ちょっと持っててください
7/14/2016




なきがら、とはよく言ったものだ。

薬研は刀身を失い、身の無い殻になった宗三左文字を抱えて布団にくるまりながら、そう思った。山中の湧き水かと思う程、こんこんと、澄んだ涙は止まらなかった。人の心とやらを得て、きっとおかしくなってしまったのだ。



「これ、ちょっと持っててください」

最後に聞いた言葉はそんなものだった。突然現れた検非違使に深手を負わされ、這々の体で戦場から逃げ帰るところだった。手負いの集団は歩みが遅く、そしてやっかいな事に血の、濃い鉄の匂いを隠せなかった。追われている事に気づいた時、警戒よりも焦燥が先走った。傷を負った短刀達を一瞥した宗三は、ヒビの入った刀身を鞘に納めて薬研に手渡した。呆気にとられる薬研を尻目に、長谷部と何やら頷き合うと、そのまま身を翻した。

「宗———」

薬研がその名を言い終わるより早く、長谷部が薬研を抱え上げ、馬に乗って走り出した。長谷部と薬研に挟まれて、宗三左文字はキシリと鳴った。

長谷部の号令で皆は一斉に馬の腹を蹴った。彼らの背の先では、宗三が、打ち捨てられていた打刀を拾って追っ手に向かっていく。彼は誰とも知れぬその刀で力任せに一体を砕き、そこから更に太刀を奪うと前へ進んだ。どんどんと遠くなっていく宗三の背中を見ながら、薬研は手の中の刀を握りしめる事しかできなかった。

そしてとうとう宗三が最後の一体に向かった時、彼は右手に折れた太刀を握りしめ、失った左腕をまるで気に留めず、ただ軽やかに地を蹴るのを見た。空中で相手の獲物が宗三の胴を真っ二つにするのと同時に、宗三はその太刀で相手の首を刎ねた。

「宗三!!!!!」

今度こそ名を呼んだ薬研の手の中で、刀は唐突に重みを失った。刀身が消えたのだと知れた。

「宗三!!いやだ!!!宗三ぁ!!!!」

突然騒ぎ始めた薬研に、皆、何が起きたのかを察した。しかし長谷部が走れと怒鳴り、更に馬を走らせる。声を上げて泣き喚く薬研を必死に抱えて、長谷部はひたすらに奥歯を噛み締めた。

薬研はもう、身も世も、恥も外聞も無く泣いた。空っぽになった宗三左文字の拵えにしがみついて赤子のように泣いた。馬の上だろうと長谷部に抱えられていようと関係無かった。全てのあらゆる物事が、まるで意味を成さなかった。薬研はもちろん、そんな自分を客観的に見て理解する余裕など持っていなかったし、どうにかできる物でもなかった。長谷部は泣くなとも、落ち着けとも言わなかった。ただ薬研を抱える腕に力が入っただけで、無言で馬を走らせた。

何とか本丸へ駆け込むと、遠見で全てを知った審神者が出迎えた。後ろには本丸に残っていた刀剣達が揃っていた。薬研は一人で馬から下りる事も、地面に立つ事もできなかった。既に声は枯れていた。血を吐く勢いで咳き込みながら、それでも宗三左文字の拵えを抱いて泣き喚いた。岩融が薬研を抱きかかえ、審神者が長谷部から薬研藤四郎を受け取り、薬研はそのまま手入れ部屋へと運ばれた。手入れをしている間に、薬研は眠りに落ちた。



目を覚ますと、見覚えのある部屋に寝かされていた。一期一振の部屋だ。覚醒するまでもなく、自分が涙を流し続けている事を、薬研は知っている。人の心とやらを得て、きっとおかしくなってしまったのだ。両手は、まるでその形のまま錆び付いてしまったかのように宗三左文字の拵えを握りしめている。手入れのおかげだろう、薬研についた傷は全て消えていた。清潔で柔らかな布団が、薬研と宗三左文字の拵えを包んでいる。一度目を開けると、今度はどういったわけか上手く閉じる事ができない。切腹して血が流れるように、薬研の目からは涙が流れていた。開いた目の先に、薄汚れたままの宗三左文字の拵えがある。刀身は折れて消えてしまったから、手入れをする事ができない。審神者に渡せば修繕をしてもらえるのだろうが、薬研の手は、それを苗床にする気でいるかのように宗三左文字の拵えから離れなかった。

「薬研、入るよ」

部屋の外からかけられた声に、薬研は答えなかった。音は聞こえていたが、薬研には、言葉の内容がよくわからなかった。ただ、同じ姿勢で涙を流し続けていると、審神者と一期が部屋へ入って来た。傍らに腰を下ろして、審神者はやさしく布団越しに薬研の背を撫でる。

