私の瞬きをどうか見ていて
9/25/2016〜
※年齢操作あり、一期が長男ではありません
※ともないまして、口調や敬語、呼称、一人称などが変更されています
※つるいちは10歳差です(27と17)
※色々アレです
※何でも大丈夫な方向けです!!!!!
※※色々アレな事が出て来ますが犯罪等を推奨するものではありません※※
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ま たた・く 【瞬く】
③やっと生きている。
(weblio辞書)
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「本日よりこちらにお世話になります、一期と申します。どうぞよろしくお願い申し上げる」
粟田口家の玄関先でそう言って頭を下げながら、一期は無感動に自分のつま先を眺めていた。
母親が亡くなったのは一月ほど前だった。
いつものようにバイト先で、エクセルシートへの数値入力を行っている時だった。勤め先の輸入雑貨屋へかかってきた一本の電話が、完結に全てを告げた。携帯電話を持っていない一期へ初めてかかってきた電話に、雇い主である鶴丸も、店長を勤める光忠も、好奇心を隠さなかった。仕事の受け答えをするのと同じように淡々と通話を終えた一期に二人が話しかけると、一期はこれまた、淡々と返事をした。
「申し訳ありません、母が亡くなったそうなので、本日は早退をしてもよろしいでしょうか?」
一期は落ち着いて穏やかな子供だったが、鶴丸と光忠は感情に溢れた大人だった。
「当たり前だ!早く荷物をまとめるんだ」
「送ってくよ、先に車のとこ行ってるからね」
一期よりもよほど慌てた様子で、鶴丸は事務所の施錠を始め、光忠は車のキーを持って飛び出して行った。どこへ行くにも荷物の少ない一期は、作業途中のファイルをきちんとセーブして、いつもの手順でパソコンの電源を落とした。いつだって懐は淋しかったので、バスや電車を使わずに済むのは助かった。一期は光忠の厚意に甘えて、電話で告げられた警察署へ送ってもらった。何故か、鶴丸もついてきた。
遺体の確認をと言われ、えらくひんやりとした部屋に連れて行かれた。交通事故だったらしい。特に胸から上の損傷が酷く、見ない方が良いと言われた。一期は構わず、シートを全てめくってくれと頼んだ。ある程度清められていたのであろう母だったものからは、母の気配はもうしなかった。辛うじて残っている耳たぶにひっかかっているピアスに見覚えがあった。身に付けている服も、先日どこぞの男に買ってもらったのだと言っていたものだ。右手の薬指にはひしゃげた指輪がめり込んでいる。その指輪も、また別の男に買ってもらったと言っていた気がする。片方だけ履かされていた靴は、一番見覚えのある物だった。帰宅した時にその靴が玄関にある時は、一期はいつもそのまま家を出なければならなかった。その靴の隣には、必ず、大きな男物の革靴が並んでいたからだ。
「母です」
冷ややかに告げる一期に、立ち会った警官が何かを言った。機械的に、一期は何らかの返事をした。どれだけ意識が閉ざされていようとも、日常の受け答え程度なら問題無くできる。水の中に浸かっているように音はぼんやりとして、静かな耳鳴りが一期の心を穏やかにさせた。
一期がまだ未成年だったのと、他に身寄りが無かったので、鶴丸と光忠が色々な手続きを変わりに行ってくれた。その日、光忠に送られてアパートに帰ると、灯りの灯らない部屋が一期を迎えた。玄関を開けてもそこには誰の靴も無くて、身に付いた習慣が一期に安堵を与えた。六畳間のちゃぶ台の上には、朝、一期が作ったおにぎりが置いてあった。母のために作ったのだが、余計なお世話だったのかもしれない。流しにも何の変化も無く、一期が朝、軽く片付けたままになっていた。一期はそっと、おにぎりを包んでいたラップを開いた。匂いを確かめると、やはり、食べない方が良さそうだった。そのままおにぎりを捨てて、しまってあったカップ麺を探し出すと、やかんを火にかけた。そのまま台所で立ち尽くす。
母は、もう二度とここへは帰って来ない。
今までも、ふらりと居なくなる事はあった。幼い頃は大家のおじいさんにご飯を食べさせてもらっていた。小学校の終わり頃から、一期は学校へ行っていなかった。ガスや電気、水を使い、物を食べ、屋根のある部屋に済むためには、金が必要だった。新聞配達、郵便仕分け、近所の個人商店の店番、引っ越しの手伝い、ゴミ拾い。子供でもできる事や、やらせてもらえる事は何でもやった。母親が気まぐれにおいて行く茶封筒も、命をつなぐ大切な蓄えだった。ある日、いつものように肉屋の店番をしていた時にたまたま通りかかった光忠に年齢を聞かれ、コロッケを買ってもらったのが今のバイト先との縁だった。日によって違う場所で違う事をしている一期に気づいた光忠が鶴丸を連れて来て、十三になったあたりでバイトとして雇われた。鶴丸と光忠はパソコンなど触った事も見た事もなかった一期に使い方を教え、ついでに相応の読み書きや計算も教えた。勉強をすれば、もっときちんと働けるのだと言われ、一期は必死で学んだ。一期が十七になった今では、一期は二人よりも断然、会計関連に強くなっている。
沸騰したやかんが吹きこぼれて、コンロの火が勝手に消えても、一期はそのまま呆けていた。
不安はさほど無い。これまでも生きて来た。きっとこれからも生きて行けるだろう。
ではこの心の中にあるのは何だろうかと、一期は思っていた。それが寂しさだと気づくのに、五分も必要なかった。居るのか居ないのかわからないような存在だったが、母は母だったのだ。いつだって、もう帰って来ないという選択をできるような女性だった。けれど、ふらりと居なくなっても必ずいつかは帰って来た。そんな時には少し高級な菓子を持って帰って来て、一期と一緒に食べた。テレビも無い狭い部屋で、何を話すでも無かった。派手好きで、いつも一期の髪を奇抜な色に染めるような人だった。けれど必ず、よく似合う、かっこいいと褒めてくれた。暴力を振るわれた事は一度もない。父親は最初から居なかった。兄弟も、終ぞ、持つ事は無かった。きっと彼女にとって、一期は生きる支えだった。何故なら、彼女は一期の母なのだから。
その夜一期は、結局何も食べずに、床についた。
翌日、いつも通りに職場へ行くと、鶴丸と光忠は酷く驚いた。
「家に居てもやる事は特にありませんし、葬式をするお金もありませんし、無縁仏ということで何とかしてもらえないか警察にもお願いしましたし、自分はまだ生きているのでお腹が空くのです」
