田中吾一は兵庫県穴栗郡の人で、隣村の梅乃(國船分教会初代会長夫人)と結婚し、国際航路の船員であったが、結核病になって寄港先のドイツから帰国して神戸で養生していた。
その頃、近くに住んでいたのが山崎豊實と久衛夫婦であり、久衛の紹介で津野兼盛夫婦を知り、梅乃夫婦は、そのうち別科行きを勧められた。
夫の吾一は、「私は助かる身ではないからお前だけでも大和へ行ってくれ」 と同意した。一人息子の豊が一才にもならないときで、梅乃はこの子を連れておちばで修養中、吾一危篤の電報を受け取った。夫はその直後出直した。
田中梅乃は別科を修えてから幼い子と二人で本邦宣教所に住み込み、布教をするようになり、津野兼盛の船員時代の後輩の溝口清太(國船分教会初代)と結婚した。二人は共に子供を連れての再婚である。
溝口清太は十六才から二十一才まで東京で中野正剛の家で書生をしており、ある時、師に命じられてボストンバックに大金を入れて福岡へ届けたことがある。彼は途中で金を使わなかったから「お前は政治家にはなれないし、ダラカンにもなれない。だから、今のうち将来のことをよく考えて親父と相談せよ」と言われて悩んだことがある。
大正十二年関東大震災に遭い、上海丸で横浜から神戸へ逃れ、一時ボーディングハウスに寄宿し、柴田雲造(号は世界)に会った。この三文々士が津野兼盛に傾倒していたから紹介された。この時すでに溝口清太は、一年程、船員の経験があったので、昭和三年、南米航路の日本郵船銀洋丸で津野兼盛と働くことになった。
溝口清太は昭和五年別科を修え、片山好造本島分教会長の思いを受けた野津兼盛の希望もあり、ヨーロッパ航路の国際汽船アトランティック丸や、ニューヨーク航路の鹿野丸に乗船し、船員の食事を賄う責任者として働き、航海布教に従事した。
溝口清太は昭和十年國船分教会設立のお許しをいただいたが、夫は仕事の関係で家を留守にすることが多かったから、妻の梅乃は、神戸市兵庫区新開地の山側に住んでいた頃、息子の豊を連れて病院を回っておたすけに通い、夜は、近くの芸者の着物を縫い、生活を切り詰めて教会の御用をよく果たした。
二代会長の溝口ミヨコは田中豊と昭和三十一年結婚したが、夫は若くして出直し、義父の溝口清太が倒れてからもよく看護し、長男が事故死に遭うなど不幸が続いたが耐えてよく頑張り、梅乃の療養生活を助けている。
(天理教 本島大教会史より)