「びっくりしただろうね、薬研。それが『こころ』というものだよ」

審神者が穏やかに言う。

こころ。

なるほど、この訳の分からない物を抱えて、人間というものは生きているのだ。

「それは手入れではなおす事ができないんだ。少し時間がかかるけど、周りに助けてもらいながら、自分でなおしていくしかない。大丈夫、私達がついているからね」

審神者の言う事は、薬研にはよくわからなかった。ただ、優しく頭を撫でられると、凍り付いたように開いたままだった目を、閉じる事ができた。深く息をしようとして、失敗した。そのまましゃくりあげて、薬研は、布団に潜り込んで再び泣いた。



そうして数日間、薬研は布団の中で丸まっていた。一期一振の部屋であるからには、布団も彼の物であるのだろうが、薬研はそれに気づく事はできなかった。布団の中の暗闇で、ひたすら涙を流しながら、宗三左文字の拵えを抱きしめていた。たまに誰かが部屋へ来て、布団の上から薬研を撫でて行った。誰も、薬研に出て来いとは言わなかった。おそらく審神者がやってきてそうして撫でた時だけ、薬研は眠った。夢は見なかった。ふと意識を失って、ふと目を覚まして、そして泣いた。どのくらい時が経ったのかも、今が何時なのかも、薬研にはわからなかったし、気にもならなかった。

そして、それは突然やってきた。

ふと、いつものように審神者に眠らされた薬研が唐突に目を覚ますと、両手が空だった。慌てて布団をはね除けると、宗三左文字の拵えは変わらず薬研の隣にあった。薬研はほっとして、長く息を吐いた。久方ぶりに、空気を吸って吐いた気がした。拵えに手を伸ばそうとして、ふと、すぐ近くに一期が座っているのに気づいた。薬研の飛ばした布団を受け止めたのだろう、驚いたように瞬きをして、薬研をみている。

「いちにい」

久しぶりに言葉を発した喉は、紙やすりをかけたように痛んだ。薬研が反射的に咳き込むと、一期は自分が飲んでいたのであろう湯のみを差し出した。暖かい茶が入っていた。薬研は湯気を立てるその茶を飲んだ。いつの間にか止まっていた涙が、じわりと眼球を濡らした。

一期は何も言わずに、薬研の様子を見ていた。薬研はゆっくりと茶を飲み干した。ここが一期の部屋で、自分はずっと一期の布団を陣取っていたのだと、初めて気づいた。

湯のみを一期に返し、すぐそばにあった拵えを掴んだ。

「悪い、ずっと布団使っちまって…」

自分でも驚く程、滑らかに言葉が出た。

「構わないよ、気分はどうだい?」

一期はいつもと変わらない様子で、穏やかに笑ってくれた。どうかと聞かれて改めて自分を見直してみると、何だかさっぱりしないような心持ちだった。薬研はふと、俯いていた顔を上げた。

「なんかサッパリしねえな、ひとっ風呂浴びてくる」

言いながら立ち上がると、少しよろけた。しかし思いのほか、自分はしっかりと立てている、と薬研は思う。どの方向に地面があるのかもわかっているし、身体の動かし方もわかる。ほっとした様子の一期に笑いかけると、薬研は手にした拵えを差し出した。

「ちょっと持っててくれや」

自分の言葉に、自分の身体が反応した。大げさに身体を強ばらせた薬研に、一期は腰を浮かせる。

ちょっと持っててください

宗三はそう言って彼の本体を薬研に渡し、そして拵えだけになってしまった。他の誰がそれを忘れようと、または知らないままで居ようと、薬研はその一瞬一瞬の、宗三の声や仕草、瞳の温度、髪の揺らめきの一つ一つまで、思い浮かべる事ができる。

両手で拵えを受け取ろうとする一期の掌の上で、薬研の掴んでいるそれは細かく震えた。

一期は、差し出した掌を開いたまま、待った。

薬研はやっとの事で拵えを一期の掌に置くと、長い長い時間をかけて、宗三のぬけ殻から手を離した。


彼にしてはゆっくりと湯に浸かった薬研は、洗濯したての服に袖を通すと、一期とともに審神者の部屋へ向かった。宗三左文字の拵えを渡すためだ。それは、薬研が持った。持ったというよりは、握りしめて抱えていた。

審神者は、いつものように穏やかだった。少しやつれたように見える。それはそうだ、宗三を喪ったのは薬研だけではない。この本丸の誰もがそうなのだ。薬研は急に恥ずかしい気持ちになって、座るように促されると正座した。いつものように足を崩して構わないと言われたが、薬研はもじもじと足を整えたままだった。