一期が淡々とそう告げると、二人は一期をキッチンへ連れて行った。光忠が手早く料理をして、ほわほわのオムライスが出て来た。一期はありがたくそれを食べた。空腹が満たされると、俄然、やる気が出た。こいつは驚いた、と目を丸くする鶴丸と光忠に礼を言うと、一期は何のためらいも無くパソコンの電源を入れた。
それから数日して、バイトを増やそうかと、コンビニで情報誌を立ち読みしていた一期は、不意に声をかけられた。
「よお、一期ってのはアンタかい?」
アイロンのかけられたワイシャツにジーンズ、ショルダーバッグの、黒髪の青年だった。大学生くらいだろうか。見覚えの無い顔に、何を言うでもなく首を傾げると、彼はとんでもない事を宣った。
「俺っちは粟田口薬研ってんだ。実はな、お前さんの兄ちゃんなんだ」
「…は?」
無視をしようとしていた一期だったが、予想外の言葉につい返事をしてしまった。母からは、親戚、ましてや兄弟などの話は一切聞いた事が無い。一期は不審を隠さなかった。薬研は嫌な顔をするでもなく、話のできる大人は居ないかと尋ねた。自分はもう十七だからと伝えたが、未成年は未成年だと一蹴されてしまった。
一期は仕方無く、薬研を連れて輸入雑貨店を訪れた。いつもの事務所ではなく、店舗のほうだ。鶴丸や光忠は事務所に居たり卸旅行に出たりをしていて、店舗は広光という店長が切り盛りをしている。広光は決して愛想のいい男ではなかったが、鶴丸や光忠と同じで面倒見は非常に良かった。一期が薬研を伴って店を訪れても、いつもの無表情を崩さず、都合良く奥で在庫確認をしていた鶴丸を呼んでくれた。
薬研によれば、粟田口家というのはかなりの資産家で、それなりの歴史を持つ家らしい。その粟田口の当主が大変な女好きで、子供の数が多く、既に十二人もの子供が居るそうだ。当たり前のように母親が異なっていて、薬研の住まう粟田口の屋敷に引き取られて住んでいる者もあれば、母親と暮らしている者もあるという。そしてあろう事か、一期の母親が粟田口の正妻だと、薬研は告げた。
「…何かの間違いではないでしょうか…。とてもではありませんが、母はそういった…きちんとした感じの者ではありませんでした」
一期が遠慮気味にそう言っても、薬研は苦笑するだけだった。
「お前さんの母親がどういうお人だったのかは俺っちにはわからんが、親父殿がえらく惚れ込んでるってのは確かさ。籍も、半ば勝手に入れてあったみたいでな…亡くなったんだろう?死亡届の事務関連でうちに連絡がきて、お前さん達の居場所が分かったってわけだ」
はぁ、と、気の抜けたような声しか、一期には出す事ができなかった。鶴丸はそんな一期の様子を見ながら、静かに話を聞いている。
「…正直、今まで全然知らなかったお人だからな、亡くなったって言われてもそうかいとしか言えないが、お悔やみは言わせてくれ」
言いながら薬研は、鞄から封筒を取り出した。香典と書いてある。差し出された一期は困ったように首を横に振った。
「葬儀は行いませんので、お気持ちだけ…」
助けを求めるように鶴丸を見やる一期に気づくと、薬研は封筒をそのまま鶴丸に渡した。
「じゃあとりあえず、預かっといてくれ」
「おう、俺か?わかった」
鶴丸は、すんなりとその封筒を受け取った。彼の事だ、きっと本当に預かっておくのだろう。
「それから、葬儀は行う事になっている。内々にだが…喪主は親父殿だ。それで、一期、お前さんは親父殿が引き取ると言ってる」
「え?」
「お前さんは戸籍通り、粟田口一期になって、俺っちたちと一緒に暮らすんだ…隠しても仕方無いから言うが、正妻の息子ってのが居てくれて俺っち達も本当に助かった。跡取り問題もこれで解決する」
「跡取り…?」
「なんせ妾の子ばっかり十二人も居るからな…兄弟仲はびっくりするほど良いんだが、周囲の思惑っつうものも色々あるんだ。お前さんにゃぁ俺っちを含めて兄が五人と、弟が七人できる事になる」
「…ちょ、っと待ってください」
「心配ない、家はここからそんなに遠く無いからな、鶴丸の旦那達とも離ればなれになる訳じゃない」
「いえ、それは別に」
「ちょっと待ってくれ」
一期の困惑をよそに、ぐいぐいと話を進めて行く薬研に、ここへ来てとうとう、鶴丸が口を挟んだ。一期はわずかばかりホッとして、鶴丸を見やる。しかし鶴丸は厳しい顔をして、薬研ではなく一期を見ていた。
「一期、きみ、俺と…俺達と離ればなれになっても良いって思ってたのか」
「いえ、あの、受けたご恩は必ずお返しします!そのお約束を違えるつもりはありません!」
責めるように言われ、一期は慌てた。彼らには、言葉にできない程の恩がある。勉強や仕事を教えてもらい、食事を与えられ、出張のついでにと遠出に連れて行かれた事もある。つい数日前にも、様々な手続きを手伝ってもらった。それらを受け取るだけ受け取って逃げようなどと、決して思ってなどいないのだ。それだけは分かってほしくて、一期は必死に言い募った。
「ですから、どこへ流れる事になっても、ご連絡はさせていただきたいのです」
「そういう事じゃない」
「え…?」
「そういう事じゃなくて、君はそれで寂しく思ったりしないのかって事だ」
「…は?」
一期は先ほどから、大人二人の言い出す事に一つもついていけていない。今度は薬研が聞き手に回ったようで、彼は静かにお茶を飲んでいた。
「お母さんが亡くなって、ここから引っ越して、俺達とも離れて、知らない人間に囲まれて、それで君は大丈夫なのか?」
「おっしゃる意味がよく…」
「薬研とやら」
困惑する一期に、仕方無いなというように笑って見せ、鶴丸は今度は薬研に向き直った。
「一期はこの通り、ちょっと変わった子なんだ。経済的にも安定している本当の父親が出て来て、そこに引き取られる事に関しては俺は何も不満は無い。だが、こいつがもっとチビだった頃から面倒見てる身としては、ちょっと心配なんだ。だからお願いをしてもいいか?」
「なるほどな、言ってみてくれ」
「一つは、一期をちゃんと高校に行かせてやって欲しい。勉強は俺達がちょいちょい教えてたから、編入したってそんなに困らんはずだ」
「それは勿論そのつもりだった、心配しないでくれ。編入先ももう決まってる」
「そうか!ありがとう。それからもう一つは、週に一時間でもいい、ここでのバイトを続けさせてくれないか?せめて、お前さん達が一期にとって良い家族だと分かるまでは」
それを聞いた薬研は、大きな声で笑った。もはや何が何だかよくわからない一期は、大人達に会話を任せている。
「いいぜ、例え反対されても、俺っちが何とかしてみせよう」
