです。
神様みたいに、世界中の人間のことを、わが子のように思いやることもできるのです。
神様以上の、神様も驚くような素晴らしい心を、使えるようになることだってできるのです。
それが、人間の心は自由ということなのです。
良い心は、神様の心と同じ心です。神様の心は、人間の陽気暮らし、人間が楽しく暮らすことが目的です。そして、神様の心は、人間自身の本心でもあります。よく心を静めて思案してみれば、きっと自分自身の願いも、人間が楽しく暮らすことだと思いいたるでしょう。
その本心を、隠すのが、悪い心です。
たとえるなら、お腹がすいて御飯が食べたい心を本心とするなら、食べないように我慢する心が、本心を隠す心です。
けれど、我慢は、長続きしません。本当にしたいことに反するからです。
自分自身が、いつまでも楽しく続けられる心こそ、本当に良い心です。
「自分を含めた世界中の人間がいつまでも楽しく暮らすこと」が自分の本心だと目覚めたとき、良い心や悪い心が何なのか、おのずと分かるようになるのです。
自分の生活の中、現実に神様が自分にして下さっていることを、感じ取ればいいのです。
それが信仰です。
力いっぱい神様を拝み倒すよりも、実際に神様がして下さったことを一つでも感じて喜べるほうがいいのです。
神様は24時間、一瞬も休みなくお働き下さっています。私達の周りは、神様の御守護だらけです。自分の生活のどこを切り取っても、神様の御守護で成り立っていないところはないのです。
それを感じて喜んだら、それが神様の心にかない、運命が開けていくのです。
まずは、自分自身に、神様をお話を何度も何度も聞かせてあげましょう。
そうすれば、必ず自分自身という「人」が、一人助かるのですから。
お賽銭を入れて拝めば助かる、というような方法はありません。
最も、てっとり早いのは、「みかぐらうた」を毎日唱えることです。
「みかぐらうた」は、神様の心の表現であり、神様そのものです。
毎日、神様に触れ続けるのが、最も確実な近道です。
信じなければ、老病死に悩む人間のままであり、かしものを信じれば、神様の守護に守られた喜びいっぱいの人間となるのです。
どちらにするか、神様がいるかいないか、自由の心で、自分が決めればいいのです。
神様は「病気はない」と言っています。病気ではなく、神様からの仕込みなのです、と。
仕込みというのは、教育のことです。身体が、人間の自由になるものではなく、神様が自由にしているものだということを、教育しているのです。
「かしものかりもの」の話を聞きわけて、「成程、自分の自由にはならないのだな。神様しか身体を動かすことはできないのだな。」と得心すると、身体がまた自由に動くようになる。
この体験をすることで、神様がいるということ、神様の言っていることは真実なのだということが、分かるようになるのです。
おつとめとは、神様が人間世界を創造した時の働きを、そのまま形に現したものなのです。
神様は、今も世界と人間の創造を続けています。その神様の務めに、人間も参加できるのが、おつとめなのです。今までにない素晴らしい人間世界を創造していく元が、おつとめなのです。
罰はあたりません。ただ「人間が出来上がったら、おつとめをして神様を拝する」という神様との約束があるのです。もし、今、誰もおつとめをしなくなったら、神様もおつとめを止めてしまい、世界は瓦解してしまうのです。
教祖が、命を25年縮めたのも、人間に早くおとつめをつとめさせたいがためだったと言えるのです。なぜなら、当時、おつとめをすると、教祖が監獄に入れられてしまうと言って、おつとめを控えていたのです。けれど、教祖の姿が無くなってしまえば、監獄に入れられる心配はなくなって、おつとめを堂々とできるのです。そこで、教祖は、姿を隠して、存命のまま、本席様に入りこんで、お話をすることになったのです。
教祖が、命を25年縮めなければならないほど、人間がおつとめつとめる時期が迫っていたのです。
世界を支える大切なおつとめですが、しなければ罰があたるということはないのです。
今、実際に神様が働いて下さっていることを喜ぶのです。
朝起きて、生きている。
目が見える。
耳が聞こえる。
手足が動く。
水を飲めば水の味がする。
美味しくご飯を食べられる。
仕事や学校に行くことが出来る。
大地震や大病や大事故や戦争もなく、無事に一日過ごせる。
これら全て、自分に絶対に出来ないことです。
神様が、24時間一瞬も休まずにおつとめをつとめて下さっているから、出来ていることなのです。
どれ一つが成り立たなくなっても、大変なことです。
逆に、どれか一つの神様の守護を感じただけでも、大きな喜びです。
一つ一つ、神様のお働きを感じる心を、育てていくのです。
自分に絶対に出来ないことを、神様に守護して頂いている喜びは、いつでもどこにでもある喜びです。