宗三左文字の拵えを審神者に渡すと、彼はすぐに修繕をしてくれると言った。急がなくても良いと薬研が言うと、審神者は言った。

「今日、出陣した部隊がね、宗三を拾ってきたんだ。まだ顕現はしていない」

そうだった。自分たちは刀剣男士なのだ。世の中にはまだまだ、宗三が居る。

薬研がそれに気づいて気色ばむと、審神者は薬研が口を開くよりも早く、微笑んだ。

「薬研、私はしばらくは宗三の顕現はしない」

出鼻をくじかれた薬研は、不満を隠せない。

「どうしてだ」

「今のお前では、宗三の区別がつかないからだよ、薬研」

薬研には、審神者の言葉の内容がよくわからなかった。なので素直にたずねると、審神者は宗三左文字の拵えを撫でた。

「自分の中にある虚ろを埋めるために誰かを求めるのは…悪い事ではないかもしれないが、それでは何も解決しない」

薬研は、反論をしようとして、やめた。

自分ではもう何事も無いと思っているだけで、審神者の目にはそう映ってはいないという事なのだろうと理解した。それだけの冷静さを取り戻してなお、審神者の目には薬研は虚ろを抱えているように見えるのだ。そう思うと、少しおそろしかった。


審神者の部屋を辞すと、薬研は一人で左文字の部屋へと向かった。

障子の外から声をかけると、すんなりと部屋は開いた。江雪と小夜が、饅頭を食べている所だった。

「薬研…気分はもう…いいのですか…?」

座布団を勧める江雪の後ろで、小夜が薬研の分の茶を用意してくれた。薬研は礼を言って座り、茶を飲んだ。

「ああ、だいぶすっきりした。…大騒ぎしちまって、すまねぇ」

薬研が頭を下げると、江雪も小夜もそれを止めた。

「同じ物事に対して…どのように反応するのかは…人それぞれですから…」

「みんな泣いたよ。江雪兄さまも、僕も…別に恥ずかしい事じゃなかった。揺さぶられた分だけ涙を流せば落ち着くって、主が言ってた。それだけだよ」

薬研はそれを聞いて、あいまいに微笑む事しかできなかった。

江雪と小夜と少し話をした後、薬研は長谷部の部屋へ向かった。あの時自分を抱えて連れ帰ったのは、確か長谷部だったと記憶している。

長谷部は部屋には居なかった。少しだけ空けた障子から部屋を覗くと、いつも通りの長谷部の部屋がそこにはあった。薬研は障子をそっと閉じた。

歩き回っていると少し腹が減ったので、その足で厨房へ向かった。途中ですれ違う誰もが薬研を労った。一振り一振りに丁寧に礼をしながら厨房へ辿り着くと、陸奥と歌仙が夕餉の支度をしているところだった。残っていた饅頭をわけてもらった。二つに割って口に入れると、餡子がほろほろと甘かった。

無意識だった。

薬研は菓子棚にいつも備えられている懐紙を一枚手に取って、もう半分を包んだ。存外口さびしくする宗三にやるためだった。

「あっ…と…」

懐紙に包んだ半分の饅頭が手の中にあるのに気づいて、薬研は戸惑った。そのまま目頭が熱くなるのに気づいて焦っていると、歌仙が何やら筒を持ってきた。

「後で食べるなら、今の季節はらっぷに包んでれいぞうこに入れておいた方が良い」

「あ、ああ…助かる」

そうだ、後で食べよう。薬研はそう思い直して、歌仙に言われるままに饅頭をラップで包んだ。

「名前書いちゃるき」

そう言いながら、陸奥が油性ペンで名前を書いてくれた。

薬研は饅頭を冷蔵庫に入れると、一期の部屋へ向かった。

ずっとくるまっていたあの布団が、無性に恋しかった。



そうやって、薬研は少しずつ日常へ戻って行った。出陣部隊へは加えられなかったが、たまに、簡単な遠征へ出た。折を見て審神者のところへ行き、宗三の顕現はまだかと尋ねた。審神者はいつも首を横に振った。薬研はそれを不服に思う事もあったし、悲しく思う事もあった。けれど徐々に、審神者が何故だめだと言うのかを理解し始めた気がした。気のせいかもしれないし、それでもよかった。薬研は徐々に、世界を取り戻しつつある。それは確かだった。時間はかかるが大丈夫だ、と言った審神者は正しかったのだと、今ならわかる。ひとの心とやらに関しては、審神者のほうが先輩なのだ。それを痛感した。薬研が審神者の部屋へ通う回数は、ゆっくりと、しかし確実に少なくなっていった。


そんなある日、薬研は久々に近侍に任じられた。朝食後に審神者の部屋へ向かうと、準備をして鍛冶場へ来いと言われた。鍛刀をするのか、と、薬研は一旦厨房へ向かう。燃え盛る炎を抱えるその部屋は、いつも暑い。人間である審神者は、汗をかきすぎると健康を害するので、水分補給のための準備をするのは近侍の勤めの一つだった。皿を洗っていた燭台切に水筒を用意してもらうと、それを持って急いで鍛冶場へと向かった。