かくして、一期は粟田口の家に引き取られる事となった。あの後すぐに遺品を処分し、アパートで使っていた家具を処分した。細々とした日用品を片付け、少ない衣類をまとめ、部屋の掃除をした。大家に挨拶をし、鶴丸達同様、多大に世話になった商店街、新聞屋、それからもちろんあの肉屋にも挨拶をして回った。
一期の荷物は、引っ越し業者を頼むまでもなく、迎えに来た車のトランクに全て収まった。一番上の兄になる鳴狐という男が運転をして、助手席に薬研が座っていた。見送りにとアパートに訪れた鶴丸、光忠、広光の三人に深く深く頭を下げて車に乗り、車を降りてからは、旅館のような屋敷の玄関で再び、今度は初めて会う人々に深く深く頭を下げた。
「本日よりこちらにお世話になります、一期と申します。どうぞよろしくお願い申し上げる」
薄汚れた靴のつま先を三秒ほど見つめて、一期は腹をくくって頭を上げた。
小学生くらいの子供から、大学院生だという鳴狐まで、聞いていた通り十二人の子供達がそこには並んでいた。母親がばらばらなだけあって、皆、似ているような似ていないような印象だった。
「いちごって…ストロベリー?かわいい〜!羨ましいなぁ」
最初に口を開いたのは、長い髪の、女の子だった。全員男兄弟だと聞いていたが、妹も居るのかと、不思議な気持ちになった。
「いえ、『一期一会』の一期です…ご期待に添えず申し訳ない」
「あっ、それこないだテストに出た四字熟語だ…かっこいい!俺は後藤、よろしくな、兄ちゃん!」
「うん!かっこいい!僕は乱だよ、よろしくね」
「一期、念のため言うと乱も弟だからな」
薬研がこっそりと一期に耳打ちした。一期は静かに、そうですか、とだけ返事をする。もし鶴丸がここに居たのなら、その驚きにさぞ喜んだ事だろう。後藤や乱に続いて、小さい方から我先にと自己紹介が続いた。全員が名乗り終えると、今度はそのままソファと机のある部屋に通された。弟達はリビングへ移動したそうで、兄となる鳴狐、骨喰、鯰尾、薬研、それから厚が一緒だった。いつの間にか持っていたはずのボストンバッグが手を離れていた。一期が慌てていると、骨喰がすかさず、荷物は部屋に運ばせたから心配するなと言って、何故か鯰尾がにこにこと笑った。どうやら父親を待っているらしいと気づいた時にはそのドアがノックされ、一人の男が部屋に入って来た。
彼は、背筋の伸びた紳士だった。
仕事帰りなのか、仕立ての良いスーツを着ていて、一期から見てもハンサムだった。これだけ大勢の子供をつくり、その母親達からも深くは怨まれていないのだろう事を考えるに、おそらく人間としての魅力もおそろしくあるのだろうと思った。彼は部屋に入るなり一期を目にとめ、迷い無く近寄った。一期がそれに会わせてソファから立ち上がる。
「君が一期か」
「はい」
「こんな事を言うのも変かもしれないが、私が父親で、吉光といいます」
「はい、あの…初めまして…」
「君のお母さんの事は、本当に…きっと謝るのもおかしいのだろうな、でも、報せを聞いて、とてもびっくりした。そしてかなしくて、さみしい」
「…そうですか」
吉光は、どちらかというと鶴丸や光忠のようだった。自分の気持ちを、するりと一期に伝えてくる。大人というのはこういうものなのだろうか。対する一期はしどろもどろにしか言葉を紡ぐ事ができなくて、目の前で泣きそうになっている大人の男をどうする事もできなかった。
「いきなりは難しいだろうが、この家に馴染んでくれたら嬉しい。それから…もう聞いているだろうが、学校へはいつからでも行けるようにしてある。いつから行きたい?」
「ありがとうございます、では…明日から」
「…明後日でもいいかな?学校のほうでも準備が必要だと思うから」
「なるほど、かしこまりました」
素直に頷く一期を優しく見つめると、吉光はその肩を柔らかく叩いて、まだ仕事が残っているからと、部屋を出て行った。静かに閉まるドアを見ていると、背後から、鯰尾の声が聞こえた。
「明日から行きたいなんて…学校好きなの?」
振り返ると、五人の兄達が変な顔をして一期を見ていた。
「いえ…何もやる事が無いのは不思議な感じがして」
突然、ゆっくり休めと言われても、一期にはどうしていいのかよくわからない。
「へ〜!一期さんは働き者なんだな!」
「お前とは違うってこった」
「まあまあ、とりあえず飯にしようぜ、腹減っちまった」
「ああ、皆、待っているだろう」
戸惑う一期に笑いかけると、その背を軽く押して、兄達は一期を食堂へと連れて行った。一期が何かを言うたびに、誰かしらから必ず返事が返ってきて、そのまま次の話題に移っていく。鶴丸や光忠、広光がたくさん居るような感覚がして、何だかおかしかった。
食堂へ通されると、そこには大きめのテーブルが二つあって、椅子がたくさん並んでいた。促されるままに真ん中辺りの席に着くと、家政婦らしき婦人が二人、大量の料理を持って来た。あちこちから話し声が聞こえて、随分と賑やかだ。一通り食事が並んだところで、いただきます、と手を合わせると、そこから先はもっと賑やかだった。大量と思われた料理の品々が瞬く間に消えて行くのを呆然と眺めながら、一期はその日、鳴狐の確保してくれた煮物と焼き魚を食べた。
ぽっかりと空いた一日を荷物の片付けと登校の準備に費やして、一期は粟田口の家へ越して来た翌々日、無事に高校へ通い始めた。試験も無しに編入の決まったその学校はこじんまりとした私立の高校で、一学年に百人も居なかった。事情のある者が集まっているのか、経済的に豊かな家の子供が多く、きっと一期もいじめなどに会うこと無く過ごせるだろうと、吉光や鳴狐から聞かされている。粟田口の家からは電車で三駅で、電車があまり好きではない一期は、もう生活費に回さなくてもいいバイト代で自転車を買おうと思った。
「本日よりこちらにお世話になります、粟田口一期と申します。どうぞよろしくお願い申し上げる」
つい一昨日にも口にしたその台詞をもう一度言って、一期は頭を下げた。空色の髪を黒くしようか迷ったが、今となっては母の形見のような気がして、一期はその色のまま、きちんと染め直して登校した。幸い、校則は緩かった。緩かったというか、何となく設定されているだけで、注意はされても指導はされなかった。くるりと見回すと、三十人も居ない教室の中に、もう一人、非常に目立つ髪の者が居る。絶対に地毛ではない桃色に、一期は見覚えがあった。あとで話しかけようと決め、指定された席につく。教科書や文具の入った鞄は重かった。そもそも、私物をこんなにもたくさん持つ事は久々だった。担任教師が諸連絡を続けるのを聞き流して、一期はぺらりと国語の教科書をめくった。
