隠然たる白
8/3/2019




亀甲貞宗が顕現したのは、その本丸が三年目を迎えてしばらくした頃のことだった。

男士としての身を得る全ての刀剣がそうであるように、亀甲は、目の前の人間が自らの主であるとすぐにわかった。自分の存在が物理としての重みに縛られたのを確認するよりも早く、亀甲は、その人間に向かって口上を述べた。人間は審神者名を円(まどか)と名乗り、その隣に控える歌仙兼定を初期刀だと紹介した。亀甲は卒なく恙なく挨拶を終えて、歌仙に連れられて本丸を一周することとなった。この案内には、審神者は同行しなかった。

歌仙は、本丸の建物と機能、そして暮らしの様子などを大まかに説明しながら、そこここへと亀甲を連れ回した。同時に、有事の際に誰がどこへ向かいどのような役割を果たすのか、そしてそれを遂行するために亀甲が知るべき物事を教えた。本丸は基本的には安全ではあるが、戦を知る刀剣が多いこの場所で、それを盲目的に信じるものは少なかった。ただし、無闇に不安を与えないようにと、新しくやってきた刀剣に本丸を案内しながら有事の備えを手解きしていることは、審神者には伝えられていなかった。

亀甲は話の合間に、審神者がどのような人間なのかを尋ねた。歌仙は亀甲をちらりと見て、少し複雑そうな顔をして笑った。

「実を言うとね、僕は少し、君を待っていたのかもしれない」

その言葉に亀甲が首を傾げると、歌仙は、審神者のことを淡々と話した。歳は十八。以前であれば家庭を持っていてもおかしくない年齢ではあるが、審神者の生まれ育った時代ではそうではないらしく、心はちょうど、子供と大人の境目くらい。健康で、少し人見知り。日々の努力を怠らず、意外に器用で要領がいいところがある。好きな食べ物は唐揚げとカレー(カレーというのは、魚のカレイではなく、独特の風味を持った煮物を白米にかけて食べる料理のことだと歌仙は説明したが、亀甲はいまいち理解できなかった)。真摯で誠実、少し真面目すぎるところがある。それから。

「…なかなか、心を開いてくれないところがある」

「そうなのかい?そんな風には見えたなかったけど…」

「そうだね、だから厄介なんだ。きっと君も、しばらくすればわかると思う」

歌仙は、困った息子の話をするように言って、笑った。亀甲は、ふうん、と相槌を打った。亀甲は同じことを、案内される途中で出会った刀剣にも尋ねた。すると、概ね同じような答えが返ってきた。


顕現直後の生活は、かなり慌ただしかった。生活、内番、出陣、遠征、鍛刀、刀装、などなど、学ばなければならない事が山積みだった。怪我を負い手入れをされることや、人の身を得て集団で生活する事。同派の兄弟、所蔵場所や来歴による知り合いや、初めて出会う相手と触れ合うこと。馬や狐、虎、鵺、亀や、池の鯉なんかとも友誼を得た。あらゆる経験を積み、刀剣レベルなるものを磨いた。

一通りを修め、目まぐるしかった日々が一息つき、ふと気づくと、亀甲が顕現してから、半年近くが経っていた。その頃になると、亀甲は、初日に歌仙や他の刀剣たちが言っていた事を理解し始めていた。

円は審神者として、申し分の無い人間であると思う。皆の言っていた通り、優しくて、努力家で、唐揚げとカレーはが大好物だった。心根は正しく、真摯で誠実、そのものだった。そして、歌仙曰くの「心を開いてくれないところがある」というのは、言い得て妙だった。亀甲から見た円は、人間として整いすぎていた。皆に平等に接し、常に公平にあろうとしている。前向きで、よく笑い、不満を言っているところを見た事がない。そのくせ時々小さなわがままを言ってみたりして、程よく人間らしさを保って見せている。そう、「人間らしさを保って見せている」のだ。亀甲が見ている円は、彼の中での理想の人物像なのであって、もしかしたら円本人ではないのかもしれない。そう思わせる空気を、稀に感じる事があった。おそらくこの本丸の刀剣はみな、同じように感じているのだろうと思った。