薬研が到着すると、審神者は既に、鍛冶場のとなりの顕現の間に腰を下ろしていた。その正面に、その刀はあった。

水筒を落としそうになりながら、薬研は顕現の間へ入った。近侍は、審神者の少し後ろに座り、顕現を見守るのだ。九十九神に実体を持たせるというのは、下手をすれば呼びたかったものではない存在に実体を与えてしまう事もある。そんな万一の際に審神者を守るのが、近侍の勤めのまた一つだった。


顕現は、順調に行われた。

涼やかな風が吹き込んで、桜の花弁が舞う。置かれているだけの刀を何者かの手が取り上げ、ふわりと宙を舞う。宗三左文字は、手に取った刀を腰に佩く事はしなかった。面倒臭そうに左手で持って、ゆらりと揺らす。

「……宗三左文字といいます」

聞き慣れた懐かしい声が、その名を述べる。

「貴方も、天下人の象徴を侍らせたいのですか…?」

続けながら、宗三はまっすぐに審神者を見た。審神者は答えるように頭を下げる。薬研は、その様子を食い入るように見ていた。


審神者からの一通りの説明が終わると、宗三を案内するのは近侍である薬研の役目だった。審神者の部屋から出て廊下をしばらく進んだ所で、宗三は立ち止まる。どうした、と薬研が振り返ると、宗三はまっすぐに、今は薬研を見ていた。

「この拵えは、前の僕も使っていたものです」

「そうなのか」

「変な感じですが…少し、前の僕の記憶が残っている」

「え」

宗三は、変わらずに微笑んでいる。それが張り付いたような美しい笑顔なので、彼はまだこの場所へ来たばかりなのだと、薬研は改めて思った。

「僕は、戦場で散ったんですね…薬研通、貴方にこれを預けて」

静かにそう言われ、薬研はしっかりと頷いた。宗三は廊下の真ん中で、美しい所作で膝をつくと、そのまま流れるように頭を下げた。

「おい、何してんだ」

薬研が慌てて宗三の顔を上げさせようとすると、宗三は更に深く礼をした。

「一振り目の僕は、生きる喜びも、戦場で散る誉れも手に入れ、どれだけ満足だった事でしょう。それはあなたの支えによるところが大きかったのだと、二振り目の僕に、貴方に必ず礼を言うようにと」

「何言って…」

「薬研、一振り目の宗三左文字からの謝意を、どうぞ受け取ってください」

「わかった、わかったから」

丁寧に丁寧に頭を下げられて、薬研はとにかく焦った。こんな風に頭を下げられるのは、初めてだった。薬研がわかったと繰り返すと、宗三は思いの他あっさりと顔を上げ、さっさと立ち上がって着物の裾を直した。直したと言っても、いつものように胸元は大きく開いていたし、足も膝が見えそうだ。最後に髪を少し整えると、宗三は肩をすくめた。

「…というわけで、僕は二振り目なので、これ以上の感謝はしません」

「よかった…やっぱそうじゃねぇとな!」

宗三の様子に、薬研はほっと息をついた。宗三に頭を下げられるのがこんなに緊張する物だとは、知らなかった。変な汗が出た…と内心で笑いながら、広間の方へ進もうとするが、宗三はまだ動かない。まだ何かあるのかと薬研が振り返ると、宗三はぼんやりと薬研を見ていた。

「恋仲だったんですか?」

誰と誰が、などという野暮な事は、さすがの薬研も聞かなかった。

「俺っちの、片思いだったよ」

薬研は肩をすくめて、照れたように笑った。

「お前さんに惚れちまった時は、今度はすぐ言うよ」

薬研がそう言うと、宗三は少し、首をかしげた。

薬研は、知っている。

それは、宗三が照れ隠しをするときの、無意識の癖だった。

「本当に片思いだったんですか?全ての宗三左文字は、薬研と聞いて気にならないわけがないのに」

宗三はそう言って、興味無さげに歩き出す。

「今となっちゃ、確かめる事なんかできねぇな」

薬研は笑って、二振り目の宗三と並んで歩き出した。

「ちょっと持っててください、って言ったんですからね、一振り目は」

「はは、わかってるさ、ちゃんと返しただろ?」

そう、あの時、宗三は言ったのだった。

ちょっと持っててください、と。

預かってくださいとも、ずっと持っててくださいとも、言わなかった。


それが最期の言葉になるであろうと、きっと彼は知っていた。

そして、二振り目がその意味を理解するであろうことも。


ちょっと持っててください。


彼ら刀剣の九十九神は、そんな風に気軽な様子で、自らの依り代を他人に預ける事はしない。

それに薬研が気づかないのであれば、二振りめの宗三は、何を言うつもりもなかった。




~おわり~