一限目は化学だった。鶴丸も光忠も、教えてくれた事の無いものだった。教科書は日本語だったので、読む事はできる。しかし、意味が分からなかった。とりあえず教師の言うページを開き、説明を聞きながら教科書を遡ってみる。黒板の上に、数式や記号が次々と書かれていくのを見ながら、一期は溜息をつくしかなかった。
現代国語と数学、それから政治経済基礎以外は、一期にとって未知の世界だった。教師が使っているのが日本語なのかどうかさえ疑わしい。高校という所は数カ月に一度試験があり、そこで結果を出さないと留年という事になるらしい。それまでに何とかしなければと、やはりまた溜息をついた。
授業後のホームルームが終わって荷物をまとめていると、話しかけようと思っていた桃色が、向こうからやってきた。好き放題に跳ねている癖っ毛は昔のままで、けれどそれを上手く結い上げて洒落た雰囲気を出しているのもまた、昔のままだった。
「ねえ、あなた、僕の知ってる一期ですか」
「そういうあなたはどうなんです」
挨拶はそれだけで充分だった。ふふ、と笑った宗三は、一期の前の席が空くのを待って座った。記憶の中の宗三よりも、若干手足が細長い印象がある。きっと身長だって違うはずだ。最後に会ったのはいつだっただろう。一年か、二年ほど前だった気がする。
「まさかこんな所で会うなんて…思ってもみませんでした」
「それはこちらも同じです。いつから学校に?」
「去年の今頃でしたか…また、親が変わったんです。今は左文字宗三というんですよ。なんと、兄と弟もできたんです」
兄弟ができた事が嬉しかったのか、宗三は少し興奮気味にそう言って笑った。その気持ちがわからないでもない一期は、負けじと自らの兄弟の事も伝える。
「奇遇だな…実は俺も、兄と弟が会わせて十二人できましたよ」
「十二人…ですか…」
「ええ、すごいでしょう…?」
二人は密やかに話をした。隠さねばならない話ではないが、お互い、声を潜める癖がついている。宗三がおかしそうに笑うたびに、ふわふわとその桃色の髪は揺れた。それが何だか懐かしくて、一期も目を細める。
「勉強は大丈夫そうですか?僕は見ての通り友達が居ないのであんまり役に立てないかもしれないけど、勉強くらいならいくらでも付き合えますから、いつでも言ってくださいね」
「ありがとうございます、正直、今日は何が何だか本当によくわからなくて」
宗三は、一期が学校へ行っていなかった事を知っている。一期は、宗三が色々な家を転々としながら暮らしてきた事を知っていた。お互い、あまり一般的とは言えない身の上を知り、理解し、その上で気兼ねなく付き合える相手は貴重だった。そういう関係を友人と呼ぶのだとは、二人は知らない。
一期と宗三は軽く近況報告をして、その日は帰宅する事にした。この学校には部活動は無い。ただ、午後八時までの自主学習居残りは許可されていた。宗三は気まぐれに遅く帰っても問題の無い家だそうだが、粟田口はそうではなかった。厳しい門限が定められているわけではないが、少しでも帰宅が遅くなる時は、兄の誰かに連絡をするように言い含められている。持たされているスマートフォンのアプリを使えば、一斉にメッセージを送る事ができるらしいが、生まれて初めて携帯電話を持つ一期は、通話機能を使えるようになるだけで精一杯だった。加えて今日は登校初日という事もあり、薬研が迎えに来る事になっている。校門で待つように言われた時間が近づき、二人は教室を出た。
せっかくだから一緒に待つと笑った宗三と校門にもたれて、他愛も無い会話を交わした。宗三は今の家に引き取られてからは、学校へもきちんと通い、昔行っていたバイトも辞めたらしい。法学部を目指していると聞いて、一期は少し意外に思った。
「たたかうためですよ、一期」
宗三は鮮やかに笑った。
「たたかいのルールを知る者こそが、有利に物事を進められるんです」
「そういう…ものですか」
一期はまだ、身の上に起こる物事についていくのが精一杯で、この先何をするのか、何をしたいのかを全く考えた事が無かった。三分先さえ疎ましいとでも言わんばかりに生きていた宗三に将来の話をされ、一期はふと、自分にも未来というものがあるのだと気づく。
「先の事を考えられるのは、今日や明日を心配しなくて良いからです。あなたも新しいおうちで、早く落ち着けるといいですね」
子供らしからぬ憂い顔で笑う事しかしなかった宗三が、一期に優しく笑いかけていた。きっと、今の家族がとてもいい家族なのだとわかった。その変化を目の当たりにして、一期は、きっとこの先自分に起こる変化が、鶴丸や光忠、広光にもわかるのだろうと思った。
ぽつりぽつりと言葉を交わしているうちに、迎えがやってきた。校門の前に車が停まって、下ろされた窓から薬研が顔を出す。
「おーい、一期」
呼びながら、隣の宗三に気づき、その桃色の髪にだろうか、目を丸くしている。ふふ、と、隣で宗三が笑うのが聞こえた。
「ではまた、明日」
「…ええ、また、あした」
宗三とそんな挨拶を交わすのは初めてだった。薬研が何かを言いたげにしていたが、宗三はするりと校門を離れ、駅へ向かって歩いて行った。
「ありゃあ、知り合いか」
礼を言いながら車に乗り込むと、待ちきれないとでも言うように、薬研がエンジンをかけ直しながら尋ねてきた。
「…クラスメイトです」
「随分と仲が良さそうだったじゃないか」
「え?ええ…」
少し、言葉に刺を感じた。
「その…私が、勉強がわからないので、教えてくれると…」
一期は、言葉を選ぶ。宗三は、薬研よりよほど付き合いが長かったし、正直なところを言えば、今のところは薬研よりも宗三の方が信用できる。一期にとって薬研はまだ、良く知らない年上の男性なのだ。薬研はそんな一期を一瞥すると、前を見て発車させた。
「友達は、ちゃんと選べよ」
何を含めたのかは分からなかったが、何かを含めた物言いに、一期は奥歯を噛んだ。何故そのような事を言うのです、髪の色が問題ですか、貴方が彼の何を知っているというのです。浮かぶ言葉に喉の奥が熱くなる時、その言葉は飲み込む方がいい。
「…心に留め置きます」
感情のままに物を言う事は容易い。けれど、それで事が有利に運ぶ事は殆どない。相手の機嫌が悪いのならば尚更、ただ頷くだけで乗り切る事のできる状況の何と多い事。一期はそれを身に染みて知っていた。口先だけであろうと相手を肯定するのは、けれど一期の矜持が許さない。心に留め置くというフレーズは、あらゆる意味で便利だった。気をつけなければいけないのは、息を整える素振りを気取られない事、手に力を入れてしまわない事、目元に心を映さない事、そして、感服したとでもいうように微笑む事。
一期はまつげを少し伏せ、笑った。