そんなある日、亀甲は久々に近侍の任を与えられた。何事もなく一日を侍り、夕餉も過ぎて、翌日の近侍のためにと記録をつけている亀甲を待ちながら、円はささやかに茶菓子を用意し、ぬるい茶をいれていた。この本丸では、近侍は一日の最後に審神者によって労われる。誰も彼も、この静かな時間を大切にしていた。少しずつ、少しずつ、入れ替わり立ちかわり、焦ることなく、無理を通すことなく、それでも審神者に心を開いて欲しい。願いを込めて、近侍になる刀剣はみな、最初に円がそうしたのをそのまま返すように、真摯に、誠実に向き合っている。

「ご主人様は、何か悩みとかはないのかい?」

記録の最後に日付と名前を入れながら、亀甲は世間話のように尋ねた。ちょうど茶をいれ終えた円は、小さく笑った。

「俺、なんか悩んでるように見える?それ、ちょいちょい聞かれるんだけど」

「そうなのかい?」

亀甲は、静かに記録帳を閉じた。筆記用具をきちんと片付けて、円が整えたちゃぶ台へ向かう。

「ふふ、みんな、少しでもご主人様の役に立ちたいんだね」

他の刀剣たちも、きっといつも突破口を探している。過去に何度も同じ問いをされているのならば、亀甲は攻め口を変えなければならない。相手を理解することは得意だ。

「そっか…でも、みんなすごくがんばってくれてるじゃん。悩みとかは特に無いかな」

そう言って笑う円を、亀甲は、じっと見つめてみた。案の定、円はすぐに気づいて、茶菓子に伸ばしかけていた手を引く。

「どうしたの?もしかして、亀甲の方が悩みがあるんじゃないの?」

そう尋ねられ、今度は亀甲が静かに笑った。そっと、自分の胸元を指先で辿る。

「ねぇ、ご主人様は、ぼくの秘密を知っているんだろう?」

「秘密?…あっ、…うん、まあ…」

秘密とはいえ、おそらく少なくない者がその存在を知っていると、亀甲は知っていた。風呂の時間は皆とずらしているし、着替えもいつだって密やかに迅速に行なっている。だけれども、やはり出陣中に他の目のあるところで重傷になったり、真剣必殺を繰り出したりもしているのだ。大っぴらに全てを晒した事は無いけれども、もはや亀甲の秘密は、公然のものと言っても差し支えが無かった。円も、知識や噂としてはその秘密を知っているのだろう。一瞬ぽかんとはしたが、すぐに思い当たる節があったらしく、言葉を濁して頰を少しだけ赤らめた。

「見てみるかい?」

「え!?でも、秘密なんでしょ?」

「秘密だけど…でも、ご主人様に対しては、あまり秘密を持っていたくはないんだ」

亀甲は、戦場を探る時のように、円の様子を探っていた。何事も、焦りは禁物、引き際を間違えては大変なことになる。勝算は皆無ではない。円はいつだって、刀剣たちと誠心誠意向き合っている。だからこそ亀甲は、自分の望みをそれとなく匂わせた。

「…じゃあ、ちょっと見せて」

「ありがとうございます!ちょっとだけだね」

円の言葉に被せるように、亀甲は言った。焦りは禁物ではあるけれども、勝機をみすみす逃す愚は犯さない。亀甲は大人しくちゃぶ台の側に正座をした。円も、何故だか背筋を正している。少しだけとのことなので、亀甲はネクタイを解く事はせず、結び目を緩めるに留めた。焦らさず、慌てずを心がけて、シャツのボタンを一つ二つ外し、桃色のネクタイと黒いシャツの下、戦う身体の上の、赤く染められた細い縄をちらりと覗かせた。亀甲が手元から視線を上げると、円は目をぎゅっとつぶっていたので、亀甲は少し笑ってしまった。

「ご主人様、ほら」

照れたように促すと、円はおそるおそる目を開けた。うろうろと視線を泳がせながら、それでもかすかに、その視線は首元の赤をなぞっている。今度は亀甲が、頰を赤くする番だった。

「それ…」

「なんだい?」

「痛いとか、きついとかは無いの?」

「ふふ、心配してくれるんだね」

「大丈夫なの?」

戸惑いながらも身を案じる円に、亀甲のこころは、ふわりとあたたかくなった。

「ふふ、無いとは言わないけど、ぼくには必要なんだ…だから、大丈夫」

「そう…」

それから少し、沈黙が落ちてきたので、亀甲は手早く身なりを正して、湯飲みに手を伸ばした。円も、ほっとしたように、再び茶菓子に手を伸ばす。亀甲は、静かに静かに、口を開いた。

