香港は阿片戦争(一八四七)のあと英国が中国と条約を結び、九十九年間の租借で九龍の一部を英国領とした。昭和二年の頃、中湾(チュワン)には日本の商社や大商店が多くあり、邦人も二千人程いた。
その東側の湾仔 (ワンチャイ)は、日本船が出入りする港があり、その人たちを相手にして雑貨を商う人が住んでいた。この町を皇后大道東と言い、昭和四年の夏、船員風の男がタイコウドックの方へ向かって歩いていた。
石渡キンはそのあたりで太鼓まんじゅうを売っており、顔色のよくないその男を見て、「どこへ行くのですか。これから先は中国人の貧民街ですよ」と注意した。
男は立ちどまって「私は天理教の布教師で田中弥四郎という者です。実は、西村安蔵さんを訪ねたら、マカオへ行って留守で困っているのです」と言った。不思議なことに、 この石渡キンは日本にいた頃神様の話を聞いており、
「私の家に来ませんか」と近くの家の三階に案内して夫の石渡松吉を紹介した。
田中四郎は船員時代、津野兼盛(本邦分教会初代)よりにをいかけられた人で、香港では西村安蔵を手引きしていたので、そこへ田中弥四郎を派遣したわけである。田中弥四郎は上陸してから二、三日は公園で夜を明かし、にをいがかからなかったら香港の海で死んでやろうというほど気は転倒していたが、石渡夫婦の好意で宿を与えてもらい布教に従事した。
道の理を聞き分ける人が一人二人と出来るうち、船員仲間の孕石順作(香港分教会二代)が寄港するたびに訪れ田中弥四郎を助けた。田中弥四郎は、「孕石順作に手伝いに来てもらいたい」と津野兼盛に要請したので田中弥四郎は日本へ帰り、孕石順作が香港へ向かった。
孕石は明治二十三年、愛知県の農家の六番目に生まれ船員であった義兄の口ききで日本郵船会社の船員になり、東洋汽船の銀洋丸で働いていた津野兼盛から神様の話を聞いて入信した。孕石順作は四十二才のとき別科四十二期に入り、そのあと香港へ行った。
津野兼盛は本邦宣教所の初代所長であったから、その部内教会の香港教会設立には津野の妻、津遊がお許しをいただいた。しかし、彼女は生来体が弱かったので香港へは一度も行くことはなく、代務者として孕石順作が派遣されることになった。香港へ行くとき妻は、「食べる目当てがあるのですか」と心配していたが、教会の近くの人は親切であった。
孕石順作は日本軍が香港に進出して来て現地徴用されたので家族を帰国させ、昭和十九年に戦争で負傷し内地に送還され終戦を迎えた。
それから七年後、孕石順作が香港分教会二代に就任し横浜で教会復興を終えた。三代会長は長男の孕石輝雄がお許しをいただいたが五十六才で出直し、妻の美代子が四代を継承して今日を迎えている。