それを感じることが出来るようになったら、その心を神様に受け取ってもらって、いたるところに喜びの守護が現れてくるのです。
それが、心通りの守護という教えを使って、陽気暮らしを実現する生き方なのです。
お授けを取り次ぐ資格のある人が、病人の前で、神様のお話をしてから、簡略化したおつとめをつとめるのです。
「あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと」と、三回つとめることを三回繰り返します。
すると、不思議な御守護を頂いて、病人が助かり、神様が居ること、神様の教えが真実であることに、目覚めることが出来るのです。
神様の人間創造は、今も続いているのです。
昔は、神様のことを何も知らなかった人に、神様の名前を知ってもらうだけで、不思議な助けを頂けたりしました。
今は、一歩進んで、神様の教えを理解できることが重要なのです。
病気をして、神様に縋って、お授けをして頂き、病気が治る。
けれど、直ぐに神様の教えてくれた「かしものかりもの」や神様の御守護の喜びを忘れてしまう。
また、病気になって、神様に縋って・・・治ったら、また、直ぐに、教えを忘れる。
私達は、こんなことを繰り返しているのです。
これが不思議な助けを頂けない原因かもしれません。
身体が動かないときに、神様が自由にしている神様のかしものかりものだと感じたら、元気に動く時にこそ、自分が絶対に動かせない身体を神様が動かしてくれていると感じる心を、見失わないようにすればいいのです。
元気な時にこそ、「かしものかりもの」を心得ることが大切なのです。
よい方法があります。
「みかぐらうた」を静かに唱えるのです。
その時、身体は神様のかしものだと心得てから、唱えるのです。
すると、「みかぐらうた」は神様のことばであり、身体は神様が動かす「かしもの」ですから、自分は自分の心だけになります。
そう理解して唱えてみれば、神様のかしものから、神様の声が聞こえてくる、それを自分の心が聞いている状態になります。
その練習をしていけば、誰でもありありと神様を感じることが出来るようになるはずです。
自分の心を、治めればいいのです。
悩みごとや心配ごとは、神様にお供えしてしまいましょう。
どうせ自分にはなんの力もないのですから。
私には何もできませんので、どうぞ神様、本日もお連れ通り下さい、と真剣に神様におすがりしていくしかないのです。
そうして、心配ごとを神様にお任せしてしまえば、自分の心が軽くなり明るくなります。
心配や悩みで治まらなかった心が、静かに治まるはずです。
その治まった心に、心通りの守護を頂けるのです。
「みかぐらうた」を唱えるのも、心を治めるのに良い方法です。
あります。
私達の魂は、大昔から、何度も生まれ変わって、永遠に存在し続けるのです。
今生きている今生もあるなら、生まれ変わる来生もあるし、前生もあるのです。
そして、前生に使って来た心は、神様に受け取られて、今生の運命になるのです。
どういう両親のもとに生まれるか、どういう肉体に魂が宿るか、どういう縁を頂くか、どういう性格か、どういう伴侶を得るか、などなど、前生の心によって、今生に与えられるものが、決まるのです。
それが、心通りの守護です。
前生なんて、私は知りません、と言うかもしれませんが、今から前は、全て前生なので、今生、今までに使って来た心も全て前生に含まれます。
使って来た心通りに、神様は何も作り変えず、そのままに与えて下さっているのです。
神様の教えを知らなければ、知らずに使ってしまう心です。
心通りの守護で、人間が困難に遭わないように、あらかじめ神様が、使わない方がいい心を教えてくれているのです。
天理教の道友社から出版されている「八つのほこり」には、以下のように記されています。
人間の身体は、親神様からのかりもので、心だけが自分のものであります。身体をはじめ、身の周りの一切は銘々の心通りに御守護下さいます。
親神様の思召に沿わない、自分中心の心遣いを「ほこり」と仰せられます。ささいな「ほこり」の心遣いも積もり重なると、ついには十分な御守護を頂けなくなります。そこで親神様の教えをほうきとして、たえず胸の掃除に努めるとともに、人には「ほこり」を積まさぬよう心を配らねばなりません。
ほこりの心遣いを掃除する手掛かりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」という「八つのほこり」をお教え頂いています。
おしいとは、心の働き、身の働きを惜しみ、税金など納めるべき物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、借りたる物を返すのを惜しみ、嫌な事は人にさせて、自分は楽をしたいという心。すべて、天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いはほこりであります。
