初代会長の本宮寛は新潟県南魚沼郡六日町大字篠原の八海山神社の宮司、本宮智の弟に生まれ、大正末期十年の船員歴を持っていた頃、同僚の津野兼盛(本邦分教会初代)の感化を受けて入信した。
昭和四年二月、別科を修了した本宮寛は神戸で布教し、昭和六年布教を目的としてフィリッピンへ渡り、翌年、ミンダナオ島でフイリッピン教会設立のお許しをいただいた。信徒総代には井口太一、 岡村盛三、内田正市らの名があり、建物は二十五坪五合レンガ造平家建。家賃一ヵ月二十五ドル。家主はフィリッピン人のエイチ・マクレン。信徒、男七十。女三十一。総費用一五〇〇ドルと記録されている。
当時、ミンダナオ島ダバオ市のタグラ附近には日本人が多く、ほとんどの人が麻山開拓とその経営に従事してフィリッピン人を雇っていた。
本宮寛はほかに職業を持たず布教に専念し、熱心ににをいがけに歩いた。昭和八年九月、山沢為次先生と中山慶一先生がダバオ方面へ巡教されたとき、岩佐一郎の長男、道夫が身上で不思議なご守護をいただいたことがあり現地の人は感激した。
昭和九年には桜井保一、住田和一、原野あさ子、柏夫人、黒田夫人、岩佐キクノたち六名が別科に入った。
岩佐夫婦は大正十五年末にダバオへ渡り、野菜づくりをして生計を立て、後年、本宮寛の理解者になる。
フイリッピン教会は昭和四十三年島根県出雲市で復興するのだが、二代会長に就任した今若靖己は島根県簸川郡江南村の農家の二男に生まれ、昭和五年、鹿児島高等農林学校を卒業した翌年、移民としてミンダナオ島ダバオ市へ行き、大力貿易商会に就職した。
そのある日、病気で倒れたとき小林という人ににをいがけられた。小林は、本宮寛によって手引きされて熱心に布教し、教会の近くで野菜を売り教会へも野菜をよく運んだ。
今若靖己は昭和十一年二月、別科を修え、同郷の二十一才の美代子と結婚し、四月には日本郵船加茂丸で神戸を出帆、九日ほどでミンダナオ島ダバオ市サンターナル港へ上陸した。
美代子はアメリカ、シャトル市生まれの二世であったが、お道のことはまったく知らず未開の土地での生活は大変なことであった。
本宮寛は先妻と死別していたので本邦宣教所のハナエと再婚し、その子供の辰照を連れて再びフィリッピンに戻ることになり、今若夫婦はフイリッピン教会で留守を守り新婚生活をしていた。
昭和十二年、今若夫婦に子供(長女=豊子)が生まれることになったが難産で、土地の産婆は逃げて帰り、夫は使いの者をフイリッピン教会に走らせ、 月次祭のさなかであったけれども本宮会長がすぐに来て、おさづけを取り次いだら直ちに安産することができた。
フイリッピン教会の月次祭には日本人が十名ほどとフィリッピン人が数名、いつも参拝していた。
日本が真珠湾を攻撃した日、フィリッピン軍人が銃を突きつけて家に入り込んできて、今若家族はそのままカリナン小学校に連行され捕虜生活が始まり、そのあと日本が優勢になったら一時解放され、フイリッピン教会近くの末広道路で借家した。
今若靖己は軍属として働き本宮会長も元気だったが、敗戦の色が濃くなるにつれて日本人はバラバラになり、今若夫婦は丸裸で子供三人と昭和二十年十一月、宇品へ上陸した。
本宮寛会長は敗戦後も残留する決心で、親子三人が放浪中のある日、偵察に行ってくると言ったまま帰らず、妻と子を残したまま消息不明になってしまい、そのあと二人だけが帰国した。
今若靖己二代会長は平成二年身上で倒れたので、妻の今若美代子が代務者のお許しをいただいてつとめていたが、二代会長は平成三年十二月十一日出直し、長男克己がフイリッピン分教会三代会長のお許しをいただいた。
(天理教 本島大教会史より)