「ご主人様とぼくだけの、秘密だからね」

いつの世も、後ろ暗い秘密を共有することは、いとも簡単に得も言われぬ絆を産む。それが吉と出るか凶と出るかは、当人達次第なのだ。

「…うん」

円が神妙に頷くのをその目に収めて、亀甲は、殊更華やかに微笑んだ。


それからしばらくは、以前と何も変わらない日々が続いた。亀甲が円に何かしらを言った事は、歌仙にはすぐに勘付かれたけれども、円がこの本丸の最優先事項であるのは、全ての刀剣に共通している事柄であるから、歌仙からも特には何も言われなかった。むしろ、ようやく変化への機が訪れたと、さりげなく感謝をされた。だからと言って、この件は予断を許さない状況には変わりが無いので、亀甲は歌仙に、物事の進み様によってはしかるべき対処をして欲しいと、そう頼んだのだった。

それから亀甲は、修行の旅へ出る事となった。刀剣の見送りと出迎えは、皆すでに何度か経験していたから、亀甲の時も、いつもと同じように全員で揃って、門出にも、出迎えにも石を打った。亀甲にとって、旅は短くないものであったが、おそらく遠征や出陣と同じ様なからくりによって、本丸では数日の時が経つだけだった。体感時間が曖昧なつくもかみであるからこそ、出陣も、遠征も、それから修行の旅も、目立った問題も無く繰り返す事ができる。審神者が直接に戦場や遠征に出られないのは、彼らが人間という、時間に縛られた存在だからなのだろう。


旅から戻って数日すると、亀甲は再び近侍の任を与えられた。強くなった心身に合わせて誂えた新しい服装は、亀甲の場合、武具と外套を取り去ってしまえば以前と殆ど変わらなかった。何事もなく一日を侍り、夕餉も過ぎて、翌日の近侍のためにと記録をつけている亀甲を待ちながら、円はささやかに茶菓子を用意し、ぬるい茶をいれた。亀甲は、記録の最後に日付と名前を入れ、静かに記録帳を閉じた。円に促されるままにちゃぶ台の側へ座って、茶と茶菓子に手を伸ばした。それから、他愛のない話をした。修行のこと、日々の暮らしのこと、戦場でのこと。

「そういえば」

夜も更けてきた頃、眠そうな瞼をふわふわと漂わせながら、円が亀甲を見た。

「例の秘密を…その…つけなくなったって、本当?」

亀甲にとってその問いは、願ってもないものだった。逸る心と、その容れ物である心の臓を、思わず手でおさえた。

「ふふ、どこで聞いたんだい?確かに普段は身につけてはいないけど…」

亀甲は言葉を一度切った。それから、探るように、けれど何かを引き出すように、円の瞳を覗き込んだ。

「今は、つけているよ」

その声にも視線にも、普段の、はしゃいでいる様子は微塵も無かった。機微に聡い円は一気に目を覚まして、あ、と短く声をあげた。亀甲は、いつかの夜にそうしたように、ネクタイを緩めて、シャツのボタンを外した。あの夜、部屋中を泳いでいた円の視線は、今は亀甲の手元を食い入る様に見つめている。亀甲の白い装束は、厚く積もった雪のように、その下に多くを秘めていた。

「ほら…今は本当に、ご主人様とぼくだけの秘密なんだよ」

前回よりも多くボタンを外して、前回よりも熱を込めて、亀甲は言った。

「触ってみるかい?」

「えっ…、…え?」

動揺する円の手をそっと取って、亀甲はその手のひらをそっと縄に触れさせた。円はもう、声もなく顔を真っ赤にしている。

「この縛り方はね、どこを引っ張っても、その…全体的に作用するというか、諸説あるけど、もともとは罪人を護送する時に使っていた方法なんだ。だからきっと、ご主人様の力でもぼくをどうにかできちゃうんじゃないかな?」

いくらなんでも、修行を終えた刀剣男士を腕力でどうにかすることは不可能だと、円も亀甲もわかっていた。視線の先で、円が困惑している。困惑してはいるけれど、亀甲はその吐息の奥の奥に、縋り付くに値する好奇心を見つけた。

「ねえご主人様、秘密を持つのはきもちがいいよ」

亀甲は、声を熱く、熱くした。

「でもね、誰かと秘密を共有するのは、すごく興奮する。そう思わないかい?」

いつの世も、後ろ暗い秘密を共有することは、いとも簡単に得も言われぬ絆を産む。それが吉と出るか凶と出るかは、当人達次第なのだ。


その夜、亀甲は自室へと戻らなかった。








~おわり~