ほしいとは、心も尽くさず、身も働かずして、金銭を欲しがり、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、また、あるが上にも欲しがるような心。何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります。
にくいとは、自分のためを思って言ってくれる人に、かえって気を悪くして反感を持ち、あるいは自分の気に入らない、癪に触ると人を毛嫌いし、陰口を言って、そしり笑うような心。また、銘々の身勝手から夫婦、親子など身内同士が、いがみ合うのもほこりであります。
かわいとは、わが身さえ良ければ、人はどうでも良いという心。わが子を甘やかして食べ物、着る物の好き嫌いを言わし、仕込むべき事も仕込まず、間違った事も意見せず、気ままにさせておくのは、よろしくありません。また、わが身を思って、人を悪く言うのもほこり。わが身わが子が可愛ければ、人の事も思い、人の子も可愛がらねばなりません。
うらみとは、顔をつぶされたとて人を恨み、望みを妨げられたとて人を恨み、誰がどう言ったとて人を恨み、根に持ち、銘々、知恵・力の足りないことや、徳のないことを思わず、人を恨むのはほこりであります。人を恨む前に、わが身を省みることが大切であります。
はらだちとは、腹が立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪いことを言ったとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。これからは腹を立てず、天の理を立てるようにするがよろしい。短期や癇癪は、自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうことがあります。
よくとは、人より多く身に付けたい、何が何でも取れるだけ取りたいという心。人の目を盗んで数量をごまかし、人の物を取り込み、あるいは、無理な儲けを図り、暴利をむさぼる。何によらず、値を出さずわがものにするのは強欲。また、色情に溺れるのは色欲であります。
こうまんとは、思い上がってうぬぼれ、威張り、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけにするような心。また、目上に媚び、弱い者をいじめ、あるいは、頭の良いのを鼻にかけて、人を侮り、知ったかぶりし、人の欠点ばかり探す、これはこうまんのほこりであります。
今の心を変えれば、運命は変えられます。
今の運命は、前生に使って来た心で決まったものです。
けれど、来生は、今生で使っている心で決まります。
来生と言っても、生まれ変わった後のことではなく、今から未来が全て来生なのです。
今、心を変えれば、これから先の運命が、変わります。
では、どういう心に変えればいいのでしょうか。
神様の教えを信じる心です。
信じなければ使えない心があるのです。
それは、今の運命を「こうあるべきもの」と認める心です。
神様は、「今の運命は、過去の心使いがあってこそ、心通りに現れたものなのですよ」と教えてくれています。
神様の教えを信じると「こうあるべきものだ」と心を治めることが出来るのです。
これを、「たんのう」と言います。たんのうという言葉には、満足とか喜びという意味があります。
たんのうの心は、普通に考えていたら、絶対に使えない心です。
嫌な運命を、どこかのマンガのパパみたいに「これでいいのだ」と言っているだけなら、自分の身が危うくなるかもしれないのですから。
そんな弱弱しい心は、誰も使わないはずです。
ですが、神様のお話には、続きがあります。
今の運命を、たんのうできたら、今の運命が消えると言うのです。
しかも、今の運命が消えるだけではないのです。
今使っているたんのう心を、真の誠の心として、神様が受け取って下さるのです。
今の運命が消えて、新しい運命が開けていくのです。
自分の知恵や力を頼りにするのは、一見、強そうですが、限界もあります。
神様の教えを頼りにするのは、一見、弱そうですが、神様には限界はないはずです。
とは言え、知らない道に踏み出すのは、勇気が要るものです。
神様は、試しに三日間だけ、誠の心で通ってごらん、と言っています。
そして、三日通れたら、また三日三日と続け、三年千日続けることが出来たら、五十年間、教祖が誠の心で通ったのと同様に受け取ると、神様は言っています。
どんな未来が開けていくか、とても心が勇んでくるお話ですよね。