それから一期は、自主学習居残りの時間を存分に使って宗三から勉強を教わった。宗三は返済不要の奨学金も狙っているらしく、相当の努力をしたのだろう、成績はとても良かった。教師ですら眉をひそめた一期の学力に嫌な顔一つせず、呆れる事も飽きる事もなく基礎の基礎から色々と教えてくれた。一期が少しでも遠慮しようとすると、
「僕も通った道ですから…。兄がこうして教えてくれました…いつか誰かに同じようにしろと。それが貴方だったってだけですよ」
と、もう見慣れた優しい顔で笑うばかりだった。
二人はいつも学校に遅くまで残って、勉強をして、話をした。お互いに顔を見なかった時期の事、今の家族や兄弟の事、学校の事、おいしいお菓子の店の事。友達が居ないと言っていた宗三は本当に友達は居ないようで、けれど彼は一人でどこへでもふらりと出かけて行くようだった。そういう所は昔と変わっていない。けれど今は深夜と呼ばれる時間帯になる前には必ず家に帰るそうだ。彼の今の家はお寺で、墓地が近くにあるので夜中は少し怖いらしい。そんな話を聞いてしまえば、一期は笑う他なかった。
驚いた事に、宗三と薬研は知り合いだった。並んだ男女の靴を見て家から離れた一期と、バイト帰りの宗三が夜中の公園でたまに顔を合わせていた頃、宗三が当時の家に「バイト」がばれてしまい、酷く殴られた事があった。宗三はいわゆる援助交際という物をしていて、引き取られた先で邪険に扱われても、そうして稼いで何とか食事をしたり服を買ったりしていた。その時分の家での待遇は決して悪く無かったものの、きっとまた気まぐれで放り出されるのだろうと思っていた宗三はバイトを辞めなかった。結果として、それが原因でその家を追い出され、今の家に移ったのだと言う。暴力という形で怒りを身に受けたその晩、一期の居るかもしれない公園に辿り着く前に蹴られた腹が痛くて道ばたに座り込んでしまい、たまたまそれを助けたのが薬研であるらしい。病院へ連れて行こうとする薬研を必死で止め、警察に行かれると困ると嘆願したせいで事情を話す流れになってしまい、その夜は薬研が付き添ってネットカフェに泊まったらしい。一晩ゆっくり眠った宗三は痛みにも慣れて、翌朝、薬研が眠っている間にお礼の書き置きをしてその場を後にした。宗三はその頃からずっと桃色の髪をしているから、きっとそれで分かったのだろう。
「今やあなたも粟田口のおぼっちゃんですもんね、こんな…叩くまでもなく埃まみれのやつは近づけたく無いんでしょう」
「でも、もうバイトは辞めたんでしょう?」
「ええ…今の家に来る時に、流れで兄に…全て話した時に、言われたんです。戦い方を学べと…生きるという事は、たたかうという事だと。それすらできずに藁を掴むのは溺れているからだ、まずは陸に上がりなさい。助けが必要ならば私が手を貸しましょう、って。お坊さんみたいな事言いますよね、まあ、お坊さんなんですけど」
宗三はその兄の話をする時、いつも誇らしげに笑う。いつか自分も、兄達の事をこんな顔で話す時が来るのだろうか。そしていつか、弟達から、こんな顔で語られる時が、来るのだろうか。
「不思議な感じで、上手く説明できないんですけど…この人達に捨てられたくないと、そう思って、だからどうしたら良いのか聞いたら、まずは学校へ行って、お小遣いで買い食いをして、バイトもしたければすれば良いけど、警察に声をかけられても問題無いバイトをしなさいって。まあそれで、何のバイトをしようかなと考えていた時に、警察に声をかけられても問題無いというのがどういう事なのか考え始めて、色々考えた結果、法学部を目指す事にしたんです」
「なるほど…」
一期はそう話す宗三を見て、何だか自分もふわふわとあたたかい気持ちになるような気がした。彼は今、本当に、幸せなのだろうなと思った。だから余計に、薬研のあの冷たい声が気になった。宗三はこんなにもきちんと色々な事を学んで、一期にたくさんの事を教えてくれるというのに。
「一期、人を頼るというのはとても怖い事だけれど、勇気に見合った心強さは手に入ると思います。いきなり十二人も兄弟ができたんでしょう?何かあってもなくても、僕や、その…つる…?さんとか、なんとかっていうバイト先の人とかに、ちゃんと言うんですよ。僕があなたに勉強を教えながら自分の勉強にもなっているように、他人に話す事で整理ができたりもするんです」
「…そうですね、ありがとうございます」
宗三は、自分の話をたくさん一期にしてくれた。毎日遅くまで学校に居るせいもあるが、粟田口の兄弟とはまだあまり話をした事が無い。鶴丸の所でバイトを始めた際、彼は繰り返し繰り返し、ひとつずつでいいから、と一期に言った。その言葉はいつも一期を落ち着かせる。ひとつずつ、物事を進めて行けばいいのだ。
宗三はいつも、一期を見て優しく笑った。
一期は宗三に、同じように優しく笑い返せている事を切に祈っている。
鶴丸の事務所へは、土日に通った。宗三に勉強以外にも色々な話を聞いたおかげか、今までは気にした事も無かったようなバイト先の事情がよく分かるようになった。輸入雑貨店を営む店長が広光、仕入れや売上管理、マーケティングや事務から接客までをこなすのが光忠、会社のオーナー社長で、新しい仕入れ先を見つけて来たり、人脈を作ったり、時に資金繰りをするのが鶴丸だった。一期は実質、光忠の手伝いをしているのだ。
そんな事を考えながら鶴丸に色々と尋ねてみれば、彼は嬉しそうに色々と教えてくれた。鶴丸と光忠は共同設立者で、大学在学中から事業を立ち上げ、こつこつとここまで積み上げてきたらしい。広光は光忠の遠縁で、高校に進学はしたもののろくに登校せず、喧嘩番長をしていたところを元番長の光忠に預けられ、そのまま仕事を仕込まれて店長をやっているらしい。言われてみれば光忠はなかなかにがっしりとした体躯で右目は常に皮の眼帯で隠れているし、広光の腕には見事な龍の刺青がある。鶴丸は鶴丸で銀色の髪に騒がしい振る舞いで、完全な未成年であった一期をなんだかんだとバイトで雇ってくれた事と良い、完全な堅気ではなさそうだ。だからと言ってバイトを辞める気は一期には全く無かったし、むしろ、空色の頭をした自分が何の奇異の目も向けられなかった事は、とても幸せだったと思った。
「最近の君を見ていると、『衣食足りて礼節を知る』ってのを目の当たりにするようだな」
中間試験を控えた週末、いつものように一期がエクセルに数値を入力していると、ふいに鶴丸が声をかけた。手近な事務椅子に後ろ向きに座って、背もたれを抱えて一期を見ている。
「君、自分が入力している数字が何を示しているのか理解したんだろう?」
「…それは、去年くらいから理解しているつもりでしたが」
「はは!そいつはすまん」
鶴丸はおかしそうに笑って、ふと目を光らせた。
「君がこのバイトを始める時、俺が言った事を覚えているかい?」
「…『君が扱う情報を買うという奴が、もしかしたら現れるかもしれない。判断は君に任せるが、君が売るのは俺達の情報じゃぁない。君自身の信頼と将来だ。提示された金額とよぉく秤にかけるんだな』でしょうか」
ほんの小さな子供に、経理の情報を扱わせる事の危険を、今なら一期は理解できる。よくもまあ、そんな恐ろしい事をしたものだ。
「今の君になら、意味が分かるだろう」
鶴丸はそんな一期の考えなど気にしないとでも言うように、にんまりと笑う。一期は小さく肩をすくめて見せ、頷いた。
「幸い、そんな取引を持ちかけられた事はありませんが、四年前なら、何とも思わず金銭を手にしていたでしょうな」
それほどまでに、自分は分別が無かった。将来の事など、考えた事が無かったからだ。今日、明日を生きるために必要な物だけを欲していた。けれど粟田口の家に入ってからは、毎日の食事や寝床を気にしなくても良い。「報酬」という物の意味を、深く考える余裕ができた。
———先の事を考えられるのは、今日や明日を心配しなくて良いからです。
宗三が言っていた事を、一期は体験として学んでいた。きっとそれが、鶴丸にもわかったのだろう。一期は何だか少し落ち着かない気持ちになって、もじもじとした。鶴丸はそれを笑うでも無く、椅子を滑らせて一期に近づくと、その頭をぽんぽんと撫でた。
「学校で友達はできたかい?」
静かに尋ねられ、真っ先に浮かぶのは宗三だった。一期ははにかむように笑って、小さく頷いた。鶴丸なら、宗三の事を悪く思ったりはしないだろうか。よかったな、と鶴丸は言って、少し寂しそうに笑う。その理由が分からずに、一期は鶴丸を静かに見つめた。
「…光坊とな、お前を引き取ろうかっていう話をしてたんだ、ほんとは」
「え?」
「お母さんが亡くなった晩だ。どうするのが君にとって一番良いのか、伽羅坊と三人で話したんだ」
伽羅坊というのは、広光の事だ。
「粟田口が出て来た時には驚いたが、今の君を見ていると、それで良かったんだなと思う」
「そうでしょうか…」
何となく、鶴丸の言わんとしている事が感じられて、一期は努めて呼吸を保った。
「一期、土日にやりたい事があったり遊びたかったりするんなら、このバイト、辞めたって良いんだからな?」
なぜ今そんな事を言うのです、やはりご迷惑をかけすぎましたか、子守りはもうたくさんという事でしょうか。浮かぶ言葉に喉の奥が熱くなる時、その言葉は飲み込む方がいい。
「…心に、留め置きます」
一期はまつげを少し伏せ、笑った。
だから一期は、その時鶴丸がどんな顔で一期を見ていたのかを、知らない。
その日、一期がバイトを終えて帰宅すると、どこかそわそわとした様子で薬研が出迎えた。何かあったのだろうかと首を傾げると、一期が食事と風呂を終えた頃に部屋に行くと告げられた。急な用事ではないのなら、と、兄弟全員でとることになっている日曜日の夕食を終え、年少組に続いて風呂に入った。ほかほかとしながら翌日の学校の準備をしていると、遠慮がちにドアをノックする音がした。一期が急いでドアを開けると、薬研と、それから厚が立っていた。
「あー…」
ばつの悪そうな顔で薬研が言い淀むのを見ていると、厚はバシンとその背中を強く叩いて、一期に挨拶をして去って行く。一期はとりあえず薬研を部屋に招いた。
もとより、一期の私物は極端に少ない。それは、母親と住んでいたアパートよりも大きな個室を与えられてみるとより目立った。スプリングの効いたベッドに、ふわふわの毛布と羽毛布団。一期にはそれだけでも充分だったのに、勉強用の机と椅子、それから備え付けの棚まであった。棚には教科書類が並ぶ他は殆ど何も置かれていない。薬研はその部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の傍にどかりと腰を下ろした。一期もそれに続いて、静かに正座をする。薬研がなかなか話し出さないので、一期はじっと待つ他無かった。
「…お茶でも、いれてきましょうか」
あまりに話しにくそうなので何か飲み物をとってこようかと一期が腰を浮かせると、薬研は慌てて引き留めた。溜息をつかないように極力努めて、座り直す。
「あー…のさ、あんたのクラスメイトに、宗三ってやつが、居るだろ」
「はい、おりますが」
薬研の口からその名が出ると、胸の内がもやりとした。登校初日のあの夕方、喉の奥に飲み込んだ塊を思い出す。また彼の事で何かを言われるのだろうか。そんな一期の心を読んでか、薬研は少し慌てたように顔を上げた。
「いや、その…連絡先を教えてもらえないかと…思ってな」
「…と、言うと?」
連絡先を聞いてどうするのだろう。宗三に直接何かを言うつもりなのだろうか。少し鋭くなってしまう視線を、一期は今度は隠さなかった。ちろりと光る警戒を見つけ、薬研は観念したように唸った。
「実は俺っちは、前に宗三に会った事があるんだ」
「ええ、宗三から聞きました。具合の悪かった宗三を一晩介抱してくださったと」
「そうか!なら話は早い。その…ずっと気になってたんだ、あの後大丈夫だったのかってな…いや、とうか今でも気になってんだ、その、いろいろ」
「…いろいろ、とは?」
何となく言葉を濁されて、一期は重ねて尋ねた。察しろという事なのかもしれないが、大切な知人なのだ、不安要素はできるだけ取り除きたい。一期の頑なさを理解してか、薬研は深く息を吸って、吐いた。
「宗三からどこまで聞いてるか知らねえが、あの晩、俺達二人でネカフェに泊まったんだ…今思えば、うっかりしてたよ。普段何をやってるか聞いてたってのに、鞄もそこらへんに置いて俺っちも熟睡しちまった。朝起きて宗三が居なくなってた時、ああ、財布盗られたな、って思った。でも財布は鞄に入ってた。一円も減ってなかった。俺っちは、そんな風に考えちまってちょっと恥ずかしかった。でもおかしいと思わねえか?あいつは金のために誰とでも寝るって言ってたが、本当に金が欲しいだけのやつなら間違いなく財布を盗ってったはずだ。俺っちならそうする」
薬研はまくしたてるようにそう言うと、下げていた視線を上げ、まっすぐに一期の瞳を見た。
「あいつは、寂しいだけだったんだよ。一番欲しいのは金じゃなくて、傍に居てくれる誰かだったんじゃねえのかな」
なるほど。そう言われてみると、今の宗三の見せる穏やかな表情にも納得がいった。寺住まいで、きっと殆どの場合、保護者のどちらかは家に居るだろう。それに加えて宗三の語る兄や弟は、いつも宗三を気にかけ、本当の意味で大切にしてくれているのが分かった。一期はふと、口元をゆるめた。たった一晩、面倒を見た宗三の事を心配する薬研という兄は、どうやらとても優しい人のようだと思った。
「ならば、ご心配には及びません。彼は今、大丈夫です」
心配をさせないようにとそう言うと、薬研はそうかい、と肩から力を抜いた。しかし、連絡先は欲しいらしく、今度は言いながら頭を下げられる。執拗に頼んでくる薬研にとうとう不審な気持ちを顔に出してしまうと、薬研は唸って、突然、自らの頬を両手で叩いた。
「えっ…あの…?」
今度は何が起きたのかと焦る一期の肩をがしりと掴むと、薬研は赤くなった頬のまま、
「一目惚れだったんだ!」
と一期に向かって叫んだ。
「…そう、です…か…」
「そうなんだ!だからあの日、お前さんに宗三の悪口言うみたいになっちまったのも、ただの動揺だったんだ、あんなとこで会えるなんて思ってなくてな!」
「な、なるほど…?」
「だから一期はどんどん宗三と仲良くなれば良いし、あわよくばうちに連れて来たりしたら良いと思ってたんだが…俺っちがあんな事言っちまったせいで、仲良くなったとしてもうちには連れて来ないだろう?だからこうして頭を下げに来たってわけだ!」
堰を切ってしまえば薬研の口からはぽんぽんと色々な事が流れ落ちた。全て流れてしまった後には沈黙が残って、肩を掴まれたままの一期はその様子を静かに見ていた。全てを白状した薬研は少し落ち着いたのか、はあ、と一つ息をつくと、一期から手を離した。
「だめか…?」
年上の兄とは思えないようなかおで、薬研は最後のあがきとばかりに尋ねてくる。その声音があまりにも切実で、一期は目をぱちくりとさせた。
「だめかどうかは宗三が決める事だと思いますので…明日聞いてみます」
「ありがとう!先に俺っちの連絡先を向こうに教えても良いからな!ありがとう一期!」
薬研のその喜びようと言ったら、何だか一期まで少し嬉しくなる程だった。
翌日、学校で宗三に連絡先を渡しても良いかだけを尋ねると、彼はその場で薬研に連絡を入れた。
「僕もきちんと、お礼を言えてませんからね」
いつもの穏やかな顔でそう笑うので、一期も何だかほっとした。
薬研はこうと決めたら行動は早いようで、その週が終わらないうちに、宗三から、付き合う事になったと告げられた。これにはさすがの一期も驚いて、思わず宗三に聞き返してしまった。宗三はいつものように穏やかに笑うだけだった。
「他に付き合ってる人も居ませんし…それにかっこいいじゃないですか、薬研。きっと僕も、好きになれると思います」
やけに華やかにそう言われてしまえば、一期はなるほどと言う他無かった。もし何かあったら自分は宗三の味方になるからと、それだけは強く告げた。
そんな風に一週間を過ごしてしまうと、バイトのある週末がやってくる。
先週末に鶴丸に言われた事については、自転車が欲しいから少なくともそれまでは働かせて欲しいと一期から頼んだ。鶴丸はホッとしたように何度も頷いた。きっと何も前進や解決はしていないが、物事は落ち着きを取り戻した。光忠の作ってくれる食事を食べる機会は減ったが、代わりとでもいうように菓子を持たせてくれる事が増えた。一期が粟田口の屋敷にそれらを持ち帰ると大好評で、兄弟達の間では、会った事のない光忠の株がどんどん上がって行った。
鶴丸の態度は何も変わらなかった。気まぐれに悪戯をしてみたり、店舗の在庫品の処分を考えたり、敵情視察と称した買い物に一期を連れ出したりした。一期が自転車を欲しがった事についても、ただ一言、そうか、とだけ言った。
平日には、相変わらず宗三に勉強を教わり、土日には会計書類のバイトをした。少しずつ少しずつ、一期の成績は上がっていったし、吉光もバイトを辞めろとは言わなかった。吉光は、月に数回、兄弟達と共に食事をした。そんな折には、普段は母親達と暮らしている者も粟田口の屋敷へと集まった。口々に語られる学校での出来事やそれぞれの母親の近況、流行のテレビ番組。全員が揃う食事の時には、吉光は子供達の話をよく聞いた。一期は父親という物を知らなかったので、吉光のそれが世間一般に言う父親という物と同じなのかどうかはわからなかった。積極的に会話に混ざる事はしなかったが、話を振られれば答え、そして他の者達が会話をする様子をじっと見ているうちに、徐々に社交を学ぶ事ができた。
粟田口家は、基本的には子供達のやりたい事をやらせていたが、マナーや礼儀にはうるさかった。一期は殆どそう言った事を知らずに育ったので、最初に箸の持ち方を直された。箸を最初に手に取るときの所作や、食べる姿勢、食べ物を小さく切ってから口に運ぶ事、茶碗には直接口を付けない事。洋食の場合は、いつもフルセットのカトラリーが食卓に並べられ、何を食べる時にどのフォークを使うのかや、ナイフやフォークと皿をぶつける音を立てない事、食事中や食事完了を報せる食器の置き方など、世の中にはこんなにも決まり事があるのかと、一期は驚いた。同時に、そうして教えてもらえる事を、心から感謝した。他の兄弟達は小さな頃からきちんと教育されているようで、一期がわからない事があれば教えてくれたし、気づかずに、マナー違反をしていた場合もそれとなく注意をしてくれた。
幸いな事に、一期は自らの至らない点を明らかにされた際、それを感謝する事のできる人間だった。負けず嫌いで、向上心が強いのだ。できない事をできるようになるのは好きだったし、そういった物事が増えていくたびに、彼は自分に対する自信のようなものも得ていった。
粟田口の家で過ごし始めて半年程が過ぎた頃、事件は起こった。
その頃には一期は一通りの礼儀作法を学び、持っていた衣類も一通り入れ替えられて、宗三のお陰で期末のテストの結果も上々だった。自転車も買った。一期の欲しがっていた自転車は前後に籠のついたいわゆるママチャリで、そこまで高価ではない。自転車を手に入れた後も、けれど一期は、兄弟達の誕生日プレゼントを買いたいからという理由でバイトを続けた。さすがに十二人も兄弟ができてしまうと、毎月のように誰かしらの誕生日があり、時には数人まとめての月もあった。あの日鶴丸に言われた言葉を思い出すたびに、どうにももやもやとして、迷惑だろうかと危惧しながらも、バイトを辞められずにいる。
金曜日の夜だった。
その日は早めに帰って来いと鳴狐から連絡が入ったので、宗三にそれを話して居残りは無しで家に帰った。既に乗り馴れた紺色の自転車を走らせて、まだまだ明るい景色を楽しみながら粟田口の屋敷へ帰ると、玄関に着くや否や、見慣れた家政婦に鞄を受け取られ、そのまま和室へと通された。挨拶をして障子を開けると、そこには吉光と、十二人の兄弟全員が揃っていた。上座に吉光と、その脇に鳴狐が座り、それに向かい合うようにして兄弟達が並んでいる。その兄弟達の一番前で、博多が下唇を噛んで俯いて、正座をしていた。その左頬が、赤く腫れている。
「ただいま戻りました」
一期がそう挨拶をして和室へ入り、一番の下座へ腰を下ろそうとすると、吉光に呼ばれた。一期は促されるまま、吉光と鳴狐の間に腰を下ろす。粟田口の家に招かれた際に薬研に言われた『跡取り問題もこれで解決する』という言葉が、唐突に思い出された。座る位置の意味する所を、もはや知らぬ一期ではなかった。
「博多」
吉光が、静かに口を開いた。いつもの、暖かくて厳しい声だった。博多というのは、下から五番目の弟で、後藤や乱と同じ中学二年生だった。普段は母親と暮らしている。九州出身の商魂逞しい女性で、博多も彼女の出張にくっついて色々な所へ出かける事が多いと聞いている。小さな頃は母親の地元で育ち、今もよく九州で過ごしているために訛が抜けないでいる。それがかわいらしくもあり、時々何を言っているのか戸惑う事もあった。何度か何が起きているのか全く知らされていない一期は、吉光と博多を交互に見た。ただならぬ緊張感が、和室全体を包んでいる。
「何があったのか、一期にも説明しなさい」
「…学校で、取っ組み合いの喧嘩ばした。俺の最初に手ば出したばい。そいで、勝ったちゃ。やけど、先生に怒られて、鳴狐兄…呼び出しゃれました」
普段はどちらかというと腕よりも弁の立つ博多であったから、一期は少し驚いた。一期自身も、取っ組み合いの喧嘩をした事が無いとは言わないが、クラスメイトや友人のような関係の者とそういった事をした事は無かった。ちらりと鳴狐を窺うと、彼は小さく頷いた。大学生以上の兄達には、学校から連絡が行く場合があると、そういえば以前に聞いた事があるような気がする。
「理由は」
吉光は、重ねて尋ねた。博多は膝の上で握りしめていた両手に更に力を込めた。奥歯を噛み締めるばかりで何も言おうとしない博多に、吉光は、もう一度同じ事を尋ねる。いつも陽気で笑顔ばかりの博多は、苦虫を噛むような顔をして視線を上げた。
「…うちには母親のえらいいっぱいおんしゃあんに、こん家に一人も居なかを馬鹿にしやのったから、そげな事、関係なかちゃろうっち言うてやった」
おそらく聡い博多は、相当に言葉を選んだのだと思う。普段はなんやかんやと相手を言い負かして喧嘩を終える博多が手を出す程の事を、相手は言ったに違いないからだ。吉光は溜息を吐くでもなく、叱責するでもなく、博多をじっと見ていたかと思うと、そうか、と言った。
「そのような事を言われてしまったのは私の責任だね。でも、悪いとは思っていないので謝らない」
「はい」
「先に手を出したのは博多だと聞いているが、それに間違いはないかな」
「なか」
「相手には謝ったのかい?」
「…悪か事ばしたばいっちは思っちなか」
場違いな感想かもしれないが、いじけるように言う博多を、一期は少し微笑ましく思った。半年も兄弟をしていれば、少なからず情は沸いている。小さな溜息をついて、吉光は鳴狐を見やった。
「教師には、騒ぎを起こした事を謝罪した。喧嘩の相手は無傷だ」
どうやら掴みかかったのは博多が先だったが、やはり殴り合いには慣れていないのだろう、一方的にやられて終わってしまったらしい。しかしその後父兄を呼び出され、謝罪を迫られたに違いない。…さぞや、悔しかった事だろう。理不尽な扱いを受けけて素直に怒りをぶつけ、下手をうって返り討ちに合った時のあのやりようのない腹立たしさを、一期はよく知っていた。
そんな事を考えていると、今度は吉光は一期を見た。
「一期、どう思う」
その声に従うように、部屋の中の視線が一期に集まる。これは単に感想を求められているのではなく、粟田口の跡取りとしての座席に居る一期が試されているのだと、一期は瞬時に察した。おそらくはこの機微も、粟田口の家で過ごし、学校へ通ううちに培う事のできたものだ。けれど一期は、気負う事をしなかった。取り繕った所で、人の器とはどうにもならないのだと、どこかで開き直っていた。今は何故かこの席に自分が座っているが、それは不思議な縁の成す所だ。自分がふさわしく無いのであれば、それこそ他に十二人もの候補が居る。自分にあるのは、幼い頃から触れて来た人の暖かさと冷たさ、何とか食い繫いで来た運とでもいうようなもの、そして数々の出会いと別れ、変化と発見。人というものを形作るのがそういった物事であると、一期はきっと知っている。
「…倫理道徳と勝負事は、全く別の物事だと思います。勝負に勝ちたいのであれば、相手を自分の土俵へ上がらせなければならない。博多は殴り合いは苦手なのだから、掴み合いの喧嘩という相手の土俵に上がってしまった今回、負けてしまったのでしょう」
ーーーたたかいのルールを知る者こそが、有利に物事を進められるんです
一期は、宗三の言葉を思い出す。なるほど、あれはこういう事だったのだ。
「得てして勝負というものは、冷静さを失った方が負けます。今回の敗因はそれでしょうな。それから、良い方法が浮かばなかったら、相談してみてはどうでしょう…せっかくこんなに兄弟が居るのだから、それぞれの得意分野が、きっと役に立つと思います」
一期は博多をまっすぐに見て、そう言った。博多はほうけたように一期を見返していたが、徐々にその目元と眉が強い意志を宿していった。
「なるほど…次はそうしゅる!」
闘志を燃やす博多に、吉光は笑った。博多だけではない。弟達は皆、一期をきらきらとした瞳で見ていた。薬研も厚も楽しそうに笑っていたし、鳴狐の目元さえ、優しく緩んでいた。しかし一期は、それには気づかない。一期の頭の中には、思いついたばかりの考えが勢いを持って渦巻いていた。一期は覚悟を決めたように、吉光の方を向いて座り直した。
「突然ですが、俺も大学に行っても良いでしょうか?」
一期が背筋を伸ばしてそう言うと、吉光は唐突な話に少し驚きつつも、迷い無く頷いた。今度は何の話が始まったのかと、室内の空気は再びピンと張りを取り戻す。
「もちろん。ただ、一浪までならば学費を含めて面倒を見るが、それ以降は全て自己負担、というのが粟田口式だよ」
「ありがとうございます」
一期は、畳に手をついて頭を下げた。
この世に『たたかいのルール』とやらは数あれど、おそらく法律というものはその効力が強い。正規の道を知らなければ、抜け道を見つける事もできまい。理不尽を完膚無きに叩きのめす事ができるのは、おそらく正論という武器によってだろう。
一期は、法学部を目指そうと、唐突に決